うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第十五回 宮にはじめてまゐりたるころ

2012.01.10

初宮仕えの不安とときめき

 初宮仕えのこの段の、清少納言のういういしさには目をみはるばかり。私たちの頭に刷りこまれているイメージとは、たいへんな落差だ。
 出しゃばりの、知ったかぶりの、自惚(うぬぼ)れ屋さん。そんな彼女のキャラクターへの思いこみを、まず(ぬぐ)いとって、この段は読んでいただきたい。
 一条(いちじょう)天皇中宮定子(ちゅうぐうていし)をはじめて間近に仰ぎ見た頃を回想して書きとどめたこの筆は、そのドキドキが私たちにも伝わるほどだ。なにしろ、あのこと、このこと、どうしていいかわからず、ただ恥ずかしく、おろおろとして、泣きたくなる、というのだから。
 正暦(しょうりゃく)四年の冬。雪になりそうな寒い夜だった。高坏(たかつき)の台底に(とも)した()のもとに、ひれ伏しながら、清女(せいじょ)(清少納言)は思う。もう二十八。(うば)ざくらの私。それにこの自信のない(あら)い髪までもまる見えだわ。どうしよう……。
 中宮様はそんな清女に、絵を取り出して見せてくださる。ただもうやたら固くなって、手も出せない彼女の気持ちをほぐそうと、宮様はあれこれ絵の説明もしてくださる。
 自分より十歳も下、まだ十八歳のこの宮の、なんというこまやかな心あしらい。やはり、おのずから人の上に立つべき貫禄を持って、生まれついていらっしゃるのだわ。
 そんなことを思いながらも、清女は、いま、この方が、この宮に仕える人としてふさわしいかどうかと、自分をテストしていらっしゃるということも、敏感に感じとっていた。
 宮様はいくつもの美しい色のこぼれる袖口(そでぐち)から、小さな手をのぞかせていらっしゃる。なんとつやのいいお手だろう。そう。ほのかに光る薄紅梅(うすこうばい)のはなびらの色。若いいのちのこもる手だわ。
 ああ、いま、私はあこがれの宮仕えをし、天下一の女性のお(そば)にいる。白馬(あおうま)節会(せちえ)(あおい)まつりの見物をして、宮仕えの人たちを目にしたことはあるけれど、それはあくまでも垣間見(かいまみ)だった。宮中でも自在な立ちふるまいをする人たちは、自分とはちがう星の下に生まれた人、と、そのとき思った。宮仕えなど、夢のように思われた。
 でもいま、私はチャンスを得て、その夢の舞台に立っているのだわ。このいまを、その目にしかと留めておこう。清女は目に力を入れて、薄紅梅色のお手をひたと見つめた。
 よくもまあ、こんな方が、この世にいらっしゃるものだわ。
 そんな思いが清女の心を揺する。そのお手を中心にして、いままでの自分の世界がハラリとちがう世界に展開していく気さえする。
 その夜、自分の部屋に帰り、翌日の昼ごろ伺候(しこう)した清女は、ここでまた、その夢の舞台で、まるで物語の中から抜け出たようなロマンティックな場面を堪能することになる。原文には載せなかったが、ここにかいつまんで紹介しよう。
 中宮の兄上、権大納言(ごんだいなごん)伊周(これちか)が雪見舞いに妹宮のもとに参上された。直衣(のうし)指貫(さしぬき)の紫も鮮やかに雪に映え、世上の(うわさ)にたがわぬ秀麗の貴公子ぶり。梨地蒔絵(なしじまきえ)(じん)丸火鉢(まるひばち)をかたわらにして、お迎えの中宮は、白い(いつ)(ぎぬ)の上に光る唐綾(からあや)を召され、微笑(ほほえ)んでおっしゃる。
 「道もない、と思っていたのに、よくまあ、来てくださったのね」
 「あわれ(感心だ)と私を見ていただけるかと思って……」
 なんと知的な優雅な会話。洗練のきわみとはこのことを言うのだわ。清女は感激に身のふるえる思いがした。彼女には、その会話がなにを踏まえての即興のものであるのか、ピンピンと響いてくるのだった。
 『拾遺集(しゅういしゅう)』の平兼盛(かねもり)の歌。
   山里(やまざと)は雪降り積みて道もなし
   今日(きょう)()む人をあはれとは見む
 その歌だ。「道もなし」「あはれとは見む」。それぞれの方が、それぞれの句を踏まえて、掛け合いの機知を楽しんでいらっしゃる。
 このお二人のすばらしさよりまさるものがあろうか。物語の中で、作者が口から出まかせに語る主人公とそっくりだわ、と清女は思った。
 そして、彼女は、お二人の機知がそのままスーッとわかった自分にも満足した。
 歌人、清原元輔(きよはらのもとすけ)の晩年の子として生まれ、父の愛を集めて育った自分である。和歌を覚えることがだれより早く、なにかにつけて、そのひとふしが口をついて出た。男の読むものとされている漢籍だって、門前の小僧で、だいぶ知っている。利発な子よと、父は目を細めた。
 そんな父は、実生活では世才にとぼしく、六十七歳でやっと周防守(すおうのかみ)、七十九歳にもなって肥後守(ひごのかみ)となり、そのまま任地で果てた。
 輝かしい家柄の出でもなく、財もなく、器量もはかばかしくない私。和歌や漢籍のひとふしをよく覚えこんでいて、当意即妙に、人のことばに応えられること。それが私の唯一の才能といえる気がする。この定子様の御殿では、私の才能の芽も、いつかは花を咲かせられそうな気がする。
 のびやかに自在にふるまう先輩女房たちにうらやましく目をやりながら、心の底で、そんなひとつの思いを、清女は抱いていた。