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  11. 本多正信
国史大辞典

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本多正信
ほんだまさのぶ
一五三八 - 一六一六
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保(まさやす)、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え、永禄六年(一五六三)の三河一向一揆のときは一揆方に加わったため三河国を追放され諸国を流浪し、加賀国に住んだ。のち許されて帰参し、元亀元年(一五七〇)姉川の戦に従軍した。天正十年(一五八二)武田氏滅亡後、家康の甲斐国経営には井伊直政・大久保忠隣・高木広正らとともに奉行として活躍して頭角をあらわし、同十二年の小牧・長久手の戦のころから家康側近の謀臣となった。同十四年従五位下佐渡守に叙任。同十八年家康の関東入国後、相模国玉縄(甘縄)一万石を与えられ関東総奉行に任ぜられた。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦には秀忠に付属し、東山道を進んで信濃上田城にこもる真田昌幸・幸村父子を攻めたが、九月十五日の東西両軍の決戦には遅れた。戦後は家康の側近にあり、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・大久保忠隣とともに徳川政権の中枢を担った。慶長八年江戸幕府成立後は世子秀忠付きの老職となり、特に慶長七年に直政、同十一年に康政、同十五年に忠勝と相ついで没したのちは家康の信任もっともあつく、大久保忠隣とともに初期幕閣を担った。このころ正信に加恩あって二万二千石を領したという。帰り新参譜代の正信が家康側近の第一人者になれたのは武功を通じてではなく、智謀と行政的手腕によるものだった。いわば家康帷幄の謀臣で、幕僚的吏僚の筆頭といえる。生前の君臣水魚の交りを象徴するように、家康より四十九日後の元和二年(一六一六)六月七日そのあとを追って没した。七十九歳。法号は善徳納誨院。京都の本願寺に葬る→本佐録(ほんさろく)
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ二五 元和二年六月七日条、『寛政重修諸家譜』六九三、藤野保『新訂幕藩体制史の研究』、中村孝也『家康の臣僚』武将篇
(所 理喜夫)
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検索コンテンツ
1. 本多正信
日本大百科全書
徳川家康の側近。江戸幕府創業期に、後の大老・老中に相当する役割を果たした。古くからの松平氏譜代(ふだい)の家柄の生まれ。代々通称を弥八郎(やはちろう)。1563 ... ...
2. 本多正信
世界大百科事典
1538-1616(天文7-元和2) 江戸初期の大名。徳川家康の側近。創業期の江戸幕府で,のちの大老または老中に相当する位置にあった。通称を弥八郎。祖父の代から ... ...
3. ほんだ‐まさのぶ【本多正信】
デジタル大辞泉
[1538〜1616]安土桃山・江戸初期の武将。三河の人。幼少より徳川家康に仕え、謀臣として活躍。のち、2代将軍秀忠の側近。「本佐録」の著者といわれるが未詳。 ... ...
4. ほんだ‐まさのぶ【本多正信】
日本国語大辞典
江戸初期の大名。徳川家康の謀臣として近侍し、江戸城下の経営に参画。家康が駿府に移ると二代将軍秀忠の執政として活躍。「本佐録」の著者といわれる。天文七〜元和二年( ... ...
5. ほんだまさのぶ【本多正信】 画像
国史大辞典
一五三八―一六一六 戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保(まさやす)、正行。 ... ...
6. 本多正信(ほんだまさのぶ)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 414ページ ... ...
7. ほんだ-まさのぶ【本多正信】
日本人名大辞典
1538−1616 戦国-江戸時代前期の武将,大名。天文(てんぶん)7年生まれ。徳川家康につかえるが,三河一向一揆(いっき)に味方して追放される。のち帰参し,家 ... ...
8. 本多正信[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:0件 『江戸墓府その実力者たち 』北島正元 ... ...
9. 本多正信印[図版] 画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ... ...
10. 本多正信花押[図版] 画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ... ...
11. あいづせいばつ【会津征伐】
国史大辞典
杉氏では、千坂景親の伏見からの通報に従って講和を決意、本庄繁長を上洛させた。そして結城秀康・本多正信・榊原康政らの尽力により講和が成立、景勝は同六年七月上洛して ... ...
12. あおやまただなり【青山忠成】
国史大辞典
沙汰する任務をおびて先発し、入国後は相模高座郡のうちにて五千石与えられた。文禄元年(一五九二)、本多正信・内藤清成とともに関東総奉行に任命され、関東領国経営にす ... ...
13. あおやま-ただなり【青山忠成】
日本人名大辞典
日生まれ。青山忠門(ただかど)の子。徳川家康につかえ,秀忠の側近となる。文禄(ぶんろく)元年本多正信,内藤清成とともに関東総奉行となり,のち江戸町奉行を兼務した ... ...
14. あさくさまつきよちよう【浅草松清町】東京都:台東区/旧浅草区地区 地図
日本歴史地名大系
飾区高砂へ移転。現単立徳本寺所蔵の鎌倉時代中期作の木造阿弥陀如来立像は都指定文化財、絹本著色本多正信像(附同夫人像)は国指定重要文化財。 ... ...
15. 阿部氏 画像
日本大百科全書
三河(みかわ)、甲斐(かい)、信濃(しなの)の五か国領有期に活躍した正勝の代である。正勝はこの時期、本多正信、大久保忠隣(おおくぼただちか)らとともに、旗本や5 ... ...
16. 甘縄藩
日本大百科全書
戦国時代は小田原北条氏の一族北条氏勝(うじかつ)が居城。1590年(天正18)徳川家康の関東入国に際し本多正信(ほんだまさのぶ)が1万石で配されたというのが定説 ... ...
17. あまなわはん【甘縄藩】
国史大辞典
相模国(神奈川県)玉縄を藩庁とした藩。本来は玉縄藩が正称。天正十八年(一五九〇)八月、北条氏の没落後、本多正信が玉縄領内で一万石を得、城は水野織部正忠守が預かり ... ...
18. いしかわしょうさいぶんけんしゅう【石川正西聞見集】
国史大辞典
述べている。これに関連して、秀吉・家康およびその周辺の人々の経歴・言行などに触れた項目も多い。第二には本多正信をはじめとする文吏派的官僚の民政・土木・質素などに ... ...
19. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
(「北条家人数覚書」毛利家文書)、清水氏は城を明け渡した。ちなみに同年とみられる四月二三日の本多正信書状(星谷文書)に、伊豆国が徳川家康に与えられたことが記され ... ...
20. いちがや【市谷】東京都:新宿区/旧牛込区地区 地図
日本歴史地名大系
園簿)。江戸時代には地域のほとんどを武家屋敷が占めた。大名への賜邸は天正一八年(一五九〇)に本多正信が佐渡原に拝領したのをはじめとして、寛永九年(一六三二)に安 ... ...
21. いちがやさどはらちようさんちようめ【市谷砂土原町三丁目】東京都:新宿区/旧牛込区地区 地図
日本歴史地名大系
明治五年(一八七二)に起立。市谷砂土原町二丁目の北東にあたる旧武家地で、砂土原の地名由来とされる本多正信の別邸も当地辺にあったといわれる。延宝年中(一六七三―八 ... ...
22. いわきさだたか【岩城貞隆】 画像
国史大辞典
関ヶ原の戦不参のかどで慶長七年(一六〇二)所領を没収され江戸浅草に住んだが、同年九月月俸三百口を賜わって本多正信の組に属し、大坂の両陣には正信の指揮のもとに将軍 ... ...
23. いわき-さだたか【岩城貞隆】
日本人名大辞典
わき)(福島県)大館城主をつぐ。関ケ原の戦いに出陣しなかったため所領を没収される。大坂の陣に本多正信にしたがって出陣,元和(げんな)2年信濃(しなの)(長野県) ... ...
24. うえすぎかげかつ【上杉景勝】 画像
国史大辞典
十月、関ヶ原の石田方敗北を知り撤兵し、十二月、徳川家康に降伏する。このころから、兼続と家康の重臣本多正信との接近が始まり、景勝の政治的地位に影響する。六年七月、 ... ...
25. うえみねむら【上峰村】埼玉県:与野市 地図
日本歴史地名大系
を宛行っているが、「上峯」は当地のことか。天正一八年(一五九〇)の徳川家康の関東入国後は初め本多正信が領したと伝え、同一九年に検地を受けたという(風土記稿)。地 ... ...
26. 江戸幕府 画像
日本大百科全書
、なお幕政の実権を握っていた。家康は秀忠に軍事政権としての徳川政権の強化を任せ、自らは駿府で本多正信(ほんだまさのぶ)らを重用して、国政にかかわる財政から貿易、 ... ...
27. おうめかいどう【青梅街道】東京都:総論
日本歴史地名大系
江戸城の大改修にあたって天守をはじめとする白壁用の石灰が大量に必要になったため、幕府年寄衆の本多正信・大久保忠隣は上成木と北小曾木から採取・上納することを代官頭 ... ...
28. 大久保忠隣
日本大百科全書
キリシタン禁令で京都に出張中、改易となる。表向きの理由は幕府に対する無届婚姻だが、実際は、忠隣と並ぶ実力者本多正信(まさのぶ)およびそのバックにある家康の駿府( ... ...
29. 大久保忠隣
世界大百科事典
た。94年(文禄3)父忠世の遺領を合わせ相州小田原6万5000石の大名となる。関ヶ原の戦では本多正信とともに秀忠軍の指揮者で,のち江戸政権の実力者となった。とこ ... ...
30. おおくぼ‐ただちか【大久保忠隣】
日本国語大辞典
江戸初期の老中。徳川家康に近習として仕え小田原藩主となる。二代将軍秀忠の擁立につくしたが、老中本多正信と対立。大久保長安の不正事件がもとで領地を没収され、近江に ... ...
31. おおくぼただちか【大久保忠隣】 画像
国史大辞典
忠隣の長男新十郎忠常は、父に先立ち、慶長十六年の十月、三十二歳で病死したが、生前から非常に人望があった。それを本多正信が妬んでいたといわれる。しかも、同年四月に ... ...
32. おおくぼ-ただちか【大久保忠隣】
日本人名大辞典
家第1次2代。2代将軍徳川秀忠の擁立に尽力して老中となるが,慶長19年突然所領を没収された。本多正信との勢力あらそいが原因とされる。寛永5年6月27日死去。76 ... ...
33. おおごはん【大胡藩】
国史大辞典
慶長五年(一六〇〇)秀忠に従って信州上田城攻めに際し、本陣の制止をきかず家臣が先駆けしたため、本多正信らにその処罰を求められ、子忠成がそれに抗して家臣とともに出 ... ...
34. おおすみのくに【大隅国】鹿児島県
日本歴史地名大系
〔石高の変遷〕関ヶ原の合戦で西軍に属して敗れた島津氏は、合戦後本多正信・山口直友らを介して交渉の末(慶長六年八月二四日「本多正信山口直友連署起請文」島津家文書な ... ...
35. 花押 画像
世界大百科事典
特徴とする徳川家康の花押にあやかったいわゆる明朝体(みんちようたい)の花押(例えば徳川秀忠,家光,綱吉,吉宗,本多正信,伊奈忠次,前田利長,毛利秀元,大石良雄) ... ...
36. かみすがおむら【上菅生村】神奈川県:川崎市/多摩区 地図
日本歴史地名大系
るよう武蔵目代に命じられている。田園簿に「上菅生村五反田共」とみえる。天正一八年(一五九〇)本多正信領、寛永年中(一六二四―四四)旗本本多・斎藤・市岡領の三給、 ... ...
37. かみわだむら【上和田村】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
「三河物語」の著者として知られている。小田原に封ぜられた忠世の子忠麟は将軍秀忠擁立後は老中となったが本多正信と対立し、大久保長安事件に関連して失脚した。慶安二年 ... ...
38. 関東総奉行
世界大百科事典
濫觴(らんしよう)とし,1601年(慶長6)にこれを整備して成立した。奉行には青山忠成,内藤清成,本多正信を任命し,青山,内藤には与力,同心が付属した。支配領域 ... ...
39. かんとうそうぶぎょう【関東総奉行】
国史大辞典
設けられた関東八州庶務奉行(しょむぶぎょう)を濫觴とし、慶長六年(一六〇一)これを充実して、本多正信および青山忠成(ただなり)・内藤清成(きよなり)を任命した。 ... ...
40. きこう‐さま【貴公様】
日本国語大辞典
Quicôsama (キコウサマ)」*上杉家文書‐(年未詳)〔江戸〕五月二九日・本多正信書状(大日本古文書二・八七五)「貴公様御事は、去年迄、御領中過半不作申候 ... ...
41. きたかみがわ【北上川】宮城県:総論
日本歴史地名大系
用いられ、慶長五年には徳川家康に子籠一〇・塩引二〇、秀忠に子籠五・塩引一〇のほか、井伊直政・本多正信らにも送っている(同年「歳暮進物注文」伊達家文書)。これから ... ...
42. きんじゅうしゅっとうにん【近習出頭人】
国史大辞典
る家康の四天王や石川・大久保など、三河以来の譜代門閥諸家が政治上の地位を低下させてゆく中で、本多正信・正純父子に代表される出頭人の活動が顕著となり、ついで秀忠の ... ...
43. 近世社会
世界大百科事典
聞いたことがあると記している。この年貢納入の程度は,一年の作食を見積もって,その残りを取れという本多正信の言葉を理想としている(《本佐録》)。 この実現のために ... ...
44. 子育ての書 1 86ページ
東洋文庫
本佐録(伝本多正信)   『本佐録』の著者は、本多佐渡守正信といわれている。三河の出身で徳川家康に仕う。家康の篤い信頼を得、   その言動は正信の献策によるとこ ... ...
45. 子育ての書 3 20ページ
東洋文庫
   186r本草』     1297,307,308本多利明    136,41.皿274本多正信        186r本朝孝子伝』      皿83r本朝 ... ...
46. ごたんだむら【五反田村】神奈川県:川崎市/多摩区 地図
日本歴史地名大系
と伝える。田園簿に「上菅生村五反田共」、元禄郷帳に「五反田村」とある。天正一八年(一五九〇)本多正信領、寛永年中(一六二四―四四)旗本本多・市岡領の二給、元禄二 ... ...
47. さいたまぐん【埼玉郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
。羽生城主大久保忠隣は文禄二年(一五九三)相模小田原に移封されたが、羽生城主も兼ねた。忠隣は本多正信とともに家康を補佐し信望も厚かったが、のちに正信と争って慶長 ... ...
48. 酒井忠世
日本大百科全書
でただ)の家老となり、秀忠が2代将軍となると、土井利勝(としかつ)、大久保忠隣(ただちか)、本多正信(まさのぶ)らとともに補佐の中心となった。1617年(元和3 ... ...
49. さかきばらやすまさ【〓原康政】 画像
国史大辞典
をにぎり、ついで幕府を開いたが、このころになると康政ら戦場を馳駆した武功派と家康の側近である本多正信・正純らの吏僚派との対立が激化し、「関ケ原以後、透(すき)ト ... ...
50. ささやまじょうあと【篠山城跡】兵庫県:篠山市/旧篠山町地区/篠山城下
日本歴史地名大系
。実際の築城は同一四年四月に「丹波国立木郡の内佐々山の地 城普請仰せ付け候間」とあるので(「本多正信等連署奉書」山内家史料)、この辺りからと思われるが、三月に鍬 ... ...
「本多正信」の情報だけではなく、「本多正信」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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