入江啓四郎『日本講和条約の研究』、西村熊雄『サンフランシスコ平和条約』(『日本外交史』二七)、山極晃「朝鮮戦争とサンフランシスコ講和条約」(『(岩波講座)日本歴史』二二所収)、五十嵐武士「対日講和の提唱と対日占領政策の転換」(『思想』六二八)、U.S.Department of State,ed.,Foreign Relations of the United States 1951.Vol.6.
国史大辞典
世界大百科事典
正式名称は,対日平和条約Treaty of Peace with Japan。1951年9月8日,サンフランシスコ市内のオペラハウスで調印され,52年4月28日発効した。
対日講和は第2次大戦終結直後には提起されなかった。それは第1に,連合国がポツダム宣言に従って日本を改造し軍国主義の基盤を除く必要があったからであり,第2に,主要関係国がこの問題をヨーロッパの戦後処理と深くかかわるものと見ており,対日講和を先議する意思を持たなかったためである。1946年6月,アメリカ政府は,対伊平和条約を結ぶためのパリ平和会議の準備のなかで〈日本国の武装解除および非軍事化に関する四国条約案〉を発表し,日本の非軍事化を厳しく実施するために占領終了後25年にわたり4ヵ国による監察制度を設けることを提唱したが,ソ連の反対にあって取り下げた。
1947年7月,アメリカはふたたび極東委員会構成11ヵ国に対し平和予備会議を提唱し,3分の2の多数で議決するという多数講和方式を示したが,対日平和条約は四国外相理事会が起草すべきであるとするソ連と,議決方式に異議を持つ中華民国政府の反対にあい,48年1月この交渉を中止した。この年になるとアメリカは対日政策を冷戦外交の一環として重視するようになり,3月,国務省政策企画局長G.ケナン,陸軍次官W.ドレーパーを東京に派遣し,GHQ司令官マッカーサーと会談させた。三者は,沖縄を戦略的基地として長期に利用できるよう国際的承認をとりつけること,講和後も横須賀を軍事的・商業的拠点とすること,日本の警察力を増強しかつ民主的改革よりも経済復興を急ぐこと,これらが実現できる国際情勢があらわれるまで講和を延期することで合意した。この諸点はその後アメリカ政府の見解の基本となり,〈事実上の講和〉政策が推進される。ドレーパーらは対日賠償を46年に発表されたポーレー報告書の24億4000万円(1939年価格)から,6億6000万円に削減するよう求め,国務省は12月,〈経済復興九原則〉をGHQに通達し,翌49年,経済顧問J.ドッジを派遣して日本の財政改革,デフレ政策への転換を強行させ,GHQの管轄事項をしだいに日本政府に移管させた。
1948年11月,極東国際軍事法廷(東京裁判)が刑の宣告を行い,12月,A級戦犯7名を処刑するに及んで,対日早期講和の世論は国内外で高まり,ソ連は48年11月に続き49年5~6月,パリでの四国外相会議で対日講和の促進を要求し,またイギリス連邦諸国とくにオーストラリア,ニュージーランドは日本軍国主義の復活を恐れ,イギリスもアジア貿易における日本の競争力強化を懸念し,厳しい制限条項をもつ講和の早期実現を望んだ。49年半ばまでにアメリカは中国革命の進展をくい止めることができないと判断し,これに代わって対アジア政策における日本の役割を一段と重視するようになり,9月,国務長官アチソンはイギリス外相ベビンとの会談でイギリスの対日強硬方針を撤回させ,両国政府が対日講和の早期実現,ソ連の参加がなくても条約を締結するという単独講和方式をとること,講和後の日本に米軍基地を設けること,対日監視や過酷な賠償を課さないことで協力するという合意をとりつけ,共同歩調をとるようになった。50年2月,中ソは中ソ友好同盟相互援助条約を結び,日本軍国主義の復活に共同で対処する決意とともに対日講和の早期実現を強調した。アメリカは4月,J.ダレスを国務省顧問に任命し,対日講和の推進に当たらせた。
6月,朝鮮戦争が開始され,アメリカ軍が日本を根拠地として出撃するようになると,アメリカは日本の軍事基地としての重要性を認め,日本国内に反米的世論が強まるのを防ぐため講和の促進を図るようになり,11月,対日講和七原則を発表し,極東委員会構成国との個別協議を開始した。この七原則には領域問題が明記されたほか,アメリカによる安全保障方式,対日請求権の放棄などが盛り込まれた。ソ連は同月,覚書で7項目の質問を発し,中華人民共和国は12月中国が参加しない対日講和の〈準備および起草は不法〉と声明した。ダレスは51年1月,関係諸国政府との直接折衝を開始し,この間に日本再軍備を危惧(きぐ)するオーストラリア,ニュージーランド,アメリカの間でANZUS(アンザス)条約を,フィリピンとの間で米比相互援助条約を結んだ。6月,アメリカ,イギリス両国の草案をもとに合同草案が作成され,7月20日,サンフランシスコ講和会議への招請状がアメリカにより発送された。日米間の交渉で未帰還邦人に関する条項が加えられ,8月16日,条約草案が各国に送付された。安全保障条約草案は日米両政府の協議の結果8月20日に確定された。
講和会議は9月4日から8日まで開かれたがこれは〈案文を基礎とする日本国との平和条約の締結および署名のための会議〉で,審議のための会議ではなく,参加各国は態度表明の機会を与えられたのみである。52ヵ国が参加し,うちソ連,ポーランド,チェコスロバキアは署名を拒否した。中国,朝鮮は招待されず,インド,ビルマ(現,ミャンマー)は参加を拒否した。条約は前文と本文7章27条から成り,議定書一つ,宣言二つが付属している。領域問題では朝鮮の独立,台湾,澎湖諸島,南樺太,千島列島に対する日本の権利,権限,請求権を放棄することが決められ,その後の帰属は未解決のままとなり,北緯29度線以南の小笠原諸島,琉球列島はアメリカが国連に信託統治を提議するまでの間,その統治下に置かれるとされた。
これに対し同年1月,共産党,労農党などにより〈全面講和愛国運動協議会〉が結成され,480万の署名を集め,社会党は1月の党大会で,〈中立堅持,軍事基地提供反対,全面講和実現〉の平和三原則を採択し,3月の総評大会でもこれを支持する態度を決め,安倍能成,南原繁らの〈平和問題懇談会〉は全面講和論を展開して大きな影響力を持った。なお,日米安全保障条約は9月8日午後調印された。
講和条約に署名または批准しなかった国との関係は次のようにして回復された。中華民国との平和条約(1952.4.28),インドとの平和条約(1952.6.9),ビルマ連邦との平和条約(1954.11.5),ソ連との日ソ国交回復に関する共同宣言(1956.10.19),ポーランド人民共和国との国交回復に関する協定(1957.2.8),チェコとの国交回復に関する議定書(1957.2.13),インドネシア共和国との平和条約(1958.1.20),日韓基本条約(1965.6.22),日中共同声明(1972.9.29)。
日本大百科全書(ニッポニカ)
連合国と日本の間で第二次世界大戦を終了させる講和条約で、1951年(昭和26)9月8日にサンフランシスコで署名され、1952年4月28日発効。サンフランシスコ講和条約ともよばれる。当事国は45。中国は、アメリカが国民政府を、イギリスが中華人民共和国政府を承認していたため講和会議に招請されず、日本は占領中のアメリカとの密約により前者と日華平和条約を結んだ(1952年4月28日)が、1972年9月29日の日中共同声明により後者を中国の唯一の合法政府と認めてこれと戦後処理を行った。ソ連は会議には参加したが、チェコスロバキア、ポーランドとともに条約には署名せず、1956年10月19日の日ソ共同宣言によりそれとの平和関係が回復された。このほか、インド、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなど別個の講和条約を結んだ国が若干ある。
日本がそれを受諾して降伏するポツダム宣言は、カイロ宣言とともに講和予備条約的内容を含んでおり、またそれが規定する占領目的が達成され日本に民主的・平和的な政府が成立すればただちに占領軍を撤収すると述べていた。しかし、冷戦の激化に伴い対日講和準備は遅延した。講和準備の方式をめぐって米ソが対立し、アメリカ政府内でも政治的理由から早期講和を唱える国務省と軍事的理由から占領継続を望む国防省が対立した。ところが1950年6月の朝鮮戦争勃発 (ぼっぱつ)によりアメリカは、日本を西側陣営の一員として育成するために早期講和の方針を固め、ダレスを国務省顧問として関係国との交渉にあたらせるとともに、同年11月には対日講和七原則を発表した。日本国内には大戦における日本のすべての敵国を相手とする全面講和を要求する声も少なくなかったが、当時の吉田内閣はアメリカの方針に同調し、講和条約はアメリカをはじめとする西側諸国中心のいわゆる片面講和として成立した。こうしてそれは、同時に結ばれた日米安保条約とともにサンフランシスコ体制とよばれるものを構成し、その後の日本の国際的地位を基本的に規定することになる。
このような背景から、条約は、日本を西側陣営の一員として再建するために、全体として比較的寛大な内容となっており、締約国の間にも日本の侵略政策の再現を恐れる国や、より十分な賠償を求める国の間に不満を残すことになった。以下、軍事、領域、経済について内容を略述する。
軍事については、日本は国連憲章第2条の義務を受諾したが、軍備制限はいっさい課されず、かえって憲章第51条の個別的・集団的自衛権を有し、集団的安全保障取極 (とりきめ)を締結できることが承認された。占領軍は条約発効後90日以内に撤退すべきものとされたが、連合国との協定による外国軍隊の駐留は妨げられないとされ、これに従い日米安保条約によって、米軍はさしあたり行政協定による占領中とほとんど変わらない特権を有しつつ、日本駐留を続けた。
領域については、日本は朝鮮の独立を承認し、台湾、澎湖 (ほうこ)諸島、国際連盟の委任統治下にあった太平洋諸島、その他若干の領域についての権利・権原・請求権を放棄した。日本はまた、千島列島と南樺太 (からふと)への権利・権原・請求権をも放棄した。1945年2月11日のヤルタ協定によりアメリカ・イギリスはこれら領域のソ連への引渡し・返還を約束していたが、ソ連が条約に参加せず、条約が日本による放棄の相手方を明記しなかったために、日ソ間に領土問題が残されることになった。沖縄と小笠原 (おがさわら)については、日本は、これらをアメリカを施政権者とする国連の信託統治地域とすることに同意し、それまではアメリカが行政・立法・司法の全権を行使するものとされた。日本はこれら領域に対して潜在主権を有するものと解されたが、アメリカの施政権は事実上無制限であった。なお、小笠原は1968年6月26日に、また沖縄は1972年5月15日に、それぞれアメリカとの協定により日本復帰が実現している。
賠償については、日本の賠償義務とともに、完全な賠償のためには日本の資源が十分でないことが承認され、生産賠償・役務賠償によるという原則が定められたほかは、賠償額等の具体的問題は個別交渉にゆだねられた。このほか在連合国の日本国・国民の資産は賠償にあてるために処分することが認められ、非連合国にあるこれら資産は捕虜とその家族への賠償のため赤十字国際委員会に引き渡された。他方、日本は連合国とその国民に対する、戦争から生じた国と国民のすべての請求権を放棄した。賠償以外の日本と連合国の経済関係については、公海漁業の規制、通商航海条約および国際民間航空について、日本が協定締結を希望する連合国と速やかに交渉を開始することが規定された。また戦前の日本貿易の不正競争再現の危惧 (きぐ)に対しては、条約前文が公正な国際的慣行に従うという日本の意思を記録するにとどまった。
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