NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
サンプルページ一覧
オンライン辞書・事典サービス「ジャパンナレッジ」に掲載されているコンテンツの項目本文のサンプル一覧です。
※更新等により実際の内容と一部異なる場合があります。
ジャパンナレッジは日本最大級のオンライン辞書・事典サービスです。
「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。

平曲(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『平家物語』の詞章を琵琶の伴奏で弾き語りする語物の一種。「平家琵琶」「平語」ともいう。室町時代まで盲人演奏家によって伝承され、江戸時代以降は晴眼者で演奏する者も現れた。 [シルヴァン・ギニアール]歴史と流派。13世紀初めに雅楽・声明・盲僧琵琶の三者を源流として成立。
北村季吟(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸前期の国学者、俳人、歌人。通称久助。別号は芦庵、拾穂軒、湖月亭など。近江国(滋賀県)野洲郡(現、野洲市)の人で、医師北村宗円の長男として寛永元年12月11日に生まれる。若くして上京し、初め俳諧を安原貞室(1610―1673)に師事し、ついで貞室の師松永貞徳に従って
清少納言(日本大百科全書・新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
生没年未詳。平安時代中期の歌人、随筆家。966年(康保3)のころ生まれて1025年(万寿2)のころ没したと推測されている。父は歌人清原元輔であるが、母は明らかでない。966年に元輔は59歳であり、年齢に差のある異腹の兄姉、雅楽頭為成
一条天皇(国史大辞典)
九八〇-一〇一一。九八六―一〇一一在位。天元三年(九八〇)六月一日、円融天皇の第一皇子として誕生。母は藤原兼家の女の女御詮子(のちの東三条院)。諱は懐仁。永観二年(九八四)八月、従兄にあたる花山天皇の東宮に立った。時に五歳。
大伴家持(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『万葉集』末期の代表歌人、官人。旅人の子。少年時の727年(神亀4)ごろ父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)帰京。737年ごろ内舎人。745年(天平17)従五位下。翌3月宮内少輔。7月越中守として赴任した。751年(天平勝宝3)少納言となって帰京。
万葉仮名(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
日本語を表記するために、漢字の字音や字訓を利用して表音的に用いたもの。用法の上からは仮名の一種であって漢字本来の表意的な使い方とは異なるが、文字の形としては漢字であり、漢字を省画化した片仮名や略草化した平仮名とは異なる。奈良時代以前
額田王(改訂新版・世界大百科事典)
《万葉集》第1期(舒明朝~壬申の乱)の女流歌人。生没年不詳。《日本書紀》天武天皇条に,鏡王の娘で,はじめ大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁して十市皇女を生んだとあるほかは,伝もつまびらかでない。父の鏡王に関しても不明。出生地についても大和国,近江国の2説あるが,どちらとも決定しがたい。
柿本人麻呂(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689-700年(持統3-文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。
孝徳天皇(改訂新版・世界大百科事典)
第36代に数えられる天皇。在位645-654年。名は軽皇子。皇極女帝の同母弟で,父は舒明天皇の弟の茅渟王,母は欽明天皇の孫の吉備姫王。《日本書紀》や《大織冠伝》には,中臣鎌足が皇室中の人材を求めて天皇に接近し,天皇がこれを厚く待遇した話がみえるが,《上宮聖徳太子伝補闕記》によれば
南禅寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山。正式には瑞竜山大平興国南禅禅寺といい、京都五山の首位にたつ禅寺である。1291年(正応4)亀山上皇が離宮を改めて建てた寺で、初め竜安山禅林禅寺と称していたが、南禅寺とするにあたって東福寺開山円爾弁円の法を継いだ無関普門(仏心禅師、大明国師)を招いて開山とした。
比例代表制(日本大百科全書(ニッポニカ))
各党派の得票数に比例した数の議員が選出される可能性を保障する選挙方法。18世紀後半のフランスにおいて、数学者のJ・C・ボルダやコンドルセらによって、それまで用いられていた多数代表制の批判と確率計算法に基づく新選挙法の提案がなされた。
公職選挙法(日本大百科全書(ニッポニカ))
公職選挙法 こうしょくせんきょほう 衆議院議員、参議院議員、地方公共団体の首長、地方議会議員の四つの公職について定数や選挙方法などを定めた法律(昭和25年法律第100号)。衆議院議員選挙法や地方自治法などでばらばらであった選挙法制を、憲法の理念に基づき
伏見稲荷大社(日本歴史地名大系・改訂新版 世界大百科事典)
稲荷山の西麓に鎮座。式内社で「延喜式」神名帳の紀伊郡に「稲荷神三社 並名神、大、月次、新嘗」とみえ、旧官幣大社である。祭神は古くから種々の説があるが、現在は宇迦之御魂大神(中央・下社)、佐田彦大神(北座・中社)、大宮能売大神(南座・上社)であり
鹿苑寺(金閣寺)(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市北区金閣寺町にある寺。金閣寺と称し、銀閣寺(慈照寺)とともに一般に広く知られている。北山と号し、臨済宗相国寺派に属する。本尊は聖観世音菩薩。もとこの地には西園寺家の山荘北山殿があったが、1397年(応永4)足利3代将軍義満がこれを譲り受け
出雲大社(改訂新版・世界大百科事典)
島根県出雲市の旧大社町に鎮座。大国主神をまつる。《延喜式》では名神大社。旧官幣大社。杵築大社,杵築社,杵築宮ともいう。古代の出雲では熊野,杵築,佐太,能義の各社が〈大神〉とされていたが,中でも,出雲国造の本拠地である意宇平野の熊野大社と簸川平野の北西の杵築大社とが,厚い尊信をうけていた。
三十三間堂(蓮華王院)(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市東山区三十三間堂廻り町にある蓮華王院の本堂。本尊は千手観音。蓮華王院は天台宗に属し、天台三門跡の一つである妙法院が管理する。南北に125メートルある御堂内の柱の間数が33あることに由来してこの名がある。1164年(長寛2)後白河院の勅願を受けて平清盛が建立、平家滅亡後も後白河院は多くの保護を加え
平城宮(日本大百科全書(ニッポニカ))
710年(和銅3)から784年(延暦3)の首都平城京の中枢部分をいう。元明(げんめい)~桓武(かんむ)天皇の7代にわたる宮である。平城京の北端に位置し、一辺1キロメートルの正方形の東に張り出し部分があり、面積は合計124ヘクタールを占める。大正年間より遺跡保存がはかられ、現在国の特別史跡として
チベット問題(日本大百科全書(ニッポニカ))
チベット仏教にもとづく、政教一致の文化をもつチベット人が中国からの独立ないし高度な自治を求めていることから生じている紛争、および諸問題。近来、当局に抵抗する僧侶の焼身自殺が頻発し、チベットでの宗教や自由への圧迫が人権問題だとして国際問題化している。宗教指導者ダライ・ラマ14世は
南シナ海問題(日本大百科全書(ニッポニカ))
南シナ海における、中国と東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))の沿岸諸国による島礁(島・岩・低潮高地・暗礁・砂州・堆のすべてを含む表現)の領有権や資源開発をめぐる利害対立のこと。現場海域が東西貿易のための海上交通路の要衝であることから生ずる域外諸国の安全保障問題も含まれる。
新疆ウイグル問題(日本大百科全書(ニッポニカ))
中国の新疆ウイグル自治区を中心としたウイグル人の独立運動をめぐる問題。問題の背景 約960万平方キロメートルの巨大な領域をもつ中国の一つの大きな悩みは、主体文化、主体民族とは違う勢力によって国家の統合が脅かされるという「懸念」や「恐れ」である。「大一統」(大きく一つに統(す)べる)
大統領制(日本大百科全書・世界大百科事典)
広義には、大統領を元首とする統治形態をいう。狭義には、厳格な三権分立制をとるアメリカの統治形態をいう。アメリカ、第五共和政後のフランス、ワイマール共和国時代のドイツ、インドネシア、韓国(大韓民国)などの大統領のように、その権限の強い
唐招提寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良市五条町にある律宗総本山。本尊は盧舎那仏。756年(天平勝宝8)、聖武・孝謙両上皇の勅願により来朝した唐僧過海大師鑑真和上が新田部親王の旧宅を譲り受けて建立した寺で、戒壇を設け律宗の根本道場とした。初めは唐律招提寺、唐寺、律寺などと称され、延喜式十五大寺、南都七大寺の一つに数えられた。
薬師寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山。西京寺、瑠璃宮薬師寺ともいう。南都七大寺の一つ。本尊は薬師三尊。680年(天武天皇9)天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して一寺の建立を発願したが、天皇が崩御したため持統天皇、文武天皇が698年(文武天皇2)藤原京に完成した。
厳島神社(改訂新版・世界大百科事典)
広島湾南西部に浮かぶ厳島(広島県廿日市市,旧宮島町)に鎮座。市杵島姫命,田心姫命,湍津姫命をまつる。旧官幣中社。祭神〈伊都岐島神〉は,811年(弘仁2)名神に列し四時幣に預かり,神階は867年(貞観9)従四位上に昇叙。《延喜式》で名神大社に列し,のち安芸国の一宮となる。平安時代末
天竜寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町にある臨済宗天竜寺派の大本山。霊亀山天竜資聖禅寺と号する。本尊は釈迦如来。京都五山の第一。1339年(延元4・暦応2)、後醍醐天皇が吉野行宮で崩御するや、足利尊氏・直義の兄弟が夢窓疎石の勧めによって、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建した寺であり
第二次世界大戦(日本大百科全書・国史大辞典・日本国語大辞典)
第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。この戦争に先だつ第一次世界大戦は、ヨーロッパを舞台とし、1914年8月、ヨーロッパ諸国がイギリス・フランス・ロシアの
第一次世界大戦(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
第一次世界大戦(以下、大戦と略記する)は、1914年から1918年まで、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場として戦われた戦争である。主要な強国のほとんどすべてを巻き込んでおよそ4年半の長期間に及び、しかも複雑多岐にわたる問題を当初からはらんで行われた戦争の性格を考えて、本項では、以下の構成をとった。
ナチス(日本大百科全書・世界大百科事典)
国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiの通称。略称はNSDAP。ナチNazi(単数および形容詞)またはナチス(複数)は、ドイツの政敵や欧米の反ヒトラー派がこの党に与えた卑称である。日本では公式の略称としては単数、複数を問わずナチスとよんでいた。
日米交渉(国史大辞典)
日米戦争の回避または延引を目的とした、真珠湾攻撃前約一年間にわたる非公式外交工作および開戦外交交渉。その背景にはヨーロッパからアジア・太平洋地域に伸展した第二次世界大戦に対する日米双方の政・戦略的駆引きが窺われる。なお日本側ではこの日米国交調整工作・交渉をN工作または日米交渉と称し
太平洋戦争(日本大百科全書・国史大辞典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃、日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、1945年9月2日、日本の降伏文書調印によって終わった戦争。日本の指導者層は大東亜戦争と呼称した。1931年(昭和6)の満州事変に始まる日中十五年戦争の発展であり、日中戦争を重要な一部として含む。
18歳選挙権(日本大百科全書(ニッポニカ))
満20歳以上が行使できる日本国民の選挙権を満18歳以上とすること。また、その選挙権。2015年(平成27)6月、選挙に参加することのできる有権者の年齢を満20歳から満18歳に引き下げるとともに、選挙犯罪などに関する少年法などに特例を設けて成人同様に処罰することを内容とする、公職選挙法等の一部を改正する法律が成立した
マニフェスト(日本大百科全書(ニッポニカ))
政権公約。選挙公約集。選挙の際に政党や候補者などが示す政策綱領のこと。従来の選挙公約が具体性を欠く抽象的なものであったことから、従来型の選挙公約と区別して、政策の目標数値・達成期限・財源・工程などが具体的に明示された選挙公約をいう。英語のmanifestoは、もともと君主、政府、政党、団体などの宣言、声明(書)を意味
端午(改訂新版・世界大百科事典)
中国にはじまり,朝鮮,日本でも行われる旧暦5月5日の節供。中国 蒲節,端節,浴蘭節などともいう。〈端〉は〈初〉の意味で,元来は月の最初の午の日をいった。十二支の寅を正月とする夏暦では,5月は午の月にあたり,〈午〉が〈五〉に通じることや陽数の重なりを重んじたことなどから,3世紀,魏・晋以後
重陽(世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
9月9日の節供。陽数(奇数)の極である9が月と日に重なることからいい,重九(ちようきゆう)ともいう。中国行事の渡来したもので,邪気を避け,寒さに向かっての無病息災,防寒の意味もあった。菊花宴ともいい,685年(天武14)を起源とするが,嵯峨天皇のときには,神泉苑に文人を召して詩を作り,宴が行われていることが見え
七草(世界大百科事典・日本国語大辞典・日本大百科全書・国史大辞典)
七種とも書き,春の七草と秋の七草がある。春の七草〈せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけのざ,すずな,すずしろ,これや七草〉とうたわれたように,これらを春の七草と称し,この,ごぎょうはハハコグサ,はこべらはハコベ,ほとけのざはタビラコ,すずなはカブ,すずしろは大根とされる
雑節(改訂新版・世界大百科事典)
現在,国立学校設置法4条1項により,暦書編製を行うことになっている東京天文台では,毎年2月1日付の官報に翌年の暦象要項を発表している。その雑節の項には四季の土用,節分,春秋の彼岸,八十八夜,入梅,半夏生,二百十日の日付が記載されている。
彼岸(改訂新版・世界大百科事典)
春分・秋分を中日として,その前後おのおの3日にわたる1週間を〈お彼岸〉と称し,この期間に寺院では彼岸会という法会を行い,信者は寺に参詣し,説法を聴聞,また墓参などをする。このような習俗はインド,中国にもみられず,日本にしかない。彼岸の語はふつうサンスクリットpāramitā(波羅蜜多)の訳〈到彼岸〉の略とされ
社日(改訂新版・世界大百科事典)
中国において社(土地神)を祭る祝日をいう。一般に春秋2回行われるが,その日は時代によって異なる。唐代には,立春(立秋)後,第5番目の戊(つちのえ)の日である。村人たちはみな仕事を休んで叢林中の祠に集まり,酒肉をそなえた後,その供え物で飲み食いし,一日を楽しんだ。神楽(かぐら)も盛んに奏された。
八十八夜(改訂新版・世界大百科事典)
立春から数えて88日目をいう。太陽暦では5月2日ごろ。〈八十八夜の別れ霜〉などといわれ,この日を目安にして田の苗代を作ったり,畑作物の種まきや野菜の移植をするという所は多い。茶摘みの適期でもある。また漁の目安とする所もあり,瀬戸内では俗に魚島時(うおじまどき)といわれるほど豊漁のつづくころといわれるし
入梅(日本大百科全書・日本国語大辞典・国史大辞典)
雑節の一つ。梅雨の時期に入る日をいい、暦にはその日を記す。旧暦時代には五月節芒種(ぼうしゅ)に入って第一の壬(みずのえ)の日を入梅とする説を用いた。現行暦では太陽の視黄経が80度に達した日をもって入梅とし、太陽暦の6月11日ごろにあたる。この日から梅雨が始まるわけではなく、およそこのころから雨期に入ることを
半夏生(改訂新版・世界大百科事典)
雑節の一つ。夏至から11日目で,太陽暦では7月2日ごろ。このころ〈半夏〉(カラスビシャク)という名の毒草が生えるのでこの名が生まれたという。全国的に農繁期の一応の終了期とされている。ハンゲハンゲなどの語呂合せで〈半夏半毛〉〈半夏半作〉などといい,この日までに田植を終わらないと秋の実りが遅れて
二百十日(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
暦の雑節の一つ。立春から数えて210日目の日。太陽暦の9月1日ごろにあたる。古来、台風襲来の時期でイネの開花期にあたり、農家の厄日として注意を促すため暦に記載される。渋川春海(しぶかわはるみ)が漁夫からこのことを聞いて1686年(貞享3)の暦から記載するようになったといわれているが
国民の祝日(日本大百科全書(ニッポニカ))
国で定めた国民の祝いの日で、休日となる。1948年(昭和23)7月20日施行の「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律178号)によって、9日の祝日(休日)が定められた。すなわち、元日(1月1日)、成人の日(1月15日)、春分の日(春分日)、天皇誕生日(4月29日、現在は12月23日)、憲法記念日(5月3日)、こどもの日
成人の日(日本大百科全書・平成ニッポン生活便利帳)
1月の第2月曜日。「おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」趣旨の国民の祝日。1948年(昭和23)制定。従来は1月15日であったが、2000年から1月の第2月曜日となる。社会成員の認知を受ける通過儀礼ともいえる。
春分の日(日本大百科全書(ニッポニカ))
「自然をたたえ、生物をいつくしむ」趣旨の国民の祝日。毎年3月21日ごろ。太陽が黄経0度の春分点を通過する日で、真東から出、真西に沈む。昼夜の時間がほぼ等しく、二十四節気の一つ。春の彼岸(ひがん)の中日にもあたる。
聖武天皇始造元興寺語第十五(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
所はかわったが寺名を山階寺というのである。また興福寺(こうぶくじ)というのはこの寺のことであるということだ。十五 今は昔、元明天皇(げんみようてんのう)が奈良の都飛鳥(あすか)の郷(さと)に元興寺(がんごうじ)を建立なさった。堂や塔をお建てになり、金堂(こんどう)には□丈の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の像を安置(あんじ)なさる。
聖武天皇始造東大寺語第十三(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
の御もとに届けられた。その時はじめて、あの香水をとって持ってきた僧は、「和尚が香水をまかれたのはこのことだったのだ」と気がつき驚いて、他の僧たちにこの話をして和尚を尊んだのであった。「ここにおいでになりながら、宋のことが暗(そら)におわかりになるとは、和尚さまはまことに仏の化身でいらっしゃるにちがいない」と言って
鑑真和尚従震旦渡朝戒律語第八(今昔物語)(新編 日本古典文学全集)
途中、一人の老翁に出会った。その翁が菩提に、「文殊は日本国の衆生(しゆじよう)を済度(さいど)するために、その国に誕生なさいましたよ」と告げた。菩提はこれをお聞きになり、素志(そし)を遂げようと思い、この国に渡来なさったのである。その文殊がこの国に誕生されたというのは、行基菩薩その方である。
蓬生(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏謫居(たつきよ)の間、人々ひそかに嘆き悲しむ〔一〕 源氏の君が、須磨の浦で「藻塩(もしお)たれつつ」悲境に沈んでいらっしゃったころ、都でも、さまざまに嘆き悲しんでおられる人が多かったが、それにしても、ご自分の身に頼りどころのある方々は、ただ君を恋い慕うという点では堪えがたそうな有様であったが――二条院の紫の上などもお暮しにご不自由がないので
須磨(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、須磨に退去を決意 人々との別れ〔一〕 世の中の形勢が、源氏の君にとってまことにわずらわしく、居心地のわるいことばかり多くなってゆくので、自分としては、しいて素知らぬ顔でやり過していても、あるいはこれ以上に恐ろしい事態になるかもしれない、という思いになられた。 あの須磨は、昔こそ人の住いなどもあったのだったが、今はまったく人里離れてもの寂しく
花散里(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕源氏、五月雨の晴れ間に花散里を訪れる〔一〕 人に知られぬ、我から求めての御物思わしさは、いつと限らぬことのようであるけれど、このように世間一般の動きにつけてまで厄介で、お心を労されることばかり増してゆくので、源氏の君はなんとなく心細く、世の中のすべてを厭(いと)わしく思わずにはいらっしゃれなくなるが、いざそれではとなるとさすがに振り捨てかねる絆(きずな)も多いのである。
賢木(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕桐壺帝譲位後の源氏と藤壺の宮〔一〕 御代が改まってから後、源氏の君は、何かにつけてお気が進まず、それにご身分の尊さも加わったせいか、軽率なお忍び歩きもはばかられるので、こちらの女(ひと)もあちらの女(ひと)も君を待ち遠しく心もとない嘆きを重ねておられる、その報いであろうか、君ご自身としても、やはり自分につれないお方のお心をどこまでも恨めしくお嘆きになっていらっしゃる。
葵(源氏物語)(新編 日本古典文学全集)
〔一〕桐壺帝譲位後の源氏と藤壺の宮〔一〕 御代が改まってから後、源氏の君は、何かにつけてお気が進まず、それにご身分の尊さも加わったせいか、軽率なお忍び歩きもはばかられるので、こちらの女(ひと)もあちらの女(ひと)も君を待ち遠しく心もとない嘆きを重ねておられる、その報いであろうか、君ご自身としても、やはり自分につれないお方のお心をどこまでも恨めしくお嘆きになっていらっしゃる。
ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題のオンライン辞書・事典・叢書サービス。
日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
利用料金・収録辞事典・会員登録はこちら