遷都の経緯
桓武天皇が長岡京(境域は現向日市・長岡京市を中心とし、一部は現京都市域)の放棄を決意した時期は明らかでないが、遅くとも延暦一一年(七九二)後半のことであった。その前後の事情について「日本後紀」延暦一九年二月二一日条に載せる和気清麻呂の薨伝には、後に二代目の造宮大夫となった清麻呂が「長岡新都経
十載
未
成
功、費不
可
勝計
」という理由で長岡棄都をひそかに奏上し、併せて天皇が遊猟に託して葛野の地を調査するように請うたとある(以下、「日本後紀」「日本紀略」による記述は書名を省略)。この年六月及び八月の二度にわたる洪水の被害や、その前後から意識されるようになった皇太弟早良親王の怨霊の問題が棄都と深くかかわっているが、清麻呂の発言の真意は、天応元年(七八一)民部大輔に任ぜられて以来の経済官僚としての立場から、造都工事における効率の悪さの指摘にあったものと思われる。天皇は延暦一一年の九月と一一月、葛野に遊猟しているが、それは遊猟にことよせての新京地の視察であり、翌一二年正月一五日、大納言藤原小黒麻呂・左大弁紀古佐美らを遣わして葛野郡宇多村の地をみせしめているのは、立地条件などを最終的に調査させたものであった。早くもその六日後には長岡宮を壊すために東院へ移っており、造都事業は新年を期して開始された感がある。次いで二月二日には参議治部卿壱志濃王らを遣わして遷都のことを賀茂大神に奉告、三月一〇日には同じく壱志濃王が伊勢神宮へ奉幣、同二五日には曾祖父天智天皇・祖父施基王及び父光仁天皇の陵に遷都のことを奉告している。その間天皇は三月一日新京の地を巡覧し、それは七月二五日・二六日、更に一一月二日と重ねられ、翌一三年(四月二八日)に及んでいる。長岡京の場合は早々と遷御した天皇も、この度は十分に時間をかけ、実際に長岡宮から移ったのは、造都開始後足掛け二年を経た、延暦一三年一〇月辛酉(二二日)のことである。遷都に先立ち、九月二八日に諸国の名神に幣帛を奉り、遷都と征夷のことを祈願しているのは、造都と軍事とが桓武朝の二大事業であったことを示している。
さて遷都の三日後、甲子の日に造宮使及び山背国府の官人が祝の品々を献じたのを皮切りに、以後連日のごとく畿内近国からの奉献が続き、またその間官人に物を賜い位階を昇叙、賀茂(現上賀茂神社、北区)・松尾(現松尾大社、西京区)の神々には神階を加え、更に愛宕・葛野二郡に対しては当年の田租を免除している。次いで一一月二八日の詔で、これを平安新京と名付け、山背国を改めて山城国としている。
此国山河襟帯、自然作城、因斯形勝、可制新号、宜改山背国、為山城国、又子来之民、謳歌之輩、異口同辞、号平安京、
越えて翌一四年正月一六日、宮中で宴がもたれ、踏歌が奏されて、平安新京を頌している。
山城顕楽旧来伝 帝宅新成最可憐
郊野道平千里望 山河擅美四周連
新京楽 平安楽土 万年春
沖襟乃眷八方中 不日爰開億載宮
壮麗裁規伝不朽 平安作号験無窮
新年楽 平安楽土 万年春
新年正月北辰来 満宇韶光幾処開
麗質佳人伴春色 分行連袂舞皇垓
新年楽 平安楽土 万年春
卑高泳沢洽歓精 中外含和満頌声
今日新京太平楽 年々長奉我皇庭
新京楽 平安楽土 万年春
ただし造都工事は、延暦二四年一二月に造宮職が廃止されるまで、これから一〇年間続けられることになる。
造都工事
〔造宮職〕
造都の推進機関として造宮司が設けられたのはこれ以前の場合と変りはなく、その構成も造宮大夫・亮以下の事務系官人と、造宮大工・少工以下の技術系官人とからなり、延暦一四年五月一三日、造宮使の主典以下将領以上一三九人が叙位されている事実に徴すれば、それを超える数の官人が配されていたことを知る。初代の造宮大夫は、地相調査にも関係した藤原小黒麻呂であるが、延暦一三年七月に没しており、その後には遷都の陰の推進者であった和気清麻呂が任じられ、同一八年二月に没するまでその職にあった。二人とも民部卿を本官とする経済官僚であったのは、造都事業にその経綸が求められたからであろう。清麻呂の後には同年四月、中納言藤原内麻呂が任命された。また造宮亮には左兵衛督菅野真道や木工頭播麿介石川河主の名がみられる。一方、造宮大工や少工には同一五年七月それぞれ物部多芸連建麻呂、秦都岐麻呂が任命されているが、物部多芸連は忌部や猪名部などとともに土木技術に関係の深い氏族であり、少工の秦都岐麻呂も、後に木工寮少工・造西寺允に任命されるなど、技術系官人のコースを歩んでいる。
さて造都工事はこうした造宮職の官人たちにより分掌遂行された。すなわち、土地の収用と道路・宅地の造成、河川の改修・築堤、宮殿・官衙の建造のほか、その前提としての労働力の編成などである。
〔造宮役夫〕
造都の労働力としての造宮役夫の徴発形態は、諸国公民雇役労働を基本とし、その動員が本格化するまでの暫定措置として貴族官人に割当て、貢進せしめている。恭仁京(跡地は京都府相楽郡加茂町)や長岡京の場合にみられた秦氏をはじめとする地方豪族の役夫貢進は、平安造都に関する限り越前国人が父の遺志で米一〇〇石を造宮料に寄せたという以外、史料的な所見がない。公民の雇役とは雑徭のように無償労働ではなく功稲が支給されたことで、和雇ともいうが、事実は各国衙が割当てられた数の役夫として管内百姓を強制的に徴発したものである。記録の上では延暦一三年六月、諸国(国名不詳)役夫五千人を新宮の掃除にあてたというのを初見として、延暦一六年三月、遠江・駿河・信濃・出雲などの国より雇夫二万四〇人を造宮役に、同一八年一二月にも伊賀・伊勢・尾張・美濃・若狭・丹波・但馬・播麿・備前・紀伊などの国より同じく役夫(人数不詳)を造宮にあて、同一九年一〇月には、山城・大和・河内・摂津・近江・丹波などの国より一万人を葛野川の築堤に従わせている。工事の継続ということを考えれば、こうした役夫の動員は季節や地域性などを考慮しつつ行われたものと思われるが、差発国は遠国は伊予の一例だけで、ほかはすべて近国・中国という地域的な限定のあったことが知られる。そこで役夫所出国とそうでない国との負担のバランスが考慮され、就役国の出挙利率を下げ、田租を免除するなどの措置が講じられている。
〔飛
工〕
造宮役夫にはこのような、いわば単純労働力としての公民役夫のほかに、一群の技術者が地方から動員された。諸国匠丁といわれるもので、結番して上造したので番上匠丁ともよばれ、造宮大工・少工の下で造営の主体となった。またこの諸国匠丁の特殊形態が飛騨国から貢進された飛騨工(斐太匠)で、宮殿・官衙の造営の中核になった。一年を役限としたので年貢匠丁ともいわれたが、造都終了後も保守・修繕のために一定数が確保され、後の記録では定員一〇〇名とされ、その後、更に六〇名に減少されている。延暦一五年一一月には課役の負担に逃亡する者もおり、これが工事の停滞をもたらす要因ともなった。
〔宅地班給〕
造都工事の進行に伴い、京中では宅地造成や都城制に基づく町割が行われ、それが諸人に班給された。早くも延暦一二年九月、菅野真道・藤原葛野麻呂らを遣わして新京に宅地を班給して、桓武天皇に因縁ある女官ら一五人には国稲(正税)一万一千束を支給しているが、造成費の助成の意味もあったのであろう。宅地班給の対象は、親王・公卿をはじめとする貴族官人が主で、一般庶民の場合どの程度適用されたのか不詳である。ちなみにその規模は、三位以上は一町(四〇丈四方)、四―五位者は半町、六位以下には四分の一町が標準とされた。公卿のもつ一町家のことが「如法一町家」と称され、また長元三年(一〇三〇)三月、諸国吏は「四分一町」を過ぎてはならないのに、最近は「一町家」を営む者が多いと指摘しこれを停止せしめている(中右記)のは、伝統がなお生きていたことを示すものであろう。
〔造宮職の廃止〕
役夫の徴発は延暦一六―一九年を最高に進められたが、一六年六月の詔で諸国の田租を全免もしくは半免しているように、造都のため「万民の勤苦甚し」い現状を無視できず、緩和しなければならなかったことが知られる。延暦二四年一二月七日、公卿らは奏議し、造宮による百姓の疲労、災疫による農桑の被害を理由に、諸負担の軽減を建言したが、同じ日に決定された造宮職の廃止もその一環であった。すなわちこの日、桓武天皇は参議右衛士督従四位下藤原緒嗣と左大弁正四位下菅野真道とを招いて、天下の徳政について相論せしめている。緒嗣は、「方今天下所苦者軍事与造作也、停此両事安百姓」と述べ、これに対して造宮亮として工事を推進してきた真道は、「確執異議、不肯聴」と頑強に造都の継続を主張している。しかし天皇は緒嗣の議を採用して造都の停止を決意、二日後に造宮職は廃止されることとなった。翌二五年二月三日、廃止した造宮職は木工寮に合併された。天皇が「正寝」で没したのはその翌月のことであるが、「雖
当年之費
、為
後世之頼
」というのが天皇評であった。
京域の決定
平安京の京域は葛野郡を主とし、一部が愛宕郡にまたがっていた。そこには森林・沼沢があり、大小の河川も流れており、各所に集落があった。葛野郡では綿代郷宇多村、愛宕郡では折田郷の名が伝えられている。口分田・墾田などの耕地もあったが、宅地・耕地の類は強制収用され、代価や代替地が与えられた。造都工事開始後まもなくの延暦一二年三月、新京宮城域のうち百姓地四四町について三年の価直を給したのがそれであり、同年七月には、葛野郡の百姓の口分田が多く「都中」に入っているとしてこれを収用し、山背(城)国雑色田を代りに与え、雑色田は四畿内に設置すること、また神田は便宜のある郡の田をもって替えることが行われている。紫宸殿南庭の橘がもと秦河勝屋敷にあったものという伝承があり、また宮内省の西北部に祀られた園韓神社(跡地は現上京区)も遷都以前からあり、造宮使がこれを他所に移そうとしたところ、なおここに座して帝王を守り奉らん、との神託があり、宮内省中に鎮祭したものであるという(古事談)。
平安京の場合、京域の決定は、既存の道路を基準にとって京極や中心線(朱雀大路)を決めた藤原京(現奈良県橿原市)や平城京の場合ほど明確ではなく、山・川・道路などの諸条件が勘案されたとみられる。
〔双ヶ丘・船岡山〕
まず山についていえば、双ヶ丘(現右京区)の存在が西辺を限定したが、北にある船岡山(現北区)は、四神相応思想による玄武の山に擬せられたばかりでなく、それが朱雀大路(現千本通)の真北に位置しているところから、逆に、この山が京域の中心線を定める上での基準とされたことも考えられる。ちなみに船岡山の山頂には、磐座信仰の対象であったかと思われる奇巌がある。
〔古道の存在〕
しかし京域の北辺が船岡山よりかなりの距離をおいて南に設定されたのは、そこを通る古道、つまり近江から山中越で京都盆地に出、高野川を渡って西へ走り嵯峨野(現右京区)方面に至る既存の道の存在を無視できなかったためと思われ、これが北辺の境界線を規定した。遷都以前に存在した古道には、東西路として東は粟田口(現東山区)を経て山科(現山科区)から近江へ、西は太秦(現右京区)を経て嵯峨方面へ通ずる道、東は渋谷(現東山区)を越えて山科・近江へ、西は旧川勝寺村(現右京区)から桂川を渡り、樫原(現西京区)を経て丹波へ通ずる道がある。南北路としては、大和から宇治を経て(その途中、宇治橋が大化二年に架橋されたと伝える)北上し、六地蔵・大亀谷(現伏見区)から鴨川東に出る道や、摂津方面から北上し友岡(現長岡京市)・物集女(現向日市)・樫原を経て嵯峨方面へ通ずる道が主要なものであったろう。
〔鳥羽の作り道〕
ところで、平安京の羅城門(跡地は現南区)から鳥羽を一直線に南下する道が古くから「鳥羽の作り道」と称され、北に延長すれば朱雀大路となるところから、これが平安京の中心線を決定したとする理解がある。この作り道については吉田兼好の「徒然草」一三二段に次の一文があり、白河天皇造営の鳥羽殿(跡地は現伏見区)以前からあったとする。
鳥羽の作り道は、鳥羽殿建てられて後の号にはあらず、昔よりの名なり。元良親王、元日の奏賀の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作り道まで聞えけるよし、李部王の記に侍るとかや。
ここに登場する元良親王は陽成天皇の第一皇子で天慶六年(九四三)七月、五四歳で没しており、李部王とは醍醐天皇の第四皇子、式部卿(李部は式部の唐名)兼明親王のことで、天暦八年(九五四)九月、四九歳で亡くなっている。李部王の記すなわち「李部王記」の現存部分は、このエピソードを記さないが、鳥羽の作り道が一〇世紀以前に存在したことは確かであろう。この道は遷都以前からあった道というより、それに必要な資財を運ぶための道路として整備されたことから、その名が生れたものであろう。そして院政期、洛南鳥羽に離宮が営まれるに及んで、洛中とを結ぶ重要な道路となり、鴨川東堤を南下する道に対して鳥羽の西大路とも称されるようになった。京域の決定に関する地理的要素として、以上述べた山や古道とともに重要な意味をもったのが河川、殊に高野川や賀茂川の存在であるが、不明確な要素が多い。
〔堀川〕
今はそのほとんどが埋没しあるいは暗渠とされたが、古くはこの盆地を大小さまざまな河川が自然の地形に沿って流れていたことは、各種平安京古図によって知られる。殊に堀川については、延暦一八年六月、桓武天皇が京中を巡視中、堀川を過ぎた折、囚人が苦役されているのを見て哀れみ、詔を下して天下の囚人の恩赦を行っており、また少し時期は下るが天長一〇年(八三三)五月には、左右両京の京戸に檜柱一万五千株を賦課し、東西堀川の杭料としたことがあり、その整備には力を入れている。堀川は平城京にもあったが、その名称から京中の疏水として利用された水路であったと思われる。この堀川は上賀茂(現北区)辺りで賀茂川と分岐する、その一支流であった。
〔賀茂川の流路〕
しかし一般的な理解としては、この堀川を賀茂川の本流とみなし、他方松ヶ崎(現左京区)辺りから西南方向に流れる高野川も、今は糺森(現左京区)の南、出町付近で賀茂川と合流し、そこからは南流しているが(この両川合流以後を鴨川と記す)、かつてはそのまま西南方向へ流れ、四条・五条の辺りで賀茂川(堀川)と合流していた。それを平安造都の時、京域の外を流れるよう流路を東に移し、それと関連して賀茂川も上流の上賀茂辺りから東南方向に新たに人為的な流路をつくり出町付近で高野川と合流せしめたのであろう、とみる。この説には京都盆地の地質学的調査の裏付けがあり、説得力もあるが、関係記事が皆無であり、推測にとどまっている。それにこの説に従えば、現鴨川は高野川とよばれてしかるべきものである。
これに対して近時出された意見として、現北区の柊野付近を頂点とする賀茂川の緩扇状地帯に着目し、そこを南流もしくは東南方向へ流れる天神川(紙屋川)・堀川、殊に賀茂川の流路を重要視し、出町より上流の賀茂川は人為的な流路ではなく本来の賀茂川の主流であり、遷都時にも現流路を主流とし、堀川は分流であったという理解がある。これによれば鴨川の呼称についてだけでなく、流路変更を暗示する関係記事のないことも了解できる。地質調査の上からは、太古には高野川が西南流していた時期もあったとみられるが、少なくとも平安遷都時には賀茂川(鴨川)の流路が優越し、それはほぼ現在の流れと大きな違いはなかったと判断される。従ってこれが京域の東限を規制したことになる。
平安京の京域は、以上取上げた自然的人為的諸条件を考慮した上で定められたというべきである。こうして東西一千五〇八丈(約四・五キロ)、南北一千七五三丈(約五・二キロ)の平面空間が京域とされ、造成されることになった。その大きさは面積でいえば唐の首都長安の三分の一弱であった。
羅城と羅城門
わが国が手本とした長安京との違いは、その規模ばかりでなく、基本的な構造の上でもみられた。羅城と坊門の有無がそれである。中国の場合、京域に高さ約五メートルの城壁がめぐらされ、また京中では坊ごとに坊門が設けられていたが、平安京の場合は、それまでの宮都と同様、羅城は南辺、羅城門の両翼に限られ、坊門も朱雀大路に面したところにしかつくらなかった。
〔羅城と溝〕
羅城については、文献上では「延喜式」の左京職(京程式)に「南極大路十二丈 羅城外二丈
、路広十丈」とあり、城壁ではなく垣で、その高さも垣基の幅員から宮城をめぐる宮牆と同様六尺三寸程度のものであったと推測される。その垣の外に幅七尺の犬行(走)、更にその外に一丈の溝があり、これが幅一〇丈の道に接していた。この羅城が羅城門の両翼あるいは京城の南面にしかつくられなかったことは、同じく「延喜式」左京職(京程式)に、北極大路については、「北極并次四大路十丈」とあるのみで、羅城(垣)についての記載のないことがあげられる。それは東西京極の場合も同様であろう。しかし平安京の周辺には、簡単な土塁と溝があったことが推測される。裏松固禅の「大内裏図考証」に収める平安京図には、京城の周囲に堤を示す黒線を引いており、また同書一之上には、「堤 京兆図に曰く、堤を置きて京外と為す」と記している。「三代実録」元慶八年(八八四)八月二八日条に「以
山城国正税稲一千三百八十七束九把
、充
造左京北辺溝橋等
料」とある記事から、北辺すなわち一条大路の北側に溝と橋があったことが知られる。堤というのは、その溝の内側に土を積上げてできた土塁のことではなかろうか。そして条坊制による東西南北路の末には溝に渡された橋が設けられていたのであろう。ちなみに羅城門外の橋を「唐橋」とよばれてたのは、橋の造りが唐風だったからで、今も地名として残っている。
〔羅城門〕
南辺羅城の中央、朱雀大路の南端に建てられた平安京の表玄関が羅城門である。「拾芥抄」宮城部は「羅城門二重閣七間」とし、裏松固禅はこれを否定して九間としてその指図を載せるが、実際には七間とみるべきである。当初からその高さに危惧が抱かれたものか、宇多天皇の「寛平御遺誡」や「宇治拾遺物語」には、巡幸中の桓武天皇が工匠に高さを五寸減ずべきことを命じた。しかし再度訪れた際これを見て後悔した天皇が、実はその命に従っていなかった工匠が失神したのを見て許したというエピソードを伝えている。
羅城門の楼上には毘沙門天像が安置されていたといい、黒川道祐の「雍州府志」に、大略次のような故事を記している。「いま東寺の塔頭観音堂には八臂毘沙門天像があるが、寺僧の言によると、これは羅城門の本尊であり、昔は楼上に置いてあったものだという。思うに、唐帝が西蕃に攻められた時、僧不空にこれを厭わしめたところはたして西蕃は敗走した。不空がいうには、ひたすら毘沙門天を念じたので神兵が現れて破ったのであると。そこで以後城楼上に毘沙門天像を安置するようになった。わが国では伝教大師の徒がこれに做ったのであろうか。それを羅城門が廃絶した後、近隣の東寺に移したものであろう」。道祐のいう中国の故事とは、玄宗皇帝の天宝初年、安西が西蕃に侵寇された時、不空三蔵に命じて仁王護国経を誦さしめたところ、神人が現れて安西を救ったというもので、平安初期に入唐帰朝した僧によってその故事が伝えられ、安置されたものであろうか。いま東寺(現南区)にある高さ六尺四寸の兜跋毘沙門天像がそれといい、いかにも異国的(兜跋は吐蕃・チベット)な風貌をもつ。ただし道祐のいうように八臂毘沙門天像ではない。
羅城門は弘仁七年(八一六)八月一六日夜、大風によって初めて倒壊、その後再建されたが、天元三年(九八〇)七月九日夜の暴風雨で再度転倒(百錬抄)してからは頽壊にゆだねられていたようで、寛弘元年(一〇〇四)閏九月五日、丹波守高階業遠が羅城門をつくることを条件に重任を申出て、この日申請が認められているが(御堂関白記)、翌年に至りはばかるところがあるとの理由で辞退している。「小右記」治安三年(一〇二三)六月一一日条によると、この日藤原道長は法成寺(跡地は現上京区)の堂礎を上達部や諸大臣に引かせたが、その礎石は宮中諸司をはじめ神泉苑(現中京区)の門、乾臨閣の石、あるいは坊門・羅城門、左右京職その他の寺々の石を取ったものというから、当時羅城門には礎石だけが残っていたのであろうか。とすれば「今昔物語集」巻二九「羅城門上層ニ登リテ死人ヲ見シ盗人ノ語」は、天元の倒壊以前の話ということになろう。ちなみに芥川竜之介の小説「羅生門」は、「今昔物語集」の話を素材にしている。
〔羅城門の呼称〕
羅生門の語が出たところで、羅城門の呼称についてふれておく必要があろう。平安遷都千百年を記念して平安神宮(現左京区)が創建された時、編纂された「平安通志」は、その遺跡について「葛野郡七条村大字唐橋小字来生ニ当ル、来生ハらいせいト訓ス、羅城ノ古訓ノ転訛ナリ、来生ノ東ハ字四塚ニシテ、旧址ハ此両地ニ亘レリ」と記している。羅城門は呉音でいえば「らじょうもん」であり、漢音では「らせいもん」とよんだ。「拾芥抄」宮城部でも羅城門のよみを「ラセイ」としており、これが一般的な呼称であった。「らいせい」はその転訛で、早く「宇治拾遺物語」にも「らいせい門の橋の上に立て北ざまを見れば、すざく門のうへのこしに云々」とあり、来生はその当字である。ところが先の「拾芥抄」には別に傍注して「或説ラシヨウ云々、常不
用
之」とあり、「延喜式」神祇、臨時祭の羅城門御贖の条には、羅城の傍注に「俗に頼庄と言ふ」とあり、「らいしや(よ)う」ともいったことが知られ、「らしよう」「らいしよう」という呼称が遅くとも南北朝期には生じていたことがわかる。「らせい」が「らいせい」(来生)となり、更に「らいしよう(頼庄)」「らしよう」と転訛したものであろう。羅城を羅生とするのはむろん当字であるが、観世信光作の「羅生門」もあるから、一五世紀には「らしよう」が一般化していたのであろう。
〔朱雀大路〕
羅城門から北へ大内裏の正面、朱雀門に至る幅二八丈の道が朱雀大路で、柳が街路樹として植えられていた。「続日本後紀」承和三年(八三六)七月二一日条に、「雷雨殊切、至
夜分
震
朱雀柳樹
」とあるのが初見である。平安初期民間に発生した歌謡で、貴族間でも謡われた「催馬楽」に、
大路に 沿ひてのぼれる 青柳が花や 青柳が花や 青柳が撓ひを見れば 今さかりなりや 今さかりなりや
浅緑 濃い縹 染めかけたりとも 見るまでに 玉光る下光る 新京朱雀の しだり柳 または田居となる 前栽秋萩撫子 蜀葵しだり柳
とあり、朱雀大路に展開する春から秋への季節の推移が巧みに謡い込まれている。素性法師の歌(古今集)
も羅城門上から眺めた平安京の景観であったろうか。
大内裏と内裏
大内裏は朱雀大路の突当り、平安京中央北部に東西三八四丈(約一千一七四メートル)、南北四六〇丈(約一千三九三メートル)を占めていた。平城京には右京にだけあった北辺部が、平安京では左京にも付加され、それに伴って宮城域が北に拡大したことから、平安宮の宮城門は上東門と上西門が増えて一四門となった。そのなかに朝堂院・豊楽院以下二官八省の官衙と、皇居たる内裏とが存在していた。中世にはこの宮城域は官衙の荒廃に伴って無人の野となり「内野」とよばれるが、その後住宅地となり、今日に至った。そのために田園に帰した平城宮の場合と異なり、平安宮跡は全面にわたる発掘調査は不可能で、大内裏内に群立していた宮殿や官衙の規模や構造については具体的に知ることができない。しかし反面、平城宮(京)と違い、いくつかの大内裏(宮城)図、あるいは朝堂院・豊楽院などの指図があって、これがよりどころとなっている。
〔大内裏図〕
「文徳実録」斉衡元年(八五四)一二月三日条によると、この日、木工寮中で頓死した木工頭石川朝臣長津は、性、工巧を良くして(木)工官を歴任したが、先父の貯蓄するところの文書数千巻を秘蔵し、他に貸したことがなかったというが、その相伝文書の中には建物の指図も数々含まれていたに違いない。現在知られる指図としては、九条家と近衛家に伝えられた古写図が最も著名で、前者は九条家本「延喜式」中の一巻に「左右京図」「内裏図」「八省院図」「豊楽院図」などとともに描かれているもので、巻首に書かれている京程に関する記事の中に「四位大外記中原師重之本云」といった勘記がある。大外記の師重が従四位に叙せられたのは建保六年(一二一八)七月のことで、これに対して近衛家本は「左右京図」を欠くが他の指図を伝え、「元応元年八月三日、於鎌倉大蔵稲荷下足利上総前司尾形模之了、右筆頼円(花押)」という奥書がある。いずれも底本の成立年代は明らかでないが、平安期にさかのぼるとみてよいであろう。
ただし「大内裏図」は作成(書写)年代とも関連して、平安初期、主として大同年間(八〇六―八一〇)に推進された官衙の統廃合以前の姿はもちろん、それ以後の変更についても必ずしも十分には反映されていないことに留意する必要がある。現在のところ「南都所伝宮城図」(「平安通志」所収)が、残欠図ではあるが西北隅の漆室が鼓吹司、郁芳門南の神祇官が散位寮、陽明門北の右近衛府を主鷹(司)、東北隅の茶園が鍛冶司、大蔵省の南、図書寮と掃部寮との間の空地を官奴司とするなど、他の大内裏図と著しく異なっており、最も古い。おそらく造都時の姿を示していると思われるが、残念ながら大部分を欠いていて一部を知るにとどまる。
〔宴の松原〕
平安宮が平城宮と異なるところは、長岡宮と同様、朝堂院(大極殿はその正殿)と内裏とが分離したこと、朝堂院の西に、平城宮・長岡宮でも今のところ確認されていない豊楽院が儀礼の場としてつくられたことであり、また平安宮に特異なものとして、内裏の西に「宴の松原」と称する空間が用意されていたことである。「三代実録」仁和三年(八八七)八月一七日条は「縁松原」と記し、「栄花物語」にも、縁にちなんだ歌、
あはれにも今は限りと思ひしをまためぐりあふえんの松はら
を載せるから、「えん」とよんだことが知られるが、平城京時代、天皇ごとに宮殿を改め、いわば宮内遷都が行われていたことを勘案すれば、本来は内裏を建替えるための替地として用意された空間であったようだ。しかし平安時代を通じてこの場所に内裏が建替えられた事実はなく、むしろ鬼物妖怪の出没する不気味な場所として怖れられるようになる(「三代実録」同前条・「今昔物語集」巻二七)。
〔大極殿の構造〕
天皇の即位式や外国使節を謁見する場が朝堂院の正殿である大極殿で、東西一一間、南北五間であったが、平城宮のそれが重層・入母屋造であったのに対して、単層で廟造すなわち四柱造であった。「左経記」長元元年(一〇二八)七月一五日条に、外記清原頼隆の勘文を引用して「大極殿之体、非寝非堂、所謂廟作也」とある。ただし当時の大極殿は貞観一八年(八七六)四月一六日夜半から数日間にわたって焼け、元慶三年(八七九)一〇月に再建された第二次大極殿であるが、延暦の旧制を襲ったものと思われる。これが入母屋造となったのは康平元年(一〇五八)二月二六日、応天門と左方楼のみを残して大焼した後、延久四年(一〇七二)四月一五日に落成した第三次大極殿での改変で、この時は周囲の歩廊も瓦垣に改められたようである。平安神宮の拝殿は大極殿を約八分の五に縮めたものであるが、入母屋造で、延暦の旧制を踏襲してはいないことになる。
〔豊楽院〕
朝堂院の西にあるのが豊楽院で、延暦一九年につくられたが、「今昔物語集」巻二四には、遷都の時、武(豊)楽院は世に並びなき飛騨工が建てたものであるから微妙なるべし、とある。一代一度の大嘗会をはじめ年中の諸節会、饗宴の行われる場所であったが、康平六年三月二二日夜に全焼して以後、再建されることはなかった。「大鏡」には道長兄弟が花山天皇の発案で行った胆試しで、兄の道隆が豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠(納戸)、道長は大極殿に、それぞれ内裏から出かけたが、兄二人は恐ろしさのあまり途中から引返し、道長だけは証拠にと高御座の南面の柱のもとを削って持帰ったという話を載せているが、むろん康平の火災以前のことである。
蔵人所・陣座
先述したように平安宮では朝堂院と内裏とが分離したが、朝政の場(外廷)と天皇の居所(内廷)との分離は、公私の分離とそれによる私的要素の抑制というより、かえって政治の場の内廷への回帰をもたらし、公私混淆を助長する方向に作用した。内裏の中に設けられた左右近衛府の陣(詰所)つまり紫宸殿北廊の東に続く渡廊に左近衛府の陣が、校書殿の東廊に右近衛府の陣があてられ、大臣公卿たちの審議の場がここでもたれるようになった。これを陣座・仗座といい、そこでの会議を陣議・仗議と称した。また清涼殿の南廂にあった殿上の間はもとより、昼御座の前、東廂(弘廂)においても叙位除目や官奏などの諸公事が行われ、天皇の日常生活(褻)の場に政治が持込まれた。これは嵯峨天皇代の薬子の変に際して蔵人所が設置され、蔵人頭(頭弁・頭中将の二人)によって機密文書の保管や伝宣・奏請など、宮中の事務いっさいが掌握されるようになったことで助長され、相前後して内豎所・進物所・御厨子所・一本御書所・大歌所・楽所・作物所など諸種の「所」が出現し、これらが蔵人頭に統括されることにより天皇の家政機関として機能するようになり、これがまた政治の内裏への収斂化と相対応して政治の私的化を促進した。内裏に近い陽明門が大臣公卿らの通用門となったのも、こうした理由による。
〔清涼殿の建替え〕
桓武天皇が延暦二五年三月に没した「正寝」とは、後に清涼殿とよばれた建物(清涼殿の語の記録上の初見は「日本紀略」弘仁四年九月二四日条)に相当すると思われるが、次の平城天皇が、宮殿を修するによりしばらく弁官庁に移ろうとしたというのは(「日本後紀」大同四年三月二四日条)、その正寝(清涼殿)の修造か、それに代わる建物の修造を行ったことを暗示する。これは役夫が死亡するという事故のために中止、天皇もまもなく譲位して内裏を去ったが、天皇が清涼殿で没した場合これを解体し、建替えることが行われた。仁明天皇が嘉祥三年(八五〇)三月に清涼殿で亡くなったあと、次の文徳天皇は翌仁寿元年(八五一)二月一三日、「此殿者 先皇之讌寝也、今上不
忍
御
之、」(文徳実録)という理由で清涼殿を解体し、南伏見につくられていた仁明天皇陵の傍らに移建し、これを嘉祥寺堂(跡地は現伏見区)としている。代りに内裏には新しい清涼殿が営まれたのである。こうした事例は村上天皇や後一条天皇の場合にもみられたが、動かざる遷都ともいうべきもので、歴代遷宮の慣習の終末期のあり方といってよい。
〔後院の創始〕
こうした清涼殿の建替えの事例が僅少なのは、生存中に譲位した天皇が多く、譲位すれば内裏を去ったことによる。その場合、平城京では宮内のしかるべき建物に住んだのに対して、平安京では内裏外に譲位後の上皇の御所が設けられた。これを後院という。嵯峨天皇の嵯峨院(現右京区の大覚寺の前身)、淳和天皇の淳和院(跡地は現右京区)、宇多天皇の亭子院(跡地は現下京区)、円融天皇の円融院(寺、跡地は現右京区)などが知られるが、特に冷然(泉)院・朱雀院(跡地は現中京区)は嵯峨上皇以後多くの上皇の利用する世襲の財産とされたことから「累代の後院」と称された。従って宇多天(上)皇を朱雀院と称した時期があったように、後院の名は汎称であったが、朱雀天皇や冷泉天皇のように、格別の関係があった場合、それが諱とされたのである。
〔内裏の焼亡と里内裏〕
平安宮内の建物は、貞観八年(八六六)閏三月応天門が焼け(応天門の変)、同一八年四月には大極殿が焼亡するなどのことはあったが、内裏の建物が焼けたのは天徳四年(九六〇)九月が最初である。同月二三日の亥四点(午後一二時前)、左衛門陣から出火したもので、清涼殿に寝ていた村上天皇は急ぎ後涼殿・陰明門を経て中和院に至り、そこの神嘉殿で火を避け、更に職曹司に移っている。火事は丑四点(午前三時頃)に消えた(扶桑略記)。被害は大小の殿舎はもとより、宣陽殿に納められていた累代の重宝をはじめ、内記所の記録文書、春興・安福両殿の武具、仁寿殿の什物など、すべてが灰燼に帰した。天皇はその後、冷泉院に移っている。
早速造営の議が決せられ、再建に取掛ったが、木工寮と修理職のほか、美濃国以下二七ヵ国に割当てて諸殿舎を造営させ、翌応和元年(九六一)一一月に完成、同月二〇日天皇は冷泉院から新造内裏に帰還している。「扶桑略記」天徳四年九月二八日条によれば紫宸殿・仁寿殿・承明門は修理職が、常寧殿・清涼殿は木工寮が再建した。その他の殿舎と造国は承香殿・淑景舎(北一宇)=美濃、貞観殿=周防、春興殿=山城、宜陽殿・襲芳舎=播麿、綾綺殿・淑景舎(南一宇)=近江、麗景殿=大和、宣耀殿=安芸、温明殿=伊賀、安福殿=摂津、校書殿=丹波、弘徽殿=河内、登華殿=備前、後涼殿=紀伊、昭陽舎(南一宇)=美作、昭陽舎(北一宇)=淡路、飛香舎=阿波、凝香舎=和泉、建春門=若狭、宣陽門=尾張、陰明門=長門、玄輝門=土佐、東面廊=伊勢・越前、南面廊=伊予、西面廊=備中・備後、北面廊=讃岐であった。
しかし内裏はこれを初回として以後度々罹災する。試みにこの後、摂関政治の盛期を経て頼通が退場する治暦三年(一〇六七)までのほぼ一〇〇年を限ってみても、その間内裏(里内裏を含めて)の焼亡は一八回、ほぼ六年に一度の割合で焼けており、その中には失火でない、政治的な陰謀もからむ放火によるものもあったように思われる。
このように度々に及ぶ内裏焼亡によって出現したのが、いわゆる里(京中)内裏である。一般には貞元元年(九七六)五月に内裏が焼けた時、円融天皇が遷御した太政大臣兼通の堀河第(跡地は現中京区)をもって最初とする。新造内裏が完成するまでの約一年間、内裏のように作り成したので、世人これを「いま内裏」と称したという(栄花物語)。その後、一条・三条天皇代をはじめ内裏の焼亡が繰返されるなかで、詮子の一条院(跡地は現上京区)・道長の東三条殿(跡地は現中京区)・枇杷殿(跡地は現上京区)・頼通の高陽院(跡地は現上京区・中京区)・閑院(跡地は現中京区)などがあてられた。利用度が高くなるにつれて、邸内の既存の建物を内裏殿舎に模したばかりでなく、永久五年(一一一七)の土御門殿(跡地は現上京区)のように、当初からその目的で造作されるようになり、里内裏が事実上の皇居となった。なお本来の内裏は鎌倉初期まで存していたが、安貞元年(一二二七)四月一一日の京中大火に類焼して以後は再建されることはなかった。鎌倉期を通じて里内裏はなお特定の邸宅に固定してはいなかったが、元弘元年(一三三一)九月光厳天皇が土御門東洞院殿(跡地は現上京区)で践祚して以来ここに定まり、明徳三年(一三九二)南北両朝が合一したことによって固定した。これが現京都御所の始まりである。
条坊制
平安京は朱雀大路によって京域が左(東)・右(西)両京に分けられ、縦横に走る大小の道路が京域部分を碁盤目状に区画した。しかし平城京と違うところは土御門大路以北に半条分、いわゆる北辺部が付加されたことで、平城京ではこれが右京についてのみ、北にはみ出していたものが、ここでは左京にも付加したうえで条坊内に取込んだものである。それに伴い宮城部分が半条分北に延長拡大された。
〔外京について〕
京域の拡大ということに関連して、平城京に早くから現れた「外京」(条坊制を修正する目的から二条から五条の間、東方に三坊分の出張り部分が設けられ、ここに住宅が集中するようになる)に相当するものとして、鴨川の東、岡崎一帯(現左京区)を平安京の外京とみる理解がある。東西路が春日通末とか二条通末といわれたように、京中道路の延長線上にあり、南北路も整然としていたところからする判断であるが、これは院政期この地域が白河殿以下の宮殿や六勝寺などの寺院が建立された時に整備されたものであって、外京とはいいがたい。
さて京域は四〇丈四方の一町を基本区画とするブロックの集積によって構成され、一六町で一坊が形づくられていた。従って南北に九条(+北辺坊)、東西に両京各四坊に分けられた平安京には、大内裏部分を除けば計算上七一坊(相当分)があったことになる。中国では京域全体を取囲む城壁(羅城)のほか、坊ごとにも周囲を取巻く坊城(垣)が築かれ、四つの坊門が開かれていて、坊が一つの封鎖的な空間を形成していたが、わが国の場合、坊城は朱雀大路に面する左右両京の各条第一坊に限られていたようで、他の面には格別門らしきものは建てられておらず、従って坊の封鎖性もなかった。
次に一坊は一六町から成立っていたが、四町をもって一保としたから、一坊=四保=一六町という構成になる。また一町は四行八門の制といって、東西を四分してこれを四行といい、南北を八分してこれを八門といったから、一町は三二分され、その一つを一戸主(五丈×一〇丈)と称した。先述したように公卿の宅地班給=所有額一町を最高に、四―五位者で、二分の一町、五―六位者で四分の一町とされたのに対して、この一戸主が庶民の基準宅地とされたのであるが、それが更に細分化される場合も多かった。
このような地割は、条里制と同様そのまま宅地の場所表示に用いられた。ここには京中家地の売買に関する初見文書として、延喜一二年(九一二)七月一七日七条令 解(東寺百合文書)をあげておこう。
七条令解 申立売買家券文事
合壱区地肆戸主在一坊十五町西一行北四五六七門
立物
三間檜葺板敷屋壱宇
| 在庇四面并又庇西北、又在小庇南 |
| 面、戸五具 大二具 小三具 |
中門壱処
右、得散位
正位上山背忌寸大海当氏辞状

、己家以延喜銭陸拾貫文充価直、売与左京一条一
防戸主中納言従三位兼行陸奥出羽按察使源朝臣湛戸口正六位上同姓理既畢、望請、依式欲立券文者、令依辞状加覆審、所陳有実、仍勒売買両人并保証等署名、立券文如件、以解、
延喜十二年七月十七日 令従八位上県犬養宿禰「阿古祇」
売人散位正六位上山背忌寸大海「当氏」
買 人 正 六 位 上 源 朝 臣 「理」
「主料」 保証
陽成院釣殿宮舎人長宮処「今水」
右衛門府生正六位上佐伯宿禰「忠生」
内竪従七位上布敷「常藤」
「左京職判収家券弐通
依延喜二年五月十七日本券并同八年九月十九日白紙券等判行如件、同十二年八月廿八日、
大夫源朝臣長頼」 大進平
亮兼伊勢権大掾藤原朝臣「三仁」少進小野「高枝」小野
大属阿刀「平緒」
少属許西部「久範」
少属闕
(紙面ニ「左京職印」三十二及ビ「毀」ノ字アリ)
〔地点表示法の変化〕
しかしこの戸主は後には多少意味変化し、五丈×一〇丈という形でなくとも面積が五〇平方丈(もしくはその近似値)であれば、それを一戸主と表示するようになる。応徳二年(一〇八五)一二月周防守藤原公基後家家地売券案(東寺百合文書)はその早い事例であろう。
沽却 領地事
合壱戸主
東西伍丈 尺伍寸 |
南北捌丈 尺 |
在左京四条二坊玖町西参肆行北

捌門内
右件地、元者、親父摂津守藤原朝臣所処分也、伝領之後、経年序矣、而依有要用、限直米佰伍拾斛、沽却伊賀守藤原朝臣清家、但依有類地不副本券、仍立新券沽却如件、
応徳二年十二月 日
買人
周防守後家尼妙智
家司 平為定
売人
大掌大后権大進兼伊賀守在判
こうした変化と対応するように、地点表示についても一一世紀に入ると道路による表示法が現れ、しばらく四行八門制と併用されるが、やがてこれに取って代わるようになる。これは面積表示で戸主が用いられなくなること、京中家地の売買にあたり条令が関与せず、当事者間で売券がつくられるようになることとなり、著しい変化であった。次に掲げる承徳二年(一〇九八)三月五日僧頼禅家地売券(東寺百合文書)は、そうした諸要素を含む早い時期の史料である。
謹解 申売渡領地事
在左京肆条弐坊玖町西肆行北七門内
油小道西、六角北、六角面於北五丈八尺壱寸、東西五丈七尺五寸、南北二丈八尺九寸、
右件地、元者伊賀大進藤原基家之従手、僧頼禅之買得領掌年久、而直依有要用、充直米拾石絹肆佰疋、売与典薬吏生清原市清已畢、但至於本公験者、依有類地、不能副渡、以此新券文、為累代之公験、可被領掌、仍放券文如件、
承徳弐年三月五日 売人僧(花押)
これは左京四条二坊九町西四行北七門に含まれる一六・六六平方丈(正しくは一六・五九七五平方丈)の土地の所在をいうのに、当該地が五〇平方丈すなわち一戸主の三分の一弱の広さであるために、「油小道西……」と記し、油小道(路)の西、六角通の北でその六角通の面を(から)北へ五丈八尺一寸のところ(それが北七門の場所となる)にあると表示したものである。もっともこの場合、西四行つまり一町の東の部分にあり、その東に油小路が通っているわけだから、南北路の油小路を基準にして、「油小路面於、西×丈」といった記載のほうがより簡明であると思われるのに、東西路の六角通を起点に「六角面於、北五丈……」と記すのは、当該地についてはそのほうがより明確な表示法であったからであろう。いずれにせよ、このように地点表示が東西、南北の道路に即して行われるようになった直接の原因は、土地所有の細分化に伴い四行八門制では表示に不便となってきたことにあり、人為的な地割制が崩れてくるなかで現れた、道路を介して取結ばれる地域意識に基づく表示法といってよい。その意味でこの表示法の変化に、古代的な町から中世的な町への傾斜を垣間見ることもできよう。
なお道路を基準にする表示法では、当該地が道路に面接している場合「面」の字を用いた。「側」の意で、「頬」の字を用いることもある。例えば「六角通北面」といえば、その場所が東西路である六角通の北側であることを示す。
〔道路の名称〕
右に引用した文書に「油小道(路)」や「六角(通)」という道路名がみえたように、平安京を東西、南北に走る大小の道路には、東西路のうち一条・二条……九条大路の各大路、三条坊門小路以下九条坊門小路までの各坊門小路以外の小路、南北路では朱雀大路、東西京極大路などを除くすべての道路に固有の名称が付けられているが、その由来や時期はほとんど明らかでない。ただし同類の呼称は既に平城京にあり、左京一条南路(東西路)を「佐保路」、右京二坊大路(南北路)を「佐貴路」といい、また二条大路の南の小路が「押小路」とよばれていたが、平安京の同じ大路が「道祖大路」または「幸大路」といわれ、「押小路」も同じ名でよばれているから、ほかにも平城京から移されたものがあったに違いない。
次に考えられるのは、既存の地名を踏襲したと思われる道路名として、右京第一〇の南北路である「馬代」「宇多」小路があげられる。京域に含まれた葛野郡綿代郷宇太村のうち綿代郷(和名抄)は「山城名勝志」のいうように「馬代」であり、その東に宇多村が広がっていたのであろう。道祖大路の東にある「野原」小路も、その通りの北にあった野原にちなむものであろう。
「掌中歴」には、「錦」小路はもと「具足」小路といっていたものを、天喜二年(一〇五四)の宣旨で改称したとある。もっともこの具足小路の名は神泉苑所伝左京図には「屎小路、天喜二、錦と号す」という書込みがあるから、具足も当字で、それを佳名に改めたものであろう。「拾芥抄」京程部にのせる「京都小路異名」には、
御厩小路
安曇小路
猪熊
| 中御門以南靫負二条以北 |
| 藍園七条ノ坊門以南市「南」門(角イ) |
油
小路
町
烏丸
とし、同じく「拾芥抄」によれば、西京の路について、
野寺町
油「小路」 細井大路
西洞院 宇多小路
町 馬代
室町 恵立小路
烏丸 木辻
東洞院 昌
蒲小路
「高倉」 山
小路
万里小路 無
武小路
音町
正親「町」 西土御門 筑紫町
鷹司 西近衛 松井
雷解由 西中御門 木蘭
春日 馬寮大路
大炊御門 経師町
といった異名を記している。なお「拾芥抄」所収左京図には東西路のうち九条坊門通に「韓橋」、信濃小路に「唐崎」もしくは「多那井」という別称の書込みがある。これによれば九条坊門通(もしくは信濃小路)の末にも唐(韓)橋があったようである。むろん羅城門南の唐橋とは別個のものである。ちなみに長徳四年(九九八)六月の豪雨で鴨川の堤防が決壊した際、蔵人頭藤原行成が左中弁高階信頼以下と外記史らを率いてこれを調査したが、その順路は、大内裏を陽明門から出て東洞院大路に至り、北行、上東門通より東行して万里小路に至り、更に北行して戻橋より下鴨神社西堤の下に至り、堤上より南行して六条の末に至っている(権記)。これによって一条路を戻橋(路)ともいっていたことがわかる。その名称は三善浄蔵の故事を伝える一条堀河の橋である戻橋(現上京区)に由来するもので、戻橋(路)の初見であろう。
〔二条大路の北と南〕
どの宮都においても、道路の造成が造都の前提をなす工事であったが、平安京の場合、道路の幅員の広狭にある種の基準のあったことが知られ、そこに都市造りの思想ともいうべきものが認められる。
すなわち、朱雀大路が二八丈という最大の幅員をもつのはともかく、宮城域の南辺を東西に走る二条大路が一七丈と、朱雀大路を除くどの東西路・南北路よりも大きいのは、この二条大路を境として、それ以北が特別の地域、すなわち官衙町や高級官人貴族の集住する地区として設定されたことを暗示する。二条大路以北の東西路(土御門・近衛・中御門・大炊御門)がいずれも一〇丈の大路で、この幅員をもつ大路は二条大路以南には造られていないことも、宮城に近いこの地域の特殊性によるもので、陽明門が公卿の通用門となったのも故なしとしない。後述するように諸司厨町がこの地域に集中していた。また諸記録や京中図の類からは、二条大路を挟んで北ばかりでなく、南にも高級住宅街の形成されたことが知られるが、これもこの大路の広さによるものといってよい。
〔左京と右京〕
さて平安京の京中は、先述のように七一坊相当分があり、町の数でいえば一千一三六町となる。もっとも実際には八町の神泉苑(現中京区)のほか、各一二町の東西市(跡地は現下京区)、各四町の東・西両寺(現南区)があり、八町の朱雀院、四町の冷泉院といった後院が設けられるなど、京中官衙などにあてられた坊町も多数あったから、宅地部分としては一千町程度とみてよいであろう。
しかし造都工事の結果それだけの町々が住宅地として造成されたかとなると、はなはだ疑問である。というのは遷都後三〇年余にすぎない天長五年(八二八)の段階で、京中総五八〇余町にすぎなかったからである(「日本後紀」同年一二月一六日条)。この数字は計算上の町数の半分でしかない。このことは平安京の規模が実質半分であったこと、それは造成後の荒廃というより、もともと京城内に沼沢地や森林の類が多数存在していて、宅地造成されなかったためと思われる。そのために弘仁一〇年(八一九)一一月五日の官符では、京中の閑地を申請者に賜うて地利を得さしめることを許し(類聚三代格)、天長九年九月二六日には左右京職をして京中閑地を総計せしめ、地主に耕作させるなど(同書)、京中に耕地をもつことも許されている。もっとも承和五年(八三八)七月一日の勅には、「如聞、諸家京中好営
水田
、自今以後一切禁断、但元来卑湿之地、聴
殖
水葱芹蓮之類
」とあって(続日本後紀)、水田を営むことは禁断されたが、水葱芹蓮の類を植えることは認められている。
右の勅にいう「元来卑湿之地」が右京に多かったことは、その後の経過からも了解されるところであるが、平安後期の成立になる「今昔物語集」巻二六にも「サテ西ノ四条ヨリハ北、皇嘉門ヨリハ西ニ、人モ住マヌ浮(沼地)ノユウユウトスル一町バカリアリ」、それを兵衛佐某が安い値段で買い求め、葦を刈って浮に敷き、その上に土を盛って家屋を作ったとある。その南にあったのが源高明の邸宅として有名な西宮(跡地は現中京区)であるが、安和の変(九六九)の折、焼失してからは廃墟と化し、狐や狸が穴に生息するようになったという。これは後に引用する、天元五年(九八二)一〇月、慶滋保胤の「池亭記」に記すところである。「源氏物語」夕顔の巻に、右近が主人夕顔の女玉鬘が西の京で成人するを悲しみ、光源氏に訴えているのも、西の京のもつ貧賤さが早くから認識されていたことを暗示している。「枕草子」八三段にも、西の京の荒廃が述べられている。
低湿地や閑地は右京に限らなかった。現に右の保胤の池亭(跡地は現下京区)というのも、六条坊門南、町尻東に設けた邸宅であったが、その名にちなむ池があったし、その東南、大中臣輔親の六条殿(南殿、跡地は現下京区)には「海橋立」があり、その東北、中六条院(跡地は現下京区)の亭池には竜が住むといわれ、更にその東、六条内裏(跡地は現下京区)は釣殿院といわれるなど(拾芥抄)、右京の五条・六条辺りは池亭水閣を営むにふさわしい土地柄であったことがわかる。
〔池亭記〕
このような立地条件から、平安京内は時代が下るほど住宅地が偏在した。その辺りのことを最もよく示してくれるのが、保胤の「池亭記」であろう。
予二十余年以来、歴

見東西二京

、西京人家漸稀、殆幾

幽墟

矣、人者有

去無

来、屋者有

壊無

造、其無

処

移徙

、無

憚

賤貧

者是居、或楽

幽隠亡命

、当

入

山帰

田者不

去、若

自蓄

財貨

、有

心

奔営

者、雖

一日

不

得

住之、往年有

一東閣

、華堂朱戸、竹樹泉石、誠是象外之勝地也、主人有

事左転、屋舎有

火自焼、其門客之居

近地

者数十家、相率而去、其後主人雖

帰、而不

重修

、子孫雖

多、而不

永住

、

棘


門、狐狸安

穴、夫如

此者、天之亡

西京

、非

人之罪

明也、
東京四条以北、乾艮二方、人人無

貴賤

、多所

群聚

也、高家比

門連

堂、少屋隔

壁接

簷、東隣有

火災

、西隣不

免

余炎

、南宅有

盗賊

、北宅難

避

流矢

、南阮貧北阮富、富者未

必有

徳、貧者亦猶有

恥、又近

勢家

容

微身

者、屋雖

破不

得

葺、垣雖

壊不

得

築、有

楽不

能

大開

口而咲

、有

哀不

能

高揚

声而哭

、進退有

懼、心神不

安、譬猶

鳥雀之近

鷹


矣、何況初置

第宅

、転広

門戸

、小屋相并、少人相訴者多矣、宛如

子孫去

父母之国

、仙官謫

人世之塵

、其尤甚者、或至

以

狭土

、滅

一家愚民

、或卜

東河之畔

、若遇

大水

、与

魚鼈

為

伍、或住

北野之中

、若有

苦旱

、雖

渇乏

無

水、彼両京之中、無

空閑之地

歟、何其人心之強甚乎、且夫河辺野外、非

啻比

屋比

戸、兼復為

田為

畠、老圃永得

地以開

畝、老農便堰

河以漑

田、比年有

水、流溢

絶、防河之官、昨日称

其功

、今日任

其破

、洛陽城人、殆可

為

魚歟、窃見

格文

、鴨河西、唯免

耕

崇親院田

、自余皆悉禁断、以

有

水害

也、加以東河北野、四郊之二也、天子迎

時之場、行幸之地也、有

人縦欲

居欲

耕、有司何不

禁不

制乎、若謂

庶人之遊戯

者、夏天納涼之客、已無

漁

小鮎

之涯

、秋風遊猟之士、又無

臂

小鷹

之野

、夫京外時争住、京内日陵遅、彼坊城南面、荒蕪眇眇、秀麦離離、去

膏腴

就


埆

、是天之令

然歟、将人之自狂歟、
(後略)これによって、左京に比して右京は早く廃れたこと、左京のうち四条以北に人家が集中したこと、東や北の郊外に居住地が移りつつあったこと、地価が北と南とでは違っていたこと、などが知られる。こうして平安京は地域的に、左京と右京、上辺と下辺(上・下渡り、上・下京辺)といった区別がされるようになった。
〔洛陽と長安〕
平安京が洛陽(城)とよばれるようになるのも、右の趨勢と無関係ではなかった。
「拾芥抄」京程部に「東京
、西京」とあり、「帝王編年記」桓武天皇条にも、「東京、又謂
左京
、唐名洛陽、西京、又謂右京、唐名長安」とある。こうした唐名が付けられたのは、唐風文華を好んだ嵯峨天皇代、弘仁九年(八一八)四月二二日の詔で、天下儀式、男女服装を唐風によらしめ、五位以上の位記を漢様とし、殿閣諸門にも唐風の名の新額を掲げることを令した(「日本紀略」・「続日本後紀」承和九年一〇月一七日条の菅原清公薨伝)時のことであろう。各条坊に桃花坊・銅駝坊・教業坊・豊財坊などの名を、洛陽・長安両京の坊名より選んで付けたのも、やはりこの時のことと思われ、それに関与したのが菅原清公であった。清公は延暦二三年(八〇四)遣唐大使に任命されて入唐、翌年帰朝しており、その進言に従って天皇が諸事唐風に改めたのであろう。なお都城の構造からすれば左京に首都長安、右京に陪都洛陽の名が付されてしかるべきであるが、中国での位置関係をそのままに適用したものであろう。しかし前述の理由により右京=長安(城)が早く廃れたために左京=洛陽(城)の名が残り、これが平安京の代名詞となった。京職の職掌
京中の民政全般に関与したのが京職で、左右両京におかれ、朱雀大路の東西、三条坊門南の一町(跡地は現中京区)に位置していた。その職員としては大夫・亮・大進・小進・大属・少属があり、その下に史生・職掌などの下級職員がおかれ、更に坊令・保長あるいは兵士を擁していた。
京職の職掌は京中住民(京戸)についての編戸造籍、京戸よりの田租・調徭銭の徴収をはじめ、京中閑地の調査、坊城の修理、京中の清掃、行斃人や死骸の収容・埋葬、貧窮・乞食者の賑給や救済、群盗の逮捕に至るまで多岐にわたっていた。殊に治安・警察機能を遂行するために多数の兵士が配置され、延暦二〇年(八〇一)四月、左右京職に四八〇人、職別二四〇人の兵士をおき、二〇人で一番を編成、日別二番、番別で月に一五日を役した(類聚三代格)。大同四年(八〇九)六月両職の徭分銭を加増して兵士を雇役することとし、一年に一貫六五〇文と定め(類聚三代格)、兵士は京戸もしくは畿内外の公民が雇役されたものであった。その仕事は行幸先駆・宮城護衛・管内巡視・非違糺勘・犯人捜索・囚人守衛などで、貞観四年(八六二)三月には、朱雀路の坊門ごとに左右京職の兵士をおき、結番して守衛させたが、毎夜その兵士の勤務ぶりを左右兵衛府・夜行兵衛などに巡検させているのは(三代実録)、その職掌が早晩六衛府や検非違使に吸収され、無実化することを暗示している。
貞観四年三月、左京職の要請によって保長が定められた。この時の京職の言い分は、京中には皇親や卿相の邸宅が民家と接しており、それらを含めて五保を結ぶのでなければ、奸猾の督察・道橋の自全は期しがたいとして、親王や公卿職事三位以上は家司を、無品親王は六位別当を、散位三位以下五位以上は事業を、それぞれ保長となすべきことを要請し、許されている(三代実録)。しかし昌泰二年(八九九)六月にもほぼ同様の趣旨の「結保帳」をつくることが命ぜられ(類聚三代格)、斉衡二年(八五五)九月には坊城の修理に応じない諸家について俸禄を奪うことを定めており(類聚三代格)、権門王臣家の統制が困難であったことを示している。
次に坊令は条ごとに一人おかれたので条令ともいい、当該条坊の居住者で明廉強直・時務に堪える者をもって任じ所部を督察せしめたが、微禄のために辞退する者が多く、適任者をうることも困難であった。天長九年(八三二)一一月二九日の太政官符(類聚三代格)は、ここでも条坊中に存在する有勢家の不遵行が障害となっていたことを指摘している。
この坊(条)令の職掌として、京中の土地の売買に関与したことがあげられる。これは農村部における郷長の立場に相当し、土地の売買にあたっては、関係する条坊の令が券文をつくり、これを京職に提出してその許可を求めることが必要とされたもので、現存する売券としては、先に引用した延喜一二年(九一二)七月一七日七条令解が初見であろう。ただし一一世紀になると売買は当事者間だけで可能となり、それに伴い売券の形式も変化する。
都市民の構成
京職によって戸籍に付けられた京中住人を京戸といったが、その実体は一様でなく、また一時的な居住者としての地方課役民がおり、合法・非合法の形で京中に流入する地方民も少なくなかった。
〔隠首・括出〕
京畿が畿外より課役が軽いので、延暦一九年(八〇〇)一一月二六日の勅によれば(類聚国史)、畿外の民が競って京畿に貫付されている。すなわち隠首(浮浪・逃亡人が官に自首すること)・括出(官司がこれを見付け出すこと)がそれで、彼らの付帳(戸籍に登録記載すること)を認めるとすれば、人口を増し口分田を貪るばかりでなく、「冒名仮蔭」の詐偽であるから、自今以後いっさい付帳を禁止し、口分田を与えてはならない、としている。冒名とは全戸不在となった絶戸の戸口であると偽って申し出、その戸の人間になることをいい、仮蔭とはすでに死亡した五位以上の貴族の子であると名乗り出て、蔭子としての特権を得ることをいうが、京貫を希望する者が戸籍を偽称して京戸になりすまそうとしているわけである。
この延暦一九年の措置は必ずしも有効ではなかったらしく、大同元年(八〇六)八月八日の官符では延暦の方針を覆し、冒名仮蔭でない限り、付帳を許している。ところがこれでは事実上付帳が無制限となるに等しかったことから弊害が現れたため、斉衡二年(八五五)三月一三日の太政官符では、括出者を除き、自ら名乗り出た隠首の付帳のみを認めることとしている(類聚三代格)。いわば延暦・大同の両法の折衷であったが、これとても事実上外民の京貫は合法性を与えられたも同然であった。
〔官途・就学者の京貫〕
なお地方民の京貫に関しては、当初から合法的な手続で上洛した人々の存在が留意される。延暦一五年(七九六)七月一九日、大和国人正六位上大村朝臣長人・河内国人正六位上大村朝臣氏麻呂・正六位上大村朝臣諸臣・正七位下菅原朝臣常人・従七位上秋篠朝臣全継など一一人を右京に貫付している(日本後紀)のを初見として、以後記録のうえでは、個人もしくは家族単位で平安京に移住し、京貫を認められた例が、仁和年間(八八五―八八九)までの一世紀足らずの間に百四、五十を数える。その出身国は畿内五ヵ国はもとより七道諸国に及び、外従五位下ないし八位以上の有位の地方有力者であるのが特徴であるが、これは中央での官途や大学での勉学のために上洛し、一定期間居住の後、京貫を申請したものたちであった。その申請が認められると左京か右京に付籍され、晴れて京戸となり、位も外位から内位とされた。これを入内という。
〔諸司厨町〕
平安京には絶えず地方から課役民が送込まれていた。「身役」として諸司諸家の雑役に従事せしめられた衛士・仕丁とか舎人の類であるが、彼ら課役民のために用意された施設が諸司厨町である(拾芥抄)。延喜一四年(九一四)四月に提出された三善清行の「意見封事一二ケ条」第一一条に、六衛府の舎人はみな毎月結番し、暁夕警備にあたるが、当番の者は兵欄に陪侍し、佗番の者は京洛に休寧する。東西帯刀町がその住所である、とあって、六衛府の舎人たちが京洛で休寧する宿所として帯刀町(実際には他にもあった)が用意されていたことが知られる。これを厨(=台所)町といったのは、そこが寝食起居する宿舎のある地区であったからである。それが諸司=官衙に付属していたことから諸司厨町といわれたもので、官衙町といってもよい。平城京時代にも存在していて当然と思われるが、記録上は平安京にしか登場しない。
この諸司厨町の記録上の初見は、「日本後紀」大同三年一〇月八日条に、「左衛士坊失火、焼百八十家、賜物有差」とあるもので、平安造都以来のものといってよい。この場合所在地は不詳であるが、左衛士府の衛士たちの居坊であった。承和五年(八三八)七月一五日には、長さ二四丈、幅四丈(約二戸主分の広さ)の仕丁町を陰陽寮守辰丁二二人の盧一居としたとある。以後ここは陰陽寮町とか守辰丁町とよばれたことであろう。以下厨町は火災記事にしばしば登場する。承和六年閏正月一五日織部(司)織手町、同年四月一五日左馬寮国飼町、同七年七月六日左兵衛府駕輿丁町、同九年七月九日左京(木)工町、同一四年八月二一日西京衛士町、嘉祥元年(八四八)六月二八日左衛門南町(以上「続日本後紀」)、天安元年(八五七)八月二七日右近衛舎人町(文徳実録)、仁和元年(八八五)二月一八日東京一条衛士町(三代実録)、といったものが国史の上に知られる諸司厨町である。時期は下るが、東宮町(「左経記」寛仁四年二月一四日条)や神祇官町(「保元三年□月一〇日官宣旨案」書陵部所蔵神祇官文書・「長寛二年一〇月一六日官宣旨案」書陵部所蔵神祇官文書ほか)の例でいえば、これら諸司厨町は官衙領として所有され、その町内に居住する「町人」は本司の課役や町(保)内の門並夜行役(夜回り)などに従うべきものとされていたことが知られるばかりでなく、織手町や駕輿丁町のように、中世に活躍する商工業関係の座の源流となる点で、平安遷都時にさかのぼりうる諸司厨町の存在意義はまことに大であった。諸司厨町は一般的にいって大内裏の東西、殊に左京に設けられていたようである。
〔京戸と京戸田〕
さて先述のように京戸は京職に把握された基本的な京中住民であるが、延暦一九年一一月、外国の民が京戸に貫して課役を忌避するのを禁じ、班田に預からしめる、としたことからも知られるように(類聚国史)、京戸には口分田が班給されていた。そこでこれを京戸田といい、一般公民の口分田を土戸(人)田と称して区別していた。つまり京戸は都市に住む農民であったわけである。この事実は、そうした京戸をもって構成される平安京そのものの都市としての成熟度の低さを暗示する。
しかしこの京戸田は種々の点で制約があった。第一に多くの場合、口分田の所在地が居住地(京中)を遠く離れていたことである。そのために大同四年(八〇九)九月一九日の太政官符では、口分田を外国に班給することをやめ、とどまることを願う者には現地に編付するように命じている(類聚三代格)。京戸田は最初から経営困難であった。第二は、諸国にある京戸田の管理事務は所在国の国司に委任されていたが、それを忌避されたことで、そのために天長六年(八二九)六月二二日の太政官符によると、左右京職から書生・従者らを派遣している(同書)。第三は、九世紀を通じて班田制が全般的に衰退していくなかで、そのしわ寄せがまず京戸の口分田に向けられたことである。長岡京時代であるが延暦一一年一一月の勅で、京畿の百姓の口分田は男の分を班給し、その余りを女に給し、奴婢には与えないこととしたが(類聚国史)、元慶三年(八七九)一二月四日に至り、京戸女子口分田は全廃し、これを畿内男子に加給することにしている(三代実録)。
正三位行中納言兼民部

藤原朝臣冬緒奏

状二事

、其一曰、田令云、凡給

口分田

者、男二段、女減

三分之一

、然則可

給

一段百廿歩

、而天長給法卅歩、至

于承和

、其数廿歩、奏聞已了、有

議不

行、此般所

行、亦当

廿歩

、今


案内

、京戸之女、事異

外国

、不

知

蚕桑之労

、都無

杵臼之役

、加以言

其所当

、最為

微少

、名是口分、実非

身潤

、況亦公

子女、王侯妻妾、得

此尺土

、其有

何益

、但畿内百姓雖

貢賦軽

於外国

、而徭役重

於京戸

、今予計

口分

、一段百歩、不

足

支給以酬

労苦

、夫事貴

権変

、政存

弛張

、如有

守

常不

改、恐非

通方之謂

、伏請以

京戸女口分田

、加

給畿内男

、其二曰、近代以来、一年例用位禄王禄准穀十七万余斛、又京庫未

行

衣服月粮

、必給

外国

、其数亦多、並是正税用尽、終行

不動

、当今除

陸奥出羽及西海道之諸国

、不動約計一千卅七万余斛、就

中縁海近国、不

出

二三百万

、而年中所

用卅五六万斛、況亦有損之年、惣費

近国之不動

、凡厥開用至多、新委絶少、窃恐、天下虚粍、企

足可

待、如今件田散

班於人

者、口分為

之不

饒、混入

於公

者、国用由

是可

給、伏請割

置山城国八百町、大和国一千二百町、河内国八百町、和泉国四百町、摂津国八百町、合四千町

、若獲稲、若地子、量

其便宜

、以支

公用

、詔従

之、
京戸の女子がはやく農業生産から遊離したことが、口分田班給を停廃させる口実もしくは根拠となっているわけで、これが次には男にも適用され、一〇世紀にはほぼ全面的に京戸田の制は崩壊した。
〔都市問題の発生〕
このような京戸田の衰退に相応するかのように、平安京では九世紀の後半に入った頃から、さまざまな社会問題、いうならば都市問題が現れはじめる。水旱損のたびに米塩を放出して窮民に支給する賑給が行われたのも、京戸の生活基盤の弱さを物語るものであろう。その事例は枚挙にいとまがないが、天安二年(八五八)五月二九日には、この月の中旬より降り続いた長雨で大洪水となり、この日穀倉院の穀二千石、民部省廩院の米五〇〇石、大膳職の塩二五石を放出し(文徳実録)、同じく長雨にたたられた貞観一三年(八七一)の閏八月一一日には、東(左)京水損三五家・一三八人、西(右)京水損六三〇家・三千九九五人に穀塩を支給している(三代実録)。殊に後者の場合、家族の実数が推定される点で興味深く、左京では一家約四人、右京では一家六・三人、つまり四―七人というところが京戸一家族の成員数であったらしく思われる。
こうした事態に対処するために、各種救済施設が営まれている。貞観九年四月、東西両京に常平所を設置して官米を安価に放出(三代実録)、ただしこれは常置ではなかったらしく、元慶二年(八七八)正月にも東西京中に常平司を置き、売常平所米使を任じている(同書)。八条二坊(左京か)には天長年中(八二四―八三四)、乞人屋として七間の板屋一宇を建てている。これは貞観七年六月いったん除棄された後、二年後木工寮をして東西京乞索児宿屋二宇として再興された(同書)。鴨川の西畔に設けられた悲田院(跡地は現中京区)、唐橋南・室町西に造られた施薬院(跡地は現南区)は、病人や孤児の収容所で、鴨川の西に建てられた藤原氏の崇親院(跡地は現下京区)は、身寄のない一族の女性を収容する施設として、右大臣良相が貞観二年に建てたものである。こうした公私の救済施設は、平安京の都市的発展のなかで求められたもので、貞観五年五月二〇日、流行する疫病の災いを除くために催された神泉苑の御霊会もそれであろう。御霊会は神泉苑だけでなく羅城門や船岡山などでも行われたが、殊に祇園社(現八坂神社、東山区)の御霊会、いわゆる祇園御霊会が発展し、中世には都市民の祭礼となる。こうした御霊会をはじめとする各種祭礼の盛大化は、京中において絶えず起こる疫病が、その土壌としての平安京の変質―都市的発展、具体的には人口増加とそれに伴う社会矛盾の顕在化にほかならなかったことを物語っている。
〔平安京の人口〕
平安京の都市的発展ということに関連して、当時(九世紀)の人口を推測しておきたい。もとより京戸帳はなく、確かな根拠となる史料を欠くが、以下のデータを勘案するに一五万人は超えなかったとみたい。
(1)盛唐時、首都の長安の人口は一〇〇万人であったといわれるが、平安京の規模は長安のほぼ三分の一であった。
(2)既述したように天長五年(八二八)一二月現在、京中の町数はすべてで五八〇町余り、これは本来あるべき町数の半分であった。これは庶民の基準宅地の戸主(五丈×一〇丈)に換算すれば一万八千五六〇戸主となる。
(3)先に掲げたように、貞観一三年(八七一)閏八月の賑給の記事から、京戸の平均家族数は五―六人と考えられること。
まず(1)(2)から単純計算すれば一五万となるが、(2)(3)で一戸主=一家族=五人とみた場合、九万人強。しかし実際には一戸主=一家族ということはないであろうから、これを上回ると思われる。いずれにせよ一〇万―一五万の間であったと考えて、まず間違いはなかろう。この数は今日の理解では少ないが、世界史的にみても古代都市としては大都市の部類に入るのである。
古代都市から中世都市へ
平安京はかなり早い時期から宅地の偏在化が進行しつつあり、それは貴族政治の展開、殊に院政の開始、それに伴う武士層の台頭がからまって、鴨東や洛南の開発が促進された。一方、当初農民的構造を濃厚にもっていた市中住民が、貴族官人層と同様、農業生産からの遊離を余儀なくされる過程で新しい生活基盤を獲得していくことになる。具体的には商工業や芸能など非農業的な生業に従事する道がそれであろう。そして、景観的な変貌と構造的な変質というこの両面がからみ合いながら、平安京は古代都市から中世都市への歩みを進めたのである。