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大坂の陣

ジャパンナレッジで閲覧できる『大坂の陣』の国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典のサンプルページ

国史大辞典
大坂の陣
おおさかのじん
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名の改易・転封が広範囲に実施され、没収石高六百二十二万石余、創出大名六十八名に及び、関東・畿内を結ぶ地域は譜代大名によって固められた。かくて豊臣氏は実質的には摂津・河内・和泉六十五万石余の大名となったが、秀頼は豊臣氏の継嗣として朝廷や秀吉恩顧の大名・京畿諸社寺などの尊敬を受け、官位も家康に次いで高かったから、この面において徳川氏の立場はなお相対的であった。しかし家康は慶長八年(一六〇三)二月征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開設し、伝統的権威をかりてその天下支配を正当化し、ついで同十年四月将軍職を三男秀忠に譲渡し、徳川氏による永続的な政権掌握の意志を天下に表明した。そしてこのころから豊臣氏に臣従を迫り、秀頼の来謁を求めた。また武家官位の吹挙権を幕府の手に収め、武家官位を朝廷の員外としたのも武家・公家を区別し、官位上徳川氏と比肩する者の存在を絶つことであった。しかしその反面では秀忠の女千姫を秀頼に娶わせ、秀吉室北政所を比較的優遇し、豊国神社の祭礼を盛大にするなど豊臣氏優遇の態度を示した。そこで豊臣氏としては、徳川氏支配下の一大名として存続するか、実力をもって対抗するかいずれかであったが、秀吉子飼いの武将として宿老の地位にあった片桐且元は極力家康との融和策を執ろうとした。しかし秀頼の生母淀君らは過去の栄光を恃んで反発的であり、秀頼の家康訪問(慶長十六年三月)も、加藤清正・浅野幸長の尽力でようやく実現するという有様であった。伊達政宗・福島正則のような秀吉恩顧の大名の中には秀頼の将来と豊臣家の保全について深く憂慮する者もあったが、浅野長政・加藤清正・浅野幸長・前田利長らが相ついで没してからは、年少の秀頼を補佐し、家臣団の統制にあたる人材の乏しい豊臣氏の孤立化は一層深化し、ついに牢人を募集、武器・兵糧を蓄積し、実力によって徳川氏と対抗するようになった。

〔冬の陣〕

家康は早くから弾丸に用いる鉛を購入し、戦争に備えていたようであるが、露骨に戦争を挑発したのはいわゆる方広寺鐘銘事件であった。徳川氏は豊臣氏の財力削減のためしきりに社寺の修復を勧奨したといわれるが、慶長七年の火災により灰燼に帰した方広寺大仏殿の復興も同十四年ごろから片桐且元を奉行として着手され、十九年完成した。家康は申請に任せて供養・開眼を承認しながら式日の直前になって、文英清韓の撰した鐘銘に不吉の語がありといい、棟札の記銘に異例があるとして且元を駿府(静岡市)に招致し、本多正純を介して暗に秀頼の移封あるいは募集牢人の放逐を迫った。且元はこの挑発を回避するため、淀君の江戸移住提案を構想したが、家康の巧妙な淀君侍女操縦策によりかえって失脚し、十九年十月一日ついに茨木城(大阪府茨木市)に閉居、両氏の平和的交渉は断絶した。且元の退城後、大野治長・同治房・織田有楽(長益)・木村重成・渡辺糺らの合議により開戦に決定した豊臣氏では、十月初め、真田信繁(幸村)・長宗我部盛親・後藤基次・毛利勝永・明石全登(掃部)ら有能な牢人を入城させ、大坂および近国から二十万石に近い米穀を接収あるいは購入して兵糧とし、かつ城外の穢多崎(大阪市大正区)・博労淵・阿波座・土佐座(以上西区)・河原町・船場(以上東区)・福島(福島区)などに支寨を設け、伝法(此花区)川口には大安宅丸を繋留して水上を警戒し、真田信繁は別に真田曲輪を取り立てた。籠城の将兵はおよそ九万ないし九万六千余といわれる。そして秀頼は福島正則・黒田長政・加藤嘉明・浅野長晟・蜂須賀家政・小出吉英・池田利隆・島津家久ら豊臣恩顧の大名に救援を求め、また伊達政宗・徳永昌重に調停を依頼したがいずれも効果はなかった。一方家康は十月一日京都所司代板倉勝重から大坂不穏の通報を受けると、近江・伊勢・美濃・尾張の諸大名に出陣を、ついで各国諸大名に出陣の準備を命じ、十一日わずかの兵力で駿府を出発、二十三日京都二条城に入った。また将軍秀忠は、十月十六日軍法を下し、二十三日五万余の兵を率いて江戸城を出発、松平忠輝・鳥居忠政らを留守居とし、福島正則・黒田長政には江戸残留を命じた。そして行軍を急ぎ、美濃・近江を経て十一月十日伏見に着き、翌日家康と軍議した。かくて十五日行動を開始、家康は奈良を経て十七日摂津住吉(住吉区)に陣し、一方秀忠は摂津平野(平野区)に着陣、翌十八日茶臼山(天王寺区)において攻城の方針を定めた。攻囲軍はおよそ十九万四千余といわれる。家康の方針は極力損害を避け、諸大名の動揺を未然に防止しつつ攻撃するという慎重なものであったから、外様大名には軍監を付属して軽挙を誡めた。したがって、十一月十九日から三十日にかけて、穢多崎・新家(十九日)、野田・福島・博労淵(二十九日)、天満・船場(三十日)の支寨を占領したこと、城の東北部今福(城東区)で上杉・佐竹軍と城兵木村・後藤隊とが激突した(二十六日)こと、および松平忠直・井伊直孝・前田利常の軍が城壁に肉迫して真田隊から損害を受けた(十二月四日)こと以外にはさしたる戦闘はなかった。そこで家康は当時城を退出していた織田有楽に講和を斡旋させるとともに、十二月初旬から城内砲撃を命じ、特に射撃手に城内の要所を射撃させて威嚇を加え、また淀川を堰留めて城濠の水位を低め、かつ城壁に坑道を穿った。かくて十二月十五日城将大野治長および有楽から講和の具体的条件が提示され、また十七日には朝廷からも講和の斡旋があったが、家康はともに容れず、さらに側室阿茶局・淀君の妹常高院(京極高次室)・本多正純を使者として交渉をすすめ、十二月二十日にようやく成立した。講和条件の大要は(一)大坂城三ノ丸および総構を破却し、二ノ丸の石垣・矢倉・濠は豊臣氏の手で破壊し埋め立てる、(二)人質は織田有楽・大野治長から呈出する、(三)秀頼の身分を保証し、大坂籠城将士の所領を安堵するというものであり、家康はこれに対し、壊平工事の奉行は京極忠高(常高院の子)とすることを条件とした。要するに秀頼・淀君・募集牢人の保証を代償に大坂城の軍事的価値を奪ったものであって、秀頼が必ずしもこの講和に賛成ではなかったというのももっともと思われる。なお講和については、銀座の後藤光次が側近として活躍したが、このほか茶屋清次・亀屋栄任・中井正清・金地院崇伝らの豪商や政僧が武器購入・情報提供などにつき暗躍したことも注意される。

〔夏の陣〕

徳川氏による大坂城総構・三ノ丸・二ノ丸の破却、城濠埋立工事は、講和条件を無視し、松平忠明らの譜代を奉行とし伊達政宗らを助役として強硬に実施され、豊臣氏の抗議にもかかわらず元和元年(一六一五)正月中旬にはほとんどその工事をおえ、秀吉苦心の経営になる大坂城もその軍事的価値を失うに至った。そして福島正則が講和締結を家康の戦略と評したごとく、家康・秀忠は駿府・江戸帰城(二月十四日)後も警戒を怠らず、三月には西国諸大名船舶の大坂入港を禁じて、軍需物資の流入を防止し、また伊勢踊の流行を厳禁、鉄砲を鋳造し、淀・伏見の警備を強めた。豊臣氏では大野治房や牢人らの主戦派が主流となり、また所領不足のため十万に近い牢人の処遇に窮し、戦争によって局面を打開しようとする空気が強く、戦備を整えていたが、これらの状況は間諜の小幡景憲らの情報により的確に徳川氏に把握されていた。一方秀頼・淀君・大野治長らはその立場を家康に弁解し、所領の加増を要求したが、状況を熟知している家康はかえって秀頼の大和ないし伊勢移封、あるいは牢人の放逐を迫り、子息義直の婚儀を名目として名古屋に入り(四月十日)、上洛に備えた。途中伊勢・尾張・三河の諸大名に伏見・鳥羽集結を命じ(六日)、西国諸大名に出陣準備を命じた(七日)。そして織田有楽父子から情報を得ると、十五日名古屋を出発、十八日二条城に入った。一方江戸の秀忠も四月四日軍法を発布、蒲生忠郷・鳥居忠政らを留守居として十日出陣、二十一日伏見城に入った。そして作戦を定め、一軍は家康を奉じて大和経由河内、一軍は秀忠が率いて直接大坂に向かうこととし、二十五日前軍を出発させた。総兵力およそ十五万四千余といわれる。なお二十四日重ねて和議を慫慂し、豊臣氏存続のため最後の機会を与えた。一方、豊臣氏では籠城不可能のため野戦に決し、東軍の主力が大和口から来襲することを予測してこの方面の要衝道明寺(藤井寺市)・国分(柏原市)付近に布陣、決戦する作戦をとり、またあらかじめ和歌山の浅野長晟を討伐することとした。しかし大野治房・同道犬・塙直之ら約六千の紀伊討伐軍は、四月二十九日早朝樫井(泉佐野市)の遭遇戦に破れ、塙直之が戦死した。かくて東西両軍の主力は、五月六日・七日両日にわたって激突したが、この日は太陽暦一六一五年六月二日・三日にあたり、暑いころであった。まず五月五日平野口に集結した城兵のうち、後藤基次・薄田兼相らは六日早暁朝霧をついて道明寺に進出、高地を占拠して有利な態勢をとり、伊達政宗・本多忠政・松平忠明・水野勝成の軍と戦闘を開始し、戦場は藤井寺(藤井寺市)方面にまで拡大したが、ついに敗退、基次・兼相は戦死した。一方木村重成・長宗我部盛親ら一万余の軍も朝霧の中を若江(東大阪市)・八尾(八尾市)方面に進出し、それぞれ井伊直孝・藤堂高虎の軍と戦ったが敗退、重成は戦死、盛親は敗走した。翌七日天王寺口の毛利勝永は茶臼山方面に布陣した真田信繁・渡辺糺ら五千余の兵と連携し、船場から迂回して敵の側背を衝く明石全登の軍と呼応して決戦する作戦であったが、この口へ来襲した本多忠朝の軍と午前十時前後戦端を開いたため真田隊も開戦し、両隊は榊原康勝・松平忠直・小笠原秀政父子・本多忠政や家康の旗本と交綏、信繁はしばしば家康の本陣を突いたが、井伊・藤堂の軍が側面から攻撃したため敗軍となって戦死。東軍でも本多忠朝・小笠原秀政・同忠脩が戦死した。この日岡山(四条畷市)方面では大野治房ら四千余と前田利常・本多康紀ら一万五千余の軍とが正午ごろから衝突し、治房はしばしば秀忠の本陣に迫ったがついに敗退した。かくて二ノ丸は追撃する東軍のために陥落、本丸も裏切者の放火によって午後四時過ぎから炎上した。秀頼は直ちに自殺しようとしたが、七手組の将速水守久の諫止により、天守下の土倉(二ノ丸帯曲輪との説もある)に入った。この間大野治長は秀頼室徳川氏を脱出させ、使者を送って秀頼の助命を懇願したが家康は許さず、井伊直孝に命じて秀頼母子を監視させた。そして翌八日直孝に発砲を命じたので、午後二時前後秀頼(二十三歳)・淀君(四十九歳か)・大蔵卿局・大野治長・速水守久ら三十二人の男女が自殺して、豊臣氏はついに滅亡した。戦後徳川氏は秀頼の遺児をはじめ将兵の残党を厳しく捜索・処刑し、また閏六月には一国一城令、七月には『武家諸法度』『禁中并公家諸法度』『諸宗本山本寺諸法度』を公布して統制を一層強化し、幕府の基礎を固めた。
大坂の陣の関係史料をみるに、一般的経過については、家康側近後藤光次の『駿府記』、金地院崇伝の『本光国師日記』をはじめ、『当代記』、『大坂冬之陣記』(羅山別集本)、『慶長見聞書』などが良質あるいは包括的な史料であるが、細川家で編集した『綿考輯録』(『細川家記』)も当時の実状を伝えるものとして優れており、『義演准后日記』(醍醐寺三宝院義演)、『時慶卿記』(西洞院時慶)、『舜旧記』(神竜院梵舜)、『孝亮宿禰記』(小槻孝亮)、『土御門泰重記』などの日次記にも記事が多い。戦記では、後世の編纂物とはいえ『大坂御陣覚書』『難波戦記』『元和先鋒録』などが戦闘を概観するのに便利であり、『大坂合戦覚書』『後藤合戦記』は主として豊臣軍の動向を記している。しかしこの戦役に関し、もっとも多量かつ特質をもつ史料は書上・覚書・聞書・家譜の類であろう。書上は本来自己の体験を主君に書き上げたもので、日付・差出所・充所を具備するのが原型であり、大坂の陣については『丹羽家文書』『井伊家文書』などに多量に包含されている。また覚書・聞書のように体験者または御伽衆・聴衆によって書き留められ、一般にも流布した記録では、東軍に関するものとして『水野勝成覚書』『石川忠総大坂陣覚書』『幸島若狭大坂陣物語』『土屋知貞私記』『村越道半覚書』『道夢聞書』『福富覚書』『渡辺勘兵衛武功覚書』『樫井合戦覚書』、豊臣軍については『北川遺書記』(北川次郎兵衛)、『大坂御陣山口休庵咄』、『長沢聞書』(長沢九郎兵衛)、『鵜川宗宥覚書』『おきく物語』などがある。また幕府の手になる『譜牒余録』『後編譜牒余録』『寛政重修諸家譜』『朝野旧聞©藁』などの編纂書には多量の史料群が網羅的に収載され、『伊達政宗記録事蹟考記』(伊達氏)、『高山公実録』(藤堂氏)、『池田家履歴略記』(池田氏)、『大坂両陣日記』(前田氏)、『真武内伝』(真田氏)、『蜂須賀家譜』『佐竹家譜』『上杉家譜』などの家譜類にも、それぞれの藩を中心とした詳細な記述がある。なお『大坂首実検帳』、戦闘の実況を図示する「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣所蔵)、『日本西教史』『リチャード=コックス日記』も参考となり、明治以降の史料集では『大日本史料』一二ノ一五―二〇(六冊)がほとんど史料を網羅しており、諸将の武功・逸話などは参謀本部編『日本戦史』大阪役(補伝)に収載されている。また中村孝也著『徳川家康文書の研究』下巻一・二(昭和三十五年・三十六年刊、二冊)も、当時の家康文書を中心に秀忠の文書をも付収した文書集として貴重である。
[参考文献]
高柳光寿編『大日本戦史』三、本間徳次郎『大阪冬夏之役』、岡本良一『大坂冬の陣夏の陣』(『創元新書』一六)
(岩沢 愿彦)
©Yoshikawa kobunkan Inc.


改訂新版・世界大百科事典
大坂の陣
おおさかのじん

江戸幕府が豊臣氏を大坂城に滅ぼした戦い。1614年(慶長19)の冬の陣と,翌年(元和1)の夏の陣とに分かれる。

原因

1598年,豊臣秀吉は当時6歳の秀頼を五大老の筆頭徳川家康以下の有力諸大名に託して死んだが,その2年後の関ヶ原の戦で天下の実権を掌握した家康は,1603年には征夷大将軍となり,全国の大名を軍事的に指揮する伝統的な権限を手中にした。この権限にもとづいて家康は諸大名に築城などの御手伝普請を賦課するとともに,京都の二条城,江戸,駿府などへの参勤と証人(人質)の呈出とを強制した。秀吉の場合,後北条氏や朝鮮国王に対する参洛の要求を拒否されたことが,後北条氏征伐や朝鮮出兵の大義名分の一つとなったことからもわかるように,諸大名が家康や秀忠のもとに手勢をひきいて参勤することは,その軍事指揮権に服属し,幕府を中心とした政治的秩序に参加する意志を形に表す意味をもった。秀頼に対しても家康は,秀吉との約束を守って1603年に千姫(天樹院)を秀頼のもとへ入輿させる一方,05年の将軍交代を機に二条城において新将軍秀忠に礼をするよう要求した。しかし1603年内大臣,05年右大臣と官位の上でも家康・秀忠と雁行し,堅城大坂城で諸公家や秀吉恩顧の諸大名の年始の礼を居ながらにして受けていた(これは1614年まで続いた)秀頼は,生母浅井氏(淀君)の意志でこれを拒絶したので上方には開戦のうわさが流れ,大坂では家財を避難させる庶民も出る状態であった。このときは妥協した家康は,11年,後水尾天皇の即位を機として秀頼の近臣にも禁裏造営の役を賦課すると同時に,秀頼を大坂から上洛させ二条城で礼をさせることに成功した。そして3年後には,方広寺大仏の鐘銘に難癖をつけ(鐘銘事件),和解の条件として秀頼か浅井氏の江戸移住,秀頼の大坂からの国替のうちの一つを受け入れるよう大坂方に迫った。大坂方はこれを拒否し,片桐且元など和解に努力した勢力を城から追い出し,多数の牢人を召し抱えて軍事的対決の構えを示した。

戦いの経過

家康は10月諸大名に動員令を発して駿府を出発して上洛し,11月15日二条城を出て大坂に向かった。麾下(きか)の軍勢は20万,これに対して大坂方は10万といわれる。しかし,堅固な城を攻めあぐみ,12月21日に和平を成立させ,外堀の一部を形だけ埋めるという約束を無視して内堀までも埋めてしまった。さらに年を越えて家康は,牢人の放出,秀頼の大和または伊勢への国替の二者択一を迫って,大坂方を再戦に追い込んだ。4月29日に戦闘が開始された夏の陣では,堀を失った大坂方は城を出て戦う方針を採ったが,利あらず,5月7日,大坂城は陥落し秀頼母子は自殺した。以後,徳川氏の政権は250年余にわたって安定し,大名の間の戦争が絶えた。このことを後年〈元和偃武(げんなえんぶ)〉という。
[高木 昭作]

[索引語]
大坂冬の陣 大坂夏の陣 豊臣秀頼 徳川家康 元和偃武


日本国語大辞典
おおさか の 陣(じん)

徳川家康が豊臣氏を攻め滅ぼした戦い。慶長一九年(一六一四)、家康は全国の大名を召集し、一一月に大坂城を攻囲(これを大坂冬の陣という)。翌月、外堀を埋める条件で和議を結んだが、約束に反して内堀までも埋め立てた。翌年四月に戦闘が再開され(これを大坂夏の陣という)、五月に豊臣秀頼とその母淀君は自殺し、大坂城も陥落した。

発音

オーサカノジン

〓[ジ]


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1. おおさか の 陣(じん)
日本国語大辞典
徳川家康が豊臣氏を攻め滅ぼした戦い。慶長一九年(一六一四)、家康は全国の大名を召集し、一一月に大坂城を攻囲(これを大坂冬の陣という)。翌月、外堀を埋める条件で和 ... ...
2. 大坂の陣 画像
日本大百科全書
1614年(慶長19)の冬および翌1615年の夏、徳川氏が豊臣(とよとみ)氏を攻め滅ぼした両度の戦いをいう。関ヶ原の戦いの勝利によって、徳川家康は事実上、天下の ... ...
3. 大坂の陣
世界大百科事典
江戸幕府が豊臣氏を大坂城に滅ぼした戦い。1614年(慶長19)の冬の陣と,翌年(元和1)の夏の陣とに分かれる。 原因 1598年,豊臣秀吉は当時6歳の秀頼を五大 ... ...
4. おおさか‐の‐じん【大坂の陣】
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徳川家康が豊臣氏を滅ぼした戦い。慶長19年(1614)冬の戦いを大坂冬の陣、元和元年(1615)夏に再開された戦いを大坂夏の陣という。 ... ...
5. おおさかのじん【大坂の陣】 画像
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禁中并公家諸法度』『諸宗本山本寺諸法度』を公布して統制を一層強化し、幕府の基礎を固めた。 大坂の陣の関係史料をみるに、一般的経過については、家康側近後藤光次の ... ...
6. Ōsaka Castle, Sieges of 【大坂の陣】
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7. あいづそうどう【会津騒動】
国史大辞典
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8. あおき-しんべえ【青木新兵衛】
日本人名大辞典
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9. 青山氏
世界大百科事典
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10. 青山忠俊
世界大百科事典
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11. あおやまただとし【青山忠俊】
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12. 明石掃部
世界大百科事典
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13. あかし-かもん【明石掃部】
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。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(ちくぜん)(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村(さなだ-ゆきむら)らと活 ... ...
14. あきのくにひろしまはんしゅ【安芸国広島藩主】 : 浅野氏/(一)
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15. 秋元泰朝
日本大百科全書
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16. 秋元泰朝
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17. 浅野氏
世界大百科事典
ぜられた。1613年(慶長18)幸長は嗣子なくて没し,弟長晟(ながあきら)があとを継いだが,大坂の陣の功により19年(元和5)安芸国,備後8郡42万6000石に ... ...
18. あさのけもんじょ【浅野家文書】
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20. あさの‐ながあきら【浅野長晟】
日本国語大辞典
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21. あさの-ながあきら【浅野長晟】
日本人名大辞典
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22. あさの-ながしげ【浅野長重】
日本人名大辞典
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23. あざぶさくらだちよう【麻布桜田町】東京都:港区/旧麻布区地区 地図
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名主十兵衛の先祖は、甲州から来た浪人箕輪氏で、桜田霞ヶ関に住居していたと伝える。奥州・関ヶ原・大坂の陣に人馬を出し、夏の陣では人足として供をした七兵衛こと伊予が ... ...
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25. 阿茶局
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の没後,1579年(天正7)召し出されて家康の側室となる。妻妾中才略第一の人物として出頭し,大坂の陣の和睦交渉の使者を務めるなど内外の枢機に参画した。その活躍は ... ...
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日本歴史地名大系
・阿倍野地域で戦火を交えたのをはじめ(重編応仁記など)、戦渦は慶長一九年(一六一四)と翌年の大坂の陣で大坂城が落城する頃まで継続する。 ... ...
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日本歴史地名大系
があり、戦国時代に入っても大小の合戦が続き、「虎狼のすみか」といわれるまでに寂れたと伝える。大坂の陣ののち、ようやくこうした状況はおさまったが、当地は大坂市中か ... ...
28. あべのむら【阿部野村】大阪府:大阪市/阿倍野区 地図
日本歴史地名大系
天正一四年(一五八六)に片桐且元が巡見した際、阿部島を阿部野之庄と改称、村高を三〇〇石としたという。また大坂の陣後、離散民が帰村し始め、元和四年(一六一八)に「 ... ...
29. あべ-まさずみ【阿部正澄】
日本人名大辞典
1593−1628 江戸時代前期の武士。文禄(ぶんろく)2年生まれ。阿部正次の長男。大坂の陣で徳川家康にしたがい,功をたてる。上総(かずさ)(千葉県)大多喜城に ... ...
30. あべまさつぐ【阿部正次】
国史大辞典
合わせて一万石となる。十五年下野国都賀郡鹿沼で五千石加増、十六年八月大番頭となり、伏見城番を三年間つとむ。大坂の陣には秀忠に従い、戦功により元和二年(一六一六) ... ...
31. あべ-まさつぐ【阿部正次】
日本人名大辞典
1569−1647 江戸時代前期の大名。永禄(えいろく)12年生まれ。阿部正勝の長男。徳川家康につかえ,大坂の陣で功をたてる。上総(かずさ)(千葉県)大多喜城主 ... ...
32. あまがさきし【尼崎市】兵庫県
日本歴史地名大系
。〔近世〕慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦後、建部寿徳は徳川氏の郡代として尼崎城にあった。大坂の陣のとき政長(寿徳の孫)は一二歳の幼少であったので、幕府は同一 ... ...
33. あまがさきじょうあと【尼崎城跡】兵庫県:尼崎市/尼崎城下
日本歴史地名大系
相続、続いて尼崎城に居住、母方の下間家の当主下間重利に政長を後見させることとした(同系図)。大坂の陣のとき建部政長は一二歳の幼少であった。幕府は池田(下間)重利 ... ...
34. 尼崎藩
世界大百科事典
摂津国(兵庫県)川辺郡尼崎を城地とした譜代藩。1615年(元和1)大坂の陣の功によって尼崎郡代建部(たけべ)政長とその代官池田重利がともに尼崎において1万石の大 ... ...
35. あまがさきはん【尼崎藩】
国史大辞典
秀吉の直轄地となったらしい。建部高光が尼崎郡代となり、関ヶ原の戦後も建部氏の支配がつづいた。大坂の陣で孫政長が徳川氏のために働いたので、元和三年(一六一七)建部 ... ...
36. あまがさきやまたえもん【尼崎屋又右衛門】
国史大辞典
亮のあとであると伝える。初代又次郎吉次は家康と関係があり、その御用をなし、甥の又左衛門清孝は大坂の陣には旗本につとめ、のち又右衛門を名乗り、駿府、江戸室町、大坂 ... ...
37. あまの-はんのすけ【天野半之助】
日本人名大辞典
1588−1667 江戸時代前期の武士。天正(てんしょう)16年生まれ。徳川家康につかえる。大坂の陣では松倉重政にしたがい奮戦。のち安芸(あき)広島藩主浅野長晟 ... ...
38. あらいむら【荒井村】長野県:中野市
日本歴史地名大系
別本歴代古案)に「新屋之地」とあるのが初見。本村は松平忠輝領当時、慶長一九年(一六一四)七月大坂の陣に山城本願寺教如(光寿)に銀子を贈り、忠輝改易後は井上庸名領 ... ...
39. あらたきさんじょうあと【荒滝山城跡】山口県:厚狭郡/楠町/東吉部村
日本歴史地名大系
益田牛庵覚書(「閥閲録」所収)によると慶長五年(一六〇〇)頃は益田玄蕃元祥が城主であったらしい。内藤氏は大坂の陣後一時期断絶した。江戸時代に入り廃城となったが、 ... ...
40. ありま-とようじ【有馬豊氏】
日本人名大辞典
石城主となる。関ケ原の戦いで父とともに東軍につき功をたて,丹波福知山(京都府)6万石を領す。大坂の陣の活躍により加増転封(てんぽう)され,元和(げんな)6年筑後 ... ...
41. あわしま【粟島】香川県:三豊郡/詫間町
日本歴史地名大系
島は阿島・尾元島。粟島大明神、梵音寺(現真言宗醍醐派)などがある。古くから加子が多く、文禄・慶長の役、大坂の陣に従軍したという。寛永一四年(一六三七)島原の乱に ... ...
42. あわのくにながおはんしゅ【安房国長尾藩主】 : 本多氏/(三)
国史大辞典
また天正三年(一五七五)ごろ徳川家康のもとを去ったが、慶長元年(一五九六)三たび家康に召し帰され、関ヶ原の戦、大坂の陣に戦功をたて、元和二年(一六一六)七月には ... ...
43. あんじはん【安志藩】
国史大辞典
播磨国(兵庫県)安志を藩庁とした藩。藩主小笠原氏。譜代。陣屋持。大坂の陣で戦死した小笠原忠脩の子長次は、長ずるに及び寛永三年(一六二六)播州竜野に六万石を与え ... ...
44. あんどう-しげのぶ【安藤重信】
日本人名大辞典
の次男。安藤直次の弟。徳川家康・秀忠につかえ,小牧・長久手(ながくて)の戦い,関ケ原の戦い,大坂の陣で功をたてる。この間慶長16年老中。17年下総(しもうさ)小 ... ...
45. あんどうなおつぐ【安藤直次】
国史大辞典
加増された。同十五年家康は直次を十子頼宣の守役としたが、これは直次の朴直な性格を見抜いたためである。大坂の陣には頼宣に従って出陣したが、軍事にすぐれていたため、 ... ...
46. いいし【井伊氏】 画像
国史大辞典
みずからは彦根十八万石の中から上野安中で三万石を分かち賜わった。直孝は徳川秀忠に仕え、兄に代わって大坂の陣に戦功を立て、元和元年(一六一五)五万石を加増されて二 ... ...
47. 井伊直孝
世界大百科事典
秀忠の小姓となる。書院番頭,大番頭を歴任して1万石を領し,掃部頭となる。兄直勝が多病のため,大坂の陣に出陣して軍功をあげ,徳川家康の命により家督を相続。33年( ... ...
48. いい‐なおたか【井伊直孝】
日本国語大辞典
江戸幕府初期の重臣。直政の子。彦根藩主。大坂の陣に功をたて、将軍徳川秀忠、家光、家綱を補佐。天正一八〜万治二年(一五九〇〜一六五九) ... ...
49. いいのやはん【井伊谷藩】
国史大辞典
嫌ったため直政の追及をさけ、伊勢にかくれていたが、直政の死後将軍徳川秀忠に召し出され旗本に列した。大坂の陣での功績が認められ、相模で一万石を加増され大名となった ... ...
50. いいやまはん【飯山藩】
国史大辞典
知行し、千曲川の氾濫をおさめ、置目を定めて広大な新田の開発を行なった。高田城主となった忠輝が大坂の陣の失態で改易となり元和二年(一六一六)七月移封され、飯山城に ... ...
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大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
関ヶ原古戦場跡(日本歴史地名大系)
慶長五年(一六〇〇)九月一五日に行われた徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍との合戦場跡。決戦は東西約四キロ、南北約二キロ、標高一三〇メートルの関ヶ原台地で展開され、この戦いに勝利したことで家康は事実上天下の支配者となり、慶長八年の征夷大将軍補任によって名目上からも全国統一の権威をもった
桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
小豆坂古戦場(日本歴史地名大系)
[現]岡崎市羽根町 小豆坂 羽根地籍東方の丘陵地。松の木立に覆われた起伏の多い一帯が今川義元と織田信秀の軍が激しく戦った小豆坂古戦場である。「信長記」などによると、天文一一年(一五四二)八月、今川義元は駿遠三の兵を率いて、当時織田信秀の支配下にあった安祥城(現安城市)を攻撃し
国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面
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明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。
長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。
毛利勝永(日本人名大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。毛利勝信の子。関ケ原の戦いで西軍に属し,敗れて父とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられる。慶長19年子の勝家と脱走して大坂城にはいり
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豊臣秀頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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