1937年(昭和12)から45年までおもに中国大陸で戦われた日本と中国との全面戦争で,太平洋戦争が起こるとその一環となった。その結果,明治以来の日本の植民地帝国が崩壊したばかりでなく,東アジアの情勢も大きな変革をとげた。
前史
日本は1931年以来武力によって中国を大規模に侵食し,そこを足場に中国の独占をめざす政策を推し進めた。まず満州事変を起こして〈満州国〉をつくり東北4省を日本の支配下におき,ついで35年には長城線の南の華北5省を第2の〈満州国〉にしようと華北工作を開始した。おりからヨーロッパではナチス・ドイツとファシズム・イタリアとが対外侵略を始めたが36年末には日独防共協定が結ばれ,ファシズム諸国の提携がすすんだ。華北とくに内蒙古は対ソ戦のための重要地点でもあった。蔣介石を中心とした中国国民政府は,まず共産軍を掃討したあと日本に当たるという〈安内攘外〉策をとり,日本の侵略に対して妥協的だったが,中国共産党は抗日統一戦線を提唱し,民衆の間にも内戦停止・一致抗日を求める運動が広がった。これに対して日本は日中提携・満州国承認・共同防共の広田三原則を中国に押しつけようとしたが,中国では国民政府による国内統一の進展と抗日救国運動の高揚を背景に36年末,西安事件を機として内戦停止が実現した。日本でも中国政策の再検討が叫ばれ,林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は国民政府による中国統一を認める方向で国交改善を図り,陸軍でも参謀本部の石原莞爾(かんじ)作戦部長らは生産力拡充のため戦争を避け日中経済提携をすすめようとした。だが他方で中国統一の進展に危機感をつのらせ強硬外交を主張する動きも関東軍を中心に有力だった。
戦争の勃発
1937年7月7日夜に蘆溝橋事件が起こると,局地的解決を図ろうとする不拡大派とこの機に一撃を与えて中国を屈伏させようとする拡大派とが対立したが,近衛文麿内閣は華北派兵を声明して後者の道を選んだ。7月末には日本軍は華北で総攻撃を開始した。8月に戦火が上海に飛ぶと近衛内閣は中国に対する全面戦争に踏み切り,〈北支事変〉を〈支那事変〉と改称した。南京爆撃や中国沿岸の封鎖も開始された。しかし宣戦布告はなされなかった。アメリカからの武器・軍需品の輸入に支障が生ずるのを恐れたのである。8月末には北支那方面軍(司令官寺内寿一)が編成され,おもに鉄道沿いに南下したが,山西省への進撃では,平型関などで民衆を動員した中国軍に苦杯をなめさせられた。上海では中国軍がクリークを利用した堅固な陣地によって頑強に抗戦し,日本軍は甚大な損害を出し,11月に柳川平助兵団が杭州湾に上陸してようやく中国軍を後退させた。日本軍はこれを急追撃して12月13日に省都南京を占領したが,南京大虐殺事件を引き起こして世界の非難を浴びた。
この間に中国の提訴で,国際連盟総会は日本の中国都市爆撃非難の決議と,日本の行動が中国に関する九ヵ国条約と不戦条約への違反だとする決議とを採択した。11月にはブリュッセルで九ヵ国条約国会議が開かれたが,実効ある対策はとられず,中国を失望させた。ソ連だけがいちはやく中ソ不可侵条約を結んで中国を援助した。トラウトマン中国駐在ドイツ大使の仲介で和平交渉も始まったが,南京が陥落すると日本の要求はふくれあがった。中国の回答が遅れると近衛内閣は交渉を打ち切り,〈爾後国民政府を対手とせず〉と声明した。占領地には日本軍の指導で蒙疆連合委員会(1937年11月22日蒙古連盟,察南,晋北の自治政府が連合して成立),華北の中華民国臨時政府(1937年12月14日王克敏を行政委員長として成立),華中に中華民国維新政府(1938年3月28日梁鴻志(りようこうし)を行政院長として南京に成立)がつくられたが,旧軍閥時代の政治家を中心とする傀儡政権にすぎなかった。中国はまもなく活発な抗戦に出て,1938年4月には山東省南部の台児荘で日本軍を後退させて大勝利を宣伝した。日本軍は南北から徐州作戦を開始し,5月には徐州を占領したが,兵力の不足から対ソ作戦用師団の転用を余儀なくされ,中国軍の包囲には失敗した。
戦争の長期化
日中戦争が起こるとすぐ政府は各界に〈挙国一致〉の協力を求め,国民精神総動員運動(1937年9月9日内閣訓令)を発足させた。1937年9月の第72臨時議会では臨時軍事費特別会計が設置され,年間予算とほぼ同額の戦費が計上され,軍需工業動員法が発動され,輸出入品等臨時措置法等が制定された。すでに国際収支が悪化し重要物資の輸入が制限されたため〈物の予算〉が必要となり,38年1月には物資動員計画が発足した。同年の第73通常議会では国家総動員法が成立し,政府は議会の同意なしに広範な経済統制を行う権限を握った。だがまもなく軍需拡大や輸出減退のため日本は経済危機に直面した。5,6月には近衛内閣は大改造を行い,新任の宇垣一成外相,池田成彬蔵・商相(兼任),板垣征四郎陸相を加えた5相会議を発足させ,日中戦争の年内解決をめざした。経済統制が強化され,輸入物資はすべて軍需と輸出用に振り向けられ,民需向け綿製品は姿を消し,鉄材の使用制限から2年後のオリンピックと万国博も中止された。宇垣外相は国民政府行政院長孔祥煕(こうしようき)との和平工作を開始したが失敗に終わり,興亜院(対華中央機関)の新設に反対して9月末辞職した。大規模な漢口作戦も実施され,10月には日本軍は武漢三鎮を占領し,ミュンヘン会談などでイギリス,フランスが苦境に立ったのに乗じて広東も占領した。中国は主要開港地を奪われて苦境に立ったが首都を重慶に移して抗戦を続けた。
日本軍の進攻作戦は限界に達し,日本は80万の大軍を釘付けにされたまま長期戦の泥沼に引き込まれた。日本軍は点と線,つまり都市と鉄道とを握っただけで,その後方では中国共産党の指導で解放区が拡大し,戦況は年を追って不利となった。11月には近衛内閣はこの戦争の目的は東亜新秩序建設にあるとして中国にも協力を求める声明を出し,12月に日本軍の防共駐屯等の国交調整方針を示したいわゆる近衛声明を発表した。国民党副総理汪兆銘はこれに呼応して重慶を脱出し対日和平を提唱した。しかしこれに呼応する軍閥もなく,国民政府を切り崩せなかった汪一派に対する日本の態度は冷たかった。日本は占領地の経済的独占を図り,三井,三菱,住友等の大財閥にも出資させて北支那開発,中支那振興の二大国策会社を11月に設立し,交通・鉱山等重要事業を握った。イギリス,アメリカが日本の行動は門戸開放・機会均等を約した九ヵ国条約違反だと抗議し,揚子江の開放を要求したが,有田八郎外相は,事変前の観念や原則は現在の事態には適用できないと突き放した。
39年に入るとドイツがチェコスロバキアを解体し,大戦の危機が迫った。日本では日独伊三国同盟をめぐる支配層内部の対立が続いた。日本軍が占領地支配の障害になるとして天津英仏租界を封鎖してイギリスに圧力をかけると,アメリカは7月に日米通商航海条約の廃棄を通告した。つづくノモンハン事件,独ソ不可侵条約で日本が国際的に孤立するなかで9月にヨーロッパで第2次大戦が起こると,阿部信行内閣は〈欧州戦に介入せず支那事変解決に邁進(まいしん)する〉と声明した。陸軍は日中戦争を迅速に処理して大戦の拡大に対応しようと支那派遣軍総司令部(総司令官西尾寿造,総参謀長板垣征四郎)を新設。日本軍は抗戦中国への補給路遮断のため南寧作戦を実施したが,中国軍は冬季反攻に出て日本軍を苦しめた。
日本の経済危機も深刻化した。1939年夏は日照りと労働力不足とで電力不足,石炭不足に見舞われ産業活動は低下した。凶作が引き金で米不足が起こり,生活必需品の不足が広がった。これに第2次大戦による輸入困難も加わってインフレは増進した。社会不安は激化し,40年1月には阿部内閣は退陣に追い込まれた。2月には衆議院で斎藤隆夫代議士が歴代内閣の戦争方針を批判し,憤慨した軍部の圧力で〈聖戦〉冒瀆(ぼうとく)だとして除名されたが,この事件は国民の間の日中戦争批判や厭戦(えんせん)気分の高まりを示した(反軍演説問題)。
戦争の拡大
1940年5月にドイツが電撃戦を開始してめざましい成功を収めると,日本ではこれに呼応する武力南進論が高まった。まずイギリス,フランスの苦境につけこんで中国への補給路封鎖を要求し,北部フランス領インドシナに軍事監視団を駐留させ,イギリスには向こう3ヵ月間ビルマ・ルートを閉鎖させた。日本軍は重慶爆撃を強化して国民政府を屈伏させようとし,国民政府も動揺した。だが第2次近衛内閣が9月に日独伊三国同盟を結び,3月に成立した汪政権と11月に日華基本条約を結びこれを承認すると,アメリカ,イギリスは中国援助に積極的にのりだし,中国を含めた連合国の結束は強化された。日本は日中戦争によってアメリカ,イギリスとの対立を深め,枢軸国と連合国との世界的対立へと引き込まれたのである。この夏に八路軍は百団大戦を行い日本軍に打撃を与えたが,他方で国共対立も激化し,日本軍は41年7月から残虐な三光政策を用いて解放区の根拠地の封鎖と掃討を推進した。
1941年4月には日米交渉が極秘で開始されたが,6月の独ソ開戦ののち日本軍の南部仏印進駐,アメリカ,イギリス,オランダ3国の日本資産凍結と対日石油輸出禁止,と情勢は緊迫した。近衛首相は中国からの部分的撤兵による切抜けを図ったが,東条英機陸相は強硬に反対して政変となり,東条内閣が成立した。11月にアメリカは日本に〈満州国〉を含む全中国からの撤兵を求めるハル・ノートを手交し,日本はこれを拒否して太平洋戦争に突入した。中国も12月9日に日独伊3国に宣戦を布告した。日本軍は直ちに中国の外国租界と香港を占領し,重慶攻撃も計画したが,ガダルカナル戦の悪化で中止された。43年1月には汪政権と租界還付,治外法権撤廃を約し,汪政権はアメリカ,イギリスに宣戦した。アメリカ,イギリス両国も中国と特権撤廃の新条約を結んだ。中国はようやく不平等条約の打破に成功したのである。11月には蔣介石主席はF.ローズベルト・アメリカ大統領,チャーチル・イギリス首相とカイロ会談を行い,台湾・澎湖島の中国返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏をめざすカイロ宣言を発表した。
終戦
マリアナ敗戦で1944年7月に東条内閣は倒れ,小磯国昭内閣が成立すると,最高戦争指導会議は〈満州国〉の存立だけを条件に中国と和平する方針を決めた。おりから中国では国民政府軍の戦意が急激に低下し,アメリカ,イギリスはそのてこ入れもあってB29の中国配備をすすめた。日本軍は4月から京漢,粤漢両線打通の大作戦を開始し,11月には広西省の桂林,柳州をも占領した。しかし,B29は四川省の成都に進出し,6月にはサイパン島上陸に呼応して北九州爆撃を開始したのである。その後アメリカ軍は太平洋方面からの日本攻撃を強化し,中国のB29もマリアナ基地に移った。だが中国でも45年に入ると新編成の中国軍はアメリカ空軍の援護をうけて反撃力を強め,4月からの日本軍の芷江(しこう)(湖南省南西部)作戦はみじめな失敗に終わった。日本軍はアメリカ軍の上陸と対ソ戦に備えて兵力の上海,武漢,北京付近への集中と,満州への移動とを開始した。7月26日にはポツダムでトルーマン,チャーチルと蔣介石による米英中共同宣言が発表され,日本に降伏を呼びかけた。鈴木貫太郎首相が黙殺と談話すると,アメリカ軍は8月6日に原子爆弾を広島に投下し,8日にはソ連が日本に宣戦して9日から満州への進撃を開始した。日本政府は14日にポツダム宣言を受諾して降伏し,日中戦争を含めて太平洋戦争は日本の敗北で終りを告げた。
8月15日に蔣介石は〈怨みに報ゆるに怨みを以てするなかれ〉と日本人民への寛容を説いた。これに先立って延安の朱徳総司令は八路軍と新四軍に近辺の日本軍の武装解除を命令したが,蔣介石は日本軍に国民政府軍の到着を待ち,それまで所在地の秩序維持にあたるよう命令したため,しばらく局地的な軍事行動が続いた。連合国最高司令部は東北を除く中国,台湾と北緯16°以北のフランス領インドシナの日本軍は蔣介石に降伏することを指令し,アメリカ軍は南西の奥地にある国民政府軍の空輸にあたった。9月9日には岡村寧次支那派遣軍総司令官が南京で降伏文書に調印した。当時の支那派遣軍の総兵力は105万人に達していた。日中戦争による日本軍の死者は41万人,戦傷病者は92万人であるが,中国のうけた被害ははるかに甚大で,軍人の死者130余万,戦傷病者約300万人,民間人の死傷者は約2000万人にのぼる。8年余にわたる中国の抗戦は,日本帝国主義に大打撃を与え,日本を敗北させ東アジアを解放するうえで最も重要な役割を担った。
1949年10月の中華人民共和国の成立後の51年9月にはサンフランシスコ対日平和会議が開かれ,対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)が調印された。日本はこれによって台湾,澎湖島に対する一切の権利と中国におけるすべての特殊権益とを放棄したが,中華人民共和国も台湾の国民政府も会議には招かれなかった。52年4月に吉田茂内閣は台湾の国民政府と日華平和条約を結んだが,72年9月には田中角栄首相が訪中して日中国交正常化の共同声明に調印し,日本政府は日華平和条約は終了したと発表した。翌年1月には大使が交換され,78年8月に日中平和友好条約が調印された。
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