俳人目安帖

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

憂国不惜之士鬼城~村上鬼城~

大正初期のホトトギス第一期黄金時代は、渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、前田普羅、原石鼎らによって築かれるわけだが、とくにこの中で、村上鬼城は「境涯俳人」と評されることが多い。実際にも境涯性のまさった作品で、世に認められた。しかし仔細に、その作品を読んでみると、自らの境涯をモチーフにしながらも、それを突き抜けた普遍性を獲得しているものも多く、彼をいちがいに境涯俳人と決めつけるのには抵抗がある。

  • 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉
  • 己のが影を慕うて這へる地虫かな
  • ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな
  • 世を恋うて人を怖るる余寒かな
  • 夏草を這上りたる捨蠺(すてこ)かな
  • 五月雨や起きあがりたる根無草
  • 親よりも白き羊や今朝の秋
  • 闘鶏の眼つぶれて飼はれけり
  • 笑ふ時老いたる顔や白扇
  • 痩馬のあはれ機嫌や秋高し
  • 冬山の日当るところ人家かな
  • 冬蜂の死に所なく歩行(ある)きけり
  • 生きかはり死にかはりして打つ田かな
  • 川底に蝌蚪(かと)の大国ありにけり
  • 春寒やぶつかり歩く盲犬
  • 念力のゆるめば死ぬる大暑かな
  • つめたかりし蒲団に死にもせざりけり
  • 春の夜や泣きながら寝る子供達

代表作をざっと読んだ印象は、小動物などへの憐憫の情、人間へのシニカルではありながら、どこか暖かさを失わないまなざしを、境涯性といったものよりも、まず先に感じる。たとえば虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」という句に対して、彼は「冬山の日当るところ人家かな」と詠む。虚子の句のもつ荒涼さとは対照的に、鬼城は人家に日を当て焦点を絞ることで、家を離れることのできない人間に一種の救いを与えている。「遠山に暖き里見えにけり」という句もつくっている。どこまでも人間性の温みといったものを、彼の句は失わないのである。

鬼城俳句の境涯性は、その苦労の多い生涯を背景に言われることが多い。まず耳疾のために、軍人や司法官志望を断念。薄給の高崎裁判所構内の代書人(司法書士)として、二男八女を育て上げる。結婚も三回している。二度目の妻スミが病没し、とくに生活が困窮した明治25年頃から本格的な作句活動が始まっているから、彼の俳句づくりの動機に、その苦しい生活から逃れようという焦燥があったのは間違いのないところだろう。

しかし鬼城俳句における境涯性をいうなら、俳句を始める以前の二十代までの体験の方がより重要な意味をもっているように思われる。まず鬼城の祖父、父は鳥取藩士だった。俸禄五百石、後に三百五十石取というから、中堅上士、上級武士である。祖父は大坂御蔵奉行を勤めた。つまり没落階級に属したのである。彼は慶応元年生まれで、正岡子規は二歳下、高浜虚子は九歳下だから、それのもつ意味は、彼等よりもはるかに大きかったと考えられる。

さらに十代後半での自由民権運動の挫折体験もその精神形成に大きな影を落としているのではないだろうか。鬼城が九歳から終焉まで住んだ群馬県高崎市は、自由民権運動がきわめて盛んな地で、その闘士も数多く輩出した。明治14年、板垣退助などの演説に感銘したと考えられる彼は、自らも聴衆の前で、民権擁護の演説をした。『紅顔』と題するその草稿も残されている。そこには「憂国不惜之士村上荘太郎」「放胆壮士」といった国士ぶった署名が見られる。

明治政府が意図する絶対主義的な天皇制国家に対して、民主主義的な立憲制国家をつくろうとしたこの運動の高揚と挫折は、若き日の鬼城にとって、きわめて大きな精神的な意味をもったはずである。その作品にみられる自分も含めた虐げられるもの、弱きものへのシンパシー、そこから生じるペーソス、あるいは庶民性などには、このような若き日の精神遍歴が背景のひとつにあったのではないだろうか。

2006-03-13 公開