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  11. 清少納言

清少納言

ジャパンナレッジで閲覧できる『清少納言』の日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
清少納言
せいしょうなごん
966?‐1025?(康保3?‐万寿2?)
平安中期の女流文学者。父は歌人の清原元輔で、元輔五九歳の子という。実名は不明。「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓、「少納言」は近縁の誰かの官職名と思われる。父方の曾祖父清原深養父ふかやぶは低位の官で終わったが、『古今和歌集』に多数入集した歌人で、紀貫之とも親交があった。父元輔は六二歳でようやく従五位になったが、歌人としては有名で、九五一年(天暦五)第二の勅撰集である『後撰和歌集』の撰者に選ばれ、「梨壺の五人」の一人に数えられた。橘則光と結婚して則長が生まれるが、やがて離婚。次いで藤原棟世との間に小馬命婦こまのみょうぶを設けている。九九三年(正暦四)冬頃から一条天皇の中宮定子ていしに仕えた。定子は藤原道隆(中関白と称する)の娘で、中関白家の隆盛時代、父元輔に似て才気縦横な清少納言は女房(侍女)にふさわしく、藤原道隆・伊周これちか公任きんとう・行成らとの機知の応酬にも力を発揮した。清少納言はこうした宮仕えの意義を認め、その体験から大切なこと、面白いことなどを手控えに書き綴っていた。『枕草子』の誕生である。宮中で定子との間に唐の白楽天(白居易)の詩「遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、香爐峰の雪は簾をかかげて看る」をめぐって、清少納言が無言のうちに絶妙なやりとりを行ったことは同書から知られる。定子の晩年には、藤原道長の女彰子しょうしが新たに一条天皇の中宮となり、定子は先の中宮である定子は「皇后宮」と号した。二后冊立という異常な事態で、不幸なことも多かったが、清少納言はその不幸を『枕草子』には書かず、定子の輝かしさを強調して回想することに努めた。
一〇〇〇年(長保二)に定子が急死し、清少納言の宮仕えは終わった。その後、父元輔の住居であった京都東山の月の輪に住み、晩年は心寂しく生きたらしい。しかし、勝気と知恵は衰えなかったようである。鎌倉初期の説話集『古事談』によると、あるとき殿上人が彼女の家の前を通りかかり、思わず「まったくひどい。清少納言も落ちぶれたものだ」と口にしたところ、簾から鬼のような尼の顔をした彼女が「駿馬の骨を買った人もいるよ」と言い返したという。これは中国の燕王えんおうが馬を好み、死んだ馬の骨を買ったという故事を踏まえ、「骨になっても名馬は買われる。私も同じだ」と切り返したのであろう。
[安宅 夏夫]
御簾の幕あけれバ雪の大仕掛
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):87‐5
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
香爐峯ゥみかども舌を巻給ふ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):83‐49
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
雪のなぞさつぱり解けぬ余の官女
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):138‐12
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
夜をこめて年の関越す鬧しさ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):40‐3
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一~三句、皇后定子が降雪の日、「香爐峰の雪はいかに」と女官らに問うたところ、清少納言はすぐに座を立ち、御簾を捲きあげた。それは白楽天の詩に「遺愛寺の鐘は枕を敧てて聴き、香爐峰の雪は簾を撥げて看る」とあるを会得あっての問であることを、清少納言が推察しての機智であった、という故事による。第一句、すべて芝居がかり。第二句、「舌を巻」は簾も捲いたであろうが、というキョクリ。第三句の「解けぬ」は、ものが雪だけに。第四句、『小倉百人一首』で著名な「夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の清少納言の歌を踏まえる。「さわがしさ」、年越しの気ぜわしなさ。掛け取りの手を逃れるためには、夜明けを告げる鶏の空音そらねも用いたいほど。


国史大辞典
清少納言
せいしょうなごん
生没年不詳
平安時代中期の歌人・随筆家。中古歌仙三十六人の中に入る。康保三年(九六六)ころ出生。本名未詳。一条帝の定子中宮(のち皇后)に出仕して清少納言の称を得る。清は清原氏の略称、天武天皇の流れを汲む。少納言は「下臈ながら中臈かけた」地位。父元輔は『後撰和歌集』の撰者の一人で、梨壺の五人と称され、曾祖父(祖父とも)深養父も古今集時代の有力歌人。受領階層の歌人の家柄に生まれ、家庭において歌人的教養を培うとともに、したたかさをも身につけて成人した。天元末年橘則光に嫁し、則長(進士・式部丞・越中守)らを生む。のち離別して定子のもとに正暦三(九九二)、四年に出仕。定子後宮を支える父中関白藤原道隆の盛時で、一条朝の四納言、藤原公任・源俊賢・藤原斉信・同行成らと文才を競った。しかし長徳元年(九九五)道隆の死去などにより政権の座は道隆の弟道長に移り、その後に道長の娘彰子の入内もあってはなはだしく不遇な世界を体験する。長保二年(一〇〇〇)には定子の崩御があり、清少納言の前途に重大な影がさす。定子の遺児に引きつづき仕えるか、己が家に籠ったかである。明瞭ではないが、しかし、いずれにせよ則光との離別の後に摂津守藤原棟世と再婚し、上東門院に奉仕した小馬命婦を儲けているので、受領の北の方としての立場は保持して過ごした。死没年時までにはまだ二十数年間あるが、確実な史料はなく具体的な動静は判明しない。彼女の最終生存文献は、『古事談』による兄弟の致信が寛仁元年(一〇一七)殺害された折、同宿していたという記述である。そのほかの兄弟の死亡年時の明らかなものは、戒秀(花山院殿上法師・天台山門派祇園社別当)が長和四年(一〇一五)落雷による死去、雅楽頭為成の万寿二年(一〇二五)八十歳をもっての死亡などを考えると、治安・万寿年間(一〇二一―二八)の死去ではないかと推定されている。六十歳前後である。場所は月輪であろう。月輪については、東福寺の近傍説と、愛宕山中腹の説に分かれている。説話の中の彼女は、流浪・落魄の主人公であり、そのままには受け取れないが、宮仕え時のごとくかがやかしいものでなかったこともまた事実であろう。中に、若殿上人が、彼女の零落をあわれむ言動に対して「駿馬の骨を買はずやありし」と応酬した話は、まことに彼女らしい片鱗を宿している。著作に『枕草子』『清少納言集』がある。→枕草子(まくらのそうし)
[参考文献]
『大日本史料』二ノ四 長保二年十二月十六日条、岸上慎二『清少納言伝記攷』、萩谷朴校注『枕草子』(『新潮日本古典集成』)、角田文衛「清少納言の生涯」(『枕草子講座』一所収)
(岸上 慎二)


世界大百科事典
清少納言
せいしょうなごん
966ころ(康保3ころ)-?

平安中期の女流文学者。父は〈梨壺の五人〉の一人として有名な歌人清原元輔,祖父(曾祖父ともいう)深養父(ふかやぶ)も清少納言自身も中古歌仙三十六人に数えられる和歌重代の家柄。父の友人には源順,大中臣能宣ら漢詩文や和歌に達者な一流人物が多く,元輔の末娘はこれらの人々に愛され,利発で早熟な少女として育った。981年(天元4)ころ,名家橘氏の嫡男則光と結婚,翌年則長を生んだがまもなく離婚,991年(正暦2)ころ,父ほど年の違う藤原棟世(むねよ)と再婚し,小馬命婦(こまのみようぶ)を生んだが別居して,993年冬,一条帝中宮,関白藤原道隆の娘定子に仕えた。外向的で協調性に富み,感激性の清少納言は,華やかな宮廷生活に素直に融け込み,たちまち中宮方を代表する存在となった。994年2月の積善寺供養に前後するころが最も華やかな時期,〈香炉峰の雪〉で評判をとったのもその年の冬であった。

しかし翌995年(長徳1)4月10日道隆が薨(こう)じると,政界の形勢は一変して中宮の周辺には暗雲が垂れこめ,翌年4月,中宮の兄弟伊周・隆家らが左遷されると,中宮の女房たちも去就に迷い,殊寵をほしいままにしていた清少納言には,左大臣道長方に内通しているとのうわさが集中して,その夏・秋には長期の里居にこもることとなった。清少納言が気を紛らせるために原初狭本類纂型の《枕草子》を執筆し始めたのはこの時であろう。やがて中宮の愛情にこたえて帰参してからは,叔父道長の圧迫や,道長の娘彰子と二后並び立つ窮境にも屈せず,一条天皇の愛情にこたえる皇后定子の姿に,いっそうの忠誠心を固めていった。修子,敦康,媄子と次々に子を儲け,心身ともに疲れ果てて1000年(長保2)12月16日24歳の若さで皇后が没してからは,道長方が皇后の遺児たちに温かく接することを願って,もっぱら皇后定子のすばらしい人柄を筆の限りを尽くして賞賛し,完結広本雑纂型《枕草子》を完成したのは,寛弘年間(1008ころ)にも及んでいた。

皇后の死後は宮仕えせず,初めは老夫摂津守棟世のもとに身をよせ,次いで亡父元輔の桂山荘のかたわらに侘び住いしたが,さらに世間との交渉を避けて,愛宕山中腹月輪寺に近い棟世の月輪山荘に隠棲した。元輔の子といわれることをおそれて中宮に詠歌御免を請い,《清少納言集》《枕草子》《公任集》《和泉式部集》を通計して55首の自詠しか残さなかった寡作ぶり,道長方に内通するとのうわさにも争わずに里居にこもり,皇后亡きあとは人里離れた隠遁生活を送るなど,清少納言には意外な気の弱さが隠されていた。近世になって,晩年の清少納言は零落して遠国に流浪したという数々の説話が発生したが,これは,清少納言自身がひそやかな晩年を送ったという事実と,夫藤原宣孝や従兄信経のかんばしからぬ逸話を《枕草子》に書きたてられたことを恨んだ紫式部が,その日記に清少納言の零落を予言するかのような酷評を残したこととが結合してのことである。
[萩谷 朴]

[索引語]
橘則光 橘則長 藤原棟世 藤原定子 紫式部(人名)
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日本国語大辞典
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「清少納言」の情報だけではなく、「清少納言」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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枕草子(日本古典文学全集・世界大百科事典・国史大辞典)
一春はあけぼの。だんだん白んでくっきりとしてゆく山ぎわが、少し赤みを帯び明るくなって、紫がかった雲が細く横になびいているの。夏は何といっても夜だ。月のあるころは言うまでもない、闇もやはり、蛍がたくさん入り乱れて飛びかっているの。また、たくさんではなく


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北村季吟(国史大辞典・世界大百科事典)
一六二四-一七〇五江戸時代前期の俳人、歌人、古典研究家。名は静厚、通称久助、慮庵・七松子・拾穂・湖月亭などの号がある。寛永元年(一六二四)十二月十一日生まれた。近江野洲郡北村(滋賀県野洲郡野洲町北)出身。祖父宗竜は医学を曲直瀬道三に、連歌を里村紹巴に
清少納言(日本架空伝承人名事典・国史大辞典・世界大百科事典)
清少納言せいしょうなごん966?‐1025?(康保3?‐万寿2?)平安中期の女流文学者。父は歌人の清原元輔で、元輔五九歳の子という。実名は不明。「清少納言」は女房名で、「清」は清原姓、「少納言」は近縁の誰かの官職名と思われる。
一条天皇(国史大辞典)
九八〇-一〇一一。九八六―一〇一一在位。天元三年(九八〇)六月一日、円融天皇の第一皇子として誕生。母は藤原兼家の女の女御詮子(のちの東三条院)。諱は懐仁。永観二年(九八四)八月、従兄にあたる花山天皇の東宮に立った。時に五歳。


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