ことばの地理的な広がりを地図にあらわしたものを「方言地図」または「言語地図」という。本書は、国立国語研究所編『日本言語地図』(一九六六~七四)の略図を用いて、全国の方言分布を視覚的に提示し、分布の背景にある日本語の歴史や、新しい方言が創り出される様相を分かりやすく解説したものである。
本書は一九九一年に刊行された『方言の読本』を改訂したものであるが、改訂にあたって、旧版の方言地図を増補し、語彙だけではなく、音韻(音声)に関する言語地図も収録した。また、巻末に記載した方言の基礎知識に関する解説も大幅に増補もしくは改訂した。さらに各地の方言による桃太郎の語りをCDに納めて付録とし、方言の音声に触れることができるようにした。
方言地図を資料としてことばの伝播のプロセスや言語生成の過程を解明する学問分野を方言地理学または言語地理学と呼ぶ。方言地理学の祖はフランスの言語学者ジュール・ジリエロン(一八五四~一九二六)である。ジリエロンは『フランス言語図巻』(一九〇二~〇九)を刊行して、方言の分布を解釈するさまざまな理論を提唱した。
日本で最初に作られた全国方言地図集は、明治時代に上田万年を主査とする国語調査委員会が全国を調査して作成した『音韻分布図』(一九〇五)と『口語法分布図』(一九〇六)である。この調査は、日本における標準語を制定するための基本的な資料を得るために始められたといわれる。これらの地図集は音韻と文法に関するものであるが、語彙についての全国方言地図集は『日本言語地図』が現行唯一のものである。
方言の全国分布地図を用いてことばの伝播のプロセスを言語地理学的に解明したのは、日本では柳田国男の『蝸牛考』(一九三〇)が最初のものである。柳田は全国の「かたつむり」の方言を通信調査によって収集して、京都を中心にさまざまなことばが生まれて水の波紋のように全国に広がり、古いことばほど辺境の地に見られるという「方言周圏論」を唱えた。柳田の理論は当時の方言研究界に衝撃を与えたが、戦前には柳田の方法を踏襲する研究者は現れなかった。しかし、『日本言語地図』の調査を契機として、日本における言語地理学は大きく進展し、全国各地でさまざまな方言地図が作られるようになった。
方言の分布の姿はきわめて多彩である。「しあさって」「居る」「うろこ」のように「糸魚川・浜名湖線」と呼ばれる境界線を境に東西が二分される地図や「かたつむり」「地震」「とんぼ」のように古いことばが日本の両端に見られる地図、「しもやけ」のように太平洋側と日本海側に分かれる地図、「つらら」「おてだま」のように複雑な分布を示す地図などさまざまである。
方言の分布は日本語の長い歴史の反映である。私たちのまわりでは新しい語が次ぎ次ぎに生まれ、在来の語とたたかいながら、次第にその勢力を広げていく。方言の分布は、そのような語の盛衰のプロセスが地理的に展開されたものである。
現在、日本の伝統的な方言は急速に衰退しつつある。本書に見られる種々のことばは明治から昭和初期にかけて使われていたものと考えられるが、これらの半数以上はもはや日常の生活では使われなくなっているかもしれない。「かたつむり」「かえる」「とかげ」のような小動物の名や、「おにごっこ」「かくれんぼ」「おてだま」のような子どもの遊びに関する方言は、生活様式の変化にともなって、今や絶滅寸前である。しかし、だからといって、各地の方言がこのまま消滅してしまうとは思えない。現代では老いも若きも方言と共通語を場面に応じて使い分けており、若者を中心として、各地で新しい方言も生まれている。
方言は日本人の心のふるさとであると同時に、日本語に新たな活力を与えるエネルギー源でもある。共通語は周囲の方言を吸収しつつ成長を続けてきた。もし、方言が消滅すれば、日本語の存立そのものがおびやかされることになるだろう。