うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第十八回 ゆきのいとたこりたるを

2012.02.27

香炉峰こうろほうの雪、宮の微笑の意味

 私って宮仕えがこんなに好きなのかしら。清女はつくづくそう思った。
 それというのも、清涼殿せいりょうでんの春まっさかりのあの日から遠からぬ頃、彼女は物忌ものいみの方違かたたがえのために、よその家に泊まることがあったのだが、二日目から、もう退屈で退屈で、どうにもやりきれなかった。方角が悪くったってなんのその。すぐにでも抜け出して定子ていし様の宮に帰りたかった。
 そんな折も折、中宮ちゅうぐう様からお手紙をたまわった。夏近い日にふさわしい浅緑の紙。先輩女房の宰相さいしょうきみの代筆だ。なんと磨かれた美しい字であろう。
 「そなたが出仕する以前は、どんな日々を過ごしていたのかしら。そなたがいない昨日今日は、どう過ごしていいかわからないほど退屈ですよ」
 ありがたいお言葉。まだ新参の私が、こんな身にあまるお歌をいただいていいのかしら。
 宰相の君の私信も小さく添えてあった。
 「たった二日なのに、千年も経った気がするわ。明日は夜が明けないうちに帰っていらっしゃいね」
 清女は圧倒された。定子の宮の格調の高さ、品のよさ、しかも、このあたたかさ。
 中宮様のお歌も、宰相の君の添え文も、まるでエレガントな恋文のようではないか。いつまでもこの宮に仕えて、自分を磨き育てたい。胸を熱くして、清女は思った。

        * * *

 やがて冬。
 雪が高く降り積もった日であった。その日はいつもより早く御格子こうしをお下げして、角火鉢に火をこし、そのまわりに女房たちは集まって話などしていた。
 そのとき、宮様から不意に声がかかった。
 「少納言よ、香炉峰の雪はどんなでしょうね」
 少納言よ、という直接のご指名。その呼びかけの声にも、なにやら、ふくみがある。清女はハッと身をひきしめた。
 香炉峰の雪。あれだ! 彼女の頭の中に、一瞬ひらめいた詩のことば。

  遺愛寺いあいじかねまくらそばだてて
  香炉峰こうろほうゆきすだれかかげて

 『白氏文集はくしもんじゅう』の中の有名な詩の一節。ここは『和漢朗詠集わかんろうえいしゅう』にも採られていて、心ある人なら知っている。
 その詩句をさっと思い浮かべたとき、からだは自然に動いた。
 「御格子を上げなさい」
 キビキビと目下の女房に言いつけ、御格子が上げられるのを見るや、清女はみずから御簾みすを高々と巻き揚げた。
 揚げ終わってお顔を拝すると、中宮様はきれいな微笑を浮かべていらした。雪の光に映えて、ひときわ美しいお顔。やさしさとかしこさの溶けあったそのお顔の目もと、口もとの、その品のいい微笑。
 ―少納言。私のかけた謎をすぐに解いたのね。やっぱり、そなたのことだけあるわ。みごとよ―このことばを口にはされなかったけれど、微笑がすべてを語っていた。それは会心の笑みであった。白楽天はくらくてんの詩の世界を身近にひき寄せてくれた清女をほめ、そんな世界を共有できた満悦を、宮の微笑は語っていた。
 清女の胸にも、いま喜びが満ちてきた。宮様は私を試された。あの清涼殿の春の日、何でも覚えの歌を書け、とおっしゃったあれより、もっとむつかしい試し。そして、私は合格した。宮様のこの微笑を終生忘れないわ。心の底で、清女はそう思った。
 女房たちの声が背後に聞こえてきた。
 「私たちも簾をかかげて見るってところは知っていて、朗詠だってするじゃない。でもね。宮様のことばの裏なんて読めなかったわ。すぐにするすると簾を巻き揚げる、なんてわざは少納言さんだけのものよ」
 「ほんと。中宮様にお仕えする女房のカガミみたいな人ね」
 宰相の君の声もあった。この宮の人たちならではの知的な雰囲気。その中に受け容れられたことも、また、清女の喜びであった。

        * * *

 『枕草子』のなかでもひときわ有名なこの段は、清少納言への誤解を広めた段でもある。女だてらに漢詩を知っていて、自慢ぶって、満座の中でひけらかして見せたというのである。
 しかし、それが誤解であることは、ここの原文をこまかく忠実に読んでいただければ、すぐに氷解するはずだ。
 「少納言よ」とのご指名に答えないわけにはいかない。「香炉峰の雪は簾をかかげて見る、ですわ」とおうむ返しに答えても仕方がない、と、とっさにうてば響いて、アクションに出たところが見どころ。おしゃれなのだ。
 漢詩文の教養高い高階貴子たかしなのきしを母に持つ定子。歌人清原元輔きよはらのもとすけを父に持ち、父のまわりに集まる男性たちから、漢詩文への愛を学んだ清女。二人はピタリと波長が合う、しあわせな主従だったのだ。
 原文の「笑はせたまふ」は、このことのかなめとなることばだ。こまやかに解説した部分を味わってほしい。
(『枕草子』二八二段「三月ばかり物忌みしにとて」から、前半を補って解釈した。)