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ジャパンナレッジで閲覧できる『明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)』の日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ
日本人名大辞典
明石掃部
あかしかもん
織豊-江戸時代前期の武将。
宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(ちくぜん)(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村(さなだ-ゆきむら)らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和(げんな)4年に病死したともいう。名は守重。号は全登,全薑。洗礼名はジョアン。
©Kodansha
改訂新版・世界大百科事典
明石掃部
あかしかもん
江戸初期のキリシタン武将。生没年不詳。名は守重。全登,全薑と号す。洗礼名ジョアン。宇喜多秀家の姉を妻とし,家臣中最大の領地を有した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦で西軍に属した宇喜多家滅亡後,黒田家にむかえられ,筑前秋月に住した。15年,豊臣秀頼の招きに応じ,大坂の陣にキリシタン部隊を率いて活躍した。大坂落城後,戦死とも,逃亡潜伏後病死したともいわれている。
[高木 傭太郎]
©Heibonsha Inc.
国史大辞典
明石掃部
あかしかもん
? - 一六一八
江戸時代前期の武将。名は守重。全登・全薑と号す。キリスト教を信じ受洗してジョアンという。備前国出身で宇喜多秀家・黒田如水の親戚にあたり、父景親とともに宇喜多家に仕えた。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦に参加、西軍の敗北により宇喜多家が没落したため浪人となり、黒田直之の領地筑前秋月に隠れ、のち長崎に移った。元和元年(一六一五)豊臣秀頼の招請に応じてその子らとともに大坂城に入り、落城後逃亡し潜伏していたが三年後病死した。なお彼の五人の子はいずれもキリシタンで、長男は宣教師となっていた。四男ヨセフは大坂城で戦死、次男内記パウロは城を脱出し、一時広島に身をひそめたが最後は明らかでない。
[参考文献]
レオン=パジェス『日本切支丹宗門史』(吉田小五郎訳 『岩波文庫』)
(岡田 章雄)
©Yoshikawa kobunkan Inc.