俳人目安帖

俳人・中村裕氏による連載エッセイ。毎回、著名な俳人がその作品中で多用した単語、特に好んだ言葉や場面などを取り上げ、俳句の鑑賞を通じて作者の心中や性向を探ります。

かたまつて薄き光の水巴かな渡辺水巴(わたなべすいは)

明治末、最盛期の三分の一まで読者が減って、にっちもさっちもいかなくなっていた「ホトトギス」を立て直すために、高浜虚子は雑詠選を復活させ、俳壇への復帰をはかるが、この雑詠欄で、まず頭角を現したのが渡辺水巴であった。彼はもともと内藤鳴雪門だが、俳壇に水巴の名を知らしめたのは虚子の功績である。しかし水巴は虚子とは微妙な距離を保つ。べったりではないのである。「ホトトギス」からの独立も早く、大正五年には主宰誌「曲水」を創刊している。これは「ホトトギス」からののれん分けの第一号である。水巴という俳人の本質は、この虚子との間の距離に、最もよくうかがえるように思われる。

  • 花過ぎてゆふべ人恋ふ新茶かな
  • ぬかるみに夜風ひろごる朧かな
  • 大空にすがりたし木の芽さかんなる
  • 宵闇の水うごきたる落葉かな
  • 除夜の畳拭くやいのちのしみばかり
  • 日輪を送りて月の牡丹かな
  • 別かるるやいづこに住むも月の人
  • 元旦の老松皮を固めけり
  • 大空の風ききすます火燵(こたつ)かな
  • 初夢もなく穿く足袋の裏白し
  • 草市のあとかたもなき月夜かな
  • 引く浪の音はかへらず秋の暮
  • 渺々(びょうびょう)笑ひたくなりし花野かな
  • 月光にぶつかつて行く山路かな
  • ひとすぢの秋風なりし蚊遣香
  • てのひらに落花とまらぬ月夜かな
  • 冬の夜やおとろへうごく天の川
  • かたまつて薄き光の菫かな
  • 寂莫と湯婆(たんぽ)に足をそろへけり

水巴といろいろな点で似た俳人ということになれば、松本たかしがまず思い浮かぶ。二人とも生粋の江戸っ子気質を強く持ち、たかしは能役者(松本長)、水巴は日本画家(渡辺省亭)をそれぞれ父に持ち、親の寵愛のもとでのびのびと育てられた。たかしは能役者を断念した後、俳句のみに専念するし、水巴も学業を終えた後は俳句一本で、他のことに関わることがなかったことでも二人は共通している。

もちろん二人とも虚子の唱える花鳥諷詠(当時は季題趣味)の徒だが、ともに都会人の洗練された生活感で季題を捉える。そこには季題趣味の旧套を脱し、近代人の「我」「主観」といったものが、はっきりと目を覚ましていることが見てとれる。しかしその度合いには、明らかな違いがある。水巴の方がはるかに主観性が強く、耽美的、求道的で、また、それが一貫しているのである。

大正2年、「ホトトギス」誌上に「主観句に就いて」という俳論を水巴は発表する。「作者の主観は尊重されねばならぬ。主観句を作る程の作者は先づ自個(ママ)自身己れの主観を尊重し、以て容易に人の批判に屈服せぬだけの強い自信がなければならぬ」と自分の信念を力強く述べている。また、その頃、虚子は雑詠選を水巴に代選させる。虚子の水巴にかける期待の大きさを物語るが、しかしこの水巴代選はかなりの抵抗にあったようだ。投句は減少するし、原石鼎や前田普羅などの有力俳人の出句もなくなる。それでも彼は開き直って、主観句尊重の選句方針を貫く。

虚子が雑詠選再開にあたり、主観的傾向の強い新人の発掘につとめたのは、当時、勢いのあった河東碧梧桐の「新傾向」に対抗するとともに、月並化しつつあった従来の写生句を刷新するためであった。つまり戦略的見地に立っての方針であった。だから大正末にかけて主観俳句が氾濫するようになると、こんどは客観写生を花鳥諷詠とともに唱えるようになる。しかし水巴の主観俳句は、あくまで作家としての内発的なものだから、状況がどう変わろうと、容易に変えられるようなものではない。水巴はそのような作家的良心に最後まで、忠実たろうとしたのである。ここで水巴と虚子の道は、一度は交差したにもかかわらず、分岐せざるを得なかったのである。

2005-02-14 公開