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  11. 上杉景勝

上杉景勝

ジャパンナレッジで閲覧できる『上杉景勝』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
上杉景勝
うえすぎかげかつ
一五五五 - 一六二三
安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)城主長尾政景、母は越後守護代・春日山城主長尾為景の娘(謙信の姉にあたり、慶長十四年二月十五日、米沢で没している)。政景の次男(兄は左京亮義景)というが不詳。二妹あり、上杉景虎・上条上杉弥五郎に嫁す。永禄七年(一五六四)父の急死の後、叔父上杉謙信の庇護をうけ、元亀二(一五七一)、三年ごろ、春日山城に移る。天正三年(一五七五)正月、上杉の名字、弾正少弼の官途、景勝の名乗りを与えられ、同年二月成立の『上杉家軍役帳』には「御中城様」の名で筆頭の地位を占める。同六年三月謙信の死後、直ちに遺言と称して本丸を掌握し、御館(前関東管領上杉憲政の居館)に拠る上杉景虎と戦う(御館の乱)。景虎を援けると称して来攻した武田勝頼と、その妹菊姫との婚姻を条件に和睦し、その力を背景に七年三月景虎を滅ぼし、反抗する上・中越の旧族を撃破し、八年八月争乱を収め、直江兼続(樋口与六)を執政とし、直臣団(上田衆)による専制支配の基盤を確定した。九年には国外から越中(佐々成政)・北信(森長可)・上野(滝川一益)などの織田信長軍に攻囲され、国内でも信長に内応した下越の旧族新発田重家の叛乱にあって危機に陥ったが、同十年、本能寺の変により窮地を脱す。十一年七月徳政令を発し、御館の乱後の安定を計る。十二年六月、羽柴秀吉から人質供与を要求され、養子亀千代(畠山義春=上条政繁の子)を大坂城におくり、豊臣政権に屈服し、十四年六月、石田三成・増田長盛を介して、大坂城で秀吉に臣従の礼をとり、その奏請で従四位下・左近衛権少将に叙任、独自の戦国大名から豊臣政権下の一大名へと転化した。秀吉の権力を背景に、十五年十月新発田重家を滅ぼし、越後統一を実現し、十七年六月には佐渡(羽茂本間氏ら)を討ち分国とする。この間、十六年五月、再び上洛し、従四位上、従三位、参議に叙任、六月、秀吉から在京料一万石を近江に与えられ、八月には摂津平野の豪商末吉利方とも接触した。十八年三月秀吉の小田原征伐に従い、前田利家とともに上野松井田城、武蔵鉢形・八王子両城を攻略。ついで大谷吉継とともに出羽の太閤検地、奥羽の一揆鎮圧に従事、出羽庄内三郡の領有を認められた。文禄元年(一五九二)六月朝鮮熊川に出陣し、同二年九月帰陣。三年正月伏見城外濠普請に四千人の動員を命じられる。九月、全家臣団の知行高を調査し『定納員数目録』を集成、これが家臣団統制の画期となった。十月、秀吉を京都の邸に招じ、借財を重ねる。この年権中納言に任ず。四年十月越後・北信の太閤検地終了(奉行増田長盛)。十二月伏見上杉邸の新築成り、移住(留守居役千坂対馬守)。慶長元年(一五九六)二月、中納言に任じられ、翌二年正月伏見船道修築に従事。この年、独自の方式による越後検地(河村検地)を施行し、十一月越後国絵図を作成、土地制度の画期をなした。分国の領知高概況は、越後四十五万石、佐渡十四万石、出羽庄内三郡十四万石、北信濃四郡十八万石で、約九十万余石にのぼる。同三年正月十日会津国替を命じられ、三月に移住。旧領のうち越後・北信を取り上げられ、蒲生氏旧領陸奥七十四万石、出羽長井郡十八万石を与えられ、概算百二十万石。分国二十八支城に直臣・外様を入組配置し、執政中枢は直江兼続が引き続き掌握し、三奉行のほか諸郡の代官に兼続直属の吏僚層を配して、独裁を強化した。景勝は秀吉の死により十月上洛、いわゆる五大老の一人として政局収拾に奔走し、同四年八月帰国、この年、分国内の家数・人数調査を実施した。五年二月、神指原に新城着工。五月には、石田三成と結び、会津に挙兵し、最上・伊達氏と交戦、八月、旧領越後に遺民一揆を策動、十月、関ヶ原の石田方敗北を知り撤兵し、十二月、徳川家康に降伏する。このころから、兼続と家康の重臣本多正信との接近が始まり、景勝の政治的地位に影響する。六年七月、家康の命により伏見に赴き、八月十六日削封され、出羽米沢三十万石(置賜郡十八万石余と陸奥信夫・伊達の両郡十一万石余)を保有するのみとなり、十一月、米沢城に移った。ここに豊臣政権下の第三位の大大名から徳川氏下の小大名に転落するに至った。八年二月、江戸城外の桜田に邸地を与えられる。十月、家中掟十三ヵ条を制定、十二年十月、十八ヵ条の掟を制定。十四年四月、幕府の銚子築港の普請役に東北諸大名とともに従事。六月、幕府から軍役高三分の一(十万石)を免除される。この年、米沢城下町の整備拡張に着手。十七年、謙信の祠堂「御堂」を二ノ丸に造営し、上杉家菩提所とする。慶長十九年十月、翌元和元年(一六一五)四月の大坂冬・夏の両陣に従軍。このころ『邑鑑』を作成し、領国支配の基礎を確定した。元和九年三月二十日、米沢で死去。六十九歳。紀伊国伊都郡の高野山清浄心院(和歌山県伊都郡高野町)に葬り、米沢の法音寺にも分骨埋葬。法名は覚上院殿空山宗心大居士。五月十六日、子定勝嗣ぐ。→御館の乱(おたてのらん),→関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい),→直江兼続(なおえかねつぐ)
[参考文献]
高橋義彦編『越佐史料』四-六、『覚上公御書集』、『上杉年譜』、『上杉家記』、『寛政重修諸家譜』七四九、藩政史研究会編『藩制成立史の綜合研究 米沢藩』、木村徳衛『直江兼続伝』
(藤木 久志)


上杉景勝花押
ウエスギカゲカツカオウ
上杉景勝花押

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


上杉景勝印
ウエスギカゲカツイン
上杉景勝印

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


日本大百科全書(ニッポニカ)
上杉景勝
うえすぎかげかつ
[1555―1623]

安土(あづち)桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信(けんしん)の養子。初名は卯松(うのまつ)、喜平次(きへいじ)、顕景(あきかげ)。実父は越後(えちご)坂戸(さかど)城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景(ながおまさかげ)で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山(かすがやま)城の中城(ちゅうじょう)で上杉弾正少弼(だんじょうしょうひつ)景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎(かげとら)(北条氏康(うじやす)の七男)との御館(おたて)の乱に勝ち、武田勝頼(かつより)の妹菊姫と結婚。82年信濃(しなの)北4郡を領し、86年上洛(じょうらく)して豊臣(とよとみ)秀吉に従い左近衛権少将(さこのえのごんのしょうしょう)となる(のち参議、権中納言(ごんちゅうなごん)、中納言と昇進)。87年越後を統一、89年佐渡、90年出羽(でわ)(山形県)庄内(しょうない)3郡を領し、北信をあわせ90万石余の大領国に直臣直江兼続(なおえかねつぐ)中心の独裁的な支配を確立する。98年(慶長3)会津120万石(越後、北信は没収)に国替(くにがえ)され、豊臣五大老の一員となるが、1600年(慶長5)徳川家康と敵対し、旧領越後に遺民一揆(いっき)を起こしたが敗れ、翌年出羽米沢(よねざわ)領30万石に減封となる。元和(げんな)9年3月20日、69歳で米沢城に没する。法名覚上院殿空山宗心大居士、高野山(こうやさん)清浄心院と米沢法音寺に葬られる。

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改訂新版 世界大百科事典
上杉景勝
うえすぎかげかつ
1555-1623(弘治1-元和9)

安土桃山・江戸初期の大名。越後魚沼郡上田庄(現南魚沼市,旧六日町)の領主長尾政景の子。1564年(永禄7)父の急死後,叔父上杉謙信の庇護をうけ,のち養子となった。幼名卯松,喜平次顕景,75年(天正3)景勝と改名。78年3月養父謙信が急逝すると遺言と称して春日山に拠り,前関東管領上杉憲政の御館(おたて)に拠る景虎(北条氏康の子で謙信の養子)と戦う(御館の乱)。最初は必ずしも有利でなかったが,翌年には景虎を倒し,翌々年には反景勝派を平定した。本能寺の変後は信濃などに進出し豊臣秀吉に接近して86年には上洛して臣従,従四位下,左近衛権少将に叙任された。翌年秀吉の命で,越後新発田氏を平定して越後を統一,89年には佐渡に出兵して分国化した。翌年には小田原征伐に出兵,続いて出羽検地,奥羽一揆鎮圧に出動,そののちも朝鮮出兵や伏見城普請など豊臣政権下の大名として行動した。この間参議,権中納言をへて中納言に任じ,98年(慶長3)には秀吉の命で越後から会津若松に移り,120万石を領し五大老の一人として重きをなしたが,徳川家康と対立し,1600年5月会津に挙兵した。西軍石田三成の敗北(関ヶ原の戦)により撤兵,家康に屈し,翌年出羽米沢30万石に削封された。大坂の陣では徳川方として参陣するなどして徳川支配下の大名となった。景勝の政権基盤は,本貫の魚沼郡上田庄出自の諸氏と新参の信濃出身者で,とくに直江兼続(かねつぐ)を執政として国政・外交ともにゆだね,景勝・兼続両頭政治の感があった。秀吉政権に連なって独自性を失った反面,連続的な軍役動員を通じて家臣団掌握を進め,検地等を通じて領内農村の支配を強化することができた。会津,米沢に転・減封されたことで近世藩体制への準備がなされた。
[阿部 洋輔]

[索引語]
上杉顕景 上杉景虎
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1. 上杉景勝
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信(けんしん)の養子。初名は卯松(うのまつ)、喜平次(きへいじ)、顕景(あきかげ)。実父は越後(えちご)坂戸(さか ... ...
2. 上杉景勝
世界大百科事典
1555-1623(弘治1-元和9) 安土桃山・江戸初期の大名。越後魚沼郡上田庄(現南魚沼市,旧六日町)の領主長尾政景の子。1564年(永禄7)父の急死後,叔父 ... ...
3. うえすぎ‐かげかつ【上杉景勝】 画像
デジタル大辞泉
[1555〜1623]安土桃山時代の武将。上杉謙信の養子。豊臣秀吉に仕え、会津若松120万石の領主、五大老の一人となった。関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、出羽米沢 ... ...
4. うえすぎ‐かげかつ【上杉景勝】
日本国語大辞典
安土桃山、江戸初期の大名。長尾政景の子。上杉謙信の養子。通称喜平次。越後・佐渡・越中・能登を支配。豊臣秀吉に仕えて五大老の一人となり、会津一二〇万石を領する。関 ... ...
5. うえすぎかげかつ【上杉景勝】 画像
国史大辞典
一五五五―一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五 ... ...
6. うえすぎ-かげかつ【上杉景勝】
日本人名大辞典
1556*−1623 織豊-江戸時代前期の大名。弘治(こうじ)元年11月27日生まれ。長尾政景の子。叔父上杉謙信の養子。おなじ養子の上杉景虎と家督をあらそい(御 ... ...
7. 上杉景勝[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:0件 『二十六大藩の藩学と士風』斎藤悳太郎 ... ...
8. Uesugi Kagekatsu 【上杉景勝】
Encyclopedia of Japan
1555−1623 Daimyo of the Azuchi-Momoyama (1568−1600) and early Edo (1600−1868) pe ... ...
9. 上杉景勝印[図版] 画像
国史大辞典
円量 立願勝軍地蔵摩利支天飯綱明神 摩利支天月天子勝軍地蔵 阿弥陀日天弁才天 森帰掌内 虚空蔵竜 森帰掌内 森帰掌内 (c)Yoshikawa kobunkan ... ...
10. 上杉景勝花押[図版] 画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
11. あいかわむら【相川村】新潟県:北魚沼郡/川口町
日本歴史地名大系
に至り、親長の時に当地に築城という。星野家由緒書(星野家文書)によると、天正八年(一五八〇)上杉景勝の意によって千谷川へ移り、権七郎が当地にとどまったという。 ... ...
12. 合口
日本大百科全書
短刀の拵のもっとも一般的な形式として、平安時代から江戸時代まで盛行しているが、室町時代末期には上杉景勝(かげかつ)の愛刀の高木長光や山鳥文一文字など、まれに打刀 ... ...
13. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
氏郷が会津に入部し会津全域のほか岩瀬郡・安積郡・石川郡・白河郡を領した。慶長三年(一五九八)上杉景勝が会津に入り、一二〇万石を領した。同六年再び蒲生秀行が六〇万 ... ...
14. あいづせいばつ【会津征伐】
国史大辞典
慶長五年(一六〇〇)八月、徳川家康が陸奥国会津若松城主上杉景勝の勢威を牽制するために起した戦い。直接の原因は、慶長三年正月越後春日山五十五万石余から会津百二十 ... ...
15. 会津藩 画像
日本大百科全書
領内交通網の整備を行い、「文禄(ぶんろく)三年蒲生領高目録」を作成した。1598年(慶長3)上杉景勝(かげかつ)120万石、1601年蒲生秀行(ひでゆき)60万 ... ...
16. 会津藩
世界大百科事典
画然と区別,郷里近江国蒲生郡若松の森にちなんで,この地を若松と改めた。98年(慶長3)120万石で入部した上杉景勝は,関ヶ原の戦で石田三成と呼応したために減封さ ... ...
17. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
その子秀行の代となって家中騒動が起り、蒲生家は宇都宮十八万石に移封された。慶長三年(一五九八)上杉景勝が会津を支配し、百二十万石を領したが、のち家康と対立、同六 ... ...
18. あいづ‐ばん[あひづ:]【会津版】
日本国語大辞典
〔名〕慶長年間に上杉景勝の家臣直江山城守兼続が会津米沢で銅活字を用いて刊行した書籍。慶長一二年(一六〇七)に刊行された「文選」は名高い。普通には直江板という。会 ... ...
19. あいづろう【会津©】
国史大辞典
会津藩が最も重視した専売商品。上杉景勝の会津就封により初めて役木制度が施行され、蒲生(再封)・加藤・保科(松平)と続く領主交替のもとで、役木一本につき年貢蝋、 ... ...
20. あいづわかまつし【会津若松市】福島県
日本歴史地名大系
ている。氏郷の死後は子の秀行が襲封する。慶長三年(一五九八)秀行の下野国宇都宮移封後、越後の上杉景勝が会津入りし、出羽・佐渡の領地を加え、一二〇万石を領した。景 ... ...
21. あおうづむら【粟生津村】新潟県:西蒲原郡/吉田町
日本歴史地名大系
[現]吉田町粟生津 上河原村外新田の南に接し、西は西川、南は高木村古新田。天正一二年(一五八四)七月二四日の上杉景勝朱印状(東京大学史料編纂所所蔵文書)に「粟生 ... ...
22. あおき-しんべえ【青木新兵衛】
日本人名大辞典
1561−1632 織豊-江戸時代前期の武士。永禄(えいろく)4年生まれ。上杉景勝(かげかつ)につかえ,慶長5年伊達政宗とたたかい,政宗の冑(かぶと)の半月をお ... ...
23. あおさわごえかいどう【青沢越街道】山形県:飽海郡/八幡町/麓村
日本歴史地名大系
越えて最上領に入ったとある。同一九年磐井出館(現平田町北俣)館主阿倍頼保は太閤検地に反対したため、上杉景勝の部将志駄修理に攻められ、当街道から仙北沼田(現秋田県 ... ...
24. あおやぎじょうあと【青柳城跡】長野県:東筑摩郡/坂北村/青柳町村
日本歴史地名大系
天文二二年(一五五三)武田晴信の侵攻を受けて武田氏に下ったが、武田氏が天正一〇年(一五八二)三月滅びると上杉景勝に属した。同年七月松本深志城を回復した小笠原貞慶 ... ...
25. あかいばしむら【赤井橋村】新潟県:北蒲原郡/豊浦町
日本歴史地名大系
などの地字があり、木戸口には土塁が残る。赤橋玄蕃は戦国末期の新発田合戦では新発田重家方となり上杉景勝に敵対したが、文禄三年(一五九四)の定納員数目録の上杉氏の家 ... ...
26. あかぎじんじゃ【赤城神社】群馬県:勢多郡/北橘村/八崎村
日本歴史地名大系
同家は当社の鑰本であったというからそれが狩野家であったかもしれない。そして天正九年一二月二六日の狩野新介宛上杉景勝判物写(狩野文書)の狩野新介家と考えられる。寛 ... ...
27. あかさわむら【赤沢村】新潟県:中頸城郡/吉川町
日本歴史地名大系
天正六年(一五七八)の御館の乱で当地からの援兵の求めに対し、上杉景勝は樋口与三右衛門らに二挺の鉄砲を添えて派遣した(六月一七日「上杉景勝書状」歴代古案)。泉村と ... ...
28. あかさわむら【赤沢村】新潟県:中魚沼郡/津南町
日本歴史地名大系
天正七年(一五七九)二月二五日の武田勝頼朱印状案(市河文書)によると、同六年からの御館の乱で上杉景虎から上杉景勝への支援に転じた勝頼は、小菅(現長野県飯山市)と ... ...
29. あかしおごう【赤塩郷】長野県:上水内郡/三水村/赤塩村
日本歴史地名大系
これらの諸郷はいずれも太田庄に属するものと考えられる。その後、天正一〇年(一五八二)北信地方を掌中に収めた上杉景勝が、島津忠直を長沼城主に任ずるとともに、所領を ... ...
30. あかだじょうあと【赤田城跡】新潟県:刈羽郡/刈羽村/赤田村
日本歴史地名大系
呂一薄・大島春里・斎藤加左衛門の名がみえる。御館の乱の後の天正八年(一五八〇)閏三月一四日付上杉景勝宛行状写(斎藤文書)によると、朝信は刈羽郡内六ヵ所を除くすべ ... ...
31. あかだにむら【赤谷村】新潟県:新発田市
日本歴史地名大系
)には天正一五年(一五八七)新発田重家を支援する会津の蘆名氏の被官小田切三河守が築城したが、上杉景勝軍の攻撃を受け、落城した。同年九月一九日付実相寺宗碩書状(瀬 ... ...
32. あかだむら【赤田村】長野県:長野市/信更地区
日本歴史地名大系
水郷に属したといわれる。中世は坂城葛尾城主村上氏領。戦国時代には、武田晴信の支配に属し、のち上杉景勝の支配となる。慶長三年(一五九八)景勝の会津移封の後は、海津 ... ...
33. あかどまりじょうあと【赤泊城跡】新潟県:佐渡郡/赤泊村/赤泊村
日本歴史地名大系
伝承では城主は本間三河守と伝える。「越後上杉佐渡責太平記」などの軍記類では、天正一七年(一五八九)上杉景勝によって滅ぼされた羽茂城(現羽茂町)城主本間対馬守高貞 ... ...
34. あかぼりごう【赤堀郷】群馬県:佐波郡/赤堀町
日本歴史地名大系
城に自立した北条高広が、大胡(現勢多郡大胡町)・赤堀などの備えとして軍勢を遣わすように越後の上杉景勝に要請している(「北条高広条書写」歴代古案)。郷域は定かでな ... ...
35. あがのがわ【阿賀野川】新潟県:総論
日本歴史地名大系
三条・護摩堂計敵相踏候」とみえ、天正一一年(一五八三)上杉景勝の将蓼沼友重が新発田重家の兵船を「揚河口」で破るなど(同年一二月二四日「上杉景勝書状」蓼沼文書)、 ... ...
36. あきもとし【秋元氏】 画像
国史大辞典
の重臣であった。その子長朝は小田原北条氏に服しながら巧みに徳川氏に転じ、関ヶ原の戦の前後には上杉景勝の帰降を促して、慶長六年(一六〇一)六千石加増され、あわせて ... ...
37. あきもとながとも【秋元長朝】
国史大辞典
斡旋で徳川氏に仕え、上野国碓氷郡中野谷五百石を賜わった。関ヶ原の戦の前、下総栗橋の関を守って上杉景勝の出動に備え、戦後会津に使いして景勝の帰降を促すなどの功によ ... ...
38. 秋山記行・夜職草 86ページ
東洋文庫
ナさ三蔦藁「つた」は莇、藁のこと。壁土にまぜて亀裂を防ぐつなぎとするもの。西嶋里二左衛門箕作村の名主、上杉景勝が会津へ移封の際、市河氏に随従したが、後帰農したと ... ...
39. あくたみむら【芥見村】岐阜県:岐阜市/旧山県郡・各務郡地区
日本歴史地名大系
禅宗系寺院となった。同じ黄檗宗の真聖寺は室賀氏の菩提所だが、本尊の十一面観音は天竺伝来のものが上杉景勝・大垣藩家老戸田氏へと伝えられ、さらに湛然の弟子嘉 ... ...
40. あくたむら【悪田村】新潟県:柏崎市
日本歴史地名大系
いたミきれせん之外きらいなくこれをとるへし 但水ひ、かちこしのときハやく不可有之」とあって、上杉景勝が船賃五文、歩行者無料と定めている。渡守文書によれば阿久田・ ... ...
41. あくみぐん【飽海郡】山形県
日本歴史地名大系
本庄繁長は十五里ヶ原の戦いで最上軍を破り庄内を支配、天正一八年の奥羽仕置後、庄内は上杉景勝領となった。〔近世〕秀吉は天正一八年八月一日、上杉景勝に出羽国大宝寺分 ... ...
42. あげおじょうあと【上尾城跡】長野県:長野市/信更地区/平林村
日本歴史地名大系
田晴信及び勝頼に属した。天正一〇年(一五八二)勝頼滅亡の後は上杉景勝に属し、牧之島城の守衛にあたった。慶長三年(一五九八)上杉景勝の会津への移封に際し、正恒はこ ... ...
43. あさかいよりいじょうあと【浅貝寄居城跡】新潟県:南魚沼郡/湯沢町/浅貝村
日本歴史地名大系
この頃の五月二八日付上杉謙信書状(同文書)に「沼田為加勢、其儘有詰、浅貝之寄居普請成就」とあり、長尾顕景(上杉景勝)の部将樺沢城(現塩沢町)城主栗林政頼に対し築 ... ...
44. あさのごう【浅野郷】長野県:上水内郡/豊野町/浅野村
日本歴史地名大系
この地は武田氏の手に落ちたが、天正一〇年(一五八二)武田氏の滅亡、次いで織田信長の横死により上杉景勝の支配下に帰し、「上杉年譜」にその料所の一つ「浅野内堀分」と ... ...
45. あさのむら【浅野村】長野県:上水内郡/豊野町
日本歴史地名大系
たる道が通じており、浅野はその沿道の要地であった。天正一〇年(一五八二)北信濃地方を掌握した上杉景勝は、同年七月島津忠直を長沼(現長野市)城主に任命するとともに ... ...
46. あたごじんじゃ【愛宕神社】新潟県:上越市/旧直江津市地区/国分寺村
日本歴史地名大系
別当寺としたと伝えるが、このことも当社と修験との関係をうかがわせる。御館の乱では上杉景勝が当社に戦勝祈願をしている(天正六年五月一四日「上杉景勝願文」古文書集) ... ...
47. あだちぐん【安達郡】福島県
日本歴史地名大系
と領域が固定した。〔近世〕奥羽仕置により会津には蒲生氏郷が入部、その後慶長三年(一五九八)に上杉景勝、同六年に蒲生秀行と代わり、寛永四年(一六二七)加藤嘉明が会 ... ...
48. あつかいむら【厚貝村】長野県:中野市
日本歴史地名大系
為給分中野・新井村三人懸帯・同あつかい村両人懸帯出置候、軍役以下急度可相勤之者也、仍如件、支配の変遷は、上杉景勝の移封後、飯山城城主関一政・森忠政・松平忠輝・堀 ... ...
49. あつみがわむら【温海川村】山形県:西田川郡/温海町
日本歴史地名大系
西の温海川下流は一霞村。天正一八年(一五九〇)以降と考えられる一〇月晦日の豊臣秀吉朱印状(津軽文書)に上杉景勝分領として「あつミ川」とみえる。元和八年(一六二二 ... ...
50. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
9月関ヶ原の戦い、三成ら西軍敗北1601(慶長6)3月家康、大坂城より伏見城に移る。8月家康、上杉景勝を米沢に移封1602(慶長7)1月家康、諸大名に命じ二条城 ... ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。
長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。
毛利勝永(日本人名大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。毛利勝信の子。関ケ原の戦いで西軍に属し,敗れて父とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられる。慶長19年子の勝家と脱走して大坂城にはいり
後藤基次(後藤又兵衛)(改訂新版・世界大百科事典)
織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。
豊臣秀頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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