日本の歴史に関連するサンプルページ一覧

明治維新(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕藩制を廃し、中央集権統一国家と資本主義化との出発点を築いた政治的・社会的変革。「明治維新」という歴史学の概念ができる起源は、当時の人が用いた「御一新(ごいっしん)」ということばにある。お上の命令によって世の中が新しくなるという意味である。[遠山茂樹
武蔵国造の反乱(日本大百科全書)
534年(安閑天皇1)に武蔵地方で起きた地方豪族の反乱。『日本書紀』によると、534年、武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の笠原直小杵(おき)とが、国造の地位をめぐって対立した。笠原直小杵は上毛野(かみつけぬ)(群馬県)地方の豪族上毛野
磐井の乱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
六世紀初めに起った筑紫国造の反乱。『日本書紀』によると、継体天皇二十一年六月、近江毛野臣が六万の軍を率い、任那に赴き、新羅にやぶられた南加羅と己呑(とくことん)を復興しようとした時、かねて反乱を計画して隙をうかがっていた筑紫国造磐井は、毛野臣の軍を
昭和時代(世界大百科事典・国史大辞典)
昭和の元号を冠した時代(1926-89)を指すが,明治時代,大正時代のように,ある特定のイメージで語られる時代とはいえない。第2次世界大戦の敗北とその後の改革による変動があまりにも大きく,戦前と戦後とは,まったく違った時代といってもよいほどの大きな
明治時代(国史大辞典・世界大百科事典)
明治元年(一八六八)から同四十五年七月三十日、明治天皇の死により大正と改元されるまでの四十四年間余りの時期をいう。慶応四年(一八六八)が改元で明治元年となったのは九月八日であったが、その年の正月一日以後を明治時代に含めて呼ぶのが普通である。明治天皇の
江戸時代(日本大百科全書・世界大百科事典)
▲範囲と概観厳密には、江戸に幕府が開かれた1603年3月24日(慶長8年2月12日=旧暦)から、1869年4月5日(明治2年2月24日=旧暦)事実上の東京遷都が行われた日までの266年間をさすと考えられるが、一般には1600年の関ヶ原の戦い以降、
戦国時代(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
日本史の時代区分の一つで、室町時代後期と重なり合う。一般的には、応仁元年(一四六七)の応仁の乱から織田信長の入京の永禄十一年(一五六八)、あるいは、信長の将軍足利義昭の追放(室町幕府の滅亡)の天正元年(一五七三)に至る百余年間をいい、室町時代(前期)
江戸開城(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1868年(慶応4)4月に行われた新政府軍への江戸城明渡し。同年正月3日の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いにおいて幕府軍は敗北し、大坂にいた徳川慶喜(よしのぶ)は海路江戸に帰った。2月、維新政府は東征軍を結成して東海、東山、北陸の三道から進軍を開始
大正時代(世界大百科事典・国史大辞典)
一般的には大正天皇の在位期間(1912-26)をいうが,歴史学的にいえば,藩閥官僚政治を批判する日露戦争講和反対の全国的民衆運動の発生した1905年から,第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣の政治諸改革が行われ,政党政治体制の確立した1925年ま
尊王攘夷運動(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸幕府の外交政策と専制体制を批判、反対した幕末の政治運動。[遠山茂樹]▲本来の性格身分制度の最頂点に位する天皇の伝統的権威の尊重を説く尊王思想、および自国を道徳文化の優れた中華 (ちゅうか)として尊び、外国とくに東洋文化と異質の文化をもつ欧米諸国
大政奉還(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
「大政」とは天下の政 (まつりごと)の意で、第15代将軍徳川慶喜 (よしのぶ)が1867年(慶応3)10月14日、徳川氏265年間の政権を朝廷に奉還し、翌15日、朝廷がそれを勅許した幕末期の一大政治事件をいう。薩長 (さっちょう)を中心とした倒
桜田門外の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
万延元年(一八六〇)三月三日水戸・薩摩の十八士が江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。直弼は安政五年(一八五八)六月勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断行し、違勅問責のために押懸登城した水戸老侯徳川斉昭らの三家の諸侯を処罰したばかりでなく
安政の大獄(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
安政五戊午年(一八五八)から翌年にかけて、大老井伊直弼が将軍継嗣・条約調印の二問題に反対した尊攘派に下した弾圧。戊午の大獄ともいう。十三代将軍徳川家定は凡庸なうえに継嗣がなかったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論が
墾田永年私財法(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
古代の法令。墾田永世私財法・永世私財法・永世私有令などとも呼ばれる。天平十五年(七四三)五月二十七日に「勅」として出された。この勅は、(一)墾田を私財として永年収公しないことを宣言した部分、(二)品位階により墾田地の面積に制限を付し、郡司については
長屋王の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
奈良時代の藤原氏による皇親大官排斥事件。聖武天皇は神亀元年(七二四)二月即位し、長屋王を正二位左大臣に任じ、勅して夫人藤原宮子に大夫人の尊称をたてまつった。三月長屋王は宮子の尊称について意見を奏した。すなわち、『公式令』に皇太夫人(天皇の母で夫人の
出羽国(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建出羽郡、許之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令諸国運送兵器於出羽柵、為征蝦狄也」とあり、軍事基地として
安政の大地震(日本大百科全書・世界大百科事典)
1855年(安政2)10月2日午後10時ごろ江戸に発生した地震。震央は荒川河口付近で、規模はM6.9と推定される直下地震であった。江戸の町方での倒壊した家屋は1万6000、倒壊した土蔵は1400余、死者約4700人といわれたが、武家・社寺方を含めると
和宮降嫁(国史大辞典・日本大百科全書)
十四代将軍徳川家茂と孝明天皇異母妹(仁孝天皇第八皇女)和宮親子内親王との結婚をめぐり万延元年(一八六〇)から文久元年(一八六一)にかけて生じた政治問題。条約勅許問題や安政の大獄以来、江戸幕府と朝廷との関係が悪化したので、幕閣は公武関係融和をめざして
異国渡海御朱印帳(日本大百科全書)
江戸初期に幕府が海外渡航の貿易船に与えた許可証の控え。金地院崇伝 (こんちいんすうでん)(以心 (いしん)崇伝)の自筆、1冊。京都市南禅寺金地院所蔵(国指定重要文化財、京都国立博物館保管)。崇伝が、前任の豊光寺承兌 (ぶこうじしょうだ/
青方文書(国史大辞典・日本大百科全書)
肥前国宇野御厨中通島(長崎県南松浦郡上五島町青方)を本拠とした藤原姓青方氏の文書。同氏は平安時代よりこの地に居住していた開発領主の子孫で、鎌倉幕府成立後地頭職を安堵され、鎌倉御家人となり、南北朝時代には松浦一族と称したが、近世には福江藩士となる
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
安土桃山時代(世界大百科事典・日本大百科全書)
織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年(永禄11)から,関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年(慶長5)までの約30年間を指し,織田・豊臣時代(織豊政権)ともいう。時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世
飛脚(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書)
速く走る者、手紙を運ぶ者のことをいう。古代の駅制では飛駅使(ひやくし)がこれにあたる。飛脚の語は平安時代末期ごろ現われ、中世以降頻出する。〔古代〕律令国家は太政官と国司との連絡に駅馬(えきば)、国府と郡司の連絡に伝馬(てんま)を使用した。急を要する
室町時代(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
政治権力の所在による時代区分の一つ。足利時代とも称される。広義には鎌倉時代と安土桃山時代の中間に位置する足利将軍の存続期を指すが、狭義にはその時代の前期を南北朝時代、後期を戦国時代としてその両時代に挾まれた一時期を対象とし、時にはその片方を含めて
南北朝時代(世界大百科事典)
14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1・建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期を
鎌倉時代(国史大辞典・世界大百科事典)
〔時代概念〕幕府が相模国鎌倉に置かれた時代。終期が元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府滅亡である点に異論はないが、始期については諸説があり、文治元年(一一八五)の守護・地頭設置に求める説が有力である。明治初期までは、皇代中心の編年的歴史叙述が優勢であったが
平安時代(国史大辞典・世界大百科事典)
八世紀末から十二世紀末まで、ほぼ四百年間の長い時期を平安時代と呼ぶのは、延暦十三年(七九四)の桓武天皇の詔によって、新都が「平安京」と命名されたことに基づく。したがって時代の開始はおのずからこの年となるべきであるが、奈良時代との接続を考慮して延暦三年
邪馬台国(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
二、三世紀の日本列島内にあった小国の一つで、対馬国(のちの対馬島上県・下県郡、現在の長崎県上県・下県郡)以下二十八の小国を統属していた倭国連合の盟主国。二世紀末から三世紀前半まで女王卑弥呼が都としていた国。この国への道程は『魏志』倭人伝によれば諸
倭奴国王印(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代の天明四年(一七八四)、筑前国那珂郡志賀島(しかのしま)南岸の叶の崎(かなのさき、福岡市東区)から出土した「漢委奴国王」の印文をもった純金の印。その形は方形で、方平均二・三四七センチ、高〇・八八七センチの小さい印台の上に、蛇形ともみえる鈕が
装束(日本大百科全書)
朝廷や貴族が用いる調度や威儀具などの一そろい。また衣服、武具、馬具、輿車(よしゃ)などの様式にかなった装いの組合せ。装束は元来、御帳(みちょう)台、椅子(いし)、床子(しょうじ)、茵(しとね)、畳などの座臥(ざが)具、御簾(みす)、壁代(かべしろ)
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