[現]東区大阪城
東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。大手門・塀三棟・多聞櫓・千貫櫓・乾櫓・一番櫓・六番櫓・焔硝蔵・金蔵・金明水井戸屋形・桜門の徳川時代建造物一三棟が国の重要文化財に指定。
大坂城の歴史は大きく三期に分けられる。第一期は天正一一年(一五八三)九月に始まった豊臣秀吉の築城工事から大坂夏の陣によって全城灰燼に帰した慶長二〇年(一六一五)までで、豊臣氏大坂城の時期。第二期は同年徳川幕府が大坂城をにぎってから鳥羽・伏見の戦でほぼ全焼した慶応四年(一八六八)まで。この時期は徳川氏大坂城の時期。第三期は明治維新以後今日に至る時期で、近現代社会において石垣・堀・古建造物などを生かしつつ再利用されている時期。第一期は秀吉が在城した天下の支配者の居城の時期と、関ヶ原合戦以後六五万石の一大名に転落した豊臣秀頼の居城の時期とに分けられる。第二期は松平忠明が大坂城を預かり管理した元和元年(一六一五)から五年までの大坂藩管理の時期と、幕府が大坂の町も直轄領とし、幕府の大番衆と城代をはじめとした勤役大名との軍事力で守衛管理された時期に分れる。この間の元和六年―寛永五年(一六二〇―二八)に当城は完全に築き直され、一部埋められてはいるが、石垣・堀は今日みる姿となった。第三期は明治維新から昭和二三年(一九四八)までの日本陸軍および占領軍(連合軍)によって占有されていた時期と、その後の大阪市の管理下で史跡公園として活用されている時期とに分けられる。
初代城主は秀吉で、天正一一年から没年の慶長三年八月まで。天正一三年秀吉は関白に任ぜられ、その居城として京に
以降当城は徳川秀忠をはじめとする歴代将軍の持ち城となり、元和五年までは松平忠明が藩主として、同年からは城代以下の勤番の大名と幕府大番衆が守衛した。松平忠明は家康の外孫で、元和元年の七月、伊勢亀山(五万石)から五万石の加増を受けて一〇万石の大名として大坂に入封した。この忠明を大坂城主とする説(寛永諸家系図伝)と、城代とする説(譜牒余録)がすでに江戸時代にあったが、今日では城主説(大阪市史)が通説化している。しかし、忠明在坂時代の当城には城付所領があり、それは幕府国奉行に管轄されていること(「本光国師日記」元和元年八月一五日条)、城中には幕府米蔵があって管理は忠明家臣団が行っていたが、出納の実権は幕府国奉行が掌握していたこと(御津宮文書)、忠明は当城三ノ丸を開放し町屋としたが(大阪市史)、自らの屋敷は
天正一一年九月一日秀吉の大坂築城の鍬始めが行われた(「兼見卿記」同日条)。同年八月一九日秀吉は河内「高安千塚」(現八尾市)の石運搬とそのための道路建設を命じており(「豊臣秀吉書状」水谷幸雄氏蔵)、採石などの準備は八月から始められている。このときの工事は本丸の築造で、
文禄三年秀吉は大坂城のいっそうの増強を目的に惣構の建造を命じた。惣構は城と城下町を包み込む形の最も外郭に存在する防衛施設で、北は大川、南は
慶長二〇年の夏の陣によって大坂城は完全に灰となった。元和五年七月、将軍秀忠は西国・北国の大名四八家に翌六年三月一日からの大坂城普請を命じ、同日より同年九月末―一〇月にかけて工事が実施され、二ノ丸の大手土橋から
秀吉築造の大坂城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・惣構から構成され、四重の堀と石垣によって守られていた。当初からこの四重の防壁建造プランが存在していたかどうか不明であるが、豊臣政権の伸展とともに二ノ丸・惣構・三ノ丸と追加、拡張されていったものであろう。最初に築造された本丸だけでも独立した相当堅固な城であった。本丸は詰ノ丸を中心に北に
徳川幕府が再建した大坂城は本丸・二ノ丸・北仕切曲輪の三郭からなっていた。本丸は豊臣氏本丸を引継ぎ、北・東・北西半は水堀、南西半と南は空堀とし、本丸西側中央辺りから南東方向に食い込んでいた水堀は埋没させられた。旧本丸が詰ノ丸、南半の曲輪、山里丸と三郭で構成されていたのを詰ノ丸と南半の曲輪を一体化し、高さはほぼ詰ノ丸の高さにそろえられた。このため詰ノ丸以外では深い所で二十数メートル、浅い所で四メートル前後の盛土がなされた。北部の山里丸は豊臣氏山里丸がほぼ踏襲されたと推定される。こうして旧本丸の複雑な構造は姿を消し、本丸は大部分を占める南の平坦な曲輪と山里丸の二郭によって構成された(「大坂築城丁場割図」中之島図書館蔵)。山里丸を含めて旧本丸に該当する全域を本丸とよぶ場合と、山里丸を除外し、その南の一郭を本丸とよぶ場合とがあったが、後者の用例が多い。本丸には天守閣と御殿が建造され、石垣上には多聞塀と隅々に一一の三層櫓が建造されていた(「大坂御城図」国会図書館蔵)。
二ノ丸も豊臣氏大坂城の二ノ丸を踏襲した(「大坂築城地口坪割図」山口県文書館蔵・大坂築城丁場割図)。二ノ丸には中仕切石垣が五ヵ所、二ノ丸および
北仕切曲輪・玉造御蔵場は徳川氏大坂城の唯一の三ノ丸で、二ノ丸北部と猫間川、同川と平野川などの合流(現第二寝屋川)の間に造られた細長い帯状の曲輪。北の仕切曲輪には京橋口土橋西端の北側に
豊臣氏大坂城時代の城中職制についてはまったく不明である。徳川氏大坂城の場合は、城代以下幕府諸役人の配置とその任務などがかなり判明している。城代は初代内藤信正の元和五年着任以来、元治元年(一八六四)二月着任の牧野貞明(貞直)まで七〇代六七人が就任した。三万石から十数万石の譜代大名が任命され、在任期間は阿部正次・土岐頼殷のように二一年・二二年という破格の例もあったが、数年というのが多かった。阿部正次は任命時五万石の軍役を命ぜられ、また万治三年(一六六〇)当時の松平光重は所領七万石であったが、城代の高としては五万石と計算されており(「大坂御城中諸覚書」岡山県史編纂室蔵)、役高は五万石であった。城の防衛・維持管理の最高責任者であると同時に既述した二ノ丸の大手西ノ丸ブロックに家中役人を配置して守護した。大坂城への通常の出入口は大手門であったから、大手枡形を含む大手ブロックの勤番は城中でも最も重要な仕事であった。城代は以上の大坂城守備の任務のほかに、西国に異変があって緊急を要する場合、将軍・老中の命を待たずに諸大名への出兵命令、軍船の徴発と提供、城中の武器弾薬の提供などの権限を委ねられていた。この権限は非常大権ともいうべきもので、寛永一四年の島原の乱の鎮圧の遅れの反省に立って、遅くとも承応三年(一六五四)以前に実現されていた。同年当時は、この権限を城代が発動する場合京都所司代板倉重宗、淀藩永井尚政との合議を必要としたが(大阪市史)、のち城代・両定番・両町奉行の五名の合議に変更された(国立史料館蔵土屋家文書)。城代にこのような大権が与えられたからこそ、当城が幕府の西国支配の軍事的要となりえたのである。またこうした軍事専管であった城代に、元禄一四年(一七〇一)土岐頼殷のとき大坂町奉行を支配する権限が与えられ、それまで軍事は城代、治政は町奉行と二元化されていた在坂の幕府支配機構が、城代の下に一元化された(「徳川実紀」同年一一月二八日条)。
「吏徴別録」によると、文化一二年(一八一五)六月より城代に役知一万石が与えられた。松平輝延が城代在任中である。一方「御役人代々記」には文政五年(一八二二)停止とあり、輝延一代限りの措置のようである。城代譜(国立史料館蔵土屋家文書)は、天保五年(一八三四)から八年にかけて在職の土井利位までの城代一覧であるが、これに土岐定経(天明元―二年在職、所領高三万五千石)、松平乗保(文化三―七年在職、所領高三万石)、松平輝延(文化一二年―文政五年、所領高八万二千石)の三大名にのみ「御役知一万石」と記入している。右のうち松平輝延は「思召これ有るニ付御役知一万石、文政元年倹約のため役知返上」とあって特例措置とみられる。そうすると、残る二大名は所領高三万五千石と三万石であり、いずれも城代軍役高五万石に満たない例である。城代譜は嘉永三年(一八五〇)から安政五年(一八五八)の間城代を勤めた土屋家の史料であり、信憑性が高い。この史料に基づく限り、天保初年までは城代役知は確かに存在したが、あくまでも軍役高五万石に満たない所領高の大名に支給され、松平輝延の場合は例外的措置であったといえる。一方弘化二年(一八四五)から嘉永元年の間在職の松平忠優家(信濃上田藩五万三千石)の「日乗」(上田市立博物館蔵)によると、前任者松平乗全(三河西尾藩六万石)と忠優には弘化二年分の役知が代官の収納米銀より支給された旨の記録があり、この年から役知が所領高に関係なく支給されたものと推定される。以後「日乗」には役知に関する記載がないので、地方知行に切替えられたものと思われる。その村々は幕末の摂津村高帳(大阪市立博物館蔵)によると摂津
定番は元和九年閏八月の設置で(「忠利公御日記写」島原市立図書館蔵)、二万―三万石の譜代大名が勤めた。京橋口定番・玉造口定番各一名が定数で、二ノ丸の京橋口ブロック・玉造口ブロックを守備した。任期は不定で四―五年というのが多かった。定番は城内の維持管理の実務の総括責任者でもあり、大坂城諸奉行を支配した。このため両定番の間で月番制が布かれ、役料三千俵が支給された。与力三〇騎・同心一〇〇人が付属(吏徴ほか)。大番は平均石高四〇〇石ぐらいの旗本で、西大番と東大番の二組があり一組五〇人、これを五千―六千石級の大番頭が指揮し、二ノ丸南ブロックと本丸を守備した。加番は大番の加勢として譜代大名ならびに一部の外様大名が勤め、任期は一年。山里・中小屋・青屋口・雁木坂の四加番がいた。延享三年(一七四六)に定められた規定では山里は所領高二万七千―五万石の大名で、役高は二万七千石。同じく中小屋加番は所領高一万八千―二万六千石の大名で、役高は一万八千石、青屋口と雁木坂は同格で一万―一万七千石の大名、役高は一万石であった(「大坂加番之留」内閣文庫蔵)。加番は勤役中は役高と同額の合力米が支給された。二ノ丸青屋口ブロックを守備し、かつ城内鉄砲・弓の修理、一部の城内破損場所の修理などを分担した。
六奉行は大坂在住の地役人で蔵・鉄砲・弓・具足・金・材木(破損)の六奉行がいた。定員は蔵奉行と金奉行が四名で他は二―三名。蔵奉行は米・糒・塩・味噌、鉄砲奉行は鉄砲・大筒・焔硝・弾丸、弓奉行は弓関係、具足奉行が甲冑・旗幟、金奉行は幕府領からの上納金銀の出納、材木奉行は城内施設および城外関連施設(難波御蔵など)の修理資材をそれぞれ管理した。いずれも定番支配であった(吏徴)。石高は三〇〇石前後で、役職手当として現米八〇石が支給された。いずれの奉行にも同心または手代が付属した。大坂目付は老中に付属し、大坂勤(在)番の面々の監察を行った。寛永七年の設置で年一回交替、寛文三年(一六六三)三回交替、同四年には三月・九月の二回交替となった。屋敷は二ノ丸大手西ノ丸ブロックと、極楽橋北向いブロックに各一があり、隔月に屋敷を変換した。在番中役料現米一〇〇石を支給された(大阪市史など)。
大坂城大工頭山村与助・御用瓦師寺島藤右衛門・尼崎又右衛門の三人を三町人という。山村は伏見城大工頭であったが、元和五年伏見廃城とともに配下の木挽などの諸職人を率いて大坂に移住し、大坂城大工頭を勤めた。配下の職人たちを「伏見組」と称した(「山村家系図」大阪市立中央図書館蔵)。寺島と尼崎は古くから家康との交渉があったが、とくに大坂の陣での家康への忠勤を理由に破格の扱いを受けた。寺島は瓦製造を業とし、幕府の瓦御用を勤め、大坂三郷での瓦販売の独占権を得ていた。尼崎は天正年中家康の材木頭人を勤め、また石船献上とか東京渡海など、家業は海運関係のようだが、詳細は不明。三町人は大坂城へ無札で出入りし、城代の諸用をも勤め、また長崎貿易の白糸の権利をもっていた(大阪市史など)。稲葉丹後守覚書(内閣文庫蔵)には「三町人と申候ハ、大古ハ大坂表隠密ヲ相勉候者之由、夫ゆへ当時ニても御城代之隠密ヲ相勤候者之振合、当時ニてハ隠密之場合一向ニ無之」とある。
慶応四年鳥羽・伏見の戦で焼亡、明治維新後当城は明治新政府の手に帰した。明治四年(一八七一)大阪鎮台が設置され、またこれより先の同三年、北仕切曲輪・玉造御蔵曲輪に造兵司が置かれた。以後昭和二〇年八月の敗戦まで、陸軍と大阪砲兵工廠(造兵司の後身)の名で知られた官営軍需工場によって占有された。その間昭和六年には鉄筋コンクリート製の天守閣が復興、大阪城公園もできた。同二〇年八月一四日の大阪大空襲によって城内は徹底的に破壊され、九月にはアメリカ軍に占拠された。同二三年八月、米軍撤収に伴い大阪城は大阪市の管理となり、以後都市公園として整備されていった。同三五年には旧師団司令部を転用した大阪市立博物館が開館し、同三六年には豊臣秀吉を祭神とする
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