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「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。
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浜松市(静岡県)(日本歴史地名大系)
面積:二五六・七四平方キロ 県西部、遠州灘に面する。東は天竜川を挟み磐田郡竜洋町・豊田町、磐田市、北は浜北市、引佐郡引佐町・細江町、西は浜名郡雄踏町・舞阪町に接するほか、浜名湖に面する。市域西部から北部には洪積台地の三方原台地が広がる。南部は遠州灘に臨む海岸平野で
国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面
大東町(静岡県小笠郡)(日本歴史地名大系)
面積:四五・九九平方キロ 小笠郡の西部にあり、南は遠州灘に面し、北は掛川市・袋井市、西は大須賀町、北東は菊川町、東は小笠町・浜岡町に接する。町の北西は小笠山丘陵、北東は牧之原台地丘陵部の一部から構成され、海岸部は天竜川の運んだ砂が堆積して砂丘地帯を形成している。
中京区(京都市)(日本歴史地名大系)
面積:一二三・三二平方キロ 京都市の中央部に位置し、北は丸太町通北及び二条城北側を回って千本通西側を境として上京区に接し、東は鴨川を境に東山区及び左京区に、南は四条通北及び大宮通以西では松原通を境に下京区に、西は北側が西小路通西、南側が西大路通東を境に右京区に接する。
今川氏真(国史大辞典・日本大百科全書)
一五三八-一六一四 戦国時代の武将。上総介。天文七年(一五三八)義元の子として生まれる。母は武田信虎の女。永禄元年(一五五八)すでに駿河にその発給文書がみられ、国務の一部を委ねられていたが、同三年父義元の討死により家督を相続した。しかし氏真にとって、桶狭間の敗戦の打撃は
井伊直政(改訂新版・世界大百科事典)
徳川家康の重臣。幼名万千代。兵部少輔。遠江の名族井伊氏の嫡子として井伊谷に生まれる。父直親の不慮の死のあと流浪し,1575年(天正3)15歳のとき浜松城下で家康の目に留まり取り立てられた。82年弱冠22歳で旗本一手役の長となった。この部署には三河譜代の本多忠勝,榊原康政がおり
沖ノ島祭祀遺跡(日本歴史地名大系)
[現]大島村沖之島 沖ノ島の南部に宗像大社三宮のうち沖津宮がある。沖津宮背後の谷部に山頂などから崩落してきた巨岩が多数あり、そこを中心に祭祀遺跡が形成されている。四世紀後半から九世紀代までの約四〇〇年にわたり国家的な祭祀が行われた。
潜伏キリシタン(国史大辞典)
江戸幕府がキリスト教禁止令を出した慶長十八年(一六一三)から信仰を表明して復活した慶応元年(一八六五)までの約二百五十年間にわたり禁圧・迫害のため潜伏を余儀なくされたキリスト教信徒。宣教師の国外追放後も日本に残留潜伏した一部パードレ、イルマン
縄文時代(国史大辞典)
弥生時代以前の日本列島で土器が出現し使用された時代全体を縄文時代とする広義の見解と、その編年区分のうち最古の細隆線文土器・爪形文土器などが作られ使用された草創期は縄文土器文化以前の土器文化と考え、これを晩期旧石器時代・更新世最終末とする見解とがある。
弥生時代(国史大辞典)
弥生時代は、一般的には、狩猟採集社会である縄文時代に次ぐ時代、つまり水稲農耕が始まり、金属器をもつようになってから、古墳を標識とする古墳時代に入るまでの間とされている。弥生時代は、前期・中期・後期、または第I~V期に区分されている。かつてこの前期・中期・後期という区分に
古墳時代(国史大辞典)
弥生時代につづいた一時代について、その文化の代表的徴証である古墳の名を冠した時代区分の名称。古墳は三世紀終末あるいは四世紀の初頭に発達し、飛鳥時代はもとより奈良時代あるいは平安時代の一部にも存続したが、一応飛鳥時代などすでに確立されている時代区分と区別し
飛鳥時代(世界大百科事典・国史大辞典)
政権の所在地による日本史の時代区分法によって,推古天皇が豊浦宮で即位した592年から,710年(和銅3)の平城京遷都までの100余年間をいう。この間,孝徳朝に難波宮,天智朝に近江大津宮へ短期間都が移った以外,推古朝の豊浦宮・小墾田宮(おはりだのみや)
奈良時代(世界大百科事典)
政権の所在地による日本史の時代区分法によって,710年(和銅3)に平城京へ遷都してから784年(延暦3)に長岡京に遷都するまで,元明,元正,聖武,孝謙,淳仁,称徳(孝謙重祚),光仁の7代の天皇の治世70余年間をいい,ほぼ8世紀の大半がこの時代に相当
日本霊異記(日本古典文学全集・世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典・全文全訳古語辞典・日本国語大辞典)
仏教説話集。日本の説話文学集の始祖的作品。〈にほんれいいき〉とも呼び,正式書名は《日本国現報善悪霊異記》,通称《日本霊異記》,略して《霊異記》ともいう。奈良薬師寺の僧景戒/撰述。成立は最終年紀の822年(弘仁13)以後まもないころ
古今和歌集(日本古典文学全集・世界大百科事典・日本国語大辞典)
醍醐天皇の詔により撰ばれた最初の勅撰和歌集。略称は《古今集》。20巻。古今とは〈いにしえ〉〈いま〉の歌の集の意と,後世の人々が,和歌が勅撰された延喜の時代をいにしえの和歌の聖代と仰ぎ見るであろう,の意を兼ねる。流布本では巻首に仮名序,巻尾に真名序を付し,歌数は1111首
竹取物語(日本古典文学全集・世界大百科事典・国史大辞典)
平安時代の物語。一巻。『源氏物語』には「かぐや姫の物語」(「蓬生」)、「竹取の翁」(「絵合」)とあり、「竹取翁物語」と題した写本もある。成立時期・作者ともに未詳であるが、およそ10世紀前半、貞観(859~877)から延喜(901~923)までの間に、男性知識人によってつくられたと考えられている。
平中物語(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本古典文学全集)
平安時代の歌物語。作者不明。『貞文日記』『平中日記』ともいい、『平仲物語』とも書く。成立は『後撰集』と相前後し、950年(天暦4)ごろであろう。内容は平貞文(?―923)を主人公とする歌物語で、39段よりなり、短歌150首、長歌一首、連歌二首を含む。平貞文は右近中将平好風
明六雑誌(改訂新版・世界大百科事典)
明六社の機関誌。1873年7月に設立された明六社の月2回の例会における講演内容の公表を目的として,74年3月創刊された。月2回ないし3回刊。半紙半截二つ折りの体裁に片仮名交りの漢文で,哲学,宗教(キリスト教採用論),教育,社会一般(男女同権論や死刑廃止論など)
日本の雑誌 1(国史大辞典)
日本の雑誌 草創期の雑誌 日本最初の新聞・雑誌といわれる『官板バタビヤ新聞』と『ジャパン=パンチ』が現われたのは、ともに文久2年(1862)のことだった。前者は半紙半折1葉を1号分とした小冊子で、江戸幕府の蕃書調所が海外の情報を伝えるために木活字で印刷発行したものだ。
イソップ物語(改訂新版・世界大百科事典)
ギリシアのイソップ(アイソポス)が作ったと伝えられる動物寓話集。動物などの性格や行動に託して,ギリシアの一般大衆に,いかにすれば人は平穏無事に人生をおくることができるかを教える処生訓であった。この寓話形式はすでにヘシオドス(《農と暦(仕事と日々)》202~212行)
金太郎(国史大辞典)
伝説的人物。源頼光の郎等なる勇猛の士として、『今昔物語集』二八、『古今著聞集』九、『酒呑童子』(御伽草子)などに公時の名がみえる。江戸時代初期の金平浄瑠璃では主人公金平の父として語られ、その一つたる寛文四年(一六六四)刊の『漉根悪太郎』では坂田民部金時と称され、足柄山で山姥が奉った子とされる。
appendix(ランダムハウス英和大辞典)
n. (pl. ap・pen・dix・es,-di・ces) 1 付録,補遺,付表,追加.▼ 通例,巻末につける解説,統計,参考記事などで,これがなくても本文は完結している. cf. SUPPLEMENT n.2. 2 付加物,付属物. 3 〔解剖〕(1)突起.(2)垂,(特に)虫垂.
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
桶狭間の戦(国史大辞典)
永禄三年(一五六〇)五月十九日、織田信長が今川義元を尾張田楽狭間に奇襲し、敗死させた戦い。駿河・遠江の守護大名今川氏は門地・実力および領国の地理的条件から、上洛して将軍を補佐し、実権を握る条件に恵まれていた。義元はまず三河を掌中に収め、ついで領国に分国法を定め、北条氏康と
文禄・慶長の役(国史大辞典)
文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけ、豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」と呼び、明では日本が侵入した明の辺寨(朝鮮)をおさえるという意味で、「万暦朝鮮の役」と呼ぶ
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
雅楽(世界大百科事典・国史大辞典)
古代以来もっとも長い歴史をもつ東アジアの音楽。中国で成立し,朝鮮,日本,ベトナムなどの王朝国家に伝えられ,主として国家的制度のもとで管理,伝承されてきた。中国の雅楽は,〈雅正の楽〉の意で俗楽に対立し,儒教の礼楽思想に基づいて成立,発展したために狭義には天地宗廟の祭祀楽
狂言(改訂新版・世界大百科事典)
南北朝時代に発生した中世的庶民喜劇で,能,歌舞伎,文楽(人形浄瑠璃)などとともに日本の代表的な古典芸能の一つ。特に能とは深い関係をもつところから〈能狂言〉とも呼ばれる。能が主に古典的題材をとり上げ幽玄美を第一とする歌舞劇であるのに対し,狂言は日常的なできごとを笑いを通して
人形浄瑠璃(世界大百科事典・歌舞伎事典)
劇と語り物の接点に立つ舞台芸術。その最も円熟した形態が,現在文楽と呼ばれる,義太夫節浄瑠璃に合わせて,三人遣いの人形が操られるものである。なお,音楽史の側面は〈義太夫節〉の項目を,また歌舞伎への影響については〈歌舞伎〉の項目のうち[人形浄瑠璃との交流]を
能楽(国史大辞典)
南北朝時代に始まった日本の代表的な古典芸能。歌と舞を主要素とする歌舞劇で、猿楽の能をさす。創成期の猿楽などが演じた歌と舞による劇形式の芸を「能」といい、「猿楽の能」のほか「田楽の能」や類似の芸「延年の能」も存在したが、室町時代以後は猿楽の能が主流となったので単に「猿楽」
江戸っ子(改訂新版・世界大百科事典)
都市江戸で生まれ育った,きっすいの江戸の人の意。根生いの江戸住民であることを自負・強調する際に多く用いられた。それも武士ではなく,おもに町人の場合である。江戸っ子は,物事にこだわらず金ばなれがよく,意地と張りを本領とし正義感が強かったが,反面,けんかっ早くて軽率だといわれた。
湯屋(日本大百科全書(ニッポニカ))
もと寺院には浴堂というものがあり、そのほかに大衆用の潔斎浴場として別に設けた建物があって、これを大湯屋と称した。沐浴には、湯気で身体を蒸す蒸し風呂形式と、温湯に身体を浸す行水形式があった。寺院では僧尼の潔斎のため、釜湯を別の湯槽に入れて行水することも早くから行われたが
今川義元(国史大辞典・世界大百科事典)
一五一九-六〇 戦国時代の武将。治部大輔。父は今川氏親、母は中御門宣胤の女。永正十六年(一五一九)に生まれ、幼時より出家させられ、承芳と称し、駿河国善徳寺にいたが、天文五年(一五三六)家督を相続した兄氏輝が早世すると、兄の玄広恵探と家督を争い、六月十日これを倒して家督を
常陸国風土記(国史大辞典・日本古典文学全集)
和銅六年(七一三)五月の詔制に応じて撰進されたとみられる常陸国の地誌。巻頭に「常陸国司解 申古老相伝旧聞事」とあって、常陸国司から「解」の形式で提出された文書であることが知られる。はじめに常陸国全般にかかる総括的な記事が置かれ、ついで新治・筑波・信太・茨城・行方
風土記(世界大百科事典・日本古典文学全集)
奈良の地に壮大な都城(平城京)が造営され,大化改新後の地方制度も整備された元明天皇時代に,諸国の国司・郡司を総動員して作成させた郷土誌的文書をいう。中国の制度文物の移植に熱心な時代だから,中国で多く作られた地誌類に範をとったものであろうが,とくに南北中国を統一した隋代に《諸郡物産土俗記》
太陽(改訂新版・世界大百科事典)
天体としての太陽 太陽系の中心に位置し,地球にもっとも近い恒星。平均的な恒星の一つであり,スペクトル型G2型の主系列星に分類される。太陽系の総質量の99.9%を占め,惑星その他の多くの太陽系天体を従えている。その放射する光や熱や風は惑星その他に種々な影響を与え,惑星の大気を作り
物理学(世界大百科事典・日本国語大辞典)
〈物理〉がphysicsの訳語として定着したのは明治以後であるが,漢語として〈物の道理〉を示す意味で用いられたのは古い。現在の物理学に近い概念を表すことばとしては,幕末〈窮理学〉〈格物学〉〈理科〉〈理学〉などがあり,1863年(文久3)洋書調所が開成所に改組されるに当たっての学科名としては窮理が採用され
ニュートン(改訂新版・世界大百科事典)
イギリスの科学者。リンカンシャーのウールスソープの自作農の家に生まれた。ウールスソープで初等教育を終えたのち,グランサムのキングズ・スクールに学び,1661年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。当時のヨーロッパの大学では自然科学はほとんど教えられていなかったが
キューバ革命(改訂新版・世界大百科事典)
フィデル・カストロの指導のもとにキューバで行われた,ラテン・アメリカにおける最初の社会主義革命。反乱の開始〈すべてはモンカダから始まった〉といわれるように,キューバ革命は,1953年7月26日,カストロが率いる反乱グループが東部オリエンテ州のサンチアゴ・デ・クーバ郊外にあるモンカダ兵営を襲撃
カストロ(日本大百科全書(ニッポニカ))
革命キューバの最高指導者で、ラテンアメリカが生んだもっとも傑出した革命家、政治家の一人。オリエンテ州北部のビランの近郊で生まれる。父親はスペインのガリシアからの移民で、砂糖と木材で成功した比較的富裕な砂糖農園主。幼少から恵まれた環境で育ち、イエズス会派の学校で初等・中等教育を受けたのち
ゲバラ(改訂新版・世界大百科事典)
ラテン・アメリカが生んだ傑出した革命家の一人で,その理論と実践はラテン・アメリカのみならず世界中に大きな影響を及ぼした。アルゼンチンのロサリオ市で中流家庭に生まれ,1945年,ブエノス・アイレス大学の医学部に入学,53年に学位を得た。子どものときから喘息の発作に苦しめられ,それは死ぬまで続いた。
本能寺の変(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利両軍の全面的対決を決意した信長は五月十七日、徳川家康の供応にあたっていた光秀にも出陣を命じた。すぐに光秀は本拠近江坂本城に帰り
明智光秀(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
安土桃山時代の武将。明智氏は美濃の名門土岐氏の庶流とされているが、光秀の出自や素性は詳らかでない。通称十兵衛。越前で朝倉義景に仕えたらしいが、永禄十一年(一五六八)七月足利義昭が朝倉氏のもとから織田信長を頼って美濃に赴いたとき、光秀は細川藤孝とその工作をしたらしく
昭和の日(日本大百科全書(ニッポニカ))
国民の祝日で、4月29日。「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ことを趣旨に制定された。もとは昭和天皇誕生日で、昭和天皇崩御後は、植物に造詣(ぞうけい)の深かった天皇にちなみ
建国記念の日(日本大百科全書(ニッポニカ))
2月11日。「建国をしのび、国を愛する心を養う」趣旨の国民の祝日。この日は旧紀元節で、講和条約発効後根強い復活の動きがあり、激論のなか日取り未定のまま、1966年(昭和41)国民の祝日に追加された。
勤労感謝の日(日本大百科全書・日本国語大辞典)
11月23日。「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」国民の祝日。1948年(昭和23)制定された。その前は国の祭日で、天皇が新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、自らも食する新嘗祭(にいなめさい)という祭事の日であった
文化の日(日本大百科全書・日本国語大辞典)
11月3日。「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことが趣旨の国民の祝日。1948年(昭和23)制定。46年のこの日公布された新憲法の精神に基づき、平和と文化が強調されているが、この日を祝日としたのは、47年まで四大節の一つの明治節(明治天皇の誕生日)だったためもある。
秋分の日(日本大百科全書・日本国語大辞典)
「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ」趣旨の国民の祝日。毎年9月23、24日ごろ。太陽が黄経180度の秋分点を通過する日で、真東から出、真西に沈む。昼夜の時間がほぼ等しく、二十四節気の一つ。秋の彼岸の中日にもあたる。
憲法記念日(日本大百科全書(ニッポニカ))
5月3日。「日本国憲法の施行(1947年5月3日)を記念し、国の成長を期する」趣旨の国民の祝日。同日が施行日となったのは、46年(昭和21)11月3日の明治節を公布日とし、半年の準備期間を置いたため。48年7月制定。
三奇橋(改訂新版・世界大百科事典)
日本の古橋の中でとくに構造的に変わったものとしてあげられてきた岩国(山口県)の錦帯橋,甲斐(山梨県)の猿橋,黒部(富山県)の愛本橋をいう。愛本橋の代りに木曾の桟あるいは祖谷(徳島県)のかずら橋を入れる説もあるが,桟はけわしい崖に沿って板をかけ渡した橋で,構造的には上述の諸橋ほどの特色はない。
錦帯橋(日本歴史地名大系)
横山郭の正面乗越門前より、錦川対岸の錦見乗越へ架けられた五橋の反り橋。横山小路と錦見大明小路を一直線につなぐ、城下大手の通り筋にあたる。五橋のうち三橋が支柱のない刎橋で、構造の妙と美しさで知られる。岩国橋・十露盤橋・凌雲橋・帯雲橋・五竜橋などの名でもよばれるが、錦川の名にちなむ錦帯橋が一般的である。
弘前城(国史大辞典)
青森県弘前市下白銀町に中心部のある城。築城当初は高岡城と呼ばれた。平城。津軽平野南部の盆地状地形の中の台地北端に位置する。慶長八年(一六〇三)に大浦(津軽)為信が起工し同十六年為信の子信枚の時に一応の完成を見た。為信はもと大浦城におり元亀二年(一五七一)ごろから津軽統一への歩みを開始したが
