明治初期の国際的社交場として建てられた洋館。東京府麹町(こうじまち)区内幸(うちさいわい)町山下門の元薩摩(さつま)藩装束(しょうぞく)屋敷跡(千代田区内幸(うちさいわい)町、帝国ホテルの隣地)にあった。1879年(明治12)外務卿(きょう)に就任して条約改正交渉に取り組んだ井上馨(いのうえかおる)は、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとともに、制度・文物・習俗を欧風化して欧米諸国に日本の開化を認めさせ、交渉を促進しようとした。鹿鳴館はその一環として、上流社会の社交の欧化を図り、外国貴賓の接待・宿泊施設として建設されたものである。イギリス人コンドルの設計により1881年1月着工、ネオ・バロック様式を基調とした煉瓦(れんが)造り2階建ての本館と付属施設の総建坪1450平方メートル、総工費18万円をかけ、1883年7月竣工(しゅんこう)した。『詩経』の「小雅鹿鳴の詩」、迎賓接待の意から鹿鳴館と命名、11月28日に開館式を行った。華やかな園遊会、舞踏会、仮装会、婦人慈善会(バザー)が頻繁に開かれ、それらは欧化主義の風潮のシンボルとなり、いわゆる鹿鳴館時代を現出した。しかし急速な近代化のゆがみも集約されており、仮装舞踏会に典型的にみられる狂的で皮相な欧化熱は世のひんしゅくを買った。1887年井上が条約改正に失敗するや、欧化政策に対する批判も強くなり、鹿鳴館時代も終わった。建物は1890年華族会館に貸与、1894年に払い下げられ、1898年には名称も華族会館と変わった。さらに1933年(昭和8)以降、日本徴兵保険会社、内国貯金銀行などが使用し、1941年取り壊された。表門も第二次世界大戦中に戦災で焼失した。
2018年9月19日