〔特色〕
〔変遷〕
〔第一期〕
〔規模〕
〔条・坊〕
〔大路・小路〕
〔邸宅など〕
〔第二期〕
〔第三期〕
〔研究史〕
喜田貞吉『帝都』、西田直二郎『京都史蹟の研究』、「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典』二六下、京都市埋蔵文化財研究所編『平安京跡発掘資料選』、古代学協会編『平安京跡研究調査報告』、同『平安京古瓦図録』、井上満郎『研究史平安京』、京都市文化観光局文化財保護課編『京都の庭園―遺跡にみる平安時代の庭園―』、滝浪貞子「初期平安京の構造」(『京都市歴史資料館紀要』一)
国史大辞典
日本歴史地名大系
桓武天皇が
さて遷都の三日後、甲子の日に造宮使及び山背国府の官人が祝の品々を献じたのを皮切りに、以後連日のごとく畿内近国からの奉献が続き、またその間官人に物を賜い位階を昇叙、
越えて翌一四年正月一六日、宮中で宴がもたれ、踏歌が奏されて、平安新京を頌している。
ただし造都工事は、延暦二四年一二月に造宮職が廃止されるまで、これから一〇年間続けられることになる。
造都の推進機関として造宮司が設けられたのはこれ以前の場合と変りはなく、その構成も造宮大夫・亮以下の事務系官人と、造宮大工・少工以下の技術系官人とからなり、延暦一四年五月一三日、造宮使の主典以下将領以上一三九人が叙位されている事実に徴すれば、それを超える数の官人が配されていたことを知る。初代の造宮大夫は、地相調査にも関係した藤原小黒麻呂であるが、延暦一三年七月に没しており、その後には遷都の陰の推進者であった和気清麻呂が任じられ、同一八年二月に没するまでその職にあった。二人とも民部卿を本官とする経済官僚であったのは、造都事業にその経綸が求められたからであろう。清麻呂の後には同年四月、中納言藤原内麻呂が任命された。また造宮亮には左兵衛督菅野真道や木工頭播麿介石川河主の名がみられる。一方、造宮大工や少工には同一五年七月それぞれ物部多芸連建麻呂、秦都岐麻呂が任命されているが、物部多芸連は忌部や猪名部などとともに土木技術に関係の深い氏族であり、少工の秦都岐麻呂も、後に木工寮少工・造西寺允に任命されるなど、技術系官人のコースを歩んでいる。
さて造都工事はこうした造宮職の官人たちにより分掌遂行された。すなわち、土地の収用と道路・宅地の造成、河川の改修・築堤、宮殿・官衙の建造のほか、その前提としての労働力の編成などである。
造都の労働力としての造宮役夫の徴発形態は、諸国公民雇役労働を基本とし、その動員が本格化するまでの暫定措置として貴族官人に割当て、貢進せしめている。
造宮役夫にはこのような、いわば単純労働力としての公民役夫のほかに、一群の技術者が地方から動員された。諸国匠丁といわれるもので、結番して上造したので番上匠丁ともよばれ、造宮大工・少工の下で造営の主体となった。またこの諸国匠丁の特殊形態が飛騨国から貢進された飛騨工(斐太匠)で、宮殿・官衙の造営の中核になった。一年を役限としたので年貢匠丁ともいわれたが、造都終了後も保守・修繕のために一定数が確保され、後の記録では定員一〇〇名とされ、その後、更に六〇名に減少されている。延暦一五年一一月には課役の負担に逃亡する者もおり、これが工事の停滞をもたらす要因ともなった。
造都工事の進行に伴い、京中では宅地造成や都城制に基づく町割が行われ、それが諸人に班給された。早くも延暦一二年九月、菅野真道・藤原葛野麻呂らを遣わして新京に宅地を班給して、桓武天皇に因縁ある女官ら一五人には国稲(正税)一万一千束を支給しているが、造成費の助成の意味もあったのであろう。宅地班給の対象は、親王・公卿をはじめとする貴族官人が主で、一般庶民の場合どの程度適用されたのか不詳である。ちなみにその規模は、三位以上は一町(四〇丈四方)、四―五位者は半町、六位以下には四分の一町が標準とされた。公卿のもつ一町家のことが「如法一町家」と称され、また長元三年(一〇三〇)三月、諸国吏は「四分一町」を過ぎてはならないのに、最近は「一町家」を営む者が多いと指摘しこれを停止せしめている(中右記)のは、伝統がなお生きていたことを示すものであろう。
役夫の徴発は延暦一六―一九年を最高に進められたが、一六年六月の詔で諸国の田租を全免もしくは半免しているように、造都のため「万民の勤苦甚し」い現状を無視できず、緩和しなければならなかったことが知られる。延暦二四年一二月七日、公卿らは奏議し、造宮による百姓の疲労、災疫による農桑の被害を理由に、諸負担の軽減を建言したが、同じ日に決定された造宮職の廃止もその一環であった。すなわちこの日、桓武天皇は参議右衛士督従四位下藤原緒嗣と左大弁正四位下菅野真道とを招いて、天下の徳政について相論せしめている。緒嗣は、「方今天下所苦者軍事与造作也、停此両事安百姓」と述べ、これに対して造宮亮として工事を推進してきた真道は、「確執異議、不肯聴」と頑強に造都の継続を主張している。しかし天皇は緒嗣の議を採用して造都の停止を決意、二日後に造宮職は廃止されることとなった。翌二五年二月三日、廃止した造宮職は木工寮に合併された。天皇が「正寝」で没したのはその翌月のことであるが、「雖当年之費、為後世之頼」というのが天皇評であった。
平安京の京域は葛野郡を主とし、一部が愛宕郡にまたがっていた。そこには森林・沼沢があり、大小の河川も流れており、各所に集落があった。葛野郡では綿代郷宇多村、愛宕郡では折田郷の名が伝えられている。口分田・墾田などの耕地もあったが、宅地・耕地の類は強制収用され、代価や代替地が与えられた。造都工事開始後まもなくの延暦一二年三月、新京宮城域のうち百姓地四四町について三年の
平安京の場合、京域の決定は、既存の道路を基準にとって
まず山についていえば、
しかし京域の北辺が船岡山よりかなりの距離をおいて南に設定されたのは、そこを通る古道、つまり近江から
ところで、平安京の
ここに登場する元良親王は陽成天皇の第一皇子で天慶六年(九四三)七月、五四歳で没しており、李部王とは醍醐天皇の第四皇子、式部卿(李部は式部の唐名)兼明親王のことで、天暦八年(九五四)九月、四九歳で亡くなっている。李部王の記すなわち「李部王記」の現存部分は、このエピソードを記さないが、鳥羽の作り道が一〇世紀以前に存在したことは確かであろう。この道は遷都以前からあった道というより、それに必要な資財を運ぶための道路として整備されたことから、その名が生れたものであろう。そして院政期、洛南鳥羽に離宮が営まれるに及んで、洛中とを結ぶ重要な道路となり、鴨川東堤を南下する道に対して鳥羽の西大路とも称されるようになった。京域の決定に関する地理的要素として、以上述べた山や古道とともに重要な意味をもったのが河川、殊に高野川や賀茂川の存在であるが、不明確な要素が多い。
今はそのほとんどが埋没しあるいは暗渠とされたが、古くはこの盆地を大小さまざまな河川が自然の地形に沿って流れていたことは、各種平安京古図によって知られる。殊に堀川については、延暦一八年六月、桓武天皇が京中を巡視中、堀川を過ぎた折、囚人が苦役されているのを見て哀れみ、詔を下して天下の囚人の恩赦を行っており、また少し時期は下るが天長一〇年(八三三)五月には、左右両京の京戸に檜柱一万五千株を賦課し、東西堀川の杭料としたことがあり、その整備には力を入れている。堀川は平城京にもあったが、その名称から京中の疏水として利用された水路であったと思われる。この堀川は
しかし一般的な理解としては、この堀川を賀茂川の本流とみなし、他方
これに対して近時出された意見として、現北区の
平安京の京域は、以上取上げた自然的人為的諸条件を考慮した上で定められたというべきである。こうして東西一千五〇八丈(約四・五キロ)、南北一千七五三丈(約五・二キロ)の平面空間が京域とされ、造成されることになった。その大きさは面積でいえば唐の首都長安の三分の一弱であった。
わが国が手本とした長安京との違いは、その規模ばかりでなく、基本的な構造の上でもみられた。羅城と坊門の有無がそれである。中国の場合、京域に高さ約五メートルの城壁がめぐらされ、また京中では坊ごとに坊門が設けられていたが、平安京の場合は、それまでの宮都と同様、羅城は南辺、羅城門の両翼に限られ、坊門も朱雀大路に面したところにしかつくらなかった。
羅城については、文献上では「延喜式」の左京職(京程式)に「南極大路十二丈 羅城外二丈
垣基半三尺、 |
犬行七尺溝広一丈 |
しかし平安京の周辺には、簡単な土塁と溝があったことが推測される。裏松固禅の「大内裏図考証」に収める平安京図には、京城の周囲に堤を示す黒線を引いており、また同書一之上には、「堤 京兆図に曰く、堤を置きて京外と為す」と記している。「三代実録」元慶八年(八八四)八月二八日条に「以山城国正税稲一千三百八十七束九把、充造左京北辺溝橋等料」とある記事から、北辺すなわち一条大路の北側に溝と橋があったことが知られる。堤というのは、その溝の内側に土を積上げてできた土塁のことではなかろうか。そして条坊制による東西南北路の末には溝に渡された橋が設けられていたのであろう。ちなみに羅城門外の橋を「唐橋」とよばれてたのは、橋の造りが唐風だったからで、今も地名として残っている。
南辺羅城の中央、朱雀大路の南端に建てられた平安京の表玄関が羅城門である。「拾芥抄」宮城部は「羅城門二重閣七間」とし、裏松固禅はこれを否定して九間としてその指図を載せるが、実際には七間とみるべきである。当初からその高さに危惧が抱かれたものか、宇多天皇の「寛平御遺誡」や「宇治拾遺物語」には、巡幸中の桓武天皇が工匠に高さを五寸減ずべきことを命じた。しかし再度訪れた際これを見て後悔した天皇が、実はその命に従っていなかった工匠が失神したのを見て許したというエピソードを伝えている。
羅城門の楼上には毘沙門天像が安置されていたといい、黒川道祐の「雍州府志」に、大略次のような故事を記している。「いま東寺の塔頭観音堂には八臂毘沙門天像があるが、寺僧の言によると、これは羅城門の本尊であり、昔は楼上に置いてあったものだという。思うに、唐帝が西蕃に攻められた時、僧不空にこれを厭わしめたところはたして西蕃は敗走した。不空がいうには、ひたすら毘沙門天を念じたので神兵が現れて破ったのであると。そこで以後城楼上に毘沙門天像を安置するようになった。わが国では伝教大師の徒がこれに做ったのであろうか。それを羅城門が廃絶した後、近隣の東寺に移したものであろう」。道祐のいう中国の故事とは、玄宗皇帝の天宝初年、安西が西蕃に侵寇された時、不空三蔵に命じて仁王護国経を誦さしめたところ、神人が現れて安西を救ったというもので、平安初期に入唐帰朝した僧によってその故事が伝えられ、安置されたものであろうか。いま東寺(現南区)にある高さ六尺四寸の兜跋毘沙門天像がそれといい、いかにも異国的(兜跋は吐蕃・チベット)な風貌をもつ。ただし道祐のいうように八臂毘沙門天像ではない。
羅城門は弘仁七年(八一六)八月一六日夜、大風によって初めて倒壊、その後再建されたが、天元三年(九八〇)七月九日夜の暴風雨で再度転倒(百錬抄)してからは頽壊にゆだねられていたようで、寛弘元年(一〇〇四)閏九月五日、丹波守高階業遠が羅城門をつくることを条件に重任を申出て、この日申請が認められているが(御堂関白記)、翌年に至りはばかるところがあるとの理由で辞退している。「小右記」治安三年(一〇二三)六月一一日条によると、この日藤原道長は
羅生門の語が出たところで、羅城門の呼称についてふれておく必要があろう。平安遷都千百年を記念して平安神宮(現左京区)が創建された時、編纂された「平安通志」は、その遺跡について「葛野郡七条村大字唐橋小字来生ニ当ル、来生ハらいせいト訓ス、羅城ノ古訓ノ転訛ナリ、来生ノ東ハ字四塚ニシテ、旧址ハ此両地ニ亘レリ」と記している。羅城門は呉音でいえば「らじょうもん」であり、漢音では「らせいもん」とよんだ。「拾芥抄」宮城部でも羅城門のよみを「ラセイ」としており、これが一般的な呼称であった。「らいせい」はその転訛で、早く「宇治拾遺物語」にも「らいせい門の橋の上に立て北ざまを見れば、すざく門のうへのこしに云々」とあり、来生はその当字である。ところが先の「拾芥抄」には別に傍注して「或説ラシヨウ云々、常不用之」とあり、「延喜式」神祇、臨時祭の羅城門御贖の条には、羅城の傍注に「俗に頼庄と言ふ」とあり、「らいしや(よ)う」ともいったことが知られ、「らしよう」「らいしよう」という呼称が遅くとも南北朝期には生じていたことがわかる。「らせい」が「らいせい」(来生)となり、更に「らいしよう(頼庄)」「らしよう」と転訛したものであろう。羅城を羅生とするのはむろん当字であるが、観世信光作の「羅生門」もあるから、一五世紀には「らしよう」が一般化していたのであろう。
羅城門から北へ大内裏の正面、朱雀門に至る幅二八丈の道が朱雀大路で、柳が街路樹として植えられていた。「続日本後紀」承和三年(八三六)七月二一日条に、「雷雨殊切、至夜分震朱雀柳樹」とあるのが初見である。平安初期民間に発生した歌謡で、貴族間でも謡われた「
とあり、朱雀大路に展開する春から秋への季節の推移が巧みに謡い込まれている。素性法師の歌(古今集)
も羅城門上から眺めた平安京の景観であったろうか。
大内裏は朱雀大路の突当り、平安京中央北部に東西三八四丈(約一千一七四メートル)、南北四六〇丈(約一千三九三メートル)を占めていた。平城京には右京にだけあった北辺部が、平安京では左京にも付加され、それに伴って宮城域が北に拡大したことから、平安宮の宮城門は上東門と上西門が増えて一四門となった。そのなかに
「文徳実録」斉衡元年(八五四)一二月三日条によると、この日、木工寮中で頓死した木工頭石川朝臣長津は、性、工巧を良くして(木)工官を歴任したが、先父の貯蓄するところの文書数千巻を秘蔵し、他に貸したことがなかったというが、その相伝文書の中には建物の指図も数々含まれていたに違いない。現在知られる指図としては、九条家と近衛家に伝えられた古写図が最も著名で、前者は九条家本「延喜式」中の一巻に「左右京図」「内裏図」「八省院図」「豊楽院図」などとともに描かれているもので、巻首に書かれている京程に関する記事の中に「四位大外記中原師重之本云」といった勘記がある。大外記の師重が従四位に叙せられたのは建保六年(一二一八)七月のことで、これに対して近衛家本は「左右京図」を欠くが他の指図を伝え、「
ただし「大内裏図」は作成(書写)年代とも関連して、平安初期、主として大同年間(八〇六―八一〇)に推進された官衙の統廃合以前の姿はもちろん、それ以後の変更についても必ずしも十分には反映されていないことに留意する必要がある。現在のところ「南都所伝宮城図」(「平安通志」所収)が、残欠図ではあるが西北隅の漆室が鼓吹司、郁芳門南の神祇官が散位寮、陽明門北の右近衛府を主鷹(司)、東北隅の茶園が鍛冶司、大蔵省の南、図書寮と掃部寮との間の空地を官奴司とするなど、他の大内裏図と著しく異なっており、最も古い。おそらく造都時の姿を示していると思われるが、残念ながら大部分を欠いていて一部を知るにとどまる。
平安宮が平城宮と異なるところは、長岡宮と同様、朝堂院(大極殿はその正殿)と内裏とが分離したこと、朝堂院の西に、平城宮・長岡宮でも今のところ確認されていない豊楽院が儀礼の場としてつくられたことであり、また平安宮に特異なものとして、内裏の西に「
を載せるから、「えん」とよんだことが知られるが、平城京時代、天皇ごとに宮殿を改め、いわば宮内遷都が行われていたことを勘案すれば、本来は内裏を建替えるための替地として用意された空間であったようだ。しかし平安時代を通じてこの場所に内裏が建替えられた事実はなく、むしろ鬼物妖怪の出没する不気味な場所として怖れられるようになる(「三代実録」同前条・「今昔物語集」巻二七)。
天皇の即位式や外国使節を謁見する場が朝堂院の正殿である大極殿で、東西一一間、南北五間であったが、平城宮のそれが重層・入母屋造であったのに対して、単層で廟造すなわち四柱造であった。「左経記」長元元年(一〇二八)七月一五日条に、外記清原頼隆の勘文を引用して「大極殿之体、非寝非堂、所謂廟作也」とある。ただし当時の大極殿は貞観一八年(八七六)四月一六日夜半から数日間にわたって焼け、元慶三年(八七九)一〇月に再建された第二次大極殿であるが、延暦の旧制を襲ったものと思われる。これが入母屋造となったのは康平元年(一〇五八)二月二六日、応天門と左方楼のみを残して大焼した後、延久四年(一〇七二)四月一五日に落成した第三次大極殿での改変で、この時は周囲の歩廊も瓦垣に改められたようである。平安神宮の拝殿は大極殿を約八分の五に縮めたものであるが、入母屋造で、延暦の旧制を踏襲してはいないことになる。
朝堂院の西にあるのが豊楽院で、延暦一九年につくられたが、「今昔物語集」巻二四には、遷都の時、武(豊)楽院は世に並びなき飛騨工が建てたものであるから微妙なるべし、とある。一代一度の大嘗会をはじめ年中の諸節会、饗宴の行われる場所であったが、康平六年三月二二日夜に全焼して以後、再建されることはなかった。「大鏡」には道長兄弟が花山天皇の発案で行った胆試しで、兄の道隆が豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠(納戸)、道長は大極殿に、それぞれ内裏から出かけたが、兄二人は恐ろしさのあまり途中から引返し、道長だけは証拠にと高御座の南面の柱のもとを削って持帰ったという話を載せているが、むろん康平の火災以前のことである。
先述したように平安宮では朝堂院と内裏とが分離したが、朝政の場(外廷)と天皇の居所(内廷)との分離は、公私の分離とそれによる私的要素の抑制というより、かえって政治の場の内廷への回帰をもたらし、公私混淆を助長する方向に作用した。内裏の中に設けられた左右近衛府の陣(詰所)つまり紫宸殿北廊の東に続く渡廊に左近衛府の陣が、校書殿の東廊に右近衛府の陣があてられ、大臣公卿たちの審議の場がここでもたれるようになった。これを
桓武天皇が延暦二五年三月に没した「正寝」とは、後に清涼殿とよばれた建物(清涼殿の語の記録上の初見は「日本紀略」弘仁四年九月二四日条)に相当すると思われるが、次の平城天皇が、宮殿を修するによりしばらく弁官庁に移ろうとしたというのは(「日本後紀」大同四年三月二四日条)、その正寝(清涼殿)の修造か、それに代わる建物の修造を行ったことを暗示する。これは役夫が死亡するという事故のために中止、天皇もまもなく譲位して内裏を去ったが、天皇が清涼殿で没した場合これを解体し、建替えることが行われた。仁明天皇が嘉祥三年(八五〇)三月に清涼殿で亡くなったあと、次の文徳天皇は翌仁寿元年(八五一)二月一三日、「此殿者 先皇之讌寝也、今上不忍御之、」(文徳実録)という理由で清涼殿を解体し、南伏見につくられていた仁明天皇陵の傍らに移建し、これを嘉祥寺堂(跡地は現伏見区)としている。代りに内裏には新しい清涼殿が営まれたのである。こうした事例は村上天皇や後一条天皇の場合にもみられたが、動かざる遷都ともいうべきもので、歴代遷宮の慣習の終末期のあり方といってよい。
こうした清涼殿の建替えの事例が僅少なのは、生存中に譲位した天皇が多く、譲位すれば内裏を去ったことによる。その場合、平城京では宮内のしかるべき建物に住んだのに対して、平安京では内裏外に譲位後の上皇の御所が設けられた。これを
平安宮内の建物は、貞観八年(八六六)閏三月応天門が焼け(応天門の変)、同一八年四月には大極殿が焼亡するなどのことはあったが、内裏の建物が焼けたのは天徳四年(九六〇)九月が最初である。同月二三日の亥四点(午後一二時前)、左衛門陣から出火したもので、清涼殿に寝ていた村上天皇は急ぎ後涼殿・陰明門を経て中和院に至り、そこの神嘉殿で火を避け、更に職曹司に移っている。火事は丑四点(午前三時頃)に消えた(扶桑略記)。被害は大小の殿舎はもとより、宣陽殿に納められていた累代の重宝をはじめ、内記所の記録文書、春興・安福両殿の武具、仁寿殿の什物など、すべてが灰燼に帰した。天皇はその後、冷泉院に移っている。
早速造営の議が決せられ、再建に取掛ったが、木工寮と修理職のほか、美濃国以下二七ヵ国に割当てて諸殿舎を造営させ、翌応和元年(九六一)一一月に完成、同月二〇日天皇は冷泉院から新造内裏に帰還している。「扶桑略記」天徳四年九月二八日条によれば紫宸殿・仁寿殿・承明門は修理職が、常寧殿・清涼殿は木工寮が再建した。その他の殿舎と造国は承香殿・淑景舎(北一宇)=美濃、貞観殿=周防、春興殿=山城、宜陽殿・襲芳舎=播麿、綾綺殿・淑景舎(南一宇)=近江、麗景殿=大和、宣耀殿=安芸、温明殿=伊賀、安福殿=摂津、校書殿=丹波、弘徽殿=河内、登華殿=備前、後涼殿=紀伊、昭陽舎(南一宇)=美作、昭陽舎(北一宇)=淡路、飛香舎=阿波、凝香舎=和泉、建春門=若狭、宣陽門=尾張、陰明門=長門、玄輝門=土佐、東面廊=伊勢・越前、南面廊=伊予、西面廊=備中・備後、北面廊=讃岐であった。
しかし内裏はこれを初回として以後度々罹災する。試みにこの後、摂関政治の盛期を経て頼通が退場する治暦三年(一〇六七)までのほぼ一〇〇年を限ってみても、その間内裏(里内裏を含めて)の焼亡は一八回、ほぼ六年に一度の割合で焼けており、その中には失火でない、政治的な陰謀もからむ放火によるものもあったように思われる。
このように度々に及ぶ内裏焼亡によって出現したのが、いわゆる里(京中)内裏である。一般には貞元元年(九七六)五月に内裏が焼けた時、円融天皇が遷御した太政大臣兼通の
平安京は朱雀大路によって京域が左(東)・右(西)両京に分けられ、縦横に走る大小の道路が京域部分を碁盤目状に区画した。しかし平城京と違うところは
京域の拡大ということに関連して、平城京に早くから現れた「外京」(条坊制を修正する目的から二条から五条の間、東方に三坊分の出張り部分が設けられ、ここに住宅が集中するようになる)に相当するものとして、鴨川の東、
さて京域は四〇丈四方の一町を基本区画とするブロックの集積によって構成され、一六町で一坊が形づくられていた。従って南北に九条(+北辺坊)、東西に両京各四坊に分けられた平安京には、大内裏部分を除けば計算上七一坊(相当分)があったことになる。中国では京域全体を取囲む城壁(羅城)のほか、坊ごとにも周囲を取巻く坊城(垣)が築かれ、四つの坊門が開かれていて、坊が一つの封鎖的な空間を形成していたが、わが国の場合、坊城は朱雀大路に面する左右両京の各条第一坊に限られていたようで、他の面には格別門らしきものは建てられておらず、従って坊の封鎖性もなかった。
次に一坊は一六町から成立っていたが、四町をもって一保としたから、一坊=四保=一六町という構成になる。また一町は四行八門の制といって、東西を四分してこれを四行といい、南北を八分してこれを八門といったから、一町は三二分され、その一つを一
このような地割は、条里制と同様そのまま宅地の場所表示に用いられた。ここには京中家地の売買に関する初見文書として、延喜一二年(九一二)七月一七日七条
在庇四面并又庇西北、又在小庇南 |
面、戸五具 大二具 小三具 |
在一宇庇、南西面、在一宇庇、西面、 |
戸各有壱具 |
大 |
小 |
一通職料 |
一通主料 |
しかしこの戸主は後には多少意味変化し、五丈×一〇丈という形でなくとも面積が五〇平方丈(もしくはその近似値)であれば、それを一戸主と表示するようになる。応徳二年(一〇八五)一二月周防守藤原公基後家家地売券案(東寺百合文書)はその早い事例であろう。
東西伍丈尺伍寸 |
南北捌丈尺 |
こうした変化と対応するように、地点表示についても一一世紀に入ると道路による表示法が現れ、しばらく四行八門制と併用されるが、やがてこれに取って代わるようになる。これは面積表示で戸主が用いられなくなること、京中家地の売買にあたり条令が関与せず、当事者間で売券がつくられるようになることとなり、著しい変化であった。次に掲げる承徳二年(一〇九八)三月五日僧頼禅家地売券(東寺百合文書)は、そうした諸要素を含む早い時期の史料である。
東西五丈七尺五寸 |
南北二丈八尺九寸 |
これは左京四条二坊九町西四行北七門に含まれる一六・六六平方丈(正しくは一六・五九七五平方丈)の土地の所在をいうのに、当該地が五〇平方丈すなわち一戸主の三分の一弱の広さであるために、「油小道西……」と記し、油小道(路)の西、六角通の北でその六角通の
なお道路を基準にする表示法では、当該地が道路に面接している場合「
右に引用した文書に「油小道(路)」や「六角(通)」という道路名がみえたように、平安京を東西、南北に走る大小の道路には、東西路のうち一条・二条……九条大路の各大路、三条坊門小路以下九条坊門小路までの各坊門小路以外の小路、南北路では朱雀大路、東西京極大路などを除くすべての道路に固有の名称が付けられているが、その由来や時期はほとんど明らかでない。ただし同類の呼称は既に平城京にあり、左京一条南路(東西路)を「佐保路」、右京二坊大路(南北路)を「佐貴路」といい、また二条大路の南の小路が「押小路」とよばれていたが、平安京の同じ大路が「道祖大路」または「幸大路」といわれ、「押小路」も同じ名でよばれているから、ほかにも平城京から移されたものがあったに違いない。
次に考えられるのは、既存の地名を踏襲したと思われる道路名として、右京第一〇の南北路である「馬代」「宇多」小路があげられる。京域に含まれた
「掌中歴」には、「錦」小路はもと「具足」小路といっていたものを、天喜二年(一〇五四)の宣旨で改称したとある。もっともこの具足小路の名は神泉苑所伝左京図には「
春日南半 |
堀川西小路 |
針ノ小路 |
一名 |
中御門以南靫負二条以北 |
藍園七条ノ坊門以南市「南」門(角イ) |
大炊御門以北 |
帯刀町 |
土御門以北町口 |
中御門以南町尻 |
中御門以北 |
少白(代イ) |
とし、同じく「拾芥抄」によれば、西京の路について、
富「小路」 |
起自東 |
冷泉 |
起自北 |
といった異名を記している。なお「拾芥抄」所収左京図には東西路のうち九条坊門通に「韓橋」、信濃小路に「唐崎」もしくは「多那井」という別称の書込みがある。これによれば九条坊門通(もしくは信濃小路)の末にも唐(韓)橋があったようである。むろん羅城門南の唐橋とは別個のものである。ちなみに長徳四年(九九八)六月の豪雨で鴨川の堤防が決壊した際、蔵人頭藤原行成が左中弁高階信頼以下と外記史らを率いてこれを調査したが、その順路は、大内裏を陽明門から出て東洞院大路に至り、北行、上東門通より東行して万里小路に至り、更に北行して
どの宮都においても、道路の造成が造都の前提をなす工事であったが、平安京の場合、道路の幅員の広狭にある種の基準のあったことが知られ、そこに都市造りの思想ともいうべきものが認められる。
すなわち、朱雀大路が二八丈という最大の幅員をもつのはともかく、宮城域の南辺を東西に走る二条大路が一七丈と、朱雀大路を除くどの東西路・南北路よりも大きいのは、この二条大路を境として、それ以北が特別の地域、すなわち官衙町や高級官人貴族の集住する地区として設定されたことを暗示する。二条大路以北の東西路(土御門・近衛・中御門・大炊御門)がいずれも一〇丈の大路で、この幅員をもつ大路は二条大路以南には造られていないことも、宮城に近いこの地域の特殊性によるもので、陽明門が公卿の通用門となったのも故なしとしない。後述するように諸司厨町がこの地域に集中していた。また諸記録や京中図の類からは、二条大路を挟んで北ばかりでなく、南にも高級住宅街の形成されたことが知られるが、これもこの大路の広さによるものといってよい。
さて平安京の京中は、先述のように七一坊相当分があり、町の数でいえば一千一三六町となる。もっとも実際には八町の神泉苑(現中京区)のほか、各一二町の東西市(跡地は現下京区)、各四町の東・西両寺(現南区)があり、八町の朱雀院、四町の冷泉院といった後院が設けられるなど、京中官衙などにあてられた坊町も多数あったから、宅地部分としては一千町程度とみてよいであろう。
しかし造都工事の結果それだけの町々が住宅地として造成されたかとなると、はなはだ疑問である。というのは遷都後三〇年余にすぎない天長五年(八二八)の段階で、京中総五八〇余町にすぎなかったからである(「日本後紀」同年一二月一六日条)。この数字は計算上の町数の半分でしかない。このことは平安京の規模が実質半分であったこと、それは造成後の荒廃というより、もともと京城内に沼沢地や森林の類が多数存在していて、宅地造成されなかったためと思われる。そのために弘仁一〇年(八一九)一一月五日の官符では、京中の閑地を申請者に賜うて地利を得さしめることを許し(類聚三代格)、天長九年九月二六日には左右京職をして京中閑地を総計せしめ、地主に耕作させるなど(同書)、京中に耕地をもつことも許されている。もっとも承和五年(八三八)七月一日の勅には、「如聞、諸家京中好営水田、自今以後一切禁断、但元来卑湿之地、聴殖水葱芹蓮之類」とあって(続日本後紀)、水田を営むことは禁断されたが、水葱芹蓮の類を植えることは認められている。
右の勅にいう「元来卑湿之地」が右京に多かったことは、その後の経過からも了解されるところであるが、平安後期の成立になる「今昔物語集」巻二六にも「サテ西ノ四条ヨリハ北、皇嘉門ヨリハ西ニ、人モ住マヌ
低湿地や閑地は右京に限らなかった。現に右の保胤の
このような立地条件から、平安京内は時代が下るほど住宅地が偏在した。その辺りのことを最もよく示してくれるのが、保胤の「池亭記」であろう。
これによって、左京に比して右京は早く廃れたこと、左京のうち四条以北に人家が集中したこと、東や北の郊外に居住地が移りつつあったこと、地価が北と南とでは違っていたこと、などが知られる。こうして平安京は地域的に、左京と右京、
平安京が洛陽(城)とよばれるようになるのも、右の趨勢と無関係ではなかった。
「拾芥抄」京程部に「東京
号洛 |
陽城 |
号長 |
安城 |
愛宕 |
郡 |
葛野 |
郡 |
京中の民政全般に関与したのが
京職の職掌は京中住民(京戸)についての編戸造籍、京戸よりの田租・調徭銭の徴収をはじめ、京中閑地の調査、坊城の修理、京中の清掃、行斃人や死骸の収容・埋葬、貧窮・乞食者の
貞観四年三月、左京職の要請によって保長が定められた。この時の京職の言い分は、京中には皇親や卿相の邸宅が民家と接しており、それらを含めて五保を結ぶのでなければ、奸猾の督察・道橋の自全は期しがたいとして、親王や公卿職事三位以上は家司を、無品親王は六位別当を、散位三位以下五位以上は事業を、それぞれ保長となすべきことを要請し、許されている(三代実録)。しかし昌泰二年(八九九)六月にもほぼ同様の趣旨の「結保帳」をつくることが命ぜられ(類聚三代格)、斉衡二年(八五五)九月には坊城の修理に応じない諸家について俸禄を奪うことを定めており(類聚三代格)、権門王臣家の統制が困難であったことを示している。
次に坊令は条ごとに一人おかれたので条令ともいい、当該条坊の居住者で明廉強直・時務に堪える者をもって任じ所部を督察せしめたが、微禄のために辞退する者が多く、適任者をうることも困難であった。天長九年(八三二)一一月二九日の太政官符(類聚三代格)は、ここでも条坊中に存在する有勢家の不遵行が障害となっていたことを指摘している。
この坊(条)令の職掌として、京中の土地の売買に関与したことがあげられる。これは農村部における郷長の立場に相当し、土地の売買にあたっては、関係する条坊の
京職によって戸籍に付けられた京中住人を京戸といったが、その実体は一様でなく、また一時的な居住者としての地方課役民がおり、合法・非合法の形で京中に流入する地方民も少なくなかった。
京畿が畿外より課役が軽いので、延暦一九年(八〇〇)一一月二六日の勅によれば(類聚国史)、畿外の民が競って京畿に貫付されている。すなわち
この延暦一九年の措置は必ずしも有効ではなかったらしく、大同元年(八〇六)八月八日の官符では延暦の方針を覆し、冒名仮蔭でない限り、付帳を許している。ところがこれでは事実上付帳が無制限となるに等しかったことから弊害が現れたため、斉衡二年(八五五)三月一三日の太政官符では、括出者を除き、自ら名乗り出た隠首の付帳のみを認めることとしている(類聚三代格)。いわば延暦・大同の両法の折衷であったが、これとても事実上外民の京貫は合法性を与えられたも同然であった。
なお地方民の京貫に関しては、当初から合法的な手続で上洛した人々の存在が留意される。延暦一五年(七九六)七月一九日、大和国人正六位上大村朝臣長人・河内国人正六位上大村朝臣氏麻呂・正六位上大村朝臣諸臣・正七位下菅原朝臣常人・従七位上秋篠朝臣全継など一一人を右京に貫付している(日本後紀)のを初見として、以後記録のうえでは、個人もしくは家族単位で平安京に移住し、京貫を認められた例が、仁和年間(八八五―八八九)までの一世紀足らずの間に百四、五十を数える。その出身国は畿内五ヵ国はもとより七道諸国に及び、外従五位下ないし八位以上の有位の地方有力者であるのが特徴であるが、これは中央での官途や大学での勉学のために上洛し、一定期間居住の後、京貫を申請したものたちであった。その申請が認められると左京か右京に付籍され、晴れて京戸となり、位も外位から内位とされた。これを
平安京には絶えず地方から課役民が送込まれていた。「身役」として諸司諸家の雑役に従事せしめられた衛士・仕丁とか舎人の類であるが、彼ら課役民のために用意された施設が
この諸司厨町の記録上の初見は、「日本後紀」大同三年一〇月八日条に、「左衛士坊失火、焼百八十家、賜物有差」とあるもので、平安造都以来のものといってよい。この場合所在地は不詳であるが、左衛士府の衛士たちの居坊であった。承和五年(八三八)七月一五日には、長さ二四丈、幅四丈(約二戸主分の広さ)の仕丁町を陰陽寮守辰丁二二人の
さて先述のように京戸は京職に把握された基本的な京中住民であるが、延暦一九年一一月、
しかしこの京戸田は種々の点で制約があった。第一に多くの場合、口分田の所在地が居住地(京中)を遠く離れていたことである。そのために大同四年(八〇九)九月一九日の太政官符では、口分田を外国に班給することをやめ、とどまることを願う者には現地に編付するように命じている(類聚三代格)。京戸田は最初から経営困難であった。第二は、諸国にある京戸田の管理事務は所在国の国司に委任されていたが、それを忌避されたことで、そのために天長六年(八二九)六月二二日の太政官符によると、左右京職から書生・従者らを派遣している(同書)。第三は、九世紀を通じて班田制が全般的に衰退していくなかで、そのしわ寄せがまず京戸の口分田に向けられたことである。長岡京時代であるが延暦一一年一一月の勅で、京畿の百姓の口分田は男の分を班給し、その余りを女に給し、奴婢には与えないこととしたが(類聚国史)、元慶三年(八七九)一二月四日に至り、京戸女子口分田は全廃し、これを畿内男子に加給することにしている(三代実録)。
京戸の女子がはやく農業生産から遊離したことが、口分田班給を停廃させる口実もしくは根拠となっているわけで、これが次には男にも適用され、一〇世紀にはほぼ全面的に京戸田の制は崩壊した。
このような京戸田の衰退に相応するかのように、平安京では九世紀の後半に入った頃から、さまざまな社会問題、いうならば都市問題が現れはじめる。水旱損のたびに米塩を放出して窮民に支給する
こうした事態に対処するために、各種救済施設が営まれている。貞観九年四月、東西両京に常平所を設置して官米を安価に放出(三代実録)、ただしこれは常置ではなかったらしく、元慶二年(八七八)正月にも東西京中に常平司を置き、売常平所米使を任じている(同書)。八条二坊(左京か)には天長年中(八二四―八三四)、乞人屋として七間の板屋一宇を建てている。これは貞観七年六月いったん除棄された後、二年後木工寮をして東西京乞索児宿屋二宇として再興された(同書)。鴨川の西畔に設けられた
平安京の都市的発展ということに関連して、当時(九世紀)の人口を推測しておきたい。もとより京戸帳はなく、確かな根拠となる史料を欠くが、以下のデータを勘案するに一五万人は超えなかったとみたい。
(1)盛唐時、首都の長安の人口は一〇〇万人であったといわれるが、平安京の規模は長安のほぼ三分の一であった。
(2)既述したように天長五年(八二八)一二月現在、京中の町数はすべてで五八〇町余り、これは本来あるべき町数の半分であった。これは庶民の基準宅地の
(3)先に掲げたように、貞観一三年(八七一)閏八月の賑給の記事から、京戸の平均家族数は五―六人と考えられること。
まず(1)(2)から単純計算すれば一五万となるが、(2)(3)で一戸主=一家族=五人とみた場合、九万人強。しかし実際には一戸主=一家族ということはないであろうから、これを上回ると思われる。いずれにせよ一〇万―一五万の間であったと考えて、まず間違いはなかろう。この数は今日の理解では少ないが、世界史的にみても古代都市としては大都市の部類に入るのである。
平安京はかなり早い時期から宅地の偏在化が進行しつつあり、それは貴族政治の展開、殊に院政の開始、それに伴う武士層の台頭がからまって、鴨東や洛南の開発が促進された。一方、当初農民的構造を濃厚にもっていた市中住民が、貴族官人層と同様、農業生産からの遊離を余儀なくされる過程で新しい生活基盤を獲得していくことになる。具体的には商工業や芸能など非農業的な生業に従事する道がそれであろう。そして、景観的な変貌と構造的な変質というこの両面がからみ合いながら、平安京は古代都市から中世都市への歩みを進めたのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
794年(延暦13)から始まる日本の古代宮都。山背国 (やましろのくに)(山城国)愛宕 (おたぎ)・葛野 (かどの)両郡にまたがる地(現京都市)に置かれ、形式的には1869年(明治2)の東京奠都 (てんと)まで続いた。平安京の営まれる北部山背は、二つの点において注目される地域であった。第一は、地域としての先進性である。桂川 (かつらがわ)、賀茂川 (かもがわ)(鴨川)、宇治川 (うじがわ)、木津川 (きづがわ)や、さらにそれらが合流した淀川 (よどがわ)が流れており、水上交通の著しく発達した地域であった。陸上交通も同様で、山背道とよばれた北陸道、丹波 (たんば)道と称された山陰道が通過していた。交通の利便は、古代宮都の備えるべき必須 (ひっす)条件であるから、このような水陸交通の便のよさは平安京造営の原因の一つとなった。第二は、宮都の伝統である。平安京は結果として近代まで宮都であり続けるから、山城国・京都といえば平安京しか思い浮かばないことが多いが、その直前の長岡京はいうまでもなく、それ以前にも継体天皇 (けいたいてんのう)の筒城宮 (つつきのみや)・弟国宮 (おとくにのみや)、聖武天皇 (しょうむてんのう)の恭仁京 (くにきょう)と、平安京に先行する4宮都をもっていた。この伝統のうえにたっての、平安京造営であった。なお、長岡京が、遷都の翌年に藤原種継 (ふじわらのたねつぐ)暗殺事件を起こすなど、きわめて不安定な政治状況下で造営が進められたのに対して、平安京の場合は、793年1月に土地調査が行われ、翌年10月に遷都するまで事態はスムーズに運んでいる。
平面形態は、唐 (とう)の宮都長安をモデルとして、これに日本独自の特色が加味されて設計された。中軸線をもつこと(左右対称型)、南北方向であること、宮域と京域が分離されていることなどは長安に類似するが、南北が長いこと、大きさは3分の1以下にすぎないことなど相違する点も多い。平安京は東西4.5キロメートル(1508丈)、南北5.3キロメートル(1753丈)を占めた。中央北寄りには宮域(大内裏 (だいだいり))が位置し、その東・西・南面に京域が広がっていた。中央には幅84メートル(28丈)の朱雀大路 (すざくおおじ)があって、平安京の正門ともいうべき羅城門 (らじょうもん)と宮域の入口の朱雀門とを結んでいた。南面には城壁があったようで、これは長安城の四周を巡る羅城を模倣したものであるが、平安京には南側だけにしか築かれなかった。長安のように絶えず異民族の侵入にさらされるという軍事的状況が日本にはなかったからである。一条大路を北限とし、南限の九条大路間に11本の大路、東京極大路 (ひがしきょうごくおおじ)を東限として西限の西京極大路間に9本の大路、この合計20本の大路が平安京の主要道路であり、これを基準として無数の小道が縦横に敷かれた。京域は左右の京職 (きょうしき)が管轄し、畿内 (きない)・七道といった一般行政区画とは異なった特別区とされた。内部は条・坊・保・町に区分され、最小の単位は戸主 (へぬし)で、奥行10丈・幅5丈、すなわち30メートル×15メートルであった。戸主の文字が示すように、標準的な一戸の家族の居住地として設定されたものであって、平安京が宅地のみからなるものであったこと、つまり農地をもたない地域であったことを示している。
平安時代中期に至り、平安京は変化する。桂川に近く低湿であった右京が衰退し、左京のみが発達するようになった。さらに一条大路を越えて北野、東京極大路を越えて鴨川周辺へと、新たに市街が展開した。計画された一条・九条・東京極・西京極という規格が崩壊し始めたのである。宮都であるという点ではこれ以後の時代も同様であるが、政治都市としての平安京はここで終わったといえる。
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