[現]岡崎市羽根町 小豆坂
羽根(はね)地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」「朝野旧聞藁」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥(あんしよう)城(現安城市)を攻撃し、兵をすすめて尾張への進攻をめざした。これに対して織田信秀は弟信康・信光らと矢作川を渡って上和田(かみわだ)に陣をしいて今川の軍を迎え討った。両軍は討って出て小豆坂で死闘を繰返した。結果は今川氏は織田氏に尾張進出を阻止されて駿河に帰った。また「松平記」「武家事紀」などによると、同一七年三月、今川・織田の両軍は再び小豆坂で激突し、戦況は一進一退、雌雄を決することができず、両者の対決はのちの桶狭間(おけはざま)の合戦にまで持込まれることになった。
小豆坂付近には今川の軍が引揚げるにあたって槍を洗ったという槍洗(やりあらい)池をはじめとして足軽(あしがる)塚・甲(かぶと)谷などの戦跡が多く伝えられている。また、切通の丘の上に小豆坂古戦場の石碑が立っている。永禄六年(一五六三)一〇月、三河一向一揆が起こるや、針崎(はりさき)の一揆は岡崎城を攻めるために翌年正月、小豆坂に進出し、この地で一揆とこれを阻止せんとする大久保一党および家康の軍が衝突、戦闘が行われた。家康自ら一揆と槍を交えたと伝えられている。
菅江真澄は「筆のまにまに」に、「この麝香壟(つか)絵女房山に並て小豆坂あり、千人塚あり。みな軍記にある戦場なり。七月十六日の夜は、そのあたりの人々亡霊まつるとて手ごとに巨松(まつ)振りかざしあまたうちむれのぼる也。千人塚は千人の頭埋ミし処といふ。此塚は大樹寺にもありて不断念仏堂あり。三年に一度回向あれば、その仏舎を千日寺といふ」と記している。
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