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  11. 壇ノ浦の戦

壇ノ浦の戦

ジャパンナレッジで閲覧できる『壇ノ浦の戦』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

壇ノ浦の戦い
だんのうらのたたかい

1185年(文治1)下関 (しものせき)市東方の壇之浦で行われた源平最後の海戦。この年2月屋島 (やしま)の戦いに敗れた平氏の総帥宗盛 (むねもり)らは、長門彦島 (ながとひこしま)(下関市)に拠 (よ)る平知盛 (とももり)の軍と合体、九州の源範頼 (のりより)軍に背後を牽制 (けんせい)されつつも、500余艘 (そう)の兵船をもって、源義経 (よしつね)率いる840余隻の船団を迎撃せんとした。3月24日正午開戦、初めは東進する潮流にのった平氏方が有利だったが途中から逆潮となり、午後4時ごろ平氏軍の敗北・滅亡が決定、と解するのが通説である。しかし、開・終戦時刻、したがって潮流の戦闘に及ぼした影響などについては異論もある。安徳 (あんとく)天皇は海底に没し、一族のほとんども失命したが、建礼門院 (けんれいもんいん)は救助され、宗盛父子は生け捕りののち斬 (き)られた。

[杉橋隆夫]



世界大百科事典

壇ノ浦の戦
だんのうらのたたかい

1185年(文治1)下関市東方の壇ノ浦で行われた源平最後の海戦。この年2月源義経に強襲され,四国屋島(高松市)の陣営を放棄した平氏の総帥平宗盛らは,長門彦島(下関市)にあって関門海峡を扼する知盛の軍と合体し,劣勢を支えようとした。しかし屋島の戦勝によって瀬戸内の制海権を握った義経軍は執拗に追尾し,九州の源範頼軍も平氏の動きを牽制した。周防に集結した義経の船団は,同国でさらに数十艘の船舶を併せ,840余艘の兵船をもって決戦に臨んだ。かくして3月24日,彦島を発した平氏の軍船500余艘と長門壇ノ浦で遭遇し,正午ころから激しい戦闘状態に入った。はじめは東進する潮流に乗った平氏方が有利だったが,途中から潮が逆流に転じ,結局,午後4時ころには平氏の敗北・滅亡が決定した。安徳天皇は海底に没し,平教盛,知盛ら一族の多くも入水あるいは戦死した。天皇の母建礼門院徳子は入水後救助され,宗盛・清宗父子らは生けどられた。京・鎌倉が深い関心を寄せた三種の神器のうち,鏡は無事,神璽も海中より回収されたが,宝剣は二位尼(清盛の妻時子)が抱いて沈んだままになった。勝報に接した鎌倉の頼朝は,範頼には九州にとどまって平氏旧領の処分に当たり,義経には神器,捕虜を伴って上洛するよう命じた。こののち頼朝・義経兄弟の不和は決定的となるが,《平家物語》は,壇ノ浦決戦の先陣を梶原景時と義経が争って同士討ち寸前に及び,それを遺恨に思った景時が頼朝に讒言したのが原因だと説明している。
[杉橋 隆夫]

[索引語]
壇ノ浦(山口) 源義経 平氏 三種の神器 梶原景時


国史大辞典

壇ノ浦の戦
だんのうらのたたかい
元暦二年(文治元、一一八五)三月下旬、長門国赤間関壇ノ浦(山口県下関市)で源平両氏の最後の決戦として行われた海戦。屋島の戦で源義経の強襲に敗れた平氏軍は瀬戸内海を西にのがれて長門の彦島(下関市)に拠り、関門海峡の制海権を維持したが、その背後には周防・長門から豊後にわたった源範頼の軍が平氏の退路をたつ態勢を整えていた。義経としてはこの退路の閉鎖が有効に果たされている間に平氏を追いつめ決戦をいどむ必要があった。しかし、義経や梶原景時以下は平氏を追いながらも合戦に充分な水軍を編成するため、屋島の戦の後約一ヵ月の日時を費やした。義経以下はさきに摂津を出発するときに整えた百数十艘の軍船に加え伊予の河野氏の水軍三十のほか阿波・讃岐の水軍によりその勢を増強、さらに熊野湛増の水軍二百艘も参加し、元暦二年三月二十日ごろ、周防国まで進出した。三月二十一日義経はさらに周防国の在庁官人船所五郎正利の兵船数十艘の援軍を得て、総勢八百余艘を以て長門に進発、二十三日に壇ノ浦の奥津(おいつ、下関市満珠島付近か)に至った。これに対し平氏側は総勢五百余艘を以て彦島を出撃、全軍を三手に分けて山峨秀遠を第一陣、松浦党の水軍を第二陣、そして平氏一門の軍を第三陣として二十三日夜までに田ノ浦に集結した。かくて源平両軍は二十四日朝壇ノ浦の海上で衝突したが、潮流の速度と方向の変化を巧みに利用した源軍は、義経の奇策戦法もあって、夕刻までには完全な勝利を収めた。平氏側では全軍の総指揮に任じた平知盛をはじめ同経盛・教盛・資盛・有盛以下一門の武将のほとんどが戦死・海没し、また安徳天皇は二位尼時子(清盛の妻)に抱かれて入水した。そして平宗盛・清宗父子や平時忠は捕えられ、建礼門院徳子も海に投じたが救い上げられた。かくて平氏は滅亡し源平の争覇は源氏の勝利に終った。またこの海戦で三種の神器のうち神鏡・神璽は無事に奉還されたが神剣は失われた。
[参考文献]
黒板勝美『義経伝』(『虚心文集』三)、安田元久『源平の争乱』、同「壇ノ浦海戦」(桑田忠親編『日本の合戦』一所収)
(安田 元久)
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3. だんのうら の 戦(たたか)い
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元暦二年(一一八五)三月二四日、長門国(山口県)赤間関(下関市)壇ノ浦で行なわれた源平最後の合戦。平氏は源義経の率いる源氏の軍に敗れ、安徳天皇は二位尼と共に入水
4. 壇ノ浦の戦い
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1185年(文治1)下関しものせき市東方の壇之浦で行われた源平最後の海戦。この年2月屋島やしまの戦いに敗れた平氏の総帥宗盛むねもりらは、長門彦島ながとひこしま(
5. 赤間神宮画像
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山口県下関市阿弥陀寺あみだじ町に鎮座。祭神は安徳あんとく天皇。1185年(文治1)壇ノ浦の戦いで祖母二位尼にいのあま(平清盛の妻)に抱かれて入水、崩御し、赤間関
6. あき-さねみつ【安芸実光】
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−1185 平安時代後期の武士。土佐(高知県)安芸郷の人。三十人力であったとつたえられる。壇ノ浦の戦いに源義経にしたがって出陣。元暦(げんりゃく)2年3月24日
7. あさり-よいち【浅利与一】
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8. あわのないし【阿波内侍】
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−? 平安後期-鎌倉時代の女官。建礼門院の女房。藤原通憲(みちのり)の娘とも孫ともいわれる。壇ノ浦の戦い(1185)のあと,京都大原寂光院で女院とともにすごし,
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10. 安徳天皇
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ノ浦で平氏一門とともに入水・死亡。陵墓は下関市阿弥陀寺陵。杉橋 隆夫 安徳伝説 安徳天皇が壇ノ浦の戦ののちも流離し,生存したという伝承の根を探るとすれば,《平家
11. あんとくてんのう【安徳天皇】
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12. あんとくてんのう【安徳天皇】
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13. いが-いえなが【伊賀家長】
日本人名大辞典
乳兄弟の平知盛(とももり)のもとで源氏とたたかう。元暦(げんりゃく)2年3月24日,長門(ながと)(山口県)壇ノ浦の戦いに敗れ,知盛とともに入水した。
14. いせ-よしもり【伊勢義盛】
日本人名大辞典
?−1186 平安時代後期の武士。源義経(よしつね)四天王のひとり。屋島・壇ノ浦の戦いなどで活躍し,平宗盛・清宗父子を生け捕りにする。源頼朝と不和になった義経の
15. いせよしもり【伊勢能盛】
国史大辞典
挙げれば、文治元年(一一八五)二月屋島急襲のとき義経に従って海上に浮かぶ平氏軍を攻めた。ついで壇ノ浦の戦で平宗盛・清宗父子を生け捕りにし、両人以下の平氏の捕虜の
16. いちのたにのたたかい【一谷の戦】
国史大辞典
る優勢をほぼ決定的にしたが、この後もなお苦しい遠征を続けて、翌文治元年(一一八五)の屋島・壇ノ浦の戦によって平氏を滅亡せしめた。 [参考文献]『吾妻鏡』、『玉葉
17. 江戸参府紀行 93ページ
東洋文庫
海中に身を投じた。忠義な家来はこれに続き皆ことごとく入水した。天皇と臣下の屍は阿弥陀寺に葬られた。壇ノ浦の戦いは文治元(二八五)年三月二四日行なわれた。 わが案
18. 江戸参府旅行日記 94ページ
東洋文庫
与治兵衛は罰として自ら腹をかき切って、当然受けるはずの勘気を免れた。なおこの土地と海域は、内裡の戦〔壇ノ浦の戦〕の時に皇位継承者が死んだことで名高く、この戦のこ
19. 応援団
日本大百科全書
る。一高は白旗で浅草側。高商は赤旗で向島側に舟を並べて応援団が対抗した。この情景を「屋島、壇ノ浦の戦いもかくやと思われたり」と新聞が報道したほど、双方応援団がエ
20. 御伽物語(仮名草子集) 501ページ
日本古典文学全集
お連れいたしましょう』と言う。 山口県下関の古名。その辺り。元暦二年(一一八五)二月、屋島の戦い、三月、壇ノ浦の戦い、平氏滅亡。下関市阿弥陀寺(赤間神宮)は、元
21. 関門海峡
世界大百科事典
ル(1942開通)が通っている。古くから西日本における海陸交通の要衝をなし,歴史上も源平の壇ノ浦の戦の舞台となり,幕末の馬関戦争の戦場となったことでも有名である
22. 崖山の戦
世界大百科事典
擁立した張世傑らは崖山で元将張弘範の大軍を迎え撃ったが敗れ,陸秀夫(1236-79)が,平家壇ノ浦の戦そのままに趙昺を背負って海中にとびこみ,300年の宋王朝は
23. くまのべっとう【熊野別当】
国史大辞典
争をこととした。田辺別当の祖は湛快であって、同地の新熊野社(闘鷄神社)はその勧請にかかり、壇ノ浦の戦に熊野水軍を率いて平家を撃滅する殊功を樹てた湛増は、その次男
24. けんれいもんいん【建礼門院】
日本人名大辞典
)女御,2年中宮となり,治承(じしょう)2年(1178)安徳天皇を生む。養和元年院号宣下。壇ノ浦の戦いで平氏が敗れたとき,安徳天皇とともに海に身を投じたが救助さ
25. けんれいもんいん【建礼門院】
日本架空伝承人名事典
女御宣旨は年わずか一五歳、まさに夢みる年ごろ。第二句、わが子安徳帝や母の時子(二位の尼)ともども壇ノ浦の戦場で生活することになるが、はじめて見る舟虫にはおじけ立
26. 建礼門院右京大夫集 16ページ
日本古典文学全集
~一一八五)。平時信の女。母は大膳大夫藤原家範の女。建春門院の異母姉。宗盛・知盛・重衡・徳子らの生母。壇ノ浦の戦いで幼帝安徳天皇を抱いて入水した。あるいは源有仁
27. 建礼門院右京大夫集 21ページ
日本古典文学全集
高倉天皇と同年。治承二年十二月から養和元年(一一八一)十月まで右近権少将。右近権中将、蔵人頭に至る。壇ノ浦の戦いで一門とともに入水。作者の生涯の恋人。新勅撰初出
28. 建礼門院右京大夫集 99ページ
日本古典文学全集
、法住寺合戦(同年十一月)、一ノ谷の戦い(一一八四年二月)、屋島の戦い(一一八五年二月)、壇ノ浦の戦い(同年三月)、宗盛・重衡の処刑(同年六月)など、一連の動乱
29. 建礼門院右京大夫集 111ページ
日本古典文学全集
平家側では寿永四年(一一八五)、京都では元暦二年(八月十四日文治と改元)を称する。この年の三月二十四日、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・平資盛・知盛らが入水、宗盛・清宗
30. けんれいもんいんの-うきょうのだいぶ【建礼門院右京大夫】
日本人名大辞典
承安(じょうあん)3年建礼門院(中宮徳子)につかえる。平重盛(しげもり)の次男資盛(すけもり)と恋仲になり,壇ノ浦の戦いで資盛が没したのち京都の法性(ほっしょう
31. げんりゃく【元暦】
日本国語大辞典
後鳥羽天皇の代の年号。寿永三年(一一八四)四月一六日代始により改元。元暦二年(一一八五)三月長門壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡した。元暦二年八月一四日文治(ぶんじ
32. こうとうたけざね【厚東武実】画像
国史大辞典
た。尊氏の東上には兵船用意の命を奉じ、その長府滞在中また斡旋し、東上には嘉例として源義経が壇ノ浦の戦に傭った船頭の子孫を周旋して東上(『梅松論』)。五月五日備後
33. こうのみちのぶ【河野通信】画像
国史大辞典
主導権を握った。源義経が西下した時、通信は軍船を率いて屋島に赴き、海上から平氏を攻撃した。さらに壇ノ浦の戦では通信の軍船が中堅となって活躍した。鎌倉幕府の成立後
34. こうの-みちのぶ【河野通信】
日本人名大辞典
父とともに伊予(いよ)(愛媛県)高縄山城で挙兵。敗死した父のあとをうけ伊予内の平家与党を討ち,壇ノ浦の戦いでは兵船をひきい源義経軍にくわわる。承久(じょうきゅう
35. 下関[市]
世界大百科事典
。長門国府は内海側の長府におかれ,中世にもここに長門警固所があった。関門海峡は平安時代末の壇ノ浦の戦や幕末の長州藩による外国艦隊砲撃の舞台であり,この海峡に臨む
36. 下関(市)画像
日本大百科全書
内海の諸航路が集まり、長崎と並ぶ商港として「西の浪華なにわ」とよばれた。関門海峡は平安時代に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した地であり、また幕末には長州藩と外国艦隊の
37. 沙石集 529ページ
日本古典文学全集
とりにくいが俊本に従った。道理に背くこと。底・元本「いふは」なし。俊本により補う。寿永四年(一一八五)に壇ノ浦の戦いで平家が滅び、鎌倉幕府が創建されようとした時
38. 小シーボルト蝦夷見聞記 175ページ
東洋文庫
しても、モンゴル民族全体を指すものと考えるべきだろう。*89 文治元年(二八五)三月、長門壇ノ浦の戦いで平氏一門は滅亡したが、この年の八月一六  日に、義経は頼
39. しりうごと(近世随想集) 458ページ
日本古典文学全集
重盛・宗盛の弟。権中納言。治承四年(一一八〇)源頼政を宇治に滅ぼし、翌年、源行家を美濃に破った。壇ノ浦の戦で「見るべき程の事は見つ」と入水。謡曲・浄瑠璃などに戯
40. 治承・寿永の内乱
世界大百科事典
迎えたが,結局,安徳天皇は入水・死亡,宗盛,建礼門院らは捕らえられ,平氏一門はことごとく滅亡した(壇ノ浦の戦)。 なお,この内乱の起結時期は冒頭に記したごとく理
41. じじゅう【侍従】
日本人名大辞典
のち京都に同行するが,母を思慕したため故郷の池田宿にかえされる。元暦(げんりゃく)2年(1185)壇ノ浦の戦いに敗れて鎌倉へおくられる宗盛に歌をおくってなぐさめ
42. 寂光院
日本大百科全書
本尊は6万体の小像が刻まれた木像地蔵菩薩じぞうぼさつ立像で国の重要文化財。1185年(文治1)、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡してのち、建礼門院けんれいもんいん平徳子と
43. 水天宮(福岡県)
日本大百科全書
その母高倉天皇の中宮建礼門院けんれいもんいん、その祖母二位尼にいのあま平時子(清盛妻)を祀る。壇ノ浦の戦いで敗れたあと、建礼門院に仕えていた按察使局あぜちのつぼ
44. すおうおおしま【周防大島】
国史大辞典
当島かという。『万葉集』一五の「可太の大島」も屋代島を指す。内海舟行の主要ルート上にあり、壇ノ浦の戦の直前、源義経は大島津(大島町小松)に舟を結集した。また、大
45. 周防国
世界大百科事典
献じ,翌年屋島を攻略した源義経が大島津に至ると,周防国船所五郎正利が数十艘の兵船を義経に献じた。このほか壇ノ浦の戦では平家方の岩国兼秀・兼末兄弟が生捕りにされた
46. 瀬戸内海画像
日本大百科全書
てよい。同じ平家ゆかりの下関市の安徳あんとく天皇を祀まつる赤間神宮の先帝祭せんていさいは、壇ノ浦の戦いの旧暦4月23日の忌日に行われ、上﨟じょうろう参拝のある異
47. 全発句(松尾芭蕉集) 522ページ
日本古典文学全集
伯父大日坊を殺したので悪七兵衛と称された。「悪」は剛強という意味。平維盛に従って奮戦したが、壇ノ浦の戦後、源氏の軍門に降る。ただ、その後絶食して命を断ったという
48. たいらの-ありもり【平有盛】
日本人名大辞典
(岡山県)藤戸(ふじと)での源平の戦いで大将軍をつとめる。元暦(げんりゃく)2年3月24日壇ノ浦の戦いで敗死した。通称は小松少将。
49. 平景清
世界大百科事典
戦いをはじめ,源平争乱のなかで源義仲・行家との合戦,一ノ谷,備前児島の合戦など各地を転戦。壇ノ浦の戦で生きのび,95年(建久6)源頼朝に下り,翌年断食して死んだ
50. たいらの-きよむね【平清宗】
日本人名大辞典
嘉応(かおう)2年生まれ。平宗盛の長男,母は平時信の娘。13歳で正三位,右衛門督(かみ)となる。壇ノ浦の戦いで父とともに捕虜となって鎌倉に護送され,京都にうつさ
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