はじめに、われわれが何を考え、何を具体化しようとしてこの辞書を編集したのかということを明らかにしておこう。
人々は個々の単語について意味を知りたいと思い、また正しい発音や書き方を確かめようとして辞書をひく。その辞書に、単語は発音や綴り字の順序によって配列されていて、多くの場合、その単語の前や後には意味上何の連絡もない単語が並んでいる。そこで人々は、単語はばらばらの存在で、何の脈絡もなく集っている物体のようなものだと意識しがちである。しかし実は、単語は人々の心の中に散財しているものではない。単語の存在の仕方は、譬えてみれば女の人が頭にかぶる網のようなものである。網の目の一つ一つが個々の単語にあたる。網の目はそれ一つで存在しているのではなく、自分の隣に、いくつもの網の目を持つ。それが互いにささえ合うことによって網全体を形づくる。そして網の目一つ一つもまた自分自身の存在を保っている。
意味の上から観て、単語のあり方はそれと同じなのである。個々の単語は独立した存在ではあるが、その近隣の、類縁性の濃い単語と相互に緊張関係を保ち、時には重なり合う領域さえ持ち、互いにささえ合って生きて働く。例をあげてみれば、「ほのか」という語は自己の近隣に「かすか」「うすく」「ぼっと」などを持つ。「ほのか」はそれらと近しい間柄にあり、時には重なるようにも見える。しかし、つきつめて行くとそれらは互いに自己の意味領域を確かに持つ存在である。われわれは無自覚的にそれを知り、それを文脈の中で使い分ける。
この「意味の存在の仕方」に深い注意を払わない辞書編集法では、「平常」「日常」「通常」「普段」のような近い意味の単語に、みな共通に「ふつう。いつも」のような訳語を与えて終われりとしてしまう。しかし、それでは、「平常運転」とはいっても「日常運転」といわないこと、「日常茶飯のこと」とはいっても、「通常茶飯のこと」とはいわないこと、それを理解することはできない。そのような辞書によっては事態を厳密に認識し分け、表現においてそれを区別しようとする鋭い言語意識を養い得ない。辞書は、できる限り的確な表現を可能にさせ、また的確な表現の精密な理解を達成させるに役立つものでなければならない。
そこでわれわれの辞書は、単語を意味上の類縁性によって区分し、あらゆる単語を十進分類法によって整理している。これは類似の意味、関係深い意味、対照的な意味を持つ語を集団化し、人々が心の中で暗々のうちに行っている比較対照を、明確な形でなしうるように眼前に提示するものである。語彙の豊富な人は心の中で文章を作り、文脈の中でのその単語の意味を考え、用語として適か不適かを思案する。それをこの辞書では、添えてある文例によって明らかな形で考案できるようにした。語の意味の微かな差違は、この文例を見ることによって、おのずから感得されることであろうと思う。
また単語の中には、書く文章の中だけに使われる語(例えば「しかしながら」)がある。ところが会話にだけ使われる語(例えば「だけど」)もある。それを知ることがまた単語の理解の上で極めて重要である。そこでこの辞書には、それぞれの単語に「位相」を注記することとした。「位相」とは、今は使わない古語であるとか、文語であるとか、文章的表現に使う語であるとか、日常普通に使う語であるとか、それぞれの単語の言語社会での使われる位置をいう。それを注記することによって、文章では記述しがたい用法上の説明を補うこととしたのである。
もと、この辞書は浜西正人氏が営々と編集に従事して来られたものである。その編集方針は、かねて私の考えて来たところと一致が大きかった。それで私は乞われるままにこの五年間、氏と協同の努力をして来た。私は分類の各項目内部の単語の配列に注意し、語義の説明について修正を加え、「位相」を注記することを提議して、それの遂行を推し進めた。こうした辞書はわが国にいまだ例がないが、学習によって語彙を豊かにしたいと思う生徒・学生、あるいは的確な語を求めようとする社会人にとって有用なはずである。これがそのような人々に役立つことを私は願っている。
ただ何事も新しい工夫が、すぐそのまま完成であるということは難しい。本書についても、不備なところは多々あることと思う。幸いに識者のご教示を得れば、これの改良に必ず役立てたい。なお、この仕事を成就するに当っては、山田珠子・立平幾三郎・梶原滉太郎の三氏に多大の助力を得た。そのことをここに記しておきたい。