うつくしきもの 枕草子

うつくしきもの 枕草子

第十九回 さきなく、まめやかに

2012.03.13

宮仕えのすすめ――にせの幸福よりも

 娘時代にはじめてこの段を読んだとき、「えせ幸ひ」ということばが目を射た。
 「えせ幸ひ」とは、にせの幸福、見せかけの幸福、という意味である。
 将来に確かな可能性も持たず、ただきまじめに、結婚して見せかけだけのしあわせを夢見て暮らす女性は、うっとうしい感じがして、なんだか軽蔑したい気がする。よき妻として、家の中にこもって、自分はなにがしたいか、なにができるかも考えず、夫の出世、子の成長だけを願う生活を、清女は中身のない、いつわりの幸福と言いきる。
 清少納言の時代といえば、今からおよそ千年も前だ。女性は身動きもならないほど、着物を着重ね、御簾みすのなかにたれこめて暮らすというイメージを持っていた私には、揺さぶられるほどの新しさだった。
 「えせ幸ひ」に対するものは、世間に出て、多くの人に接し、まれもして、自分を磨く幸福―いわば、自己確立の幸福である。
 宮仕えを経験し、その幸福をすでに感じている清女はこう提案する。
 「それ相当の身分の家の娘なんかも、やっぱり宮中に出仕させて、世間のありさまも見習わせるといいわ。典侍ないしのすけなどにしばらくでもならせたら、すてきでしょうね」
 典侍とは、内侍司ないしのつかさという役所の次官である。内侍司には、長官の尚 侍ないしのかみ二人、次官の典侍四人、三等官の 掌 侍 ないしのじょう四人―これらの女官十人が勤める。
 彼女たちは天皇のおそばにいつも仕え、奏請のとりつぎをしたり、おことばを伝えたり、お食事のお世話をしたりなどし、女官のとり締まりもした。ふつう、内侍といえば、掌侍をいう場合が多い。
 尚侍は女御にょうご更衣こういに準じるので、これは別格として、典侍が、宮中で働く女官としては最高の、あこがれの存在ということになる。「典侍などにてしばしもあらせばや」ということばには、こういうわけがあるのだ。
 宮仕えする女を軽薄なだめ女と、口に出して言い、心でもそう思っている男のにくらしさ。ほんと、にくらしいわ、と清女は思う。
 宮仕えすることで、女は世間を広くし、視野を広くする、というのが、清女の持論である。なにしろ、上は天皇をはじめとし、公卿くぎょう、四位、五位まで、それに女房たちに関係のある人たちや、ずっと下々の人たちにも、全部会うんだもの。はずかしいなんて言ってたら、女房は勤まらないわ。それだけ、自分を磨く場面が多いのよ、と、彼女は力説する。
 宮仕えを終えて家庭に入っても、またすてきよ。国守こくしゅの妻になって、娘を五節ごせち舞姫まいひめとして出す、というようなほまれのチャンスがやってきたとき、宮仕えのキャリアがある母親がいるのはたのもしいわ。どうしたらいいかしら、とつまらないことを人に聞きまわったりしないものね。あいさつのことばとか、服装のしきたりとか、みんな心得ている奥方って、奥ゆかしいわ。
 清女のこんなことばは、実際に宮中で五節の舞を見、舞姫の母親の態度・ことばなども見聞きした、体験の裏付けに基づいて、自信をもって語られている。
 若き日に結婚したものの、なんとなく退屈をもてあまし、才能も発揮できずにいた清女は、ある正月に、宮中の白馬節会あおうまのせちえを見物に出かけた。牛車ぎつしゃの御簾のすきまからは、宮中で忙しそうに働く人々の姿が見られた。
 「いかばかりなる人、九重ここのえらすらむ」
 いったいどんな星の下に生まれた人が、こんなにわがもの顔に、宮中を歩きまわっているのか、と清女は羨望せんぼうをこめて、彼らを見つめた。
 だが、その後、彼女はその羨望を実現させた。ましてや、理想的な主君のもとに、日々いそいそと働いているのである。だからこそ、彼女のことばには説得力もあるのだと思う。
 「えせ幸ひ」というショッキングなことばに目をみはって、この段を清女の女性論、人生論ととる人が多い。そして、独断的な論とか、部分的なことしか言ってない、とか、いう人もいる。
 だが、この段は、たまたま書き出しが女性論めいたものに及んではいるが、清女の述べたいのは宮仕え有益論だと思う。
 これはある日の清女の、「宮仕えってやっぱりすてき、いいなあ、役に立つなあ、みんな宮仕えをするべきよ」という感想なのだ。そう思って読むと、胸にコトンとおさまる。
 清女のために思い出してあげたい段がある(一〇二段「二月つごもりごろに、風いたう吹きて」)。
 春なお寒く、雪の散る日、藤原公任きんとうから文使いがきた。開けてみると、ふところ紙に、

  すこし春あるここちこそすれ

 という下の句。それに清女がつけた上の句は、

  空寒そらさむみ花にまがへて散る雪に

 である。彼女の才に驚嘆して、「お上に奏して内侍にとりたてていただこう」と言ってくれた男性がいたことを、たとえ、それが冗談にもせよ、清女はどんなに喜んだことだろう。
 「女は典侍。内侍」
 別の段(一六九段)で、彼女はここまで言っているのだから。