辞典類の改訂版のまえがきなるものは,まずは改訂に至るまでの諸般の事情の説明から始めるのが通例であろう.しかし本書の場合,その出だしにいささか常道はずれのきらいなしとしないのは,次のような経緯があるからである.
そもそも私と本辞典とのかかわりは,1997年9月某日の寺澤芳雄先生(当時,東京女子大学教授)からの電話に端を発した. 「羅和辞典のことで研究社の話を聞いてやってくれないか」とのご依頼に承諾の旨を伝えると,旬日を経ずして(当時の私の)研究室で編集部の御二方から「話」を聞かせていただく運びとなった.それによれば,研究社には今『羅和辞典 増訂新版』(1966年発行)の見直しのための千数百枚におよぶゲラがある,それは,増訂新版の刊行にも尽力されたという松村治英氏の原稿を活字化したもので,本来ならば,当然御本人がそのゲラをチェックされるべきところが,残念なことに同氏は2年前の阪神・淡路大震災に遭遇されたうえに,御高齢のためにそれが叶わない,ついては松村氏の見直しの仕事を見届けてもらえないか,というのが部長氏の私に対する要請であった.そのとき私は,ゲラがAからZまで全部そろっているのであれば,それはもう完成の一歩手前まで進んでいるのであろうから,仕事といっても,散見されるにちがいない単純な誤記や誤植のたぐいに朱を入れる程度にとどまるであろうと予想し,気軽に,やってみましょうと返事をしたのであった.
しかしながら,実際の作業の第1弾として送り届けられたAのゲラ10枚程を目にしたとき,すぐに私の予想は甘すぎたかもしれないとの疑念が生じた.そしてこの疑念は,引きつづきAをさらに10枚,20枚と見ていくうちに,強まりこそすれ弱まることはなく,やがて,研究社にあるという千数百枚のゲラは,決して完成寸前のものではありえないと確信するに至った.推察するに,松村氏は,1968年から82年にかけて8分冊で刊行されたOxford Latin Dictionaryを丹念に読まれ,増訂新版のなお足らざるところを補おうとされたものらしいが,氏は自らの原稿を改訂のためのたたき台として執筆されたのであろう(もし松村氏がご存命であれば,私のこの推察に首肯されるにちがいない).では,どうするか.これに手を加えてしかるべき姿に仕立てあげるのは,とうてい片手間でできる仕事ではない.おまけに,相当長期にわたるであろうことは,火を見るより明らかである.早いうちに断念を申し出るべきか.それとも......,さんざん迷った末,それはたぶん松村氏の仕事の「見届け」以上の作業にならざるをえないであろうが,氏の労作を土台にしてよりよい改訂版を作りあげる他はない,それがまた松村氏の御努力を無にしない唯一の方途であろう,そう決心したのは,はや1年以上が過ぎ,Aの半分以上に目を通した頃のことであった.この決心は幸い編集部にも諒とされたので,私はいよいよ本腰を据えて改訂作業に精を出すことになったのであった.
それからさらに10年あまりが過ぎ,ここに装いを新たにした改訂版が生まれた.今その作業の要点を挙げれば,次のようである.
このうち,(1) は,Oxford Latin Dictionaryがその収録する語彙の下限を2世紀末に置いていることにならおうとする試みである.また,(6) は,英語圏で愛用されているCassellのラテン語辞書が羅英,英羅の2本立てであることにならって,本辞典にも和羅の部をとの私どもの願いに応えて,信州大学准教授,野津寛氏が独自の視点から編んで下さった意欲作である.
本辞典の改訂には,閲覧できる限りのラテン語テキストとその翻訳,英独仏のラテン語辞書,各種の事典等,内外の多数の資料を参照したが,なおいくつかの分野の専門家に直接教えを乞うたこともまれではない.また,早い段階での一部のゲラの見直しには,当時東京大学大学院の西洋古典学専攻の院生であった森岡紀子氏と山田哲子氏の御助力をあおいだ.専門家諸氏ならびに森岡・山田両氏,さらには和羅語彙集の作成に御苦労された野津寛氏に厚く御礼を申し上げる.最後に,長期にわたる改訂作業に御理解と御支援を惜しまれなかった研究社の方々,とりわけ実務面で並々ならぬお世話をいただいた編集部の中川京子・根本保行の両氏に,深甚なる謝意を表明しておきたい.
拙著「羅和辞典」が,故小酒井五一郎氏の特別な御好意によって,世に出てから,すでに十数年を経た,この間,幸いにわが国における西洋文化の根本的研究のために,多少は貢献をしたことと信ずる,小生としては,この間に,多くの友人から色々と注意されたり,求められたことがあったばかりでなく,自分自身でも気付いたことが多く,せめて語彙だけなりと,補遺追加をしたいと考えていた.そこで,このことを研究社へ相談したところ,その返事に,紙型が大分に磨滅したところがあるので,この際,思い切って増訂新版を出したいとのことであった.この朗報に力を得て,私はこの辞典を更に日本の西洋古典語研究者に適するものにしようと思い,若干の試みをしておるが,そのなかでも特色(7) は全く新しいものである.
しかしこの増訂はかなり大きな仕事であるし,またあまり長く時日をかけることは許されないと考えたので,二人の友人に御協力を願って,快諾を得た.その一人は九州工業大学教授角南一郎氏,他は大阪学芸大学講師松村治英氏である.角南氏は京都大学文学部英文科・英語学科の出身で,専門の英語学のほかに,西洋古典語の造詣も深く,これまでにもCiceroのDe Officiis(義務について)をはじめ,他にもラテン原典からの直接の訳があり,この辞典ではA―Lを担当されたが,その単語の訳については,甚だ入念に訳語を選ばれておる.松村氏は京都大学文学部言語学科の出身で,西洋古典語には大いにひかれ,SenecaのDe Breviate Vitae(人生の短かさについて)の訳のほかに,ギリシア語・ラテン語からの訳も若干あり,この辞典ではM―Zを担当されたが,各単語を入念に英独仏の大辞典にあたって,その訳を検討して下さった.また両君とも入念に校正して下さった.
この両君の西洋古典語にたいする愛情によって,また小生に対する温かい御同情によって,この辞典が大いに改善せられたことは言うまでもなく,更にこの両君及び佐藤扶美子さんによって,当用漢字や仮名遣も,現代的になったことなどは,編集者として謝するに言葉もない.なお,初めの予定では二カ年ほどで仕上げるつもりであったが,少しでもよいものをと考えながら努力して居るうちに,予想をはるかに越えて,四年に近い歳月を費した.そのため思わぬ迷惑をかける結果となり,その点皆様に御容赦を乞う次第である.
また研究社辞書部の主任植田虎雄氏及び製版工場の御一同には,色々の点において多くの御迷惑をおかけしたことを,今更に申訳なく思うと共に,そのいつも変らぬ御好意と御協力とに対して,心からなる御礼を申し上げる次第である.
Festina lente
西洋文化を真に知るために,西洋古典の研究が絶対に欠くことの出来ないものであることは,今更言を要せぬところであり,その宝庫に達する第一歩として,羅和辞典の編纂を思ひ立つたのである.即ち今を去る四十三年前に恩師Raphael von Koeber先生より給はつたFestina lenteの金言を体しつつ,愈々独りペンをとりあげたのは昭和十年三月であつた.その後服部報公会の援助や友人達の協力を受けて,仕事は順調に進捗したが,太平洋戦争の勃発,出版界の不況などのために一頓挫を来たした.且つ最初の計画が稍広汎に過ぎたので,更めて昭和十七年三月から西洋古典の若き学徒斎藤信一君の助力を得て,この羅和辞典の編纂に着手した.我々が主に使用した辞典は,Dr. Hermann Menge, Taschenwörterbuch der lateinischen und deutschen Sprache, Erster Teil, Lateinisch-Deutschであつた.然るに編纂半ばにして斎藤君が戦争の犠牲となつたので,爾後は専ら一人で努力を続け,茲に漸く完成の喜びを見るに至つた.出版については畏友市河三喜君の労を煩はし,研究社の好意を受けることになつた.茲に皆様に心からなる謝意を表すると共に,今は亡き斎藤学士の御冥福を祈る次第である.回顧すれば,四十年の昔著者の処女出版Grammatica Latinaを世に送つた際,Koeber先生の序文の中に:‘Wer kein Latein versteht, gehört zum Volk, er mag der grösste Virtuos auf der Elektrisirmachine sein.’ ― Ich würde noch hinzufügen : Sapienti sat!と書いて下さつたことを,このささやかなる辞典の出版と考へ合はせて,今更に思慕の情の一層切なるものあるを禁じ得ないのである.