NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 遺跡
  8. >
  9. 日本の史跡・遺跡・遺物・史料
  10. >
  11. 小豆坂古戦場

小豆坂古戦場

ジャパンナレッジで閲覧できる『小豆坂古戦場』の日本歴史地名大系のサンプルページ

小豆坂古戦場
あずきさかこせんじよう

[現]岡崎市羽根町 小豆坂

羽根はね地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」「朝野旧聞〓藁」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥あんしよう(現安城市)を攻撃し、兵をすすめて尾張への進攻をめざした。これに対して織田信秀は弟信康・信光らと矢作川を渡って上和田かみわだに陣をしいて今川の軍を迎え討った。両軍は討って出て小豆坂で死闘を繰返した。結果は今川氏は織田氏に尾張進出を阻止されて駿河に帰った。また「松平記」「武家事紀」などによると、同一七年三月、今川・織田の両軍は再び小豆坂で激突し、戦況は一進一退、雌雄を決することができず、両者の対決はのちの桶狭間おけはざまの合戦にまで持込まれることになった。

小豆坂付近には今川の軍が引揚げるにあたって槍を洗ったという槍洗やりあらい池をはじめとして足軽あしがる塚・かぶと谷などの戦跡が多く伝えられている。また、切通の丘の上に小豆坂古戦場の石碑が立っている。永禄六年(一五六三)一〇月、三河一向一揆が起こるや、針崎はりさきの一揆は岡崎城を攻めるために翌年正月、小豆坂に進出し、この地で一揆とこれを阻止せんとする大久保一党および家康の軍が衝突、戦闘が行われた。家康自ら一揆と槍を交えたと伝えられている。

菅江真澄は「筆のまにまに」に、「この麝香つか絵女房山に並て小豆坂あり、千人塚あり。みな軍記にある戦場なり。七月十六日の夜は、そのあたりの人々亡霊まつるとて手ごとに巨松まつ振りかざしあまたうちむれのぼる也。千人塚は千人の頭埋ミし処といふ。此塚は大樹寺にもありて不断念仏堂あり。三年に一度回向あれば、その仏舎を千日寺といふ」と記している。

上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


小豆坂古戦場の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 2
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. あずきさかこせんじょう【小豆坂古戦場】愛知県:岡崎市/羽根村
日本歴史地名大系
羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」「朝野旧聞〓藁」などによると ...
2. 小豆坂
日本大百科全書
1542年(天文11)と1548年の2回の戦いでも勝敗が決しなかった。「槍立松(やりたてまつ)」の石碑や「小豆坂古戦場」の碑などがある。伊藤郷平 ...
「小豆坂古戦場」の情報だけではなく、「小豆坂古戦場」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

小豆坂古戦場と同じ日本の史跡・遺跡・遺物・史料カテゴリの記事
大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面
日本の史跡・遺跡・遺物・史料と同じカテゴリの記事をもっと見る


「小豆坂古戦場」は戦争に関連のある記事です。
その他の戦争に関連する記事
日独伊三国同盟(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1940年(昭和15)9月27日、ベルリンで調印された日本、ドイツ、イタリアの間の軍事同盟。三国同盟締結交渉は、最初、1937年に結ばれた日独伊三国防共協定を強化しようという目的で、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の末期に始まったが、1939年
満州事変(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争。[君島和彦]▲前史満州、とくに南満州は、日本が日露戦争後に長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間の鉄道およびその付属の利権を獲得
乃木希典(日本大百科全書・世界大百科事典)
陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け
サンフランシスコ講和条約(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
太平洋戦争開始以来の戦争状態を終結させるために、日本政府が英米をはじめとする四十八ヵ国と締結した講和条約。公式名は「日本国との平和条約」。「対日平和条約」とも呼ばれている。締結の相手国は、アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・ボリビア・ブラジル
盧溝橋事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)
戦争に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶