軌道(または軌条)や架線などの固定施設によって拘束され,決められた路線で運転される交通機関の総称。
鉄道の経済的側面
19世紀は〈鉄道の時代〉といわれる。鉄道は,産業革命の先頭に立ったイギリスから普及しはじめ,19世紀中ごろには西ヨーロッパ全土,アメリカで急速に広がった。日本の鉄道は1870年代に建設期に入った。19世紀から20世紀初期にかけての鉄道は,陸上における唯一の近代交通機関として君臨し,鉄道路線網は近代産業の育成に不可欠な社会資本として整備された。国土の産業化を図り,近代産業国家づくりを目ざした国々は,みずからの手で鉄道を建設したり,鉄道企業を援助,優遇することにより鉄道体系の育成に努めた。自動車が普及する以前の鉄道は,全体に事業としても有利であり,地域によっては鉄道企業が乱立し,破滅的競争の弊害を生じたが,たいていの鉄道企業は独占的市場を抱え,その有利な立場を利用することにより路線網の拡大を図った。鉄道技術の発達は,鉄道の大量高速輸送の能力を著しく高めた。蒸気から電気・内燃機関へと動力転換が進む一方,鉄道建設,鉄道車両および列車運行管理に関する技術革新が進展し,日本の新幹線,フランスのTGVのような高速旅客列車,大都市で活躍する高性能通勤電車,さらには無人運転の新交通システムなどを生み出した。しかし,自動車が普及し,航空輸送が活発化するようになると,鉄道はこれら後発の交通機関との競争にさらされ,先進諸国を中心として,鉄道の活動分野は以前に比べて確実に狭められ,鉄道企業の運営は各地で困難に当面するようになった。鉄道の建設や運営については,私企業に代わって公共部門や公企業が主役の座を占め,鉄道企業の自立採算の達成はかなり困難な状況にある。さまざまな交通機関が登場し,相互に激しい競争を展開している状況のもとでは,鉄道に固有な長所や魅力(反面としての短所)を見定めることにより,交通体系全体に占める鉄道の適切な役割分担を検討しなおし,鉄道企業の運営上の難問題を解決させるための有効な手段を講じることが必要とされる。
鉄道の種類
鉄道には,道路外の鉄道,地下鉄道,路面鉄道などの〈普通鉄道〉のほか,ケーブルカー(鋼索鉄道),ロープウェー(空中索道),トロリーバス(無軌条電車),モノレール,案内軌条式鉄道,さらにはスキー場や夏山のリフトのような索道が含まれ,普通鉄道以外のものはとくに〈特殊鉄道〉と呼ばれる。案内軌条式鉄道は,札幌市の地下鉄,大阪や神戸の〈新交通システム〉などで実用化されている。技術開発の途上にある空気浮上・磁気浮上鉄道,一部で実用化段階に入った軌道バスも鉄道の新しい仲間に加えられる。軌道バスは,案内軌条式鉄道の性質をもつが,軌道を離れた車両がバスとして自在に走行するため,鉄道と自動車の双方の技術特性を備えている。普通鉄道はさらに,専用軌道を用いて地域間や都市近郊などの大量高速輸送を行う狭義の鉄道railway(都市交通ではとくに高速鉄道rapid transitと呼ばれる)と,道路上に設けられた併用軌道を用いて簡便で身近な輸送を行う軌道tramwayに分類される。
日本の鉄道法規は,従来は日本国有鉄道法,地方鉄道法,軌道法,専用鉄道規程,索道規則の5種の法規により鉄道に関する免許の種類が決められており,国鉄以外の民営鉄道(民鉄)路線は法制上,地方鉄道,軌道,専用鉄道,索道の4種類に分けられていた。国鉄を分割・民営化(1987)するために1986年制定された日本国有鉄道改革法にもとづき日本国有鉄道法(1948制定)は廃止され,同時に地方鉄道法(1919制定)に代って鉄道事業法が制定された。これにともない,従来の〈地方鉄道〉は単に〈鉄道〉と称されることになった。なお,各路線の歴史的経緯や補助制度の適用などの理由から,実際は高速鉄道でありながら軌道法による免許を受けている例(大阪市営地下鉄など)があったり,逆に,軌道としての性質を備えながら地方鉄道法が適用される例(江ノ島電鉄など)があったりで,免許上の区別と実態は必ずしも一致していない。
鉄道はまた,不特定多数の乗客や荷主を対象に営業される〈公共用鉄道〉と,特定の事業(企業や自治体)の輸送のためにだけ存在する〈専用鉄道〉に分類される。日本の専用鉄道の多くは工場引込線の形態をとっていて,規模は一般に小さい。日本の公共用鉄道は,1987年の国鉄分割・民営化までは日本国有鉄道(国鉄)と民営鉄道に大別された。国鉄は全国規模の幹線鉄道輸送を行うことができる唯一の鉄道企業であり,沖縄県を除く全国の都道府県にまたがって約2万1000kmの路線を営んでいた。国鉄は,1906年の鉄道国有法に基づく政府直営の鉄道(鉄道院,鉄道省,運輸通信省を経て運輸省が管轄)を前身とし,49年に公共企業体として運輸省から独立した。鉄道国有法以前の日本には,幹線鉄道を営む多数の民営鉄道が存在し,国有化直前の1905年には官設鉄道の約2.2倍にのぼる民鉄路線があった。しかし,鉄道国有法により以後の民鉄は〈一地方の交通を目的とする鉄道〉に限定され,国有化直後の民鉄路線は5200km余から一挙に1600km余へと縮小された。今日の日本の民鉄路線(専用鉄道と索道を除く)は約6900kmで,約170社の民鉄企業がこれを営む(ほかに軌道約450km,30社。1996年3月末現在)。民営鉄道は,企業の所有形態に従えば,純粋な私企業のほかに,東京都,大阪市などによる公営企業,北大阪急行電鉄をはじめ,とくに臨海鉄道に多い第三セクター(公私合同企業。1980年代以降,旧国鉄から第三セクターに転換した路線も多い),国と東京都が共同出資する東京の帝都高速度交通営団(特殊法人),に分類される。このうち公営,営団を除く民鉄(いわゆる私鉄)をさらに,大手民鉄(1990年以降15社),大都市中小民鉄,地方中小民鉄,貨物鉄道,観光鉄道に分ける方法もある。
日本の鉄道輸送における国鉄と民鉄の輸送分担は表
鉄道企業
都市交通企業の〈公的一元化〉を経験しなかった日本では,近郊鉄道,地下鉄,乗合バスなどを一括して運営する都市輸送公社のような企業形態がほとんどみられない。地域輸送を担当する鉄道や乗合バス企業の運営難現象を契機に,これら交通企業を統合して公企業化を図るといった交通企業の〈水平的統合〉の例が先進諸外国には多くみられる。ロンドン,パリ,ニューヨーク,ベルリンなどの都市交通事業は,すべてそのような例であるが,ドイツのいくつかの都市(ハンブルクなど)では,企業は別々でもそれぞれの交通企業に自治体を加えた〈運輸連合Verkehrsverbund〉が組織化されている。これに対して,日本の私鉄企業の大半は,バス,タクシー,不動産,観光,デパート,スーパーマーケットなどの事業を傘下に収め,鉄道事業を核とした各種事業の〈垂直的統合〉を図っている。地域総合産業とも呼ばれる〈私鉄コンツェルン〉は,その代表的な例である。
鉄道企業はまた,電力,都市ガス,電信電話,水道などとならんで公益事業の一つに数えられている。公益事業とは,光熱・交通通信サービスのような社会的有用性の高いサービスを提供すると同時に,一定地域を対象にサービスの供給独占の権利を認められる企業をいう。こうした供給独占の制度は,光熱・交通通信サービスの生産が一般に大規模な固定的設備を必要とするために,複数の企業によるよりも単一の企業によるほうが,費用が安くなり,またサービスの安定的供給や品質管理の点でもすぐれているといった理論的根拠を背景にしている。もちろん,供給独占が認められた公益事業に対しては,サービスの供給,運賃・料金,サービス内容,事業の拡大・縮小などの点で厳格な公的規制が加えられる。鉄道企業の供給独占は,光熱・通信サービスに比べると十分な厳密性をもつわけではない。鉄道発達の歴史的な事情もあるが,例えば京阪神地方では京都,大阪,神戸を結ぶ輸送に関して国鉄を含む鉄道企業どうしの競争が厳しい。けれども,このような鉄道企業の場合ですら,それぞれの沿線地域の大半において供給独占の状態が成立していることに注意する必要がある。問題は,この種の供給独占が鉄道企業間の関係だけを対象とし,他の交通機関との関係を対象としていないことである。つまり,鉄道以外の交通機関が進出すれば,鉄道企業の供給独占の実態は形骸化してしまう可能性が高い。全国規模の鉄道に関して国鉄は供給独占の権利を有していたものの,自動車,船舶,航空機との激しい競争にさらされて深刻な運営難に陥り,1987年に分割・民営化されるに至った。地方中小私鉄や乗合バス企業の運営難現象も同種の状況を背景としている。
経済的・社会的特性
鉄道は,車両,動力,通路のすべてを自分で保有,管理するという,他の交通機関にはみられない特徴をもつ。列車は専用通路によって拘束され,運行管理技術を用いて統一的に制御される。鉄道がもつこのような技術特性は,列車の長大化,速度や頻度の向上などを通じて鉄道における大量高速輸送を可能にし,また安全性と正確性にすぐれた鉄道サービスの特性の原因ともなる。鉄道はまた,大規模な専用通路と数多くの車両をもち,設備の建設と維持,ならびに列車の運行に関して多額の費用を発生させる。このような鉄道の経済的特性は,大量輸送を行うさいには輸送単位当りの費用が低水準となり,他の交通機関に比べて費用優位性(経済性)の効果をもたらしやすいこと,また鉄道が一般に独占を形成しやすいこと,を意味する。すなわち鉄道の好ましい特性とは,他の交通機関に比べて大量輸送の可能性を徹底的に追求できる点であり,また大量輸送の実現により費用面での節約を期待できる点である。さらに,大量輸送,集合輸送を本来の任務とする鉄道は,輸送における空間効率性の高さ,エネルギー節約,低公害,省労働力の点でも,好ましい社会的特性を発揮する。鉄道がもつ能力と好ましい特性は,〈大量・定型・連続型〉の輸送分野において最もよく発揮され,都市間幹線旅客輸送,大都市通勤輸送,拠点間大量定型貨物輸送などがそうした輸送分野の好例である。
しかし,鉄道の特性が有効に発揮されるかどうか,また鉄道の好ましい特性が利用者や国民にとって魅力的と感じられるかどうかは,鉄道が置かれた歴史的・地理的状況,社会的・文化的状況によってかなり違ったものになると考えるべきである。かつて機械動力を用いた唯一の陸上交通機関として鉄道が普及したころには,鉄道は当時のいかなる他の交通機関に比べても,大量性,高速性,正確性においてすぐれていたことはもちろん,快適性,便宜性の点でも優位に立っていたであろうと想像できる。鉄道の運賃は,当時の物価と比べてかなり高価であっただろうが,それでも宿泊費用の節約は魅力的であったにちがいない。また鉄道の社会的特性は,今日のようにエネルギー問題とか環境問題の視点でなく,主として経済開発効果の視点から評価されていた。当時,産業化の途上にあった国々において,鉄道は遠隔地と結ぶ大量輸送を技術的に可能にしただけでなく,輸送費用と輸送時間の大幅な削減を通じて鉄道沿線の産業化を促進させる役割を果たしたからである。都市から遠く離れた不毛の土地を開発し,新しい都市をはぐくんだのが鉄道であれば,反対に鉄道から離れた都市を衰微させたのも鉄道であった。〈アメリカ合衆国は鉄道の申し子〉ともいわれるように,全国各地の産業発展が遠隔地どうしの人的交流,文化的交流を促し,鉄道が新しい地域社会や近代国家の醸成に大きな貢献をみせたことも忘れてはならない。けれども,自動車が普及し,航空輸送が盛んな今日において,かつての鉄道に認められていた優秀な諸特性を,そのまま現代の鉄道に当てはめて考えるのは適当でない。また,四方を海で囲まれ,都市や工業地域が太平洋岸の臨海部に偏在している日本では,貨物輸送に関して海上輸送が発達している。このような地理的状況のもとで,大量貨物輸送に関する費用優位性は,鉄道よりもむしろ船舶の特性となっている。
大量高速輸送に有利さを発揮する鉄道の特性は,見方を変えれば鉄道の短所や不利な特性の原因でもある。専用通路に拘束され,ダイヤグラム運行を行う鉄道は,〈戸口から戸口へ〉の直行輸送の能力に欠け,乗換え,積替えの手間を必要とするだけでなく,時間的融通性においてもかなり劣る。列車自体は高速で走っても,比較的距離が短い場合には,輸送,移動の全所要時間において鉄道が自動車(自家用乗用車,自家用トラック)に劣る場合が少なくない。鉄道に比べて自家用車は場所的・時間的汎用性に著しくすぐれており,また鉄道や乗合バスに不足している便宜性,快適性,プライバシーなどの特性を有利に発揮することにより急速に普及してきた。鉄道はまた,高速性の点で航空機に劣り,通路費の自己負担という点で,パイプラインを除く他のすべての交通機関に比べて不利な条件を抱える。しかし,与えられた条件次第で有利な方向にも不利な方向にも向かうという鉄道の費用特性にも注目しておく必要がある。鉄道サービス生産の費用総額は,鉄道の設備規模,運営規模の大小により著しく左右される。費用の大半は,設備関係の費用であれ,労働関係の費用であれ,日々のサービス生産量の大小にかかわらず,ほぼ一定の固定額で発生する費用である。こうした費用特性を最も有利に活用できるのが,既存の輸送能力の範囲内でなるべく大量の利用者を獲得し,大量輸送の経済性を徹底的に追求するとともに,1円でも多くの収入をあげることができる場合である。けれども利用者が減少すると,条件はまったく逆に作用する。利用者が一定水準を割り込むようになると,今までの設備や運営規模を維持しようとする限り,鉄道の費用優位性が消滅するだけでなく,いかなる経営努力をもってしても鉄道の運営難が避けられなくなってしまう。
現況と当面する課題
それぞれの国における鉄道の役割は,その国の鉄道網の規模や密度,鉄道サービスの内容によって異なる一方,人口,産業,都市,気候,地形などの地理的条件や,産業構造,国民生活の豊かさなどの経済的条件によっても大きく左右される。なかでも,西ヨーロッパ,アメリカ,日本のような経済的先進地域ではモータリゼーションと航空輸送の活発化が進み,交通体系に占める鉄道の役割が以前に比べて大きく変化した。かつての鉄道は,農村地域の小輸送から数日を要する長距離都市間輸送に至るまで,文字どおり国民の足として機能した。自動車交通や航空輸送の未発達な発展途上地域では,今日においてもなお,鉄道が交通体系のきわめて重要な地位を占めている。一方,先進諸国では,鉄道の活動分野は以前に比べて着実に狭められており,国内輸送に占める鉄道の輸送分担率は大幅に低下した。日本では1960~70年代にモータリゼーションが進み,航空輸送も急成長を遂げた。その結果,国内輸送量に占める鉄道の輸送分担率は1960年から80年までの20年間に,旅客人キロで76%から40%へ,貨物トンキロで40%から8%へと,それぞれ大幅に低下した(1994年にはそれぞれ29.1%,4.5%に低下)。都市間旅客輸送の1%未満を分担するにすぎないアメリカの鉄道は例外としても,イギリス,西ドイツの国内旅客輸送に占める鉄道の分担率は,1970年代初頭にすでに10%を割り込んでいる。先進諸国間で比べれば,日本の旅客輸送に占める鉄道の地位は格段に高い。このことは,都市間および都市内の旅客流動量が巨大で,それを支える鉄道サービス網が充実した日本の交通事情を反映している。反対に,貨物輸送に占める日本の鉄道の輸送分担率は,先進諸外国に比べて最も低い。アメリカでは都市間貨物輸送の35%内外を鉄道が分担しており,石油パイプラインの数字を除けば約50%に達する(1980)。西ドイツやフランスでも,それぞれ25%と30%(1979)で,分担率の数値は年々低下しているものの,輸送量はむしろ漸増傾向にある。日本の鉄道貨物輸送量は,70年代の10年間に40%以上の減少となった(1980-92年にさらに半減)。これは安定成長を続ける海上輸送や急成長をみせたトラック輸送とは対照的な姿である。
先進諸国の交通体系に占める鉄道の役割は確かに低下したが,これをもって直ちに鉄道の斜陽化現象と表現するわけにはいかない。鉄道の独占時代は去ったものの,鉄道に固有な長所が発揮される輸送分野は依然として健在であり,鉄道の技術革新が新しい輸送分野を開発する可能性も大きいからである。仮に歴史を逆転させて,自動車や航空機よりも鉄道が遅れて誕生した場合を想定すればよい。鉄道の営業範囲は自己に有利な輸送分野に絞られ,鉄道企業は現在よりもはるかに強い競争力を備えているにちがいない。日本の大都市輸送を中心とする私鉄,アメリカの貨物輸送専業の大陸横断鉄道(私鉄)は,営業収入によって自立採算を達成している。しかし,全国輸送の場合であれ,地域輸送の場合であれ,今日の鉄道企業の大半は公有化されていて,国や自治体が多額の助成金を投入して路線網の維持を図っている。ちなみにイギリス,旧西ドイツ,フランスの各国鉄の収入に占める国の助成金の割合は,それぞれ36%,76%,67%にのぼっており,日本の国鉄に関する11%をはるかに上回っていた(1980年度)。交通市場構造が大きく変化した先進諸国では,1960年代以後には鉄道路線の廃止や要員削減による縮小合理化の方向に転じた。敗戦の影響で自動車の普及が遅れ,一方では相次ぐ新幹線の開業が続いた日本では,地方中小民鉄路線の廃止は進んだものの,国鉄に関する縮小合理化政策はあまり進んでいなかった。先進諸国における鉄道の縮小合理化政策は〈身軽で強い鉄道〉の実現を目ざすものであり,発展途上地域や社会主義国における鉄道政策とは明らかに性格を異にしている。後者の場合,例えばタンザニアとザンビアを結ぶタンザン鉄道が中国の援助のもとに75年に完成し,旧ソ連では長大なバム鉄道(BAM(バム)。第2シベリア鉄道)が84年に全通した。これに対してアメリカでは,赤字続きの都市間旅客列車の最低限を存続させるために1971年に鉄道旅客輸送公社(アムトラック)を発足させ,また北東部,中西部17州にまたがる破産鉄道を統合し,それらの運営と再生を図るための統合鉄道会社(コンレール)を76年に発足させている。
1910年代後半に早くも鉄道縮小が始まったアメリカから,80年代になお鉄道拡充期にある国々に至るまで,それぞれの国,地域が抱える鉄道政策の中身はけっして一義的なものではない。とはいえ,鉄道運営の困難に直面し,鉄道政策の将来に関してさまざまな議論が行われているのは,やはり先進諸国の場合である。これらの国では,交通市場の構造変化に伴って鉄道の役割が低下してきたことについては肯定するものの,鉄道の競争力が低下した原因として,(1)交通機関による通路費用負担の不平等(鉄道だけが通路費用を全額負担する),(2)交通企業における〈営業の自由〉の不平等(鉄道における不採算サービス,公共割引運賃制度などの存在),(3)交通機関による〈社会的費用〉の負担に関する不平等(公害,混雑,交通事故などの第三者への迷惑や損失が適切に処理されているか),の3点を重視した。(1)と(2)については,鉄道に対する助成政策ならびに鉄道企業に関する部分的な自由化政策が推進された。(3)については,公害,混雑,交通事故の視点にさらに省エネルギー問題を加えて,各種交通機関の適切な役割分担の実現を目ざそうとする〈総合交通体系(政策)論〉が提唱されている。大量輸送を最も得意とする鉄道は,他の交通機関に比べて,低公害,省空間,高水準の安全性,省エネルギーの四つの条件を満足させやすい特性をもつため,総合交通体系論の中では,いわば〈守られる〉立場にある。しかし,自動車・航空時代を迎えた先進諸国において,この種の好ましい社会的特性に頼って鉄道の復権を図ろうとする考え方の非現実性を指摘する声も少なくない。鉄道に寄せる国民の側の信頼感,期待感は大きいが,国民の交通生活や産業にとっての交通の性格は大きく変化している。交通体系全体に占める鉄道の役割分担については,現実的かつ冷静な立場で検討しなおすべき時代にあるといえる。
鉄道の発達と歴史
鉄道網の成立と拡大
鉄道は,軌道と蒸気動力車と,この両者の成立によってそのかたちを整えた。16世紀ころ,ドイツの鉱山で木製のレールを敷いて鉱石を積んだ車を走らせた。18世紀までに鉄製のレールが開発され,さらに車輪に輪縁(フランジ)をつけ,脱線防止と分岐・合流の確実化が実現し,これによって軌道の方式が確立した。蒸気動力の応用は,1804年イギリスでR.トレビシックが歯車による伝達方式の採用に成功した。ほかにもW.マードックやブレンキンソップJohn Blenkinsop(1783-1831)らが機関車を製作したが,歯車式を含めていずれも動力伝達方式に難点があった。これに対し,動輪のレールに対する粘着性に着目したG.スティーブンソンが,ピストンの往復運動を動輪に伝えて円運動に変える方式をとり,機関車はこれによって確実な実用化を保証された。
1825年9月27日開業のストックトン~ダーリントン間鉄道で,貨物列車の牽引用にスティーブンソンの製作したアクティブ(のちロコモーション)号が登場した。当初は,機関車は危険視され,旅客列車は馬が引くことにされていた。しかしリバプール・マンチェスター鉄道では,開業にあたって蒸気機関車の採用を決定,29年数両の機関車による懸賞競走をリバプールの近くのレーンヒルで実施した。この競走でスティーブンソンのロケット号が優勝し,30年彼の機関車によってこの鉄道は開業した。ロケット号はすでに機関,動力伝達方式ともに,その後の蒸気機関車の基本的な構造を備え,安全かつ能率的な性能を発揮することができた。
リバプール・マンチェスター鉄道は,貿易港のリバプールと産業革命の中心的工業都市マンチェスターとを結ぶ鉄道として計画されたもので,この鉄道によって産業革命の進行はさらに促進されることとなった。もともと,鉄道は産業革命の一定の進行によって生み出されたものであり,その意味では,鉄道という輸送手段は,産業革命の進行と相互関連的な発展の方向をたどることとなった。とくに原料,製品の安価で大量かつ迅速な輸送機能は,産業革命の進行に不可欠な条件となった。
イギリスでは1840年代に入ると,各地で鉄道建設を計画する企業が続出し,いわゆる〈鉄道狂railway mania〉の時代を現出した。産業革命の進行とともに,鉄道を有利な企業とみる立場がこの現象を生み出したのである。
イギリスで実用化された鉄道は,1830年代に入って欧米各国で,新たな輸送手段として広く採用されるに至った。アメリカ合衆国では,イギリスと同様,18世紀末から馬車による鉄道が出現していたが,1827年ボルティモア・オハイオ鉄道が敷設免許を得,30年に開業した。当初は馬または帆を利用する方式をとろうとしたが,開業の年クーパーPeter Cooper(1791-1883)がトムサム(親指トム)号を試作して試運転に成功したため,同鉄道は蒸気機関車を本格的に採用した。当時計画を進めていたチャールストン・ハンバーグ鉄道やモホーク・ハドソン鉄道などもつぎつぎに蒸気動力を使用する鉄道として誕生した。そして大西洋岸を中心に,40年には約3500km,50年には約1万4400kmの鉄道網をはりめぐらした。さらに,このころからいわゆるゴールドラッシュとともに西部への進出が進み,鉄道網は太平洋岸のサンフランシスコを中心に広がり,69年大陸横断鉄道が完成,翌70年の鉄道網は約8万4700kmに達した。これらの鉄道は,イギリスの場合と異なり,多分に農業をはじめとする産業振興,地域開発の目的をもっており,連邦政府が用地確保や資金借入れを援助する方策がとられた。
ヨーロッパ大陸では,ナポレオン戦争後各国の財政は逼迫(ひつぱく)し,資本主義の発達も不十分であった。1830年代に入って,32年フランス(リヨン~サンテティエンヌ間),35年ベルギー(ブリュッセル~マリーヌ間)およびドイツ(ニュルンベルク~フュルト間),さらに37年オーストリア(フロリスドルフ~ワーグラム間),38年ロシア(ペテルブルグ~ツァールスコエ・セロ間),39年イタリア(ナポリ~ポルティチ間),43年オランダ(アムステルダム~ユトレヒト間)など,各国に鉄道が開通した。しかし,これらの鉄道は,ベルギーの場合を除いて,国内交通網変革の計画によるものではなく,局地的な輸送手段として出発した。その点はイギリスの場合も似ていたが,イギリスでは産業革命の進行がその背景にあるという点がはっきりと異なっていた。
植民地支配と鉄道
ヨーロッパ,アメリカ合衆国の次に鉄道網が形成されたのは,アメリカ合衆国以外の南北アメリカ,アジア,アフリカであった。これらの地域では,その地域独自の計画というより,イギリスをはじめとするヨーロッパ各国が,みずからの植民地に鉄道を建設するという方式がまず最初にとられた。アメリカ大陸では,1836年カナダ,48年イギリス領ギアナ,51年チリ,54年ブラジル,56年アルゼンチンというように鉄道が開業したが,最初の二つはイギリスの植民地経営によるものであった。イギリスの支配下にあった地域では,同じ時期に,1854年オーストラリア,63年ニュージーランドで鉄道が開業した。このように,イギリスは植民地経営の方策の一つとして,各地に鉄道を建設したのである。
これらの鉄道は,港湾と原料生産地ないし市場とを結ぶ場合が多かった。それは,本国に積み出す工業原料,本国から運ばれた製品の輸送のために,これらの鉄道が建設されたことによるものであった。この植民地型といえる鉄道線路は,1853年に開業したインドの鉄道(ボンベイ~ターナ間)などがその典型といえよう。本国の場合でも,リバプール・マンチェスター鉄道のような例が,基本的な類型となる場合が多かったが,本国では同時に全国的鉄道網を目ざす志向が強かった。そこに植民地鉄道との相違が決定づけられていった。
植民地以外でも,例えば,日本が1870年に着工した新橋~横浜間,大阪~神戸間の鉄道も,多分に植民地型の性格をもっていた。日本の場合,幕末以来外国人による建設計画が何件かあったが,それらの出願はすべて,上記2区間のいずれかに集中していた。そして,政府はイギリスの資金,資材,技術援助のもとに鉄道の建設を決定したが,その最初の着工区間が上記2区間となったのである。そこには,幕末・維新期を通じて,イギリスが日本に対してもっていた影響力の強さが示されていた。イギリスの提供した資金の担保には関税収入が充てられることになっており,イギリスはまず収支のとれる路線を提案したと考えられる。これらの点からみて,日本で最初に建設された鉄道もまた,植民地型の鉄道として性格づけられるのである。ただ,日本の場合,政府当事者は,最初の計画段階から東京~京都間の新旧首都連絡線を構想していた。それは中央集権制強化という政治的要請に基づくものであった。この点に,そしてこののちこの幹線にあたる線路の建設が具体化していった点に,日本の鉄道が植民地型以外のタイプの鉄道として発展する要因があったといえよう。
日本の場合はこのようにはやくから自立への方向に進んだが,中国のように,20世紀にかけて鉄道の建設,営業が植民地の利権を構成するという例が多くなった。前に述べた日本の最初の計画も利権がつきまとっていたが,鉄道は20世紀初頭にかけて,植民地化の〈尖兵〉として位置づけられるようになった。すでに獲得した植民地に鉄道を建設するというそれまでの方式から,新たに植民地を獲得するために鉄道建設の権利を求めるという方式への転換である。それは,19世紀末から20世紀初頭にかけて,植民地再分割,すなわち帝国主義の時代の幕あけにおいて,鉄道が利用されるという状況をもたらした。すなわち欧米列強は,植民地支配の強化と並んで,自国の勢力圏拡大のために鉄道利権の拡張をねらっていた。例えば,ドイツ帝国はベルリン,ビザンティウム(イスタンブール),バグダードを結ぶいわゆる三B政策の中核としてのバグダード鉄道の建設によって,イギリスのヨーロッパとアジアとを東西に結ぶ勢力圏に,南北の楔を打ち込むことを意図していた。アフリカでは,1856年エジプトに,66年南アフリカに鉄道が建設されたのち,鉄道利権はヨーロッパ各国の植民地分割の手段とされた。とくにイギリスとドイツとは,ここでも鉄道建設によって勢力圏を拡大しようと互いに争った。
アジアでは,帝政ロシアがシベリア開発と太平洋進出とを目ざして1891年起工したシベリア鉄道の建設中,これから分かれて中国東北部を貫通する東清鉄道の敷設権を獲得し,1902年までにマンチュリー(満洲里)~綏芬河(すいふんが)間約1500kmが完成,03年にはこの線のハルビンから旅順口に至る南部支線約1000kmが完成した。この鉄道はロシアの中国東北侵略の尖兵となった。日露戦争は,このようなロシアの中国東北支配に対する日本の挑戦として展開され,戦後日本は南部支線の長春以南その他の路線を獲得し,南満州鉄道(満鉄)の経営を開始した。ここにおいて鉄道は植民地再分割闘争の焦点となる。しかも中国進出を図るアメリカ合衆国が,日本の獲得したばかりのこの利権に介入し,こののち日米両国の対立が東アジアにおける帝国主義国家間の基本的対立を構成することになった。以上のようにして,第1次大戦前夜の列強の対立は,植民地・従属国の鉄道利権争奪をめぐって激化するという側面をもったのである。
鉄道の社会的役割
すでに〈鉄道狂〉の時代から,鉄道の輸送手段としての役割は,それがきわめて高いものとして認識された。それは,鉄道のもつ輸送手段としての特性,すなわち大量・高速性に加えて,初期の段階で最も恐れられた安全性が保証されることによって常識化した。以後20世紀前半にかけて鉄道の発展は,この三つの特性にのちに快適性を加えた要素をひたむきに追求することによって可能となった。世界の鉄道網は,第1次大戦開始の1914年には総延長110万kmに達した。9000kmを超える前記のシベリア鉄道をはじめ,3500~4000kmに達する何本かのアメリカ大陸横断鉄道などの長距離路線,さらにヨーロッパや北アメリカにおける都市,鉱工業地帯,港湾などでの稠密(ちゆうみつ)な鉄道網が成立し,鉄道は陸上交通機関の中心の座を占めた。
その過程において,鉄道は旧来の交通機関が果たすことのなかった新たな社会的機能をもつに至った。国内における旅客,貨物の輸送能力は,馬,馬車,運河や沿岸航路航行の船舶などに比べてはるかに大きかった。それは移動,輸送の空間的拡大と時間的短縮をもたらした。人々の活動範囲は広がり,社会的交流は促進された。国内の経済活動は活発化し,市場構造は決定的な変化を生み,人々の生活はこの点からも強い影響を受けた。
単に国内だけにとどまらず,ヨーロッパでは,1883年から国際列車の運転が開始された。1872年にG.ナゲルマケールスがベルギーで設立した国際寝台車会社(Wagon-Lit社)は,アメリカ合衆国で各鉄道会社に寝台車を貸していたプルマン社(G.プルマンの経営)の方式を学び,しかも中央通路式のプルマン型と異なるヨーロッパ独自の型式の寝台車を開発していた。この会社が83年10月4日,パリからイスタンブールまでの国際列車(ただしルーマニアのジュルジュ以東は乗換え)の運転を開始した。いわゆるオリエント急行である。当時,イギリスをはじめヨーロッパ各国でブルジョアジーや一部中産階級の間に旅行ブームが起こっていた。1873年にはイギリスの旅行業者T.クックがヨーロッパ大陸の鉄道の時刻表を発刊し,1830年代から刊行されていたドイツ人K.ベデカーの旅行案内書とともに,旅行者にとっての必需品となった。このようなツーリズムの成立は,オリエント急行をはじめとする国際列車の運転とかかわりあっていた。日露戦争後,鉄道国有化を実現した日本では,国有鉄道がシベリア鉄道などと契約して日欧間の連絡運転を実現したが,それは当時グローバルなかたちで成立しつつあった鉄道による国際連絡運転体系に参加することを意味した。
さらに鉄道は,都市における人口の増加とともに,都市および周辺部の交通機関として重要な役割をもつようになった。1830年代に始まった鉄道馬車による路面鉄道(軌道)は,1879年のE.W.vonジーメンスによる電気機関車牽引の列車試運転成功を契機に,81年ベルリン~リヒターフェルデ間の電車の実用化に進み,80年代には欧米各都市に路面電車が普及した。またロンドンでは1863年に地下鉄道が開業し,90年以降電化された。地下鉄道はこののち欧米各都市に普及していったが,他方90年代以降,高架鉄道の電車運転が欧米の都市で開始された。こうして路面電車,地下鉄道および高架鉄道の電車と,電車が都市および周辺部における交通機関の中心となった。ここでも大量,高速,安全の特性が十分に発揮され,とくに20世紀に入って,資本主義の高度化とともに都市の規模が拡大すると,通勤・通学の輸送手段としてその役割はさらに大きなものとなった。
これらの鉄道は,単に輸送の分野においてその社会的役割を果たしただけではなく,鉄道の利用そのものを通じて,利用者の個人的・社会的生活の態様および生活意識に,さまざまなかたちで影響をもたらした。それは前に触れた鉄道の利用による活動範囲の空間的拡大がもたらしたものだけではなかった。鉄道の利用は,運賃および必要に応じた料金の支払いによってその権利が保証される。もちろん等級制による差別はあるが,運賃,料金の支払いという条件を満たせば,いっさいの社会的身分の差別から解放されて,平等な利用の権利が成立する。この点がまず従来の交通機関に比べて徹底していた。そして鉄道の施設やその運営の技術は,利用者のこの権利行使,すなわち旅行と託送荷物,貨物の輸送を安全確実に実施するために成立した。しかも鉄道の利用という体験を通して,人々はみずからの権利実現のあり方を認識させられた。すなわち多くの人々が集まる駅,まったく未知の人々とともに一定の時間を過ごすことになる車内など,それぞれの場所で遭遇するさまざまな状況を通じて,自分が社会の一員であること,自分の鉄道利用の権利がどのような原因によって保証または阻害されるか,を認識するのである。19世紀以降に成立した公共施設(病院,公会堂,学校など)には多かれ少なかれこのような要素があったが,鉄道はそれらの中でも,とくに顕著な機能をもったのである。
現代の鉄道
1920年代から自動車が陸上交通機関に進出しはじめた。鉄道はとくに局地輸送において自動車の脅威を受けはじめた。さらに30年代に入ると,1929年に始まった世界恐慌の影響を受けて,各国の鉄道は輸送量の減退,経営の危機を招いた。そこから徹底的な経営の合理化,私設鉄道の国営ないしは国有化が進んだ。その方向は,当時総力戦体制を目ざしつつあった列強の統制政策ともかかわっていた。このころまでに鉄道技術の進歩は著しく,それは合理的な経営に大いに貢献した。スイスの鉄道がこのころまでに90%を電化し,アメリカで39年から本格的なディーゼル化が実施されたことは,合理化の要求と技術の進歩とが相まってそれを実現させたとみることができる。
第2次大戦にさいして,各国の鉄道は軍事動員に従事し,戦火による被害を受けたものも少なくなかった。それらの中で,日本やドイツでは,侵略戦争の支配地域を中心に,広大な地域にわたる鉄道網を構想した。日本政府が構想し,実行に移した東京~下関間の広軌新幹線(弾丸列車)計画は,関釜トンネルの掘削による東アジア交通体系の形成という構想に連なるものであった。日本政府には,さらに〈防共鉄道〉の名のもとに,ソ連の南側を通ってアジア大陸を横断し,ナチス・ドイツと結ぶ鉄道の建設計画が鉄道関係者から進言されていた。ナチス・ドイツ政府も,42年以降,軌間3mという巨大な鉄道を,ドイツと周辺の地域に建設する計画を立て,その実行に踏み切ろうとしていた。この鉄道は,おもにドイツ軍の脅威のもとにあったソ連のウクライナ地方から莫大な物資をドイツに輸送することを目的としていた。これらの鉄道建設計画は,20世紀初頭以来の帝国主義体制下の鉄道のあり方がそのまま引き継がれたものというべきであろう。
第2次大戦後,自動車の進出はますます著しく,鉄道は大きな脅威の前にさらされた。そのような状況のもとで,社会主義国家にあっては鉄道は貨物輸送に重点がおかれ,国内の経済建設に大きな役割を果たしていった。資本主義国家では自動車,飛行機の進出などにより鉄道の経営悪化が進行した。そのため,線路を撤去する一方,電化,ディーゼル化などの動力の近代化,国際特急列車網をはじめとする高速列車網,能率的な貨物輸送体制の確立が積極的に進められた。さらに大都市における自動車交通の行詰りを打開するための鉄道の建設など,またリニアモーターカーによる超高速鉄道の開発などにより,鉄道の将来には新しい展望が開かれつつある。その中にあって,日本の国鉄は新幹線の実現によって鉄道の将来に一つの方向を示唆したが,政府は極端な経営悪化を理由に分割・民営化の方向を打ち出し,公共性の強化を要請されつつある鉄道の最近の傾向に逆行する危険を含むという反対論は葬られて,1987年4月に分割・民営化が実施された。
日本の鉄道
鉄道の創設期
日本では,幕末に主として外国人により何件かの鉄道建設の計画が立てられたが,そのほとんどは利権獲得を目的にしたもので,江戸~横浜間,大坂~神戸間に集中していた。なかでも,1867年(慶応3)にアメリカ公使館書記官のA.L.C.ポートマンが立てた江戸~横浜間の計画は,いったん幕府により特許されたが,明治新政府はこれを取り消し,69年(明治2),政府みずからが鉄道建設に当たることを決定した。その直接のきっかけは,イギリス公使H.S.パークスが,鉄道は中央集権制の強化に役立つこと,政府みずからが建設に当たることを岩倉具視(大納言)ら政府首脳部に勧めたためであった。政府部内でも開明派の大隈重信(大蔵大輔),伊藤博文(大蔵少輔)が積極的に鉄道建設を推進した。産業革命のあとに鉄道を中心とする交通革命を実現したイギリスとは違って,まだ産業革命以前の段階にあった日本では,鉄道は交通革命の手段としてよりも,封建的割拠の打破,近代化の実物教育という政治的効果をねらって〈上から〉建設されることになったのである。
政府は最初の鉄道建設を新橋~横浜間に決めたが,建設費をまかなう財政的余裕はなく,イギリスで外債100万ポンド(利率9%)を募集し,そのうち30万ポンドを鉄道建設に充てることにした。また,設計,測量,建築をはじめ,すべてイギリス人の指導を仰ぎ,72年,日本最初の鉄道が開通した。さらに74年には大阪~神戸間,77年には大阪~京都間も開通した。しかし,政府の手による鉄道建設は財政難から難航し,78年には内国債1000万円(利率6%)を募集してようやく80年に京都~大津間が開通したものの,計画にあった東京~高崎間の建設は取りやめとなった。政府が再び積極的に鉄道建設に乗り出すのは明治10年代末になってからであり,88年には高崎~直江津間の信越線,89年には,新橋~神戸間の東海道本線が全通した。
政府は日本最初の鉄道をみずから建設したものの,官設主義を確立していたわけではなく,財政難も手伝って私設鉄道の建設を容認するに至った。その結果,1881年には最初の私鉄である日本鉄道会社が華・士族を中心に設立され,83年に上野~熊谷間(1891年に上野~青森間)が開通した。同社の成績は良好で,政府の配当保証も関連して,10%の配当を支払った。その結果,86年から89年にかけて,おりからの企業勃興期のなかで,鉄道会社の設立が相次いだ。この第1次鉄道熱のなかで,北海道炭礦,関西,山陽,九州などの幹線鉄道が建設され,早くも90年度には私鉄の線路延長は国鉄のそれを上回るに至った。さらに日清戦争後の第2次鉄道熱のなかで,主として幹線鉄道から分岐する多数の中小鉄道会社が設立された。
この間,政府は1887年に私設鉄道条例を制定して認可の手続,会社設立の条件などを規定し,92年には国鉄と私鉄とに分かれて進められてきた鉄道建設を軍事上,行政上の観点から全国的な規模で統一するため鉄道敷設法を制定し,以後国鉄として建設すべき路線,私鉄の買収などを規定した。なお,私鉄に鉄道馬車を含めた場合は,日本最初の私鉄は1880年設立の東京馬車鉄道会社(1882年新橋~日本橋間開通)になる。
新橋~横浜間の国鉄(官鉄)の開通以来,全国の鉄道網の形成は本州中部を国鉄(東海道,中央,信越,北陸の各本線),それ以外を私鉄が担当する〈官私併存主義〉で進められたが,1906年,幹線の私鉄の国有化が断行された。この鉄道国有化の背景となったのは,日清・日露の両戦争を通ずる資本主義の急速な発展,とくに商品流通の全国的な拡大であり,具体的には鉄道投資の有利な回収を図ろうとする鉄道資本家(財閥など),みずからの勢力圏の拡大をねらう国鉄官僚,統一的な軍事輸送を必要とする軍部,の3者の要求が一致したことが契機となった。その結果,06年から翌年にかけて主要な私鉄17社が国有化され(買収額は4億5620万円),鉄道全体の90.9%が国鉄となった。政府は07年に帝国鉄道庁,08年には鉄道院を設置して国鉄全体の統一的経営に当たり,直通輸送や運賃の引下げなどを実現した。
植民地の鉄道建設
日本は日清戦争により台湾の領有と朝鮮の支配(1910年併合),そして日露戦争により中国東北(満州)への進出を実現したが,これらの植民地,勢力圏を政治的,軍事的,経済的に支配するうえで,鉄道の建設は最も重要な手段の一つであった。
朝鮮では1894年に京城~仁川間(京仁鉄道),京城~釜山間(京釜鉄道)の鉄道敷設権を獲得し,当初は民間の手で前者は1900年,後者は02年に一部開通をみた。とくに,朝鮮を縦貫する京釜鉄道は,朝鮮を統治するためだけでなく,大陸(満州)へ進出するさいの拠点ともなる鉄道であり,日露開戦が切迫した04年,政府はこれを軍事輸送に利用するため勅令を公布して速成を促し,05年完成をみた。さらに,大陸との連絡線である京城~新義州間の鉄道も民間の手により06年に開通したが,同年,以上の幹線はすべて国有化された。
台湾では清国時代に基隆~新竹間の鉄道が開通していたが,設備が不完全のため,ほとんど運転不能の状態にあった。政府は台湾領有後,全島の治安対策と市場開拓を目的に,これを縦貫鉄道として延長,整備する計画を立て,1899年にみずから工事に着手した。そして日露戦争に際しては軍用に供するため,速成を図り,1906年に基隆~高雄間が一応開通,08年に完成した。その後,産業開発が進むにつれ,縦貫鉄道の輸送量は増え,早くも09年度には6.3%,11年度には9.0%の利益をあげるに至った。
満州では日露戦争後のポーツマス条約により東清鉄道がもっていたハルビン~旅順口間とその支線などの権益をロシアから獲得したのに伴い,1906年,政府が資本金2億円のうち半額を出資する半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立され,08年には大連~長春間の本線ならびに撫順・営口両支線が広軌により開通した。そのための資金は,主として外資導入(外貨社債の発行)によりまかなわれた。満鉄は沿線に広大な付属地をもち,炭鉱,製鉄,電力から港湾,倉庫に至る広範な事業を兼ねる一大コンツェルンであり,軍事的にも経済的にも日本の満州経営の大動脈となった。その意味では単なる鉄道ではなく,イギリスの東インド会社にも比すべき日本の一大植民会社であった。
国鉄の全盛時代
国有化後から大正期を経て昭和初期に至る時期は,国鉄の全盛時代であった。とくに第1次世界大戦を契機とする日本資本主義の飛躍的な発展は,輸送需要の急激的な増大をもたらし,それに対応して路線の建設が相次いだ。すでに1909年には鹿児島本線,11年には中央本線が全通をみたが,21年には根室本線,24年には羽越本線,28年には豊肥本線がそれぞれ全通した。この間,広軌改築論にみられるように拡張よりも改良を優先する主張も強まったが,国鉄の建設は政党間で党利党略に利用され,いわゆる〈我田引鉄〉政策により多数の赤字路線が生み出された。しかし,改良にもかなりの進展がみられ,おもなものとしては電化による電車運転(1909以降),自動信号の採用(1921),自動連結器の一斉取付け(1925)などがあげられる。
国有化後,地方的な路線を担当することになった私鉄の建設を促進するために,1910年に認可の手続などを簡略化した軽便鉄道法,翌11年には軽便鉄道補助法が制定された。これにより地方では農村振興,地域開発を目的に小資本による私鉄の建設が相次ぎ,13年から15年にかけてピークを迎えた。他方,都市への人口の集中,都市の外延的拡大は,都市近郊・都市間(電気)鉄道を中心に私鉄の新たな発展をもたらした。すでに関西では,1907年に南海鉄道(南海電気鉄道の前身)が電化に乗り出し,10年には箕面(みのお)有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)が開業するなど,都市近郊鉄道の発展をリードしていた。関東でも12年に京成電気軌道(京成電鉄の前身),13年には京王電気軌道(京王電鉄の前身)が開業し,そして関東大震災後の24年以降には東武鉄道が電化を開始し,26年には東京横浜電鉄(東京急行電鉄の前身),27年には小田原急行鉄道(小田急電鉄の前身)が開通,また旧西武鉄道が電化新線(西武新宿線の前身)を建設し,さらに33年には帝都電鉄(京王電鉄の前身)が開通した。また,大都市の市内交通機関としては公営,私営の路面電車のほかに地下鉄が発展し,東京では1927年,大阪では33年に営業を開始した。
しかし,以上のような私鉄の発展もけっして順調ではなく,昭和恐慌下の輸送需要の停滞,路線延長や電化に伴う建設費の重圧,そしてバスなどの自動車との競争により経営は苦境に陥り,戦時下にかけて私鉄の間では合併,譲渡が相次ぎ,その件数は1926年から42年までの間に合計218件を数えた。また,43年から45年にかけて,南武鉄道,豊川鉄道など22の私鉄が国有化された。
第2次大戦後の鉄道
第2次大戦中,鉄道は空襲により大きな被害をこうむった。国鉄の場合,駅197ヵ所,機関車など車両1万3239両が焼失,全壊した。私鉄の場合は駅104ヵ所,電車など車両2678両が焼失,全壊した。戦後の鉄道はまず戦災からの復旧,輸送力の復興から始まった。それと同時に,経営形態にも大きな変化が生じた。一つは,国鉄が1949年に,公共企業体として独立採算制による日本国有鉄道に改組されたことであり,いま一つは,占領軍の独占禁止政策の影響のもとに,巨大私鉄の分割が行われたことであった。まず47年には近畿日本鉄道から旧南海鉄道が独立し,48年には東京急行電鉄から京浜急行電鉄,小田急電鉄,京王帝都電鉄(現,京王電鉄)が独立した。さらに49年には,京阪神急行電鉄(現,阪急電鉄)から京阪電気鉄道が独立し,大手14社体制が成立した。
他方,設備の荒廃とも関連して,国鉄,私鉄とも大事故が相次ぎ,なかでも1945年に死者105名を出した国鉄八高線の列車転覆事故,51年に死者106名を出した国鉄桜木町駅構内の電車焼失事故(桜木町事件)は最大のものであった。また,49年には国鉄労働者の人員整理問題のからんだ下山事件,三鷹事件,松川事件が相次いで起こった。
55年に鉄道は旅客輸送の82.1%,貨物輸送の52.9%を占めていたが,〈高度経済成長〉期に急速に進んだモータリゼーション,内航海運,航空輸送の発達により鉄道の比重は大きく低下し,75年には旅客輸送の45.6%,貨物輸送の13.1%を占めるだけとなった。これに対して国鉄,私鉄ともに電化やディーゼル化,スピードアップを図って輸送効率の向上,競争力の強化に努めたが,とくに〈高度成長〉が生み出した過疎地帯では,輸送需要の減少から赤字に転落する路線が続出した。この間に地方の中小私鉄の間では鉄道を廃止してバスに転換するものが相次ぎ,昭和40年代に一部,全部を含めて私鉄の路線廃止は97社,延長1246kmに及んだ。他方,三大都市圏(首都圏,中京圏,京阪神圏)では,モータリゼーションの進行にもかかわらず,旅客輸送に占める鉄道の比重は変わらず,この間に大都市の路面電車がほとんど消滅した一方,地下鉄の建設が大きく進んだ。また,三大都市圏を中心に郊外の宅地開発,観光開発を目的とした私鉄の新線建設(前者では東京急行電鉄の田園都市線,後者では西武鉄道の秩父線など)が活発化した。
〈高度経済成長〉に伴う太平洋ベルト地帯の輸送需要の増大に対応して,国鉄は59年に標準軌による東海道新幹線の建設を開始し(1964年に東京~新大阪間で営業開始),さらに70年の全国新幹線鉄道整備法に基づいて75年には新大阪~博多間の山陽新幹線,82年には大宮~盛岡間の東北新幹線,大宮~新潟間の上越新幹線を完成させた。この間,国鉄は1964年度から赤字に転じ,81年度末に累積債務は16兆円に達した。それまで数回にわたり国鉄の再建計画が立てられたが,〈低成長〉への移行に伴う国家財政の破綻とも関連して,82年には臨時行政調査会が国鉄の分割・民営化を打ち出し,大きな政治問題となった。86年に日本国有鉄道改革関連8法律が成立し,翌87年4月,国鉄は北海道,東日本,東海,西日本,四国,九州の各旅客鉄道会社(JRと略称)などに分割され,114年の歴史を閉じた。
鉄道と文化
鉄道はその生みの親である産業革命と同じく,単に技術革新の一現象であるのみならず,西欧人の精神を大きく揺るがした文化史上の一大変革でもあった。1830年リバプール・マンチェスター鉄道が大成功をかち得ると,それを模倣してイギリス全土に鉄道新線が企画され,多くの民衆が争って鉄道株に投資し,いわゆる〈鉄道狂〉時代が40年代前半に到来したが,その後半には路線の乱立による過当競争の結果,弱小会社は次々に倒産,大会社に併合された。倒産会社に投資した株主は財産を失い,全国的な経済パニックが生まれた。
このような状況から,鉄道に対する一般人の反応は相矛盾するものとならざるをえなかった。封建制を葬り新しい時代を招く力とスピードの象徴として鉄道を礼賛する人(例えばラグビー校校長T.アーノルド)もいたが,反対に〈鉄道狂〉の波に乗って美しい自然環境を破壊する侵入者に抗議する詩を,1844年に書いた桂冠詩人ワーズワースや,経済パニックをまのあたりに見て機関車を恐ろしい怪獣〈死〉として,小説《ドンビー父子》(1848)の中で描いたディケンズもいた。ちょうど20世紀人が原子力に対して抱いたと同じような,希望と不安,魅惑と恐怖,賛美と憎悪が相半ばする複雑な感情が,これらの文学者によって示されているが,それはまさに19世紀人の感情を代弁したものだった。
同じことはイギリス以外の国でもみられる。アメリカでは西部開拓の先頭に立った鉄道に対し,素朴な敬意を表し,機関車の力と躍動美を詩でたたえたホイットマンがいた反面,大陸横断鉄道を大地と庶民の血を吸ってふくれ上がる醜悪な〈タコ〉(F.ノリスの小説(1901)の表題である)にたとえる者もいた。トルストイは《アンナ・カレーニナ》(1875-77)の中で,鉄道を神意の代行者として描いたが,ゾラは《獣人》(1890)において,個人の意志とは無関係に遺伝と環境によってはじめから決定づけられている人間を,破滅に向かって暴走する機関士もいない列車,それにまったく気づかない酔っぱらった乗客として描き,機関車を生物学的決定論の化身として登場させた。
欧米ではこのように鉄道が文化史上の重要な一要素となっているのに反し,日本では事情が異なっている。1872年(明治5)に鉄道を誕生させたとき,すでに欧米では鉄道に対する不安や恐怖が薄らぎ,その安全性と利便がほぼ半世紀の経験によって実証されていたから,日本では鉄道を文明開化の大きな恩恵として批判なく受け入れることができた。そのために鉄道は,専門家や一部のファンのみが関心を払う技術上の体系となり,一般人の精神を直接揺さぶる文化現象とはなりえなかった。さらに日本では幹線鉄道さえも欧米に比べれば軌間も狭く,すべてスケールが小さく,欧米の鉄道のように自然を征服し,破壊する印象を強く与えることなく,自然の地形に無理なく順応する場合が多かった。鉄道が人間や自然の対立者として,一般人に強烈な存在感を与えたこともなかった。だから日本では,ディケンズやゾラやホイットマンのような,鉄道をアクチュアルな社会の象徴として登場させる文学者は生まれようがなかった。《雨,蒸気,スピード》(1844)で汽車を絵画に導入したJ.M.W.ターナー,蒸気機関車の動きを管弦楽曲として《パシフィック231》(1923)で表現したA.オネゲル--なお,〈231〉とは機関車の先輪軸,動輪軸,従輪軸の数を示すフランス風表示法で,英米では〈パシフィック〉型と呼ぶ--,アメリカのペンシルベニア鉄道の電気機関車の形態もデザインした工業デザイナーR.F.ローウィ,映画史に名を残す《鉄路の白薔薇》(1922)の監督A.ガンスのような芸術家が,これまで日本に出なかったのも理由のないことではない。
これに反して独特の旅情をたたえた内田百の《阿房列車》や幻想味豊かな宮沢賢治の《銀河鉄道の夜》のような,日本独自の鉄道文学がこれまで生まれた。しかし,新幹線以後の日本の鉄道建設は,直線によって山を貫き谷を埋める方式,まさに自然を征服し変形する欧米型の原理に基づき,自然環境や人間生活と協調し共存する日本的特色を失ってきた。はたしてこれが鉄道を日本の文化の中に位置づける契機となるか,あるいは逆の傾向をもたらすかは未知であるが,鉄道に対する一般の関心が,これまでのように技術的,専門的なものに偏することはなくなり,より全体的,社会的なものになることはまちがいないであろう。
鉄道の技術
広い意味での鉄道にはモノレールやロープウェーなども含まれるが,一般には2本のレールの上を車両が走行して旅客や貨物を輸送するための設備を総称して鉄道といっており,以下でもこの狭義の鉄道に限定して解説する。鉄道は主として,線路,信号保安設備などの地上設備と,車両により構成され,車両の運転の動力として車両の外部から供給される電気を用いる電気鉄道の場合には,これに電車線路と変電設備などが加わる。これら設備の基準は日本国有鉄道建設規程,新幹線鉄道構造規則や地方鉄道建設規程によって定められている。国鉄では各線区を通過トン数,最高速度などにより線路等級ごとに分類し,軌道構造,線路の曲線半径の最小値,こう配の最大値などを定めるとともに,車両限界と建築限界,車両構造,分岐器の構造,停車場,信号保安設備,電車線路などの基準を細かく規定している。
なお,車両については〈貨車〉〈客車〉〈蒸気機関車〉〈ディーゼルカー〉〈ディーゼル機関車〉〈鉄道車両〉〈電気機関車〉〈電車〉の項目を参照されたい。
線路track,railway line
線路とは,列車または車両を走らせるための通路の総称であり,軌道とこれを支持するために必要な路盤,構造物,電気設備,諸設備を包含している地帯をいうが,狭義には軌道と路盤を線路と称している(図
レールとまくら木
レールは車輪を支えつつ車両に安全で平滑な走行面を与えるとともに,車両荷重を分散して線路の保守管理を容易にする役割をもっているため,十分な強度と安全性をもち,耐摩耗性にすぐれていなければならない。レールの形状,材質については長年にわたる研究,開発が繰り返され,断面形状が双頭型の双頭レールや牛頭型の牛頭レールなど種々の断面形状のものを経て,現在の底部が平らな平底レールに至っている。また製鋼法の発展により材質も錬鉄から鋼に変わり,一般にレール鋼としては0.4~0.8%程度の炭素を含んだ炭素鋼が使用されている。さらに特殊な目的に合わせて強度を増加する場合には熱処理による方法あるいは合金成分の添加による方法などがあり,それぞれ熱処理レール,合金鋼レールとして分類されている。熱処理レールは,日本でも急曲線における耐摩耗用としてかなりの使用実績がある。レールは通常1m当りの重量と形状とにより分類され,JRで規格品として使用されているレールは60kg,50kgT,50kgN,50kgPS,40kgN,37kgおよび30kgレールの7種類であるが,最近では60kgと50kgNレールの使用が基準となっている。
レールとレールの継目は保守上の弱点であり,また騒音発生の大きな原因でもあるため,1本のレールの長さはできるだけ長くしたほうがよいが,製造工程における場所的・技術的制約などから日本では30kgレールが20m,そのほかは25mが標準長となっており,これらを定尺レールと呼んでいる。通常は定尺レールを継目板とボルトで接続しているが,最近では50mの長さのものも製造されており,さらにこれを溶接やガス圧接で継いで長くした長尺レール(25~200m)やロングレール(200m以上)も用いられ,衝撃や騒音の原因となる継目を減少させる傾向にある。新幹線では全線を通じてロングレールが採用されている。
車両は2本のレールによってその直角方向には車輪が落ちないように誘導されて走行するが,この際左右レールの間隔は一定に保たれていなければならない。左右のレールの頭部内側面間の最短距離を軌間といい,軌間1435mmのものを標準軌,それより大きいものを広軌,小さいものを狭軌と称している。広軌は狭軌に比べて車両の走行安定性がよく,高速走行に対しても有利であるが,反面,建設費,運営費が高くなる欠点がある。世界各国の鉄道にはほぼ14種類の軌間があって,その範囲は610mmから1676mmにまで及んでいる。欧米諸国には標準軌が多く,一部には広軌も用いられている。日本では新幹線および私鉄の一部が標準軌,JR在来線および私鉄の大部分は1067mmの狭軌である。
まくら木sleeper(またはtie)は軌間を一定に保つため左右レールを正確に固定するとともに,レールから伝達される列車荷重を広く道床に分布させる役目をもつ。材質的には,木まくら木,コンクリートまくら木,特殊まくら木に分類されるが,日本での敷設本数では,クリ,ヒノキ,ヒバなどの強い木材や防腐処理を施したブナ,マツなどを用いた木まくら木が圧倒的に多い。新幹線およびJR在来の上級線の軌道では耐久性,安全性にすぐれたPC(プレストレストコンクリート)まくら木が用いられている。最近では木材の入手が困難となり,両者の価格差が少なくなってきたことなどからPCまくら木の有利性が増し,敷設本数は増加しつつある。
レールとまくら木の締結には,木まくら木の場合,一般に犬釘(頭部の形状からこの名がある)やねじ釘が用いられ,またレールがまくら木に食い込むのを防ぐためレールとまくら木の間にタイプレートと呼ばれる鉄板が挿入されている。PCまくら木の場合は木まくら木に比べて弾性が低いため,木またはゴムを主成分とした軌道パッドをレールとまくら木の間に挿入するとともに,レール押えばねとボルトで締結している。
道床
道床はまくら木と路盤との間およびまくら木の周囲にある部分で,まくら木を緊密にむらなく支持するとともに車輪からレールやまくら木を経て伝わってくる荷重を広く分散して路盤に伝える役割をもっている。道床材料として砕石,砂利,鉱滓(こうさい)などがあるが,砕石が最も適しており,通常,安山岩,砂岩,花コウ岩などの硬くて弾性に富む岩石の砕石が使用されている。このような道床に砕石などの粒状体を用いた軌道はバラスト軌道と呼ばれ,最も一般的な軌道構造である。ただし列車の走行により軌道に狂いが生じたり,道床が固結して弾性が低下した場合には,つき固めなどにより適正な状態に復元させることが必要である。こうした道床関連作業は保線作業の中に占める比率が最も高く,こうした保守量をできるだけ少なくする目的でいくつかの新しい軌道(通常,省力化軌道と呼ばれる)が開発されている。なかでもコンクリート路盤上に長さ5m,幅2m,厚さ20cm程度の鉄筋コンクリート版(スラブ)を敷き並べ,その上に弾性締結装置を介して直接レールを敷設するスラブ軌道は高速鉄道用軌道として実用化されており,東北,上越新幹線の約90%がこの構造である(図
曲線とこう配
鉄道線路は直線で平たんであるのが理想であるが,一般には地形的な制約などにより曲線やこう配は避けられない。こうした曲線は運転速度の向上や線路保守の難易からいえば大きな半径のものが望ましいが,曲線半径の大小は建設費,改良費などに大きくはね返るため,通常は種々の要因を考慮して経済的に成り立つ範囲で決定される。車両が曲線を通過するときには遠心力が働き,このとき左右レールが同じ高さにあると車両が外側へ転覆する恐れがある。このため外側のレールを高くして遠心力とつり合うようにしてあり,この量をカントcantという。カントが大きすぎると逆に曲線の内側に転覆する可能性が生じてしまうため,カント量は曲線半径および列車の通過速度に応じて決定されている。また車両の車軸は少なくとも2軸が同じ台枠に固定されているため,曲線部において車両がきしまず円滑に通過するためには直線部分より軌間を広げる必要があり,その拡大寸法をスラックslackと呼んでいる。車両が直線区間から曲線区間に入るときには曲線半径が無限大から一定の値に急変し,さらに前述のように曲線部においてはカント,スラックが付してあるため大きな衝撃や動揺を受ける。この衝撃や動揺を緩和するため,直線と曲線との間に曲線半径が無限大から曲線の半径まで逓減していく特別の曲線(緩和曲線)を挿入し,カントおよびスラックもこれに合わせて変化させている。緩和曲線の形状は,一般的には3次放物線が使用されるが,高速列車の走る線路では曲率変化を曲線逓減としたサイン半波長逓減曲線も使用されている。また,線路のこう配が変化する個所では,それが凸形に変化する場合には車両の浮き上がりによる脱線の危険性があり,逆に凹形に変化する場合には車両および軌道に大きな衝撃を与え乗りごこちを悪くするため,これらの影響を緩和する目的でこう配変化点の鉛直面内に大きな半径の曲線を入れて列車の走行を円滑にしている。この曲線を縦曲線といい,放物線か円曲線が使用されている。
分岐器turnout
分岐器とは軌道上の車両を他の軌道に分岐させるため,あるいは他の軌道と交差させるための設備であって,一般に普通分岐器と特殊分岐器に大別される。普通分岐器には直線から分岐する片開き分岐器,両開き分岐器,振分け分岐器,曲線から分岐する内方および外方分岐器があり,特殊分岐器には乗越し分岐器,複分岐器,ダイヤモンドクロッシングなどがある。分岐器の基本型である片開き分岐器はポイント部(転てつ器部),リード部およびクロッシング部(轍叉(てつさ)部)に大別され,クロッシング部はクロッシングとガードで構成されている(図
保線
線路を列車の運転に支障のないよう保守,管理することを保線という。保線作業の種類はきわめて多い。軌間整正,むら直し(レールの高低や左右のレールの高さの修正),通り直し(レールの通りの修正),遊間整正(レール継目部の間隙の調整)などの軌道狂いを補修する軌道補修作業,レール締結装置,まくら木付属品の補修,道床砕石のふるい分けなどの軌道材料補修作業,レール・まくら木・道床などの材料交換作業,そのほか分岐器作業,路盤作業などがあり,除雪作業,除草作業なども保線作業に含まれる。こうした作業は,日常の線路巡回検査および軌道検測車による検査あるいは諸材料の耐用年数などに基づき計画的,能率的に実施されるが,限られた列車間合いの中で行わなければならない。最近では各種の大型機械の導入により機械化が進められてはいるものの,依然として人力への依存度が高いのが実情である。また,新幹線や大都市周辺の電車線区では列車の運行されない夜間に実施されている。
電気運転設備
電気鉄道の利点は鉄道輸送コストの低減にあるといえる。電気運転は他の手段に比較してエネルギー効率が高いために動力費が安価となり,もちろん省エネルギーにも貢献できる。また電気車(電気機関車,電車)は車両保守費が低いとともに,牽引力が大きく加減速が容易であることから運転時間の短縮が可能なため,車両や乗務員運用の効率化が図れる。単なる輸送コストの低減にとどまらず,スピードアップによる輸送サービス向上と列車本数増加による輸送力増強ができ,さらに排気ガスもないことから公害も少なくてすむ利点もある。
電気鉄道における電気の一般的な流れは次のとおりである。すなわち,発電所で発生した交流は送電線,変電所などを経由して電鉄用変電所に入り,次にトロリー線からパンタグラフなどの集電装置を通り電動機を回転させ,レールを通じて電鉄用変電所に戻ってくる。車両に供給する電気は直流の場合と交流の場合とがあり,また車両への電気の供給方法としても一般的には軌道に沿ってその上部に架設したトロリー線(架空電車線,架線ともいう)とパンタグラフという組合せが用いられるが,地下鉄などでは,第三軌条と集電靴という組合せによることもある。これら電鉄用変電所と車両に電気を供給するトロリー線などの地上設備を電気運転設備という。レールには前述のように電鉄変電所へ戻す電気を流す必要があるため,レールどうしの継目にボンドという線条を敷設するが,そのほかには電気鉄道のための特別な設備はない。
直流方式と交流方式
鉄道車両は起動時に大きな力を必要とするために電気車の電動機としては直流電動機が適している。このことから,電気鉄道は当初,直流電化方式から発展した。直流の場合,電鉄用変電所で交流の電気を整流器により直流に変換して電気車に供給しており,その電圧は600Vから3000Vまで各種あるが,日本では1500Vが主流である。一方,交流電化方式の場合は交流の電気を電気車に供給し車両の中で整流して直流電動機を駆動するのが一般的である。電圧は近年25kVが世界的な標準となっているが,6.6~50kVまで各種のものがある。また周波数も商用周波数(50,60Hz)のほか25,162/3Hzなどがある。直流電化方式と交流電化方式を比較すると,地上設備費が比較的高いのが前者で,交流電化の場合は逆に車上設備費が高くなる。
運転用電力は変電所からトロリー線などの電車線路にき(饋)電され,電気車を駆動した後レールなどの帰線を経て変電所に帰ってくるが,この電気回路を電鉄き電回路という。直流き電回路の場合は,トロリー線のみに頼って変電所から電気を送るには電流が大きすぎ,電圧降下が発生し発熱してしまうので,並列にき電線を設けている。またトロリー線の断線とか車両故障などの異常時には即座に停電させき電回路を保護する必要があるので変電所には高速度遮断器を設置しており,さらに地上埋設物への電食防止に留意している。一方,交流の場合には電気車で電圧を変更できるため,電気車への供給電圧を高くでき変電所間隔を長くすることが可能である。ただし,レールに交流が流れるときにレールから大地に電流が漏れると通信誘導障害が生ずるので,漏れ電流を防ぐためレール電流を吸上変圧器によって負き電線に吸い上げるBTき電方式,および単巻変圧器を用いてレール電流をき電電流で相殺するATき電方式が広く採用されている。日本では初期の交流電化はBT方式で,近年はAT方式となっている。新幹線を例にとると,東海道新幹線はBT,山陽,東北,上越新幹線はAT方式である。
変電所の代表設備は特別高圧で受電した電気を適切な電圧に下げる変圧器であり,直流電化の場合は整流器および保護のための遮断器などの機器が加わる。またこれらの機器を制御する装置と同時に無人運転するための遠方制御装置が設けられており,現在では変電所はほとんど無人化され,中央制御所から複数の変電所が一括して制御されている。
電車線路
集電装置を介して電気車に電力を供給する目的で線路に沿って設けられた電線路を電車線路という。架空式,第三軌条式,剛体複線式など各種の方式があるが,一般的なのは架空カテナリー式である(図
なお,直流と交流の電化区間を直通運転するための方法として,地上切換式と車上切換式とがある。地上方式とは接続個所の一部のトロリー線を交直両電源によりき電できるようにし,地上で切り換えるものである。車上方式とは接続個所のトロリー線を無加圧とし,交直両用電気車が惰行で通過中に車上で切換えを行う方式である。
→集電装置
運転方式
列車を運転する本線には,単線,複線などがあるが,いずれの場合であっても,人間の注意力のみで列車を運転することは危険である。このため,列車の運転に際してなんらかのルールを定めておく必要があり,一つの列車にある一定の区域を占有させることによってその列車の運転の安全を確保しているのがふつうである。この一定の区域を閉塞区間といい,一つの閉塞区間を一つの列車に占有させる方式を閉塞方式,このために使用する装置を閉塞装置という。
閉塞についての基本的な考え方には,時間間隔法と距離間隔法(空間間隔法とも呼ばれる)の二つがある。時間間隔法は,先行列車と後続列車との間に一定の時間をおいて運転する方法であるが,先行列車がなんらかの原因により運転途中で遅れた場合は危険が大きく,高速,高密度の線区で適用することは困難である。これに対して,距離間隔法は,先行列車と後続列車との間に一定の間隔をおいて運転する方法であり,先行列車がある定められた区間を通過し,その区間外に進出した後でなければその区間に後続列車を進入させない。この方法によれば,ある一定の区間に列車がいる間は,その区間に他の列車の進入を許さないので,一定区間内を同時に二つの列車が運転されることはありえず,したがって安全性も高く,現在使用されている各種の閉塞方式の基本的な考え方となっている。
複線区間の閉塞方式
複線区間では自動閉塞式が使用され,新幹線および山手線などの一部の通勤電車区間では速度制御式(民営鉄道では車内信号閉塞式と呼ばれる)が使用されている。自動閉塞式は,停車場構内,構外を含む列車の運転線路をいくつかの閉塞区間に分割し,このすべての区間に列車の有無を検知する装置(一般に軌道回路)を設備し,これによってそれぞれの区間の閉塞が列車自体によって自動的に行われるものであり,閉塞区間の境界には,場内,出発または閉塞信号機が設置されている。
速度制御式は原理的に自動閉塞式と同じであるが,場内信号機などの地上信号機を用いず,列車の運転台にその区間の運転条件を車内信号として表示し,またその指示速度以下の運転となるよう自動的に減速あるいは停止させる装置を備えたものである。
単線区間の閉塞方式
単線区間における閉塞方式には現在8種類の方式があるが,自動閉塞式への改良が進められている。以下に代表的なものを示す。
(1)自動閉塞式 複線区間の自動閉塞式と同様のものであるが,停車場間では対向となる列車を同時に運転することはできないため,隣接する停車場に1対の方向てこが設けられ,これを上りまた下り方に取り扱うことによって運転方向が設定される。これには通常の自動閉塞式のほかに,停車場間を1閉塞区間とした自動閉塞式(特殊)および停車場の近傍に設けた短い検知軌道回路により列車の進入,進出を検知することによって中間の軌道回路を省略した特殊自動閉塞式とがある。
(2)連動閉塞式 非自動の閉塞方式の一種で,停車場間に軌道回路を設け,これにより停車場間の列車の有無を検知して隣接する両端の駅長が閉塞てこの取扱いを行う。現在では少なくなっている。
(3)通票閉塞式 非自動の閉塞方式の代表的なもので,隣接する停車場間に1対の通票閉塞機を設置し,両駅長が共同して取り扱うことによって一方の閉塞機から1個の通票を取り出し,これを列車の乗務員に手渡すことによりその区間の運転を許可し,1区間1列車の原則を守るものである。通票には4種類あり,隣接する駅間では異なったものが設置されている。
運転保安設備
列車を安全,正確に運転するためには,軌道や電車線などの構造物や車両のほかに,とくに安全を確保するための運転保安設備が必要となる。この運転保安設備には,列車の運転間隔を確保するための閉塞装置・信号装置,停車場における進路を確保するための連動装置,また災害などの場合の運転線路の異常を検知し列車を防護するための各種警報装置などがあり,さらには,信号装置などの地上設備と列車とを有機的に結びつけ列車運転の安全を図るATS,ATC,ATOなどがある。これらに加えて,近代化設備としてのCTC,さらにはARC,PRCなどがあり,これらも広い意味で保安設備の範疇に入れられている。
ATS,ATC,ATO
列車運転の安全を確保するための保安設備は,従来から個々に改良が行われ,機械の果たす分野が徐々に拡大されてきた。例えば,腕木式信号機から色灯式信号機となり,これが自動閉塞装置と結びついて,自動信号システムとして安全性,迅速性の向上が図られてきた。また,列車の運転においては,地上の運転条件を指示する信号の現示とこれに適する乗務員の運転操作が完全に結合してはじめてその安全が確保されることとなるが,この信号現示の認識およびこれに基づく判断と操作は,ときとして自然の悪条件または人間自身の生理的悪条件によって不完全なものとなることがあり,これが事故として現れる。このような部分を補いまたは機械化するものとしてATSなどが開発,導入されてきている。
ATS(automatic train stopの略)は自動列車停止装置とも呼ばれ,列車が停止信号を現示する信号機の手前一定の地点に接近し,そこで乗務員が所定の運転操作を行わなかった場合に自動的に非常ブレーキが作動し,停止信号が現示された信号機を越えない範囲に列車を停止させる装置である。このATSは,地上装置とその情報を受信しブレーキ制御を行う車上装置とで構成され,一般的には,信号機の手前一定の地点に設けられた地上子によって車上装置に情報を伝達する点制御である。各種の速度制限に対応するなどのきめ細い制御はできないが,ATSの整備によって,列車運転にとって最も危険性の大きい停止信号の無視に起因する事故は大幅に減少している。
ATC(automatic train controlの略)は自動列車制御装置ともいい,先行列車との間隔および進路の条件に応じて,列車の運転速度を自動的に指示された速度まで減速(または停止)させる装置である。ATSが停止信号に対してのみ動作し,非常ブレーキで停止させるものであるのに対して,列車の運転間隔を保つために地上の運転条件に応じて必要な速度まで常用ブレーキにより自動的に減速し,またブレーキを緩める機能をもつ。ATCの情報伝達には一般的に高周波電流の軌道回路が使用され,連続的な制御が行われる。以上のような機能をもっているシステムであることから,この方式は自動閉塞装置と同様に基本の保安設備として使用でき,かつ速度制御を行うことができることから速度制御式とも呼ばれる。この場合,信号は車内信号として運転台に表示される。なお,自動閉塞装置に付設して使用される場合もあり,この場合,ATSと同様に取扱いを誤ったときにブレーキが動作するしくみとなっている。
一方,ATO(automatic train operationの略。自動列車運転装置ともいう)は,速度制御式として使用されたATCに,さらに出発時の加速制御,定速度運転制御,到着時の所定位置への停止制御などの機能が付加されたものであり,あくまでATCが基本設備となっている。
CTCなど
駅長と乗務員を主体として行っていた列車の運転を,列車指令員と乗務員を主体とするシステムとして,指令員が直接線区全体の運転管理を迅速,的確に行うことができるように,最近新幹線をはじめ多くの線区にCTCが導入されている。CTCはcentralized traffic controlの頭文字をとったもので,列車集中制御装置ともいい,線区内の列車運転状況を制御所(指令室)に集中して表示し,迅速,的確な指令業務を可能とするとともに,各停車場の進路制御についても制御所から遠隔操作できるようにしたものである。このようなCTCの導入によって,線区全体の列車運転管理を一元的に行うことができるため,列車ダイヤの混乱時にも迅速な指令業務が可能となり,さらに各駅の運転取扱業務が集約され,省力化が可能となっている。CTCを設備した線区では,進路制御のような機械的な単純業務は,自動化することが制御ミスを防ぎ省力化にもなることから,ARC(automatic route controlの略。自動進路制御装置)やPRC(programed route controlの略。プログラム進路制御装置)などが付加されている。
→CTC →新幹線 →地下鉄道 →鉄道信号