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  10. 明石城下
日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
明石城下
あかしじようか

明石川河口に近い東岸の洪積台地(通称人丸山)上に築かれた明石城を扇の要とし、その南方に広がる明石海峡に至る東西約一二〇〇メートル・南北約七〇〇メートルの地域に開かれた城下町。

〔城下町の成立と発展〕

元和三年(一六一七)明石に入部して船上ふなげ城を居所としていた小笠原忠真は、同四年将軍徳川秀忠より義父姫路藩主本多忠政とともに新城築城を命じられ、同五年早くも竣工している。城下町の建設は築城や郭内の家臣団の武家屋敷建設と並行して行われ、城が築かれた洪積台地の麓に広がっていた大明石おおあかし村・中庄なかのしよう村を中心に、大蔵谷おおくらだに村の一部を取込んで計画された。新城建設以前台地の麓を山陽道が東西に横断していたが、この街道を南に移して、城下の中心部に付替えるとともに、城下の東西の入口にそれぞれ大木戸と番所を配置しきよう口御門・姫路口御門とよんだ。また有事に備えて京口御門の近くには浜光明はまこうみよう寺・朝顔あさがお光明寺、姫路口御門の近くには善楽ぜんらく寺・無量光むりようこう寺などが置かれ、城下町建設と並行して進められた明石湊および海岸線の防備としては、竜谷りゆうこく寺・本立ほんりゆう寺・本誓ほんせい寺・長林ちようりん寺・岩屋いわや神社など神社仏閣が配置されている。町割図は宮本武蔵が行ったとの伝説もある。町の区画は町並裏行一六間を基準にして作られたといわれ、商人の集住策として地子の免除が行われるとともに、明石川の西岸河口近くにあった船上城の城下町の商人たちの移住も積極的に行われ、町の体裁も徐徐に整えられていった。

天和四年(一六八四)頃までに成立していた城下の町としては、山陽道沿いに東側から鍛冶屋かじや町・細工さいく町・東本ひがしほん町・西本町・信濃しなの(のち中町)東魚ひがしうお町・西魚町・材木ざいもく町・東樽屋ひがしたるや町・西樽屋町の一〇町があり、その後町の発展とともに明石湊周辺から海岸近くにえびす町・ふな町・新浜しんはま、そして城下町外側の京口御門前に東新ひがししん町が、明石川を挟んで姫路口御門の対岸、街道沿いに西新町が新たに形成されてそれぞれ町方に編入され、明石惣町とよばれた一五町が成立している(以上「明石記」「明石名勝古事談」)。同二年の一〇町当時の総家数は一千三五八(本家七三二・借家六二六)、宝永六年(一七〇九)の一五町の総家数は一千七六〇(本家八六〇・借家九〇〇)、享保六年(一七二一)の総家数は一千九〇三(本家八二二・借家一千八一)と着実な発展を続けている(明石記)。城下の南端に設けられた湊は当津とうづ湊とよばれ、湊開設のために海岸を掘下げてその土砂を防波堤として中崎なかさき海岸を築き、船宮(藩船置場)や浜御屋敷、藩の御米蔵が設けられている。また開港とともに船上城の古波止にあった廻船四五隻・茶船三隻・渡船一〇余隻が移されるなど(同書)、その機能を充実させ、「西国筋宝の船入り」(明石名勝古事談)として賑いをみせている。元文年間(一七三六―四一)頃の城下町の商人と職人は、医師二五人・大工一〇〇人・薬種屋六軒・葺師一六軒・壁塗一〇人・船大工一四軒・檜物師一四軒・鍛冶屋四七軒・樽屋五三軒・米屋一〇〇軒・干鰯屋五〇軒・油屋四一軒・醤油屋三軒・酢屋二軒・質屋四一軒・諸問屋五四軒・材木屋三軒・魚屋五六軒・魚問屋五軒・八百屋八軒・小間物屋八〇軒・紺屋三九軒・畳屋一一軒、呉服屋および古手屋二一軒、仕立屋二軒・酒屋一五軒・瓦師二軒・髪結二四人・浜蔵使一一人で、このほか旅籠屋があったが軒数は不明(明石記)

〔行政組織〕

城下町の自治組織は当初各町々に年寄という名で代表者が二人ずつ置かれていたが、延宝六年(一六七八)に城下町全体の総代役として大年寄が置かれることとなり、なか町の大屋佐太郎と東本町の鴻池屋七郎左衛門が任命されている。江戸時代末期までに大年寄を勤めた家は、大屋・鴻池屋のほか岩屋(東本町)・笹屋(同)・姫路屋(同)・松屋(中町)・紙屋(西本町)・名村氏(西本町・中町)などがあり、明石惣町の頭町とされた東本町・西本町・中町の有力者のなかから選ばれた。そのほか城下町の家持の総代も当初から置かれ、二人のときもあったが延宝六年から一人になり、町役関係書類のほか諸帳簿類・町中惣絵図・水帳を保管していた。城下町の人々に掛けられた町役としては、上納銀箔番丸役・昼休三分役・御荷物人足丸役・宿継五分宛役・水船役・御城米役・高砂米役・船入御普請人足丸役・御堀藻取人足丸役・明石川橋掛人足丸役・御茶屋橋掃除人足五分役・御客宿料理人給仕人人足丸役・御道具掛人足丸役・御煤払人足丸役・御米搗人足丸役の一五項目があった。また町役人が集会する建物は、明石惣町成立当時からすでにあり町会所とよばれていたが、享保一七年五月から惣会所と改称している。惣会所の集会日は正徳六年(一七一六)から三・八の日を式日とし、大年寄が出席した。惣会所は京口御門内の北側、鍛冶屋町のうちの会所かいしよ町の東側にあり、表八間半、裏行は町並通り一六間の地に八畳三間、四畳一間が一列に並んでいた(町割年号記・明石市史)

正月に町役人・医師・御用商人が城にあがって年賀をのべる御城礼は、元和五年以来藩主在城の年のみ正月三日に行われた。寛永一〇年(一六三三)正月三日の御城礼は一一ヵ町の年寄一五人、家持惣代・各御用商人が扇二本入一箱、塩鯛一〇枚、御樽・御肴、するめ一〇連ないし五連、大栗一〇などを献じている。御城礼は独礼で内曇の土器で御酒を頂くことを例としていた。天和二年の松平直明入城後は御酒は止められて惣礼に改め、式日も一月七日に変更されている(町割年号記)。元禄六年(一六九三)以来藩は財政悪化のため家臣からの上げ米や倹約令をたびたび発令してきたが、寛政五年(一七九三)抜本的な財政再建策をたて、その財源として城下町の大商人と郷方の庄屋からの献金と借入金をあてている。このとき城下町の商人たち町方は銀一千四〇〇貫目を負担、紙屋源右衛門・大屋九郎兵衛以下一四人の商人が分担した。藩ではこうした商人たちに対し苗字帯刀および年々の扶持米を与えた(田中家文書)

〔城下で活躍した文化人〕

享保四年大学頭林鳳岡の門人桂山彩巌の推挙により藩儒として迎えられた梁田蛻巌は、明石来藩以来四〇年にわたって優れた講義と詩作を続けるとともに、郭内上水じようすい町の屋敷内に家塾景徳けいとく館をつくり、子弟の教育にも情熱を注いでいる。蛻巌以降の代々の当主も同館を経営、家臣のみならず城下の町民や郷方の豪農の子弟にも門戸を開くなど、明石における教育の振興に尽力している。医学の方面においては、寛政一三年藩主の招きにより藩医となった眼科の蘭法医の高良斎、その甥で肥前長崎の鳴滝なるたき塾でシーボルトの教えを受け、高弟として眼科と外科で活躍した高充国、緒方洪庵に学んだ松浦元〓、明石で初めて人体解剖を行った井上東海らの活躍が知られている。また和算では大島流を創始し、享保年間に明石城下に来住して算学・測量術を教授した大島喜侍(芝蘭)がいる(播州明石記録・明石市史)

〔城下町の終焉〕

明治初年家中町は大明石村に合併、明治二二年(一八八九)鍛冶屋町・細工町・東本町・西本町・中町・東魚町・西魚町・材木町・樽屋町・船町・戎町・新浜・相生あいおい町・西新町と大明石村・当津村・王子おうじ村・大蔵谷村が合併して明石町が成立した。

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