知識の泉へ

日本には約5600の博物館(相当施設・類似施設を含む)がある。この中には、いわゆる博物館のほか、美術館、動・植物園、各種資料館なども含まれる。 ここでの活動を一身に引き受けるのが<学芸員>と呼ばれる人たちだ。 彼らは日々、資料の<収集>に奔走し、<保管・整理>に苦慮し、より良い<展示>方法に悩みつつ、そのかたわらで自らの<調査研究>を深化させ、蓄積された情報を人々に発信する<教育活動>を実践している。そんな彼らの八面六臂の働きぶりを紹介しよう。

斎宮歴史博物館

 三重県多気(たき)郡明和(めいわ)町は、伊勢市と松阪市のちょうど中ほどに位置します。昭和45年(1970)、大規模宅地造成計画に伴う事前発掘調査で、明和町の大字竹川(たけかわ)と、その東に接する大字斎宮(さいくう)の地が、「幻の宮」といわれた斎宮の跡地であることが判明、宅地造成は中止されました。その後も発掘調査は継続的に進められ(現在も継続中)、昭和54年には一帯の約137ヘクタール(東西約2キロメートル、南北約0.7キロメートル)が国指定史跡に。
 三重県立斎宮歴史博物館は、この史跡の一角(大字竹川の地)に平成元年(1989)開館。全国でも珍しい、遺跡と連動した県立のテーマ博物館です。
 この斎宮歴史博物館の学芸員、榎村寛之(えむらひろゆき)さんにお話を聞いてみましょう。

(写真提供/三重県立斎宮歴史博物館)

2009年10月14日

第1回 斎宮跡をまるごとサイトミュージアムに

国史跡斎宮跡、その遺物、遺構、文献資料、
美術資料など、関連するすべてのものを扱う
 斎宮歴史博物館は松阪牛で有名な三重県松阪市と、伊勢神宮で有名な伊勢市の中間にある三重県立の博物館である。なぜこんな所に博物館があるのか? それは、そこに国史跡斎宮跡があるからだ。
  斎宮1 とは遅くとも7世紀後半から14世紀にかけて、伊勢神宮に仕えるために天皇一代に原則一人派遣された未婚の皇女、斎王の宮殿とその組織のことで、三重県によって1970年以来発掘調査が行われている。その発掘を行い、成果を展示しているのがこの博物館なのである。1989年の開館、今年で満20年を迎える。
斎宮歴史博物館の外観
博物館の外観  開館10周年を迎えた平成11年(1999)には、最新の研究成果を盛り込み、常設展示のリニューアルを行った

斎宮跡歴史ロマン広場
博物館から徒歩15分ほどにある「いつきのみや歴史体験館」(写真左下)。その北側(写真中央)には「斎宮跡歴史ロマン広場」(史跡全体の10分の1模型)が広がる

 従ってここでは斎宮に関する全てのモノを扱っている。発掘調査で出土した遺物、遺構、歴史文献に見られる斎宮資料、物語文学に見られる斎宮、そして美術資料に描かれた斎宮や斎王など。学芸員は、こうした資料をひとわたりは理解し、使えなければならない。
 たとえば8月1日から始まった『日本の宝・斎宮』展の7月30日の様子を少しご紹介しよう。
 前日からの展示作業で、出すべきものはほぼ並んでいる。しかし担当者である学芸普及課のT氏は未だに走り回っている。
 この展示は発掘調査とリンクした考古系展示である。T氏が発掘調査を行う調査研究課に割り当てた解説原稿を入手すると、同僚がそれをデジタル加工してプリントアウトする。専攻は文献史学である。別室では他の仲間がそれを手作りパネルにしている。専攻は国文学である。予算の削減の中で、展示業者や輸送業者を使った展示準備は入館料の必要な特別展のみ、しかも二日程度に限られる。担当者のこだわりは、その後から始まり、同僚はその方向性を理解し、フォローして展覧会を完成させる。従って文字パネルなどはほぼ手作りである。
手づくりポスター
手作りポスター 学芸員の血と汗と創意と工夫の結晶です(少しオーバーかな)

 しかもこうした展示も斎宮とつながっていなければならない。テーマ立案だけでも大変なのである。私などバブルの末期に学芸員となり、予算の潤沢な頃に展覧会を開いていた者は、彼らの活躍にはつくづく頭の下がる思いがするばかりの今日この頃なのである。

(次回に続く)

10月17日(土)から11月23日(日)
開館20周年・国史跡斎宮跡指定30周年記念特別展
「伊勢物語 狩の使と斎宮」

斎宮のイメージは、かつての「神に仕える慎ましやかな宮」から、「都市のような区画を持つ宮殿」に変わってきました。斎宮ゆかりの『伊勢物語』第六十九段「狩の使」も、斎宮の壮大な碁盤目状の区画「方格地割」が機能していた頃の物語と考えられてきています。
『伊勢物語』の斎宮関係の絵画やその注釈書、同時代の斎宮の発掘成果を合わせ、考古学と国文学、歴史学のコラボレーションによる新しい『伊勢物語』の展覧会を開催します。

脚注

  • 斎宮は「いつきのみや」とも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮(さいくうりょう)という役所のあったところです。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替わりごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣されました。
     古くは、伊勢神宮起源伝承で知られる倭姫命(やまとひめのみこと)など伝承的な斎王もいますが、その実態はよくわかっていません。
     制度上最初の斎王は、天武天皇(670年頃)の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)で、制度が廃絶する後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続き、その間記録には60人余りの斎王の名が残されています。
    (斎宮歴史博物館ホームページより)
2009年10月21日

第2回 『伊勢物語』の不思議な読まれかた!?

知る人ぞ知る! 『伊勢物語』と伊勢斎宮との深い関わり
 斎宮歴史博物館のコレクションは大きくふたつに分類される。ひとつは斎宮跡出土資料、もうひとつは文献・美術などの斎宮関係資料である。なかでも『伊勢物語』2は、その名前の由来が、在原業平3と斎王の一夜の恋に由来しているという説が有力なこともあり、斎宮と深い関係にある文学資料だ。
 ・・・という話をこの文章をお読みの方はご存じだろうか。じつは割合に知られていないのだ。
  『伊勢物語』は、不思議な読まれかたをしてきた。江戸時代以後、伊勢物語の美術といえば、『富士見の業平』『武蔵野』『隅田川』『三河の八橋』など、「東下り」にかかわる場面がとにかく多い。東下りは古典文学の中で、江戸周辺が舞台になっている数少ない作品。つまりこの選択は、新興都市、江戸の好みを反映していたと考えられる。
斎宮伊勢絵巻
『伊勢物語絵巻』より「狩の使」/斎宮歴史博物館蔵

 もうひとつよく知られているのは「筒井筒(つついつつ)」4にかかわる構図だ。これは世阿弥作の能「井筒」として広く知られていた物語だから、公家や大名には必修の教養だといえる(「八橋」も能になってますね)。また、東下りの発端ともいえる「二条の后」との恋なども教科書にはよく取られている。これは相手が、清和天皇皇后で摂政藤原良房の養女高子だというところから、現代人にも恋の冒険のイメージが伝わりやすいからだろう。
 つまり現在の『伊勢物語』は、室町時代以後の時代の嗜好の中で、読む章段が定められてきたようなのだ。
 そして斎王制度は南北朝時代初期、14世紀前半に廃絶していたので、斎王との物語は次第に忘れられていく。伊勢物語は、中世と近世では全く読みかたが違い、中世に書かれた伊勢物語の注釈書では、この物語はすべて史実だと理解されている。しかし近世になると、斎王との密通の話は、『日本三代実録』などとの照合により、事実ではないとする説が有力になる。こうした理解の変化もあって、斎王との恋の物語は忘れられていくようなのだ。
 こうした斎王と伊勢物語の関係を見直す作業は、開館後20年間の重要な活動のひとつである。その集成となる特別展『伊勢物語 狩の使と斎宮』は10月17日(土)から11月23日(月・祝)まで開催している。

(次回に続く)

saiku02_02poster.jpg
今回の特別展のポスターです

脚注

    1. 平安時代の歌物語。在原業平の歌を中心にして作られた小編の物語集。ただし、物語に含まれる和歌209首(流布本)のうち、業平の実作とみられるのは35首。各段の冒頭が「昔、男……」という形式で始まる。
    2. 平安時代の歌人。三十六歌仙の一人。平城天皇の皇子阿保親王の5男。美男として知られ、『伊勢物語』の主人公のモデルと伝えられる。
    3. 筒井筒とは、円筒状に掘り下げた井戸(筒井)の枠(筒)のこと。『伊勢物語』では、筒井筒の段が、幼なじみの少年少女の恋を物語っていることから、幼なじみ、また幼い男女の遊びなかまをいう。
2009年10月28日

第3回 斎宮を知って!

伊勢神宮や松阪牛にも負けないブランドをめざして
 伊勢斎宮は伊勢神宮を考える上で不可欠な存在である。「幻の宮」と呼ばれたその遺跡が今、現実の中にその姿を現しつつある。そんな平安時代の遺跡と直に接することができて、しかも博物館でその調査成果の展示をも見ることができる所など、滅多にあるものではない。口幅ったいことを言うようだが、平安京にも平泉にも、このように遺跡と連動した府県立の博物館はないのだ。しかし、振り返ってみると、博物館開館20周年を経た現在でも、斎宮の知名度は決して高いとはいえない。
 そもそも斎宮は高校の日本史や古典の教科書にもほとんど載っていない。『源氏物語』ファンにはご存じの方も多いのだが、ファン向けの本では、京都周辺の源氏関係史跡を紹介することが多く、斎宮となると、なかなか載ることがない。伊勢神宮に参詣する人も、斎宮の遺跡となると滅多に関心を示さない。せっかく伊勢神宮にまで来ているのに、その歴史について興味を持たないのは全くもってもったいない限りだと思うのだが、神宮から10キロも離れている所にわざわざ足を運ぶのは、神宮での時間がたっぷり取れる人に限られているようだ。かような状況ゆえに、知名度の上がりようがないのである。
館内の展示室
発掘調査が明らかにした斎宮の姿を、考古資料と模型で紹介する《展示室II》

 最近、伊勢神宮や三重県を特集したムックが2冊続けて刊行された。予想通り、どちらも斎宮は取り上げられていなかった。斎宮は伊勢市と関係が深いのだが、斎宮跡のある明和町は、行政的には松阪市と関係が深い。そのため、松阪の観光圏に入っているのである。そして松阪といえば、松阪牛、城下町、本居宣長が観光の目玉で、斎宮との関連は薄い。一方、伊勢神宮を中心に見ると、伊勢市より西の市町に目が及ぶことは少なく、伊勢志摩という形で、どうしても東・南のリゾート地域と結びつく傾向がある。つまり斎宮は、観光ガイドの観点からすると、伊勢とも松阪とも関係づけられず、結果として取り上げられないことが多いのである。

 斎宮跡や博物館に来られるお客様のなかには、「こんなに良い所なのに全く知らなかった」という感想をお持ちになって帰られる方も多い。じつにもったいない限りなのだ。
 このごろは歴史に興味を持つ「歴女」と呼ばれる人々が話題になっている。歴史は戦国時代や幕末ばかりではない。ぜひとも斎宮にお越しいただきたいとお願いしたい。姫が主人だった斎宮は、女性にとっても見て楽しみ、体験して、そして考えることも多い、そんな史跡なのだから。

(このシリーズ終わり)

斎宮に関するパンフレットいろいろ
パンフレットも、皆さまのご来館をお待ちしています

DATA

●所在地
〒515-0325
三重県多気郡明和町竹川503
TEL 0596-52-3800(代)
FAX 0596-52-3724
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/

●入館料
 ( )内は団体料金
一般   330円 (260円)
高・大学生 220円(180円)
小・中学生 無料
特別展・企画展はその都度料金を定めます。
また、休館日についても変更することがありますのでご注意ください。
毎月第3日曜は家庭の日につき無料です。

●開館時間
午前9時30分~午後5時(但し、入館は4時30分まで)

●休館日
月曜日(祝日・休日である場合を除く)
祝日・休日の翌日・12月29日~12月31日