斎(せいさい)、狂号身軽折輔(みがるのおりすけ)。宝暦十一年(一七六一)八月十五日江戸深川の質屋伊勢屋伝左衛門の長子として生まれる。弟に相四郎(京山)と妹二人あり。十三歳、父が町屋敷の家主となるに従って京橋銀座一丁目に移る。若くして浮世絵を北尾重政に学び、安永七年(一七七八)十八歳で黄表紙『(お花半七)開帳利益札遊合(かいちょうりやくのめくりあい)』(者張堂少通辺人作)にはじめて画き、同九年『娘敵討故郷錦(むすめかたきうちこきょうのにしき)』に京伝の名で作者に進出、天明二年(一七八二)の『(手前勝手)御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』が大田南畝に認められて出世作となり、『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(天明五年)がうぬぼれの強い若者の愚行を描いて世評高く、黄表紙の中心作者となった。また狂歌界にも近づき、『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』(同六年)などの狂歌絵本に華麗な絵筆をふるった。早くから遊里に親しんで吉原の名妓の容姿を描いた絵本『(吉原傾城)新美人合自筆鏡(しんびじんあわせじひつかがみ)』(同四年)があり、同五年『息子部屋(むすこべや)』で洒落本に進出する。遊里生活体験の豊富な知識、温い人間性に裏づけられた鋭い洞察、繊細な美意識などが、『客衆肝照子(きゃくしゅきもかがみ)』(同六年)にみられる浮世絵師としての感覚に磨かれた写実描写手法に支えられて、すべて十六部の作品によって京伝を洒落本界の第一人者たらしめた。『通言総籬(つうげんそうまがき)』(同七年)・『古契三娼(こけいのさんしょう)』(同)などは天明期の遊里写実の極致を示したが、寛政期に入ってさらに遊里人間の普遍相に眼を向けて、『志羅川夜船(しらかわよぶね)』(寛政元年(一七八九))・『繁千話(しげしげちわ)』(同二年)があり、『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』(同)は内面的心理描写の深奥にも至り得た佳作であった。寛政二年二月三十歳の京伝は吉原扇屋の新造菊園を妻に娶る。やがて天明末から始まった松平定信の寛政の改革の推進に伴って、改革政治に取材した『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』(寛政元年)などがあったが、この種の作品が当局の弾圧を受けると見るより、いちはやく心学の流行に便乗した教訓的意図をもつ『心学早染草(しんがくはやそめぐさ)』(同二年)を出して好評を博した。しかし同三年の『娼妓絹
(しょうぎきぬぶるい)』『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)』『仕懸文庫(しかけぶんこ)』の三部の洒落本は、かなり慎重な配慮のもとになされた作であったが、禁令を犯したかどによって京伝は手鎖五十日の刑を受けた。精神的な打撃も大きく、謹慎を旨として、門生の礼をとった曲亭馬琴が一時代作をする。同五年妻に死別後、紙製煙草入れの商人京屋伝蔵として商いにも専念したが、やがて戯作の意欲を回復して、再び江戸小説界の先頭に立つことになる。しかしその黄表紙はかつての滑稽諧謔の本質を喪失して、理屈におちた教訓的なものが多く、やがて時流に従って敵討ものも書き、合巻(ごうかん)の時期にも活躍したが生彩に乏しい。一方、同十一年『忠臣水滸伝』によって読本(よみほん)作者として出発、馬琴とならんで新しい江戸読本の確立につとめ、やがてその全盛期をもたらした。享和三年(一八〇三)の『(復讐奇談)安積沼(あさかのぬま)』、文化元年(一八〇四)の『優曇華(うどんげ)物語』など当初は敵討ものが目立ったが、やがて、演劇的素材や趣向に富む『桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのぞうし)』(文化二年)、『昔話稲妻表紙(むかしがたりいなずまびょうし)』(同三年)などによって独自の境をひらいた。一面説話の構成における欠陥も『本朝酔菩提全伝(ほんちょうすいぼだいぜんでん)』(同六年)などにみられ、馬琴との抗争にも次第に劣勢に立つことになった。その退勢を挽回しようとして、新しい読本を目ざした野心作『双蝶記』(同十年)も世評が芳しくなく、ついに読本の作を断念する。晩年の京伝はむしろ文化初年から興味をいだいた近世初期風俗の研究考証に生きがいを見出したようで、『近世奇跡考』(文化元年)についで、『骨董集(こっとうしゅう)』(同十一年・十二年)を未完のままに残している。文化十三年九月七日五十六歳で病没、本所回向院に葬られる。法名弁誉智海京伝信士。四十歳で娶ったもと吉原の遊女であった後妻百合が残ったが、やがて病死して、弟京山の悴が京屋伝蔵をついだ。京伝の生涯については馬琴が『伊波伝毛乃記(いわでものき)』(文政二年(一八一九)稿)という伝記を書いている。江戸後期の戯作者。本名岩瀬醒(さむる)、通称伝蔵。山東京山の兄。北尾重政に浮世絵を学び北尾政演(まさのぶ)としても活躍。また、黄表紙、洒落本に筆をとり、その第一人者となるが、寛政の改革時の洒落本筆禍後は、読本と考証随筆に主力をそそいだ。黄表紙「江戸生艷気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」、洒落本「通言総籬(つうげんそうまがき)」、読本「桜姫全伝曙草紙(さくらひめぜんでんあけぼのぞうし)」などはその代表作。宝暦一一〜文化一三年(一七六一〜一八一六)
江戸時代後期の戯作者,浮世絵師。本名は岩瀬醒(さむる)。俗称は京屋伝蔵。別号は醒斎(せいさい),醒世老人,菊亭主人,菊軒など。父は伊勢国の出身で江戸深川に質屋を営み,京伝はその長子で弟に山東京山がいる。のちに銀座に転居。
若くして北尾重政に浮世絵を学び,北尾政演(まさのぶ)の名で,1778年(安永7)黄表紙《開帳利益札遊合(かいちようりやくのめくりあい)》の画工として出発,80年ごろから山東京伝の名で作者を兼ね,82年(天明2)《御存商売物(ごぞんじのしようばいもの)》が大田南畝に認められて出世作となり,画師として狂歌絵本にも活躍した。85年《江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)》が大評判をとるにおよんで,恋川春町,朋誠堂喜三二のあとをうけて,黄表紙の中心作者となった。寛政改革に取材した89年(寛政1)の《孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)》や心学流行をとり入れた《心学早染草(はやそめぐさ)》(1790)などが代表作となる。1785年《息子部屋》を初作として,洒落本に進出,吉原の遊里生活体験による豊かな知識,人間性に富んだ温かくして鋭い観察,画家として鍛えられた精緻な写実手法等によって,量質ともに洒落本の第一人者となった。《客衆肝照子(きやくしゆきもかがみ)》(1786),《通言総籬(つうげんそうまがき)》《古契三娼(こけいのさんしよう)》(以上1787),《繁千話(しげしげちわ)》《傾城(けいせい)買四十八手》(以上1790)などがとくにすぐれている。
91年(寛政3),寛政改革の出版取締令を犯して出版された《錦之裏》《娼妓絹籭(しようぎきぬぶるい)》《仕懸(しかけ)文庫》によって,手鎖(てじよう)50日の刑に処せられ,正直で小心な性格から,以後洒落本の作を断ち,謹慎を旨とし,あらためて銀座に,きせる・たばこ入れの店を開いて商売に努めた。
しかし町人作者を主勢力とする改革後の戯作界の主導者たる地位は動かず,黄表紙も多く書いたが,教訓的で理屈ばった内容のものが多く,やがて時の流行にも順応して,1804年(文化1)ごろからは仇討物なども書き出し,合巻の作者として活躍することになった。
いっぽう1799年(寛政11)には《忠臣水滸伝》によって,中国文学と日本演劇とをとり合わせるという江戸読本の新しいいきかたを示し,以後《安積沼(あさかのぬま)》(1803),《桜姫全伝曙草紙》(1805),《昔話(むかしがたり)稲妻表紙》(1806)など,古伝説や歌舞伎浄瑠璃などではなやかに彩られた読本も書いたが,勧懲思想も徹底せず,緊密な長編構成の用意にも欠けるところがあって,結局《双蝶記》(1813)を最後に,読本における曲亭馬琴との抗争にも敗れ去った。ただ寛政末ごろから実学に志して,近世初期の文化・風俗・人物等に関する考証随筆に自己の本領を見いだし,《近世奇跡考》(1804)をまず世に問い,さらに《骨董集(こつとうしゆう)》(1814-15)の完成に全力を傾注したが未完に終わった。浮世絵も政演としての豊麗な美人画や芝居絵から,晩年には京伝の本名による枯淡な肉筆風俗図のようなものが多くなっている。1816年9月56歳で没した。2度迎えた妻はいずれも吉原の遊女上りの女で子はなく,弟の山東京山がその子に京伝見世をつがせた。
→洒落本
さんとうきょうでん(山東京伝) ...
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