江戸後期の戯作者。本名岩瀬醒(さむる)、通称伝蔵。山東京山の兄。北尾重政に浮世絵を学び北尾政演(まさのぶ)としても活躍。また、黄表紙、洒落本に筆をとり、その第一人者となるが、寛政の改革時の洒落本筆禍後は、読本と考証随筆に主力をそそいだ。黄表紙「江戸生艷気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」、洒落本「通言総籬(つうげんそうまがき)」、読本「桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのぞうし)」などはその代表作。宝暦一一〜文化一三年(一七六一〜一八一六)
江戸後期の黄表紙・合巻(ごうかん)・洒落本(しゃれぼん)・読本(よみほん)作者、浮世絵師。宝暦(ほうれき)11年8月15日、岩瀬伝左衛門の長子として江戸・深川木場に生まれる。本名岩瀬醒(さむる)、通称京屋伝蔵、紅葉(もみじ)山の東にあたる京橋銀座一丁目に住居する伝蔵の意で、山東京伝の号を用いる。ほかに山東庵(あん)、菊亭主人、醒斎(せいさい)、醒々老人、狂歌には身軽折介(みがるのおりすけ)などの号がある。14、15歳ごろに浮世絵師紅翠斎(こうすいさい)北尾重政(しげまさ)の門に入り、葎斎(りっさい)北尾政演(まさのぶ)を名のる。1778年(安永7)黄表紙『開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』(者張堂少通辺人(しゃちょうどうしょうつうへんじん)作)の画工を務めたことから戯作(げさく)に筆を染め、『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』(1782)で一躍黄表紙作者として脚光を浴び、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)らの武家作者と並び天明(てんめい)・寛政(かんせい)期(1781~1801)の中心的戯作者の地位を占めるが、91年(寛政3)に洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹(しょうぎきぬぶるい)』で手鎖(てぐさり)50日の筆禍にあった。そののちは読本作者として新天地を開き、享和(きょうわ)・文化(ぶんか)年中(1801~1818)には曲亭馬琴に対抗しえたただ1人の作家であり、かたわら考証随筆にも名著を残している。その代表作には、黄表紙に『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(1785)・『心学早染草(しんがくはやそめぐさ)』(1790)、洒落本に『通言総籬(つうげんそうまがき)』・『古契三娼(こけいのさんしょう)』(ともに1787)・『繁千話(しげしげちわ)』・『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(ともに1790)、読本に『忠臣水滸伝(すいこでん)』(前編1799、後編1801)・『昔語稲妻表紙(むかしがたりいなづまびょうし)』(1806)、随筆に『近世奇跡考』(1804)・『骨董集(こっとうしゅう)』(1814、1815)などがある。
絵師としての力量も一流であり、彩色絵本『新美人合自筆鏡(しんびじんあわせじひつかがみ)』(1784)はその代表的な作品で、滑稽(こっけい)絵本に『小紋新法(こもんしんぽう)』(1786)などもある。その影響は十返舎一九(じっぺんしゃいっく)、式亭三馬、為永春水(ためながしゅんすい)らにも及んでいる。実弟に合巻作者山東京山がいる。文化13年9月7日没。本所回向院(えこういん)に葬る。
[棚橋正博]
江戸時代後期の戯作者,浮世絵師。本名は岩瀬醒(さむる)。俗称は京屋伝蔵。別号は醒斎(せいさい),醒世老人,菊亭主人,菊軒など。父は伊勢国の出身で江戸深川に質屋を営み,京伝はその長子で弟に山東京山がいる。のちに銀座に転居。
若くして北尾重政に浮世絵を学び,北尾政演(まさのぶ)の名で,1778年(安永7)黄表紙《開帳利益札遊合(かいちようりやくのめくりあい)》の画工として出発,80年ごろから山東京伝の名で作者を兼ね,82年(天明2)《御存商売物(ごぞんじのしようばいもの)》が大田南畝に認められて出世作となり,画師として狂歌絵本にも活躍した。85年《江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)》が大評判をとるにおよんで,恋川春町,朋誠堂喜三二のあとをうけて,黄表紙の中心作者となった。寛政改革に取材した89年(寛政1)の《孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)》や心学流行をとり入れた《心学早染草(はやそめぐさ)》(1790)などが代表作となる。1785年《息子部屋》を初作として,洒落本に進出,吉原の遊里生活体験による豊かな知識,人間性に富んだ温かくして鋭い観察,画家として鍛えられた精緻な写実手法等によって,量質ともに洒落本の第一人者となった。《客衆肝照子(きやくしゆきもかがみ)》(1786),《通言総籬(つうげんそうまがき)》《古契三娼(こけいのさんしよう)》(以上1787),《繁千話(しげしげちわ)》《傾城(けいせい)買四十八手》(以上1790)などがとくにすぐれている。
91年(寛政3),寛政改革の出版取締令を犯して出版された《錦之裏》《娼妓絹籭(しようぎきぬぶるい)》《仕懸(しかけ)文庫》によって,手鎖(てじよう)50日の刑に処せられ,正直で小心な性格から,以後洒落本の作を断ち,謹慎を旨とし,あらためて銀座に,きせる・たばこ入れの店を開いて商売に努めた。
しかし町人作者を主勢力とする改革後の戯作界の主導者たる地位は動かず,黄表紙も多く書いたが,教訓的で理屈ばった内容のものが多く,やがて時の流行にも順応して,1804年(文化1)ごろからは仇討物なども書き出し,合巻の作者として活躍することになった。
いっぽう1799年(寛政11)には《忠臣水滸伝》によって,中国文学と日本演劇とをとり合わせるという江戸読本の新しいいきかたを示し,以後《安積沼(あさかのぬま)》(1803),《桜姫全伝曙草紙》(1805),《昔話(むかしがたり)稲妻表紙》(1806)など,古伝説や歌舞伎浄瑠璃などではなやかに彩られた読本も書いたが,勧懲思想も徹底せず,緊密な長編構成の用意にも欠けるところがあって,結局《双蝶記》(1813)を最後に,読本における曲亭馬琴との抗争にも敗れ去った。ただ寛政末ごろから実学に志して,近世初期の文化・風俗・人物等に関する考証随筆に自己の本領を見いだし,《近世奇跡考》(1804)をまず世に問い,さらに《骨董集(こつとうしゆう)》(1814-15)の完成に全力を傾注したが未完に終わった。浮世絵も政演としての豊麗な美人画や芝居絵から,晩年には京伝の本名による枯淡な肉筆風俗図のようなものが多くなっている。1816年9月56歳で没した。2度迎えた妻はいずれも吉原の遊女上りの女で子はなく,弟の山東京山がその子に京伝見世をつがせた。
→洒落本
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