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  11. 日米和親条約

日米和親条約

ジャパンナレッジで閲覧できる『日米和親条約』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

日米和親条約
にちべいわしんじょうやく
江戸幕府がアメリカ使節ペリーと結んだもので、鎖国を破った最初の条約。神奈川条約ともいう。列強のアジア政策の焦点は、一八四〇年代前半中国と条約上の通商を開始して、極東の鎖国日本の開国へと絞られた。その先導的役割を果たしたアメリカ政府の対日使節派遣計画は、三三年よりペリーを含め八回に及び、四四年米清通商条約締結以後積極性を増したが、唯一実現した弘化三年閏五月二十七日(一八四六年七月二十日)ビッドルの浦賀来航も目的を果たせず退去した。アメリカでは四〇年代後半には、米国内産業の発達、オレゴン(四六年)・カリフォルニア(四八年)の太平洋岸への領土拡張、汽船時代の到来による太平洋横断汽船航路開設の要望、中国貿易とくに上海貿易の飛躍的発展、そこにおける英国との争覇意識、北太平洋捕鯨業の隆盛による日本に捕鯨船の補給・避泊港要望の高揚、あたかも四六年ローレンス号・四八年ラゴダ号遭難海員の日本側待遇の人道問題の発生などが連鎖的、同時発生的に顕現した。四八年海軍委員キングの意見書、大統領ポークの十二月教書などは太平洋への進出の必要を述べ、財務長官ウォーカーは、躍進する国内産業の中国市場拡大に就航する蒸気船のための日本の地理的重要性を強調した。嘉永二年四月四日(一八四九年四月二十六日)海軍中佐グリンは、長崎で幕府従来の方針であるオランダ商館長経由の原則を見事に打破し、みずからラゴダ号遭難海員の引き取りに成功した。五一年五月オーリックは全権委任状を受領しながらも途中挫折したが、六月グリンは体験をふまえて使節派遣建議を行い、政府に礎石を与えた。議会と世論の高揚により大統領フィルモアはペリーを東インド・シナ・日本諸海域艦隊司令長官兼遣日特使に任命した。出発に際し国務長官代理コンラッドは「大統領命令」として訓令し、対日交渉の歴史過程と具体的方策を示し、目的が海員の人道的待遇と通商関係樹立の条約締結を成功させることにあることを精密に指示した。ペリーは四艦を率いて嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日)浦賀投錨、久里浜で米国国書を浦賀奉行に手交、来春の大艦隊での再訪を予告して退去した。第二回訪日は七艦を率い、列国に先駆けて厳冬をつき安政元年正月十六日(一八五四年二月十三日)江戸湾内小柴沖に投錨、幕府の逡巡に対し威嚇的行動により横浜に応接所を決定。応接掛林〓(復斎)・井戸覚弘(さとひろ)らは阿部正弘ら幕閣の指令を受けつつ漸次ペリーの要求に譲歩して、同年三月三日(一八五四年三月三十一日)日本最初の近代的条約の日米和親条約を締結した。第一条に永世の和親を、第二条に下田・箱館を(前者は即時、後者は明年三月より)開き薪炭・食料・欠乏品供給、第三・四・五・十条に遭難海員・渡来民の待遇につき、第二・六・七・八条に欠乏品取引の方法などを約し、第九条は日本政府が米国人より有利な待遇を外国人に与えた場合は即時に均霑するという片務的最恵国待遇で、列強角逐の中不可欠な条項であり、後続の英・露・蘭との和親条約中にも片務的最恵国待遇を挿入した。第十一条に下田に領事官駐在、第十二条に批准書交換を約し、通商条約への礎石を築いた。五月二十二日(六月十八日)下田で条約付録十三条調印(下田条約)、公文は蘭文(七条)、買物は日本官憲の仲介=会所貿易(九条)など条約の解釈に関する協定を決め、ペリーは離日した。
[参考文献]
『幕末外国関係文書』五、『ペルリ提督日本遠征記』(土屋喬雄・玉城肇訳 『岩波文庫』)、『横浜市史』二
(秋本 益利)


日本大百科全書(ニッポニカ)

日米和親条約
にちべいわしんじょうやく

幕末期、日本の欧米諸国への開国の起点となったアメリカとの最初の条約。神奈川条約ともよばれる。日本側全権は林韑 (あきら)(儒役)、井戸覚弘 (さとひろ)〔町奉行 (ぶぎょう)〕、伊沢政義(浦賀奉行)、鵜殿長鋭 (うどのながとし)(目付)、アメリカ側全権はM・C・ペリー(東インド艦隊司令長官)。1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、武蔵 (むさし)国横浜村(横浜市中区)で調印、翌年批准書交換。両国の永遠の和親、薪水 (しんすい)・食料・石炭その他欠乏品の供給のため、下田 (しもだ)・箱館 (はこだて)二港の開港、漂流民の救助と撫恤 (ぶじゅつ)、開港場での必需品提供と外人遊歩区域の設定、アメリカへの最恵国待遇、調印より18か月以後における下田への外交官派遣の許可、などが規定された。この調印を契機として幕府は、以後イギリス、ロシア、オランダとの和親条約締結にも応じていった。

 この条約では、まだ日米両国人民の自由貿易は認めていなかったが、片務的な最恵国待遇の供与や開港場に逗留 (とうりゅう)するアメリカ人の日本の国法遵守義務規定の欠如のなかに、不平等条約としてのこの条約の性格がすでに現れていた。しかもこの条約は、18か月以後における外交官派遣を許可していたため、アメリカは早くも1856年(安政3)初代駐日総領事T・ハリスを下田に派遣し、対日通商権および領事裁判権(居留民への治外法権)などの獲得を目ざして幕府に新条約の締結を迫ることになった。

[芝原拓自]



世界大百科事典

神奈川条約
かながわじょうやく

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)神奈川で調印された日米和親条約のこと。日本の開国の第一歩となった条約である。アメリカ側の全権は東インド艦隊司令長官ペリー,日本側の全権は儒役林韑(あきら),町奉行井戸覚弘,浦賀奉行伊沢政義,目付鵜殿長鋭。全12ヵ条で,翌55年2月21日(安政2年1月5日)下田で批准書を交換し発効した。おもな内容は以下のとおりである。条約の中心になるのは,アメリカ船に薪,水,食料,石炭などを供給するために,条約調印と同時に下田を,1年後に箱館を開くことを定めたことである。この両港ではアメリカ船が必要な品物を購入することも認められており,これは,のちの通商開始への足がかりとなるものであった。また,他国人が日本政府からアメリカ人に与えられていない権利を獲得した場合は,それは直ちにアメリカ人にも適用されるという片務的な最恵国待遇の条項が定められた。この不平等条項は,58年(安政5)調印の日米修好通商条約の個条にそのまま引き継がれた。このほか,漂流民の救恤についての諸条項,下田でのアメリカ人の遊歩区域の規定,やむをえない事情がある場合は,調印後18ヵ月を経過したのち,下田にアメリカ官吏の駐留を許すという条項がある。この和親条約は,ペリーの艦隊の威嚇の下で,武力衝突を回避するために,幕府が調印を余儀なくされたものであった。この事情から,幕府は当初は条約調印の事実のみを公表し,条約書の内容は朝廷や大名には秘密にした。条約書全文が公にされたのは,55年9月(安政2年8月)になってからであった。日米和親条約の調印に続いて,幕府は54年10月14日(嘉永7年8月23日)日英和親条約に調印し,イギリスに長崎,箱館を開き,55年2月7日(安政1年12月21日)には日露和親条約の調印を行い,ロシアに下田,箱館,長崎を開いた。また,オランダとも56年1月30日(安政2年12月23日)に和親条約を結んだ。
[小野 正雄]

[索引語]
日米和親条約 日英和親条約 日露和親条約 日蘭和親条約
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検索コンテンツ
1. 日米和親条約
日本大百科全書
幕末期、日本の欧米諸国への開国の起点となったアメリカとの最初の条約。神奈川条約ともよばれる。日本側全権は林韑あきら(儒役)、井戸覚弘さとひろ〔町奉行ぶぎょう〕、
2. 日米和親条約
世界大百科事典
→神奈川条約
3. にちべい‐わしんじょうやく[‥ワシンデウヤク]【日米和親条約】
日本国語大辞典
「かながわじょうやく(神奈川条約)」に同じ。ニチベ〓=ワシンジョーヤク
4. にちべいわしんじょうやく【日米和親条約】
国史大辞典
受けつつ漸次ペリーの要求に譲歩して、同年三月三日(一八五四年三月三十一日)日本最初の近代的条約の日米和親条約を締結した。第一条に永世の和親を、第二条に下田・箱館
5. 日米和親条約・神奈川条約
日本史年表
1854年〈安政元(11・27) 甲寅⑦〉 3・3( 3・31 ) 幕府、 日米和親条約(神奈川条約) に調印(同2年1月5日、批准書交換)、下田・箱館の開港
6. にちべいわしんじょうやくていけつち【日米和親条約締結地】神奈川県:横浜市/中区/日本大通地図
日本歴史地名大系
アメリカ側は上席の左、日本側は右の席について第一回の日米会談が始められた。会談は前後四回開かれ、三月三日に日米和親条約が締結調印された(ペリー提督日本遠征記)。
7. 日米和親条約付録13条・下田条約
日本史年表
1854年〈安政元(11・27) 甲寅⑦〉 5・22( 6・17 ) 幕府、下田で 日米和親条約付録13条(下田条約) に調印(幕末外国関係文書)。
8. 青木周蔵自伝 358ページ
東洋文庫
一歳・エリサベット・フォン・ラーデ生れ る三浦一家、船木宰判藤曲村字北条へ移るこのころ、玄明と改める・日米和親条約締結このころ宇部郷村学校「晩生堂」に入学政治に
9. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 6ページ
東洋文庫
其年の三月三日に神奈川条約(日米和親条約)が締結され、米国の為めに長崎の外に下田・函館の二港を開き、薪水糧食を給することになったので、米艦は直ちに下田に廻航した
10. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 7ページ
東洋文庫
我全権との談判は、五月十三日から二十二日に亘って、了仙寺の会議所で継続され、遂に有名な下田追加条約〔日米和親条約附録〕十三箇条が議定調印された。 米国使節との談
11. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 250ページ
東洋文庫
 ペリi再航の応接掛りに任ぜられ、日米和親条約 に調印。のち大目付となった。井上清直(信濃守)〔一八究-宅〕 幕臣。川路聖護の 実弟。安政二年(天翌)下田奉行と
12. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 266ページ
東洋文庫
て嘉永六年(天至)浦賀へ来航、大統領フィルモ アの国書を手交した。翌年再び神奈川沖に現われ、 日米和親条約を締結、下田・函館両港を視察し、下田追加条約も締結して
13. 阿部氏画像
日本大百科全書
宗家はたびたびの国替くにがえのあと1710年(宝永7)備後びんご福山藩主となり、以後定着し10万石。幕末、日米和親条約を結んだ老中として有名な阿部正弘まさひろも
14. 阿部正弘
世界大百科事典
53年アメリカ使節ペリーの開国要求に対し,諸大名,幕臣に諮問して衆議制の端緒を開き,54年(安政1)日米和親条約(神奈川条約)を締結した。正弘は幕府と徳川斉昭,
15. あべまさひろ【阿部正弘】
国史大辞典
は、米使応接掛に最大限の譲歩をする秘密命令を与え、それにもとづいて交渉した結果、三月三日、日米和親条約の調印をみた。またかれは、ペリーのもたらしたアメリカの国書
16. あべ-まさひろ【阿部正弘】
日本人名大辞典
ペリーの開国要求などの難局に,徳川斉昭(なりあき),島津斉彬(なりあきら)らと協調して対処。日米和親条約を締結し,海軍伝習所・洋学所などを設立した。安政4年6月
17. アメリカ合衆国画像
日本大百科全書
においてThe United States of Americaと規定された(1853年の日米和親条約以来、日本ではアメリカ合衆国と訳されている)。1787年に
18. アメリカ合衆国画像
世界大百科事典
通称する。United States of Americaの訳語としては,1854年調印の日米和親条約で〈亜米利加合衆国〉の名称が使用された。ここから〈米〉の字
19. アメリカがっしゅうこく【アメリカ合衆国】
国史大辞典
いる。日米交渉が正式なものとなったのは一八五四年(安政元)三月ペリーと江戸幕府間に結ばれた日米和親条約(神奈川条約)である。アメリカの開拓が太平洋岸にすすみ、蒸
20. アメリカ彦蔵自伝 2 278ページ
東洋文庫
◇これより、サンダースと同行。◇七月、ペリー艦隊が浦賀沖に至り、日本の開国を求めた。◇三月三一日、日米和親条約調印。 ◇「自伝」には十一月一日受洗となって いる
21. 安政五か国条約
日本大百科全書
をはじめ西洋先進5か国との間に締結した修好通商条約の総称。1854年(安政1)に締結された日米和親条約に基づき、1856年アメリカの初代駐日総領事として伊豆下田
22. アーネスト・サトウ伝 194ページ
東洋文庫
現在から見ると異なると考えられるところがある。例えば日本の開国は現代においては一八五四年の日米和親条約であるとされている。イギリスもこの年に日英和親条約を結んで
23. 井伊直弼画像
日本大百科全書
ときに数え年36歳。1853年のペリー来航以降、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌1854年(安政1)の日米和親条約で幕府の「祖法」としての鎖国体制は崩れ始めた。
24. いざわ-まさよし【伊沢政義】
日本人名大辞典
江戸時代後期の武士。幕臣。長崎奉行をへて嘉永(かえい)6年浦賀奉行に再任。7年井戸覚弘(さとひろ)らと日米和親条約調印の全権をつとめ,下田奉行に転じ,翌安政2年
25. 伊豆国
世界大百科事典
天保10)鳥居耀蔵,江川英竜の海防見分などがあり,42年下田奉行が再置された。ペリー来航と日米和親条約の締結は鎖国体制を幕府みずからが打破しただけでなく,海防を
26. いずのくに【伊豆国】画像
国史大辞典
完成)など、海防問題にかかわる数々の実績をあげた。ペリーの来航により、安政元年(一八五四)日米和親条約が締結されると、箱館とともに下田が開港場となり、また初代ア
27. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
命ぜられると備砲の反射炉による製作を建議、同年一二月賀茂郡本郷村で着工した。しかし翌七年三月の日米和親条約締結によって下田が開港場となると機密保持が不可能となり
28. いどさとひろ【井戸覚弘】
国史大辞典
、幕閣は、下田開港を含む最後的譲歩案を付与し、これにもとづいて交渉が進められた結果、三月、日米和親条約が結ばれた。覚弘は林〓その
29. いど-さとひろ【井戸覚弘】
日本人名大辞典
へて嘉永(かえい)2年江戸町奉行。7年ペリーの浦賀への再来に際し,林復斎らとともに交渉にあたり,日米和親条約,下田条約に調印した。安政3年大目付。安政5年4月7
30. うどの-ながとし【鵜殿長鋭】
日本人名大辞典
1808−1869 江戸時代後期の武士。文化5年生まれ。幕臣。攘夷(じょうい)論をとなえたが応接掛として日米和親条約などの調印にかかわる。一橋派として井伊直弼(
31. 蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類(書付并伺書類)[文献解題]北海道
日本歴史地名大系
市立函館図書館・道立文書館 解説 嘉永六年カラフト島をめぐる日露国境問題が発生し、翌七年三月には日米和親条約によって箱館の開港が行われたので、幕府は箱館に箱館
32. 越後国
世界大百科事典
価は高騰し,世相は混乱し一揆がつづくなかで諸藩は海防の備えを強化した。1854年(安政1)日米和親条約が結ばれて鎖国体制は終わり,58年の日米修好通商条約で新潟
33. 江戸参府紀行 341ページ
東洋文庫
四年〔一八五七〕安政 五年〔一八五八〕安政 六年〔一八五九〕・クリミア戦争始まる。・ペリー、再び来航し、日米和親条約を結 び、幕府は下田、函館を開港。・英東イγ
34. 江戸時代
世界大百科事典
の強化などの手をうったが,ついにペリーの率いる〈黒船〉の圧力に屈して,1854年(安政1)日米和親条約を結び,開国にふみきった。ついで58年安政五ヵ国条約締結に
35. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
6月 ペリー来航、開国迫る。7月 ロシア使節プチャーチン長崎に来航1854(安政1)3月 日米和親条約。8月 日英和親条約。9月 オランダに下田・箱館を開港。1
36. おおぬまこくていこうえん【大沼国定公園】北海道:渡島支庁
日本歴史地名大系
。大沼・小沼・蓴菜沼などの湖沼群と、その北にそびえる駒ヶ岳からなる。嘉永七年(一八五四)の日米和親条約締結後、七重村(現七飯町)は外国人遊歩地区に組込まれた。以
37. おかし【岡士】
国史大辞典
コンスルconsul(領事)の当字。安政元年(一八五四)調印の日米和親条約第十一条に領事駐在が規定され、英文には“consuls or agents”とあるが
38. おがさわらしよとう【小笠原諸島】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
同年にはロシア艦隊プチャーチン号、アメリカ艦船プリマス号も寄港した。安政元年(一八五四)幕府はペリーと日米和親条約を結び、同五年には日米修好通商条約、次いで日英
39. おしまはんとう【渡島半島】北海道:総論
日本歴史地名大系
本有数の鉛鉱山があった(北海道鉱業史)。江差湊はニシン漁業で大正期まで栄え、箱館湊は幕府の日米和親条約により一八五五年(安政二年)開港、五九年には横浜・長崎とと
40. かいがんきょうかい【海岸教会】神奈川県:横浜市/中区/日本大通地図
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[現]中区日本大通 日米和親条約締結地跡の開港広場の隣にある日本最初のプロテスタント教会。日本基督教会派に属し、正称は日本基督横浜海岸教会。元治元年(一八六四)
41. 開国画像
日本大百科全書
翌54年2月(旧暦1月)7隻の軍艦を率いて再度来航し、武力を背景に強硬に開国を迫り、ついに3月、日米和親条約(神奈川条約)が結ばれた。この条約は、下田しもだ・箱
42. 開国
世界大百科事典
た幕府がまずアメリカ大統領国書を受領し,翌年(安政1)3月,再度来航したペリーとのあいだに日米和親条約(神奈川条約)を締結したのを発端とする。以来,幕府は,イギ
43. かいこく【開国】
国史大辞典
て日本が開かれたことを意味する。嘉永六年(一八五三)米艦渡来に始まり、安政元年(一八五四)日米和親条約の締結、同五年五箇国修好通商条約の締結を経て、同六年同条約
44. かいこく【開国】 : 近代
国史大辞典
し、開国を要求したとき、近代艦隊の威力に抗しえないことを覚った幕府は外交代表の常駐を認める日米和親条約を締結し、安政二年(一八五五)までにイギリス・ロシア・オラ
45. 会所貿易
日本大百科全書
このため、長崎貿易はそれ以後まったく会所の支配するところとなった。1854年(嘉永7)に調印された日米和親条約は、通商行為を認めなかったが、第2条の下田、箱館は
46. かえい・あんせいき【嘉永・安政期】
国史大辞典
が求められ、また、日本の市場開拓がめざされていた。安政元年正月、ペリーは再び来航、三月には日米和親条約(神奈川条約)を結び、その後初代駐日総領事ハリスとの交渉を
47. かながわ【神奈川】画像
国史大辞典
宿場町として発達した。安政元年(一八五四)当地を応接所として、江戸幕府とペリー提督との間で、日米和親条約(神奈川条約)が締結され、ついで同五年には、総領事ハリス
48. 神奈川(県)画像
日本大百科全書
アメリカの使節ペリーの一行が浦賀に来航して鎖国の夢を破ったのをきっかけとして、1854年に日米和親条約(神奈川条約)、1858年(安政5)には安政五か国条約あん
49. 神奈川条約
日本大百科全書
日米和親条約
50. 神奈川条約
世界大百科事典
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)神奈川で調印された日米和親条約のこと。日本の開国の第一歩となった条約である。アメリカ側の全権は東インド艦隊司令長官ペリー
「日米和親条約」の情報だけではなく、「日米和親条約」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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