江戸後期の文人、狂歌師。本名大田直次郎、号は南畝(なんぽ)、杏花園(きょうかえん)、四方赤良(よものあから)など。蜀山人は晩年の号。幕臣で、漢学者を志して松崎観海に学び、18歳のとき『明詩擢材(みんしてきざい)』の著があるが、戯れにつくった狂詩が平賀源内に認められて、翌1767年(明和4)に『寝惚(ねぼけ)先生文集』が出版され、たちまち狂詩の第一人者として名声を得、おりから江戸文芸勃興(ぼっこう)の機運にのって多方面の活動をすることになる。まず狂歌は内山賀邸同門の友人唐衣橘洲(からころもきっしゅう)に誘われて四方赤良の狂名をつけて参加し、天性の機知と諧謔(かいぎゃく)の才を発揮して江戸狂歌流行の素地をつくった。一方75年(安永4)から洒落本(しゃれぼん)に筆をとって『甲駅新話』『深川新話』『変通軽井茶話(へんつうかるいざわ)』などの佳作数編を残し、81年(天明1)からは黄表紙(きびょうし)の批評を試み、また作をもして、文壇に指導的な地位を占めた。とくに83年その撰(せん)になる『万載(まんざい)狂歌集』の出版とともに狂歌の爆発的流行がおこり、いわゆる天明(てんめい)調の快活で機知的な歌風が赤良を中心に形成された。しかし政変が起こり文武奨励政治の始まったころ、それを風刺する落首をつくったと疑われたため狂歌を廃し、文芸界と絶縁した。そして幕府の小吏のかたわら漢学の塾を開いて数年過ごしたのち、学問吟味を受けて首席となり、96年(寛政8)支配勘定に昇進し、能吏ぶりを発揮して大坂や長崎にも各1年勤務した。
大坂在任中、事情を知らないで狂歌を請う人には、蜀山人という仮号で書き与えたが、1804年(文化1)ころには幕政の緊張も解けて、彼は文壇の圏外の権威者、また江戸の代表的文人とみられ、蜀山人の名が喧伝(けんでん)された。晩年には『蜀山百首』の狂歌、狂文、漢詩、随筆などが出版されて、江戸の文化に大きな影響を残した。文政(ぶんせい)6年4月6日没。墓は東京都文京区白山の本念寺に現存。
春がすみたちくたびれてむさし野のはら一ぱいにのばす日のあし
ひとつとりふたつとりては焼いてくふ鶉(うづら)なくなる深草のさと