うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第十四回 九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の

2011.12.27

秋の朝の雨上がり ―― 露の三態

 秋の朝の雨上がりの庭に見る、露の三つのかたち。それぞれを見つめる目のこまやかさに驚かされる段である。
 はじめは、庭の植えこみにびっしりと置いた露。鮮やかにさしはじめた朝日にきらめく露は、草木にこぼれるばかりかかっている。「こぼるばかり」が魅力的。露を凝視している清女の目の張り、心の張りがいい。
 その視線は上に向けられる。透垣(すいがい)の上部の菱形(ひしがた)組みの飾りや(へい)の上などに、かきはらわれて、残った蜘蛛(くも)の巣がかかっているが、その巣に露が光るさまは、まるで白玉を糸に貫いたよう……。
 秋の野の草に露が置き、白玉のように光る、という発想は、和歌にはよくある。

  秋の野に置く白露は(たま)なれや(つらぬ)きかくる蜘蛛の糸すぢ     文屋朝康(ふんやのあさやす)(古今集) 

 だが、清女の見つけた蜘蛛の巣は、かきはらってまだ残る巣。生活の匂いがある。
 彼女の目はいつも日常の細部にまでくぐり入っていき、新発見を(たの)しむのだ。
 最後の露は、もっと遊んで、もっと動く。
 日が高くのぼるにつれて、重そうに垂れた(はぎ)の枝から露がポトッポトッと落ちる。枝は動き、だれも触れたのでもないのに、ふっと上にはねあがる。
 萩の枝の瞬間芸を、清女はけっして見逃さない。まるで萩の枝に心があるよう、と彼女は思う。そして、そんなことに感心するのは私だけでしょうね、人から見たら、ちっともおもしろくないでしょうね、とも言い添える。自分をひやかしているようでもあるが、ここに、清女は自信と自負をチラとのぞかせているように、私には思える。
 挫折(ざせつ)感をかかえて深く落ちこんだ人が、だれの手も借りず、われとわが身を励まし、ある日、ふと立ち上がる。そんなけなげさの暗示を、この萩の露からうけとるのは、深読みすぎるだろうか。
 清女の真似をするみたいだが、私は、そんな読みかたをする自分自身を、おもしろがっている。
 吹き荒れた台風の翌日の、精緻(せいち)な描写も紹介しておこう(一八九段「野分(のわき)のまたの日こそ」より)。
 格子(こうし)の枠組みのひと目ひと目に、風が木の葉をわざわざ手で配ったように、ていねいに吹き入れているのは、あんなに激しく荒れくるった風のしわざとは思われない
 葉の一枚一枚の美しい色も見えるようなロマンティックな描写。原文をぜひ読んでいただきたい。