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サンフランシスコ講和条約

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国史大辞典

サンフランシスコ講和条約
サンフランシスコこうわじょうやく
太平洋戦争開始以来の戦争状態を終結させるために、日本政府が英米をはじめとする四十八ヵ国と締結した講和条約。公式名は「日本国との平和条約」。「対日平和条約」とも呼ばれている。締結の相手国は、アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・ボリビア・ブラジル・カンボジア・カナダ・セイロン・チリ・コロンビア・コスタリカ・キューバ・ドミニカ・エクアドル・エジプト・エルサルバドル・エチオピア・フランス・ギリシャ・グアテマラ・ハイチ・ホンジュラス・インドネシア・イラン・イラク・ラオス・レバノン・リベリア・ルクセンブルク・メキシコ・オランダ・ニュージーランド・ニカラグア・ノルウェー・パキスタン・パナマ・パラグアイ・ペルー・フィリピン・サウジアラビア・シリア・トルコ・南アフリカ連邦・イギリス・アメリカ・ウルグアイ・ベネズエラ・ベトナム。昭和二十六年(一九五一)九月八日、吉田茂首相以下の日本全権がサンフランシスコで開催された講和会議で調印し、各国の批准を経て翌二十七年四月二十八日に発効した。ソ連は講和会議で修正案を提案したが採択を阻まれ、ポーランド・チェコスロバキアとともに調印を拒否した。インドはアメリカ主導型の講和はアジアの緊張を高めるとして会議への参加を拒否し、ビルマ・ユーゴスラビアも出席しなかった。また英米両国の間で代表権について合意が成立しなかったことから、中華人民共和国・国民党政府のいずれも会議に招聘されなかった。これらの結果、講和条約の締結はいわゆる単独講和となったのである。講和条約は、冒頭に日本が国際連合への加盟を希望し、民主的かつ国際協調的に行動する旨誓約する前文を置き、全体で七章二十七条から成り立っている。第一章平和では、戦争状態の終結および日本の主権回復を宣言し、ついで第二章領域では日本が朝鮮の独立を承認し、台湾および澎湖島、千島列島および南樺太を放棄することを規定している。アメリカには、琉球・小笠原などの諸島を信託統治する権利が留保されたのであった。第三章安全では日本に武力行使を慎しみ国際連合に協力することが義務付けられる一方、集団安全保障条約への参加や外国軍隊の駐留を認める条約の締結を禁じない旨明記している。第四章政治及び経済条項には、日本が戦前締結した諸条約の復活手続、国際条約の遵守義務などの規定のほかに、極東国際軍事裁判について講和条約締結後も日本に履行義務があると定められている。第五章請求権及び財産には、日本の賠償能力が低いという実情を考慮して、賠償は生産賠償や沈没船の引揚げその他の役務賠償に限ることや、日本軍の捕虜になったものへの補償手続などが規定されている。さらに第六章紛争の解決では講和条約をめぐる紛争は国際司法裁判所に付託するものとし、第七章最終条項では、講和条約の発効は日本および連合十一ヵ国のアメリカを含む過半数の国の批准を要件とすることが定められている。この講和条約は、日本から海外の植民地を全て剥奪することによって、日清戦争以来日本が行なってきた帝国主義的列強としての歴史を法的に清算することを意味した。と同時に、冷戦が進行し東西間の対立が激化している中で、日本政府が西側陣営の一員となる選択をしたことを意味するものでもあった。この条約の顕著な特徴の一つ、条項の数が少なく簡潔である点も、そうした事情を反映するものだったのである。
 ところで、マッカーサーは一九四七年三月に早期対日講和を提唱したが、手続に関するソ連および国民党政府の反対で実現せず、冷戦の進行でさらに困難になった。このときアメリカの国務省が準備した条約案は、十章五十六条八つの実施細目からなり、日本の非武装化非軍事化、詳細な賠償の規定を含むなど、懲罰的な性格をもっていた。これに対し、米ソ関係において日本が戦略上重要な位置を占めると考えた政策企画室長ジョージ=ケナンは、アジアで共産主義の封じ込め政策を推進するために日本の経済復興政策を提唱し、実質的に講和が締結されたのと変わらない状態をもたらすことを図るとともに、日本が親ソ勢力になるのを防ぐために対日講和を日本人に信頼を示す機会にするよう提案した。講和条約を簡潔で懲罰的でない条約にすることや沖縄を永続的に領有するというケナンが提示した方針は、一九四八年十月国家安全保障会議によって採択されたのである。五〇年に対日講和を担当したジョン=ダレスは、ケナンの方針に従って条約案を作成する一方、ケナンの方針を一歩進めて日本を軍事的にも西側同盟国の一員にすることを目指し、再軍備を制限する条項を設けなかったのであった。このほか日本との協調関係を増進するために、ダレスは講和について日本の政財界人と協議し、発効の要件として日本の批准を定めたのである。最終的な条約案は、連合諸国との交渉でダレスが提示した対日七原則をもとにアメリカが起草し、それをさらにイギリスと協議して作成した。講和条約ではアメリカの安全保障上の利益は、琉球・小笠原などの諸島の信託統治と日本との安全保障条約の締結によって確保できるようにされていた。日本の経済復興を推進するための措置としては賠償が最小限度にとどめられ、非軍事化政策の一環である通商用船舶の建造に対する制限も撤廃されていた。また占領に対する反撥から日本人が敵愾心を高めることも懸念され、極東国際軍事裁判の場合を除いて講和締結後日本に民主化政策の履行を義務付ける条項は設けられなかったのである。吉田首相はこの講和条約を寛大であると受け取ったものの、それが日本の西側陣営への編入を意味したことから、国内では厳しい批判の声が生じた。このように国論が二分する中で、国会は講和条約を衆議院が十月二十六日に三百七対四十七、参議院が十一月十八日に百七十四対四十五の多数で批准し、翌十九日天皇が認証して批准手続は完了したのである。なお未調印国となったインドおよび国民党政府とは、昭和二十七年に個別に条約を結んで国交を回復し、ビルマとは二十九年に平和条約を締結した。東側諸国との関係では、三十一年にソ連との間で共同宣言がなされた結果、ポーランド・チェコスロバキアとも翌三十二年に国交回復に関する協定および議定書の交換が実現している。しかし中華人民共和国との国交回復は国民党政府との関係が絡んで大幅に遅れ、平和条約の締結は五十三年まで待たなければならなかった。
→安保体制(あんぽたいせい),→日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)
[参考文献]
入江啓四郎『日本講和条約の研究』、西村熊雄『サンフランシスコ平和条約』(『日本外交史』二七)、山極晃「朝鮮戦争とサンフランシスコ講和条約」(『(岩波講座)日本歴史』二二所収)、五十嵐武士「対日講和の提唱と対日占領政策の転換」(『思想』六二八)、U.S.Department of State,ed.,Foreign Relations of the United States 1951.Vol.6.
(五十嵐 武士)


世界大百科事典

サンフランシスコ講和条約
サンフランシスコこうわじょうやく

正式名称は,対日平和条約Treaty of Peace with Japan。1951年9月8日,サンフランシスコ市内のオペラハウスで調印され,52年4月28日発効した。

講和への過程

対日講和は第2次大戦終結直後には提起されなかった。それは第1に,連合国がポツダム宣言に従って日本を改造し軍国主義の基盤を除く必要があったからであり,第2に,主要関係国がこの問題をヨーロッパの戦後処理と深くかかわるものと見ており,対日講和を先議する意思を持たなかったためである。1946年6月,アメリカ政府は,対伊平和条約を結ぶためのパリ平和会議の準備のなかで〈日本国の武装解除および非軍事化に関する四国条約案〉を発表し,日本の非軍事化を厳しく実施するために占領終了後25年にわたり4ヵ国による監察制度を設けることを提唱したが,ソ連の反対にあって取り下げた。

 1947年7月,アメリカはふたたび極東委員会構成11ヵ国に対し平和予備会議を提唱し,3分の2の多数で議決するという多数講和方式を示したが,対日平和条約は四国外相理事会が起草すべきであるとするソ連と,議決方式に異議を持つ中華民国政府の反対にあい,48年1月この交渉を中止した。この年になるとアメリカは対日政策を冷戦外交の一環として重視するようになり,3月,国務省政策企画局長G.ケナン,陸軍次官W.ドレーパーを東京に派遣し,GHQ司令官マッカーサーと会談させた。三者は,沖縄を戦略的基地として長期に利用できるよう国際的承認をとりつけること,講和後も横須賀を軍事的・商業的拠点とすること,日本の警察力を増強しかつ民主的改革よりも経済復興を急ぐこと,これらが実現できる国際情勢があらわれるまで講和を延期することで合意した。この諸点はその後アメリカ政府の見解の基本となり,〈事実上の講和〉政策が推進される。ドレーパーらは対日賠償を46年に発表されたポーレー報告書の24億4000万円(1939年価格)から,6億6000万円に削減するよう求め,国務省は12月,〈経済復興九原則〉をGHQに通達し,翌49年,経済顧問J.ドッジを派遣して日本の財政改革,デフレ政策への転換を強行させ,GHQの管轄事項をしだいに日本政府に移管させた。

 1948年11月,極東国際軍事法廷(東京裁判)が刑の宣告を行い,12月,A級戦犯7名を処刑するに及んで,対日早期講和の世論は国内外で高まり,ソ連は48年11月に続き49年5~6月,パリでの四国外相会議で対日講和の促進を要求し,またイギリス連邦諸国とくにオーストラリア,ニュージーランドは日本軍国主義の復活を恐れ,イギリスもアジア貿易における日本の競争力強化を懸念し,厳しい制限条項をもつ講和の早期実現を望んだ。49年半ばまでにアメリカは中国革命の進展をくい止めることができないと判断し,これに代わって対アジア政策における日本の役割を一段と重視するようになり,9月,国務長官アチソンはイギリス外相ベビンとの会談でイギリスの対日強硬方針を撤回させ,両国政府が対日講和の早期実現,ソ連の参加がなくても条約を締結するという単独講和方式をとること,講和後の日本に米軍基地を設けること,対日監視や過酷な賠償を課さないことで協力するという合意をとりつけ,共同歩調をとるようになった。50年2月,中ソは中ソ友好同盟相互援助条約を結び,日本軍国主義の復活に共同で対処する決意とともに対日講和の早期実現を強調した。アメリカは4月,J.ダレスを国務省顧問に任命し,対日講和の推進に当たらせた。

 6月,朝鮮戦争が開始され,アメリカ軍が日本を根拠地として出撃するようになると,アメリカは日本の軍事基地としての重要性を認め,日本国内に反米的世論が強まるのを防ぐため講和の促進を図るようになり,11月,対日講和七原則を発表し,極東委員会構成国との個別協議を開始した。この七原則には領域問題が明記されたほか,アメリカによる安全保障方式,対日請求権の放棄などが盛り込まれた。ソ連は同月,覚書で7項目の質問を発し,中華人民共和国は12月中国が参加しない対日講和の〈準備および起草は不法〉と声明した。ダレスは51年1月,関係諸国政府との直接折衝を開始し,この間に日本再軍備を危惧(きぐ)するオーストラリア,ニュージーランド,アメリカの間でANZUS(アンザス)条約を,フィリピンとの間で米比相互援助条約を結んだ。6月,アメリカ,イギリス両国の草案をもとに合同草案が作成され,7月20日,サンフランシスコ講和会議への招請状がアメリカにより発送された。日米間の交渉で未帰還邦人に関する条項が加えられ,8月16日,条約草案が各国に送付された。安全保障条約草案は日米両政府の協議の結果8月20日に確定された。

講和条約の調印

講和会議は9月4日から8日まで開かれたがこれは〈案文を基礎とする日本国との平和条約の締結および署名のための会議〉で,審議のための会議ではなく,参加各国は態度表明の機会を与えられたのみである。52ヵ国が参加し,うちソ連,ポーランド,チェコスロバキアは署名を拒否した。中国,朝鮮は招待されず,インド,ビルマ(現,ミャンマー)は参加を拒否した。条約は前文と本文7章27条から成り,議定書一つ,宣言二つが付属している。領域問題では朝鮮の独立,台湾,澎湖諸島,南樺太,千島列島に対する日本の権利,権限,請求権を放棄することが決められ,その後の帰属は未解決のままとなり,北緯29度線以南の小笠原諸島,琉球列島はアメリカが国連に信託統治を提議するまでの間,その統治下に置かれるとされた。

 これに対し同年1月,共産党,労農党などにより〈全面講和愛国運動協議会〉が結成され,480万の署名を集め,社会党は1月の党大会で,〈中立堅持,軍事基地提供反対,全面講和実現〉の平和三原則を採択し,3月の総評大会でもこれを支持する態度を決め,安倍能成,南原繁らの〈平和問題懇談会〉は全面講和論を展開して大きな影響力を持った。なお,日米安全保障条約は9月8日午後調印された。

 講和条約に署名または批准しなかった国との関係は次のようにして回復された。中華民国との平和条約(1952.4.28),インドとの平和条約(1952.6.9),ビルマ連邦との平和条約(1954.11.5),ソ連との日ソ国交回復に関する共同宣言(1956.10.19),ポーランド人民共和国との国交回復に関する協定(1957.2.8),チェコとの国交回復に関する議定書(1957.2.13),インドネシア共和国との平和条約(1958.1.20),日韓基本条約(1965.6.22),日中共同声明(1972.9.29)。
[佐々木 隆爾]

[索引語]
Treaty of Peace with Japan アチソン,D.G. ダレス,J.F. 全面講和愛国運動協議会 平和三原則


日本大百科全書(ニッポニカ)

対日講和条約
たいにちこうわじょうやく
Treaty of Peace with Japan

連合国と日本の間で第二次世界大戦を終了させる講和条約で、1951年(昭和26)9月8日にサンフランシスコで署名され、1952年4月28日発効。サンフランシスコ講和条約ともよばれる。当事国は45。中国は、アメリカが国民政府を、イギリスが中華人民共和国政府を承認していたため講和会議に招請されず、日本は占領中のアメリカとの密約により前者と日華平和条約を結んだ(1952年4月28日)が、1972年9月29日の日中共同声明により後者を中国の唯一の合法政府と認めてこれと戦後処理を行った。ソ連は会議には参加したが、チェコスロバキア、ポーランドとともに条約には署名せず、1956年10月19日の日ソ共同宣言によりそれとの平和関係が回復された。このほか、インド、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなど別個の講和条約を結んだ国が若干ある。

 日本がそれを受諾して降伏するポツダム宣言は、カイロ宣言とともに講和予備条約的内容を含んでおり、またそれが規定する占領目的が達成され日本に民主的・平和的な政府が成立すればただちに占領軍を撤収すると述べていた。しかし、冷戦の激化に伴い対日講和準備は遅延した。講和準備の方式をめぐって米ソが対立し、アメリカ政府内でも政治的理由から早期講和を唱える国務省と軍事的理由から占領継続を望む国防省が対立した。ところが1950年6月の朝鮮戦争勃発 (ぼっぱつ)によりアメリカは、日本を西側陣営の一員として育成するために早期講和の方針を固め、ダレスを国務省顧問として関係国との交渉にあたらせるとともに、同年11月には対日講和七原則を発表した。日本国内には大戦における日本のすべての敵国を相手とする全面講和を要求する声も少なくなかったが、当時の吉田内閣はアメリカの方針に同調し、講和条約はアメリカをはじめとする西側諸国中心のいわゆる片面講和として成立した。こうしてそれは、同時に結ばれた日米安保条約とともにサンフランシスコ体制とよばれるものを構成し、その後の日本の国際的地位を基本的に規定することになる。

 このような背景から、条約は、日本を西側陣営の一員として再建するために、全体として比較的寛大な内容となっており、締約国の間にも日本の侵略政策の再現を恐れる国や、より十分な賠償を求める国の間に不満を残すことになった。以下、軍事、領域、経済について内容を略述する。

 軍事については、日本は国連憲章第2条の義務を受諾したが、軍備制限はいっさい課されず、かえって憲章第51条の個別的・集団的自衛権を有し、集団的安全保障取極 (とりきめ)を締結できることが承認された。占領軍は条約発効後90日以内に撤退すべきものとされたが、連合国との協定による外国軍隊の駐留は妨げられないとされ、これに従い日米安保条約によって、米軍はさしあたり行政協定による占領中とほとんど変わらない特権を有しつつ、日本駐留を続けた。

 領域については、日本は朝鮮の独立を承認し、台湾、澎湖 (ほうこ)諸島、国際連盟の委任統治下にあった太平洋諸島、その他若干の領域についての権利・権原・請求権を放棄した。日本はまた、千島列島と南樺太 (からふと)への権利・権原・請求権をも放棄した。1945年2月11日のヤルタ協定によりアメリカ・イギリスはこれら領域のソ連への引渡し・返還を約束していたが、ソ連が条約に参加せず、条約が日本による放棄の相手方を明記しなかったために、日ソ間に領土問題が残されることになった。沖縄と小笠原 (おがさわら)については、日本は、これらをアメリカを施政権者とする国連の信託統治地域とすることに同意し、それまではアメリカが行政・立法・司法の全権を行使するものとされた。日本はこれら領域に対して潜在主権を有するものと解されたが、アメリカの施政権は事実上無制限であった。なお、小笠原は1968年6月26日に、また沖縄は1972年5月15日に、それぞれアメリカとの協定により日本復帰が実現している。

 賠償については、日本の賠償義務とともに、完全な賠償のためには日本の資源が十分でないことが承認され、生産賠償・役務賠償によるという原則が定められたほかは、賠償額等の具体的問題は個別交渉にゆだねられた。このほか在連合国の日本国・国民の資産は賠償にあてるために処分することが認められ、非連合国にあるこれら資産は捕虜とその家族への賠償のため赤十字国際委員会に引き渡された。他方、日本は連合国とその国民に対する、戦争から生じた国と国民のすべての請求権を放棄した。賠償以外の日本と連合国の経済関係については、公海漁業の規制、通商航海条約および国際民間航空について、日本が協定締結を希望する連合国と速やかに交渉を開始することが規定された。また戦前の日本貿易の不正競争再現の危惧 (きぐ)に対しては、条約前文が公正な国際的慣行に従うという日本の意思を記録するにとどまった。

[松井芳郎]

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日本架空伝承人名事典
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12. 移民
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得,社会的地位も相当上昇して,受入国の日系市民として生活している(日系アメリカ人)。戦後は1952年のサンフランシスコ講和条約締結後,ブラジルをはじめ南米諸国と
13. おおくらしょう【大蔵省】画像
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総理庁直属の行政委員会として設立され、国際金融行政の一部は大蔵省の管轄外となったが、サンフランシスコ講和条約発効後の行政改革によって、二十七年八月大蔵省の管轄下
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総理庁直属の行政委員会として設立され、国際金融行政の一部は大蔵省の管轄外となったが、サンフランシスコ講和条約発効後の行政改革によって、二十七年八月大蔵省の管轄下
15. 大西 巨人
日本近代文学大事典
大西の見解に野間や宮本顕治が異議を唱え、新日本文学会の再編問題も関わって論争が展開された。  サンフランシスコ講和条約反対の学生運動に取材した「たたかいの犠牲」
16. おきなわ【沖縄】
国史大辞典
れ、那覇が県庁所在地となった。昭和二十年(一九四五)連合国軍に占領され、同二十六年のサンフランシスコ講和条約によって、アメリカの信託統治下に置かれた。四十六年日
17. おきなわけん【沖縄県】
国史大辞典
間に格差が生じた。太平洋戦争ではアメリカ軍に占領され、さらに昭和二十六年(一九五一)サンフランシスコ講和条約によってその施政権下におかれ、ようやく同四十七年日本
18. おきなわもんだい【沖縄問題】
国史大辞典
対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)第三条によってアメリカ合衆国の支配権下におかれるようになった琉球列島(旧沖縄県の全部と旧鹿児島県大島郡)の地位をめぐっ
19. 改進党
世界大百科事典
には改進党以来の民党的色彩を残存させることになる。 改進党 第2次大戦後の改進党は,サンフランシスコ講和条約発効(1952年4月28日)を目前にした1952年2
20. かえんビンとうそう【火〓ビン闘争】
国史大辞典
昭和二十七年(一九五二)四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の発効による戦後体制の転換期に、日本共産党を中心とする大衆運動のなかで、塩素酸カリウム
21. かじわたるじけん【鹿地亘事件】
国史大辞典
昭和二十六年(一九五一)十一月からサンフランシスコ講和条約発効後の二十七年十二月までの一年余にわたる米軍キャノン機関による鹿地亘不当監禁事件。日中戦争中重慶に
22. 樺太
日本大百科全書
91年12月ソ連解体後も引き続きロシア連邦が支配している。日本は1951年(昭和26)のサンフランシスコ講和条約で、南樺太およびその周辺の島に対する領有権を放棄
23. からふと【樺太】
国史大辞典
」の条項にもとづいて、南樺太を占領し、やがてこれを国土に編入した。日本も同二十六年のサンフランシスコ講和条約で樺太と千島を放棄した。ソ連政府は、一九四六年二月二
24. かんぜいせいど【関税制度】
国史大辞典
ダンピング関税の規定、主食の減免税規定などについても改正がなされた。ついで二十六年九月サンフランシスコ講和条約が締結され、以後関税政策を全く自主的に運営すること
25. かんとうしゅう【関東州】
国史大辞典
しかし同年八月、太平洋戦争に敗戦の結果、日本の満洲における諸活動は停止し、同二十七年四月、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、日本は関東州租借権を満鉄経営権そ
26. がいこう【外交】
国史大辞典
は事後に必ず国会の承認を受けることになり、外交の議会による民主的管理が明文化された。サンフランシスコ講和条約の締結により日本は外交権を回復、同三十一年には国際連
27. 外国人登録
世界大百科事典
はつねに登録証を携帯し,官公吏の請求があれば呈示しなければならないことなどを定めた。サンフランシスコ講和条約の発効にともない公布,施行された〈外国人登録法〉(1
28. がいこくじんとうろくほう【外国人登録法】
国史大辞典
昭和二十七年(一九五二)四月二十八日公布、即日施行。本登録法はサンフランシスコ講和条約発効と同時に施行され、同二十二年勅令第二〇七号の「外国人登録令」は廃止さ
29. がいむしょう【外務省】画像
国史大辞典
二十四年国家行政組織法にもとづき外務省官制は廃止され、外務省設置法・同組織規程が施行された。二十六年サンフランシスコ講和条約に調印、翌二十七年条約の効力発生して
30. ガリオアしきん【ガリオア資金】
国史大辞典
さまよっていた日本国民にとっては、きわめて貴重な援助であり、国会の感謝決議が送られた。しかし、サンフランシスコ講和条約発効後の昭和二十七年四月米国政府はあらため
31. きげんせつもんだい【紀元節問題】
国史大辞典
超国家主義の意識昂揚に結びついてきた意義とを反省してのことである。しかし、昭和二十六年にサンフランシスコ講和条約が調印されるころ、首相吉田茂は「独立」後は紀元節
32. きみがよ【君が代】
国史大辞典
同年十月の文部大臣通達は学校行事の際「国旗を掲揚し、国歌を唱和することが望ましい」とした。翌年のサンフランシスコ講和条約調印以後、この傾向はますます強まり、教育
33. きょういくいいんかい【教育委員会】
国史大辞典
市町村教育委員会の設置が確定した。こうして昭和二十七年全国のすべての市町村に設置された。サンフランシスコ講和条約発効後の教育再編の動向のなかで、教育行政制度も再
34. きょうだいじけん【京大事件】
国史大辞典
学生自治会同学会が天皇に五項目の質問状を用意し、「平和の歌」をうたってむかえた事件である。同年九月サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約が締結されたが、天皇
35. キリーノ【Elpidio Quirino】
国史大辞典
あおいで徹底した武力弾圧を行い、危機を乗り切った。わが国との外交関係では、キリーノ政権の第二期にサンフランシスコ講和条約が締結され、五二年(昭和二十七)初頭より
36. きんだい【近代】画像
国史大辞典
急速に回復発展させた。戦後文化問題の中心課題は民主主義をどのように実現するかであったが、サンフランシスコ講和条約の成立とともに直面したのは、平和問題で、これは憲
37. きんだい【近代】 : 近代/〔戦後の学界〕
国史大辞典
あるなどで法体系が大きく変わったので、それぞれの解釈がまず学界の問題となった。ついでサンフランシスコ講和条約の成立とともに、平和問題が大きな政治問題となった。憲
38. きんだいにほんきょういくせいどしりょう【近代日本教育制度史料】
国史大辞典
収録されているから、同書とこの『近代日本教育制度史料』との両者によって、明治維新以降サンフランシスコ講和条約発効時までの主要な教育制度史料を容易に検索することが
39. ぐんせい【軍政】
国史大辞典
するものとされ、占領軍は日本国民に対して軍事裁判権を行使することができた。平和条約(サンフランシスコ講和条約)発効および沖縄返還に伴い、軍政は廃止された。 [参
40. ぐんせい【軍政】 : 軍政/(二)
国史大辞典
するものとされ、占領軍は日本国民に対して軍事裁判権を行使することができた。平和条約(サンフランシスコ講和条約)発効および沖縄返還に伴い、軍政は廃止された。
41. けいさつよびたい【警察予備隊】
国史大辞典
米軍顧問によって訓練され、朝鮮戦争によるアメリカの戦略的欠陥を補う補助部隊であった。サンフランシスコ講和条約発効後の二十七年十月十五日保安隊に改編された。→自衛
42. けいざいあんていほんぶ【経済安定本部】
国史大辞典
二十四年六月、行政整理により一官房六局に縮小、物価庁・経済調査庁などを外局に編入し、サンフランシスコ講和条約成立ののち、二十七年八月一日経済審議庁(のち経済企画
43. 警視庁
世界大百科事典
しかし警察の中央集権化を意図した54年警察法全面改訂によって,警視庁のもとに一本化された。52年4月サンフランシスコ講和条約発効に際して本部機構を改革,警備第一
44. 刑法改正事業
日本大百科全書
防止するために、公務員による職権濫用の罪を厳しく処罰しようとする部分改正がなされた。ところがサンフランシスコ講和条約締結後、鳩山一郎はとやまいちろう内閣は、「戦
45. けんぽうちょうさかい【憲法調査会】 : 日本国憲法/(二)
国史大辞典
(二)憲法調査会  サンフランシスコ講和条約の発効(昭和二十七年四月二十八日)とともに、これまで沈黙していた保守派の中から改憲論が台頭し、やがて憲法調査会の設
46. こうあんじょうれい【公安条例】
国史大辞典
定された。その後二十四年五十三、二十五年四十七、二十六年二十三と増加し改悪も行われ、サンフランシスコ講和条約発効直後の二十七年七月には一都二十一県七十六市二十六
47. 公安調査庁
世界大百科事典
法務省の外局で,サンフランシスコ講和条約後における日本の治安行政体制整備の一環として,1952年8月,破壊活動防止法(破防法)の施行に対応して設置された。その前
48. こうあんちょうさちょう【公安調査庁】
国史大辞典
公安調査官という。二十四年に米占領軍命令で制定され、占領目的違反の政治団体を規制した団体等規正令をサンフランシスコ講和条約後に継続した破防法の執行にあたるため、
49. こうくう【航空】
国史大辞典
と大きく変換し、それに伴って航空機の性能は著しく進歩した。したがって同二十七年四月、サンフランシスコ講和条約の発効とともに航空活動を再開したときは、原点へもどっ
50. こうくうほう【航空法】
国史大辞典
により航空関係機関の解散を命ぜられ、航空に関する教育・研究なども禁止された。しかし、サンフランシスコ講和条約により平和回復後、二十七年七月十五日国際民間航空条約
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南北戦争(日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
1861~65年のアメリカ合衆国の内戦。当時34州を数えた合衆国が「南部」11州と「北部」23州とに分かれて、文字どおり国を二分して同胞が相争った南北間の内戦であった。したがって、この戦争は「諸州間の戦争」War between the Statesとよばれることもある
奴隷解放宣言(日本大百科全書)
南北戦争中リンカーン大統領が発した宣言。1862年9月の予備宣言と翌63年1月1日の本宣言とがある。戦争の勃発(ぼっぱつ)(1861)以来、内戦の目的は、奴隷の解放にあるのか、連邦の維持(国家統一の維持)にあるのかが最大の論争点であった
ポツダム宣言(日本大百科全書・世界大百科事典)
1945年(昭和20)7月に開かれたポツダム会談で協議されたうえ、同年7月26日、米英中三国政府首脳の連名で日本に対して発せられた降伏勧告の宣言。この宣言は全部で13項からなり、日本がこのまま戦争を継続すれば日本の国土は完全に荒廃してしまうこと(3項
イスラム過激派(日本大百科全書)
イスラム教徒のうち、宗教・政治・経済的目的を達成するため、テロ、殺人、暴力、誘拐などの犯罪的手段に訴える武装グループ。自ら信じるイスラム理想社会の実現のためには大量殺人などの犯罪も辞さず、アメリカ同時多発テロ、パリ同時多発テロ、ベルギー連続テロなどを
日中戦争(世界大百科事典)
1937年(昭和12)から45年までおもに中国大陸で戦われた日本と中国との全面戦争で,太平洋戦争が起こるとその一環となった。その結果,明治以来の日本の植民地帝国が崩壊したばかりでなく,東アジアの情勢も大きな変革をとげた。前史日本は1931年以来武力に
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日独伊三国同盟(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1940年(昭和15)9月27日、ベルリンで調印された日本、ドイツ、イタリアの間の軍事同盟。三国同盟締結交渉は、最初、1937年に結ばれた日独伊三国防共協定を強化しようという目的で、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の末期に始まったが、1939年
満州事変(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争。[君島和彦]▲前史満州、とくに南満州は、日本が日露戦争後に長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間の鉄道およびその付属の利権を獲得
乃木希典(日本大百科全書・世界大百科事典)
陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け
サンフランシスコ講和条約(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
太平洋戦争開始以来の戦争状態を終結させるために、日本政府が英米をはじめとする四十八ヵ国と締結した講和条約。公式名は「日本国との平和条約」。「対日平和条約」とも呼ばれている。締結の相手国は、アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・ボリビア・ブラジル
盧溝橋事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)
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