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天狗党の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『天狗党の乱』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
天狗党の乱
てんぐとうのらん
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから、成り上がり者が天狗になって威張るという軽蔑の意味がこめられていた。安政五年(一八五八)七月、前藩主徳川斉昭が将軍継嗣・通商条約調印の二問題をめぐって大老井伊直弼と対立し、謹慎処分を受けるや、藩内では改革派の系譜をひく尊攘派を中心に広汎な雪冤運動が展開された。しかるに尊攘派自体も翌八月の戊午の密勅降下を契機に、密勅を諸藩に回達すべしとする激派と、密勅を朝廷に返納して幕府との衝突を回避しようとする鎮派とに分裂、安政の大獄による激派への弾圧は、万延元年(一八六〇)三月、桜田門外の変を惹起した。その後激派の中には文久元年(一八六一)五月の東禅寺事件、翌二年正月の坂下門外の変などに加わる者もあったが、同三年になると激派の多くは、小川・玉造・潮来など水戸藩南部の郷校を拠点としながら、近郷近在の富家から軍資金を徴発し、郷士・神官・村役人有志を集めて軍事訓練を行なっていた。一方、同三年三月、藩主徳川慶篤に従って上京した藤田小四郎(藤田東湖四男)は、滞京中長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らと交わり、東帰後江戸で因州・備前両藩士らと往来し、尊王攘夷の志を固めたが、幕府が攘夷の勅命を受けながら横浜一港の閉鎖さえ実行しえないのに憤激し、非常の手段をもって幕府に攘夷の決意を促すべきことを考えた。すなわち、藩地に帰った小四郎は、南部の郷校に拠る同志を誘い、また常野の間をしきりに遊説して挙兵への準備を急いだ。そして元治元年(一八六四)三月二十七日、藤田小四郎をはじめとする尊攘激派藩士・郷士・神官・村役人ら六十余人は、斉昭の神位を奉じて筑波山に挙兵、攘夷を唱えて同志を募った。かれらは天狗党と称されたが、挙兵に呼応した者は数日にして百五十人を越したという。天狗党(筑波挙兵隊を筑波勢もしくは波山勢という)は、水戸藩町奉行田丸稲之衛門を総帥、藤田小四郎・竹内百太郎(常陸国新治郡安食村郷士)・岩谷敬一郎(同郡宍倉村修験)の三人を総裁、田中愿蔵(久慈郡東蓮地村医師猿田玄碩の子)を中軍隊長とし、天勇・地勇・竜勇・虎勇の四隊編成とした。四月三日野州日光山へ向かって出発、東照宮に参拝して挙兵の成功を祈願、そこで参籠するつもりであったが(一説では宇都宮藩尊攘派への接近をはかったともいう)、日光奉行がこれを拒否したため一部の者が参拝したのみで日光を去り、同国太平山(栃木県栃木市)に屯集、約一ヵ月半宿陣。一方、反改革派の系譜をひく門閥派の市川三左衛門らは、尊攘鎮派が主流を占める藩校弘道館の諸生と結び反天狗派を結成(これを通常、諸生党という)、藩政の実権を握った。この情況を知った天狗党は五月三十日太平山を下り、再び筑波山に戻った。総勢およそ七百人。この間田中愿蔵は別動隊を組織、足利藩栃木陣屋に軍資金調達を要求、拒否されると栃木町に放火、七百人の罹災者を出したという。幕府は天狗党討伐の方針を固め、常総諸藩へも出兵を命じた。市川を陣将とする水戸藩兵(諸生党)も追討に向かい、幕軍・諸藩軍・諸生党は七月七日から高道祖(たかさい)村(茨城県下妻市)、下妻多宝院などで交戦したが敗退、市川らは水戸城を占拠して天狗党の家族を虐待した。幕府は田沼意尊を常野追討軍総括に任じ、幕軍・諸藩兵軍は陣容を整えて筑波山を包囲した。天狗党は攘夷の実行(横浜鎖港の実現)より先に市川らを討つこととし、二十四日水戸に向かったが城下に入れず、これ以降府中・小川・潮来方面に屯集、しばしば水戸周辺で諸生党と戦った。藩主徳川慶篤は八月四日、争乱鎮静化のため、連枝の宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に遣わし、これには執政榊原新左衛門ら七百人が同行(大発勢)、一行には途中から下総小金に屯集していた士民有志数千人や、江戸に上ろうとして果たせずやはり小金にとどまっていた元執政武田耕雲斎らも合流した。しかし市川らが入城を拒否したため、頼徳らは那珂湊へ移り、小川方面にいた藤田ら五百人も武田らを支援するため那珂湊に来た。このため那珂湊では大発勢と天狗党が共同戦線をはり、諸生党と対峙するに至った。市川らは幕軍の応援を求め、田沼は布陣していた笠間から諸藩兵とともに進軍して那珂湊を包囲、十月二十三日の合戦で榊原ら千人余が投降した(頼徳はこれより先、十月五日に幕命により切腹していた)。投降に反対した武田らは、天狗党とともに脱出、北上して大子(だいご)村に集結、千人余の一隊は武田を総大将として京都に上り、尊王攘夷の素志を朝廷に訴えることとした。大部隊を総大将のほか、大軍師(山国兵部)、本陣(田丸稲之衛門)、輔翼(藤田小四郎・竹内百太郎)、天勇隊(隊長須藤敬之進)、虎勇隊(隊長山形半六)、竜勇隊(隊長畑筑山)、正武隊(隊長井田因幡)、義勇隊(隊長朝倉弾正)、奇兵隊(隊長武田魁輔)の諸隊に編成し、十一月一日大子を出発、下野・上野・信濃・美濃を通り越前新保に至った時、ここで追討軍の総攻撃のあることを聞いて降伏、武田ら八百二十三人が加賀藩に投降した(十二月二十日)。西上の途次厳しい軍律のもと難行を続け、上野の下仁田や信濃の和田峠では幕命を受けた諸藩兵と戦った。一隊は慶応元年(一八六五)正月敦賀の鯡倉に監禁され、二月武田・藤田ら三百五十二人が斬罪、他は遠島・追放などの罪に処せられた。→水戸藩(みとはん)
[参考文献]
『水戸藩史料』下、玉虫茂誼編『波山記事』(『日本史籍協会叢書』)、佐々木克校訂『水戸藩死事録・義烈伝纂稿』、川瀬教文『波山始末』、大内地山『武田耕雲斎詳伝』、『茨城県史』近世編、『水戸市史』中五
(鈴木 暎一)


日本大百科全書
天狗党の乱
てんぐとうのらん

1864年(元治1)3月から12月にかけて、水戸藩士の尊王攘夷(じょうい)派のうちの急進派が常陸(ひたち)(茨城県)、下野(しもつけ)(栃木県)、下総(しもうさ)各地の農民を率いて関東各地また中山道(なかせんどう)に転戦した事件。天保(てんぽう)(1830~44)ころから水戸藩改革派の武士を天狗とよぶ風があったが、64年3月、水戸藩士田丸稲之衛門(いなのえもん)、藤田小四郎(こしろう)らが尊王攘夷を旗印に常陸国筑波(つくば)山に挙兵すると、水戸藩領那珂湊(なかみなと)、小川、潮来(いたこ)の三郷校に集結していた郷士、神官、農民ら約1000人がこれに加わった。これを世に筑波天狗党という。天狗党は下野国太平山(おおひらさん)、日光と移動するが、幕府はこれに追討軍を送り、また、水戸藩をはじめ関東諸藩に出兵を命じ、下野、下総、常陸各地に戦闘が続いた。
水戸藩改革派が領内各地に建設した10余の郷校に学んだ農民は改革派に連なり、一方、鯉淵(こいぶち)勢、河和田(かわわだ)勢、薄井勢、寺門隊など農兵は藩内保守派(諸生党)に属して天狗党と闘い、これに世直し騒動も加わって、領内農村も複雑な様相をみせる。水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)の代理として分家の宍戸(ししど)藩主松平頼徳(よりのり)が藩内抗争鎮撫(ちんぶ)のため水戸に下るが、戦闘に巻き込まれて幕府から自刃を命ぜられる悲惨な事件もあった。天狗党は水戸、那珂湊の戦いで敗れ、その一部は北上して磐城塙(いわきはなわ)で全滅、主流800余名は武田耕雲斎(こううんさい)を長として西上、当時京都にあった一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(禁闕(きんけつ)守衛、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の子)を頼って幕府追討軍、諸藩の兵と闘いながら下野、上野(こうずけ)、信濃(しなの)、飛騨(ひだ)を通り、越前(えちぜん)国(福井県)新保(しんぼ)まできて力尽き加賀藩に降伏、翌年、約350人が斬罪(ざんざい)となった。維新黎明(れいめい)期の天誅(てんちゅう)組や生野(いくの)の変などと並ぶ激派事件である。
[秋山高志]



改訂新版・世界大百科事典
天狗党の乱
てんぐとうのらん

1864年(元治1)水戸藩尊攘激派による挙兵事件。水戸藩主徳川斉昭の下で改革政治に登場した者が天狗と呼ばれ,尊攘激派を中心とした天狗党は,保守派とくに諸生党と激しく対立した。1863年(文久3)8月18日の政変で尊攘運動が挫折すると,天狗党の藤田小四郎らは幕府に攘夷の実行を促すため,田丸稲之衛門を総帥として翌64年3月27日筑波山に挙兵した。当初攘夷祈願のため日光に向かうが,はじめから軍資金不足に悩まされ,近在の諸藩や豪農商に金穀を強要することが多かった。幕府が諸藩に追討を命ずると,諸生党の天狗党攻撃も激化し,しだいに水戸藩内の党争の色彩をつよめた。窮地に立った天狗党は,在洛中の一橋慶喜を頼り武田耕雲斎を主将として大挙西上するが,途中で加賀藩に降伏して拘禁された。翌年2月の武田,藤田,田丸以下350人を超える死刑をはじめとし,大量の犠牲者を出した。
[高木 俊輔]

[索引語]
藤田小四郎 田丸稲之衛門 武田耕雲斎
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6. アメリカ彦蔵自伝 2 67ページ
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なした後、下野にとど まること約一ヵ月半。七月初めにはふたたび筑波山にこもった。いわゆる天狗党の乱である。 その間に、同勢のなかには豪商・豪農を脅迫などし ...
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8. いいむら-せいすけ【飯村誠介】
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9. いさわちょう【石和町】山梨県:東八代郡
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10. いのうえ-まさかね【井上正兼】
日本人名大辞典
井上正信の養子となり,安政3年常陸(ひたち)(茨城県)下妻(しもつま)藩主井上家13代。元治(げんじ)元年天狗党の乱で陣屋が焼失した。明治11年8月7日死去。5 ...
11. 小浜藩
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1864年(元治1)水戸浪士の一隊が領内に入ったため,加賀藩など十数藩とともにその鎮圧にあたった(天狗党の乱)。68年(明治1)の鳥羽・伏見の戦では,旧幕軍に属 ...
12. かじやまむら【梶山村】茨城県:鹿島郡/大洋村
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13. かねまつふさじろう【兼松房治郎】
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十八歳の折、学問修得のため、武家奉公を志し、足軽から歩兵となり、元治元年(一八六四)筑波の役(天狗党の乱)に出陣した。このころ、親戚兼松家の養子となる。維新の折 ...
14. かみがまむら【上釜村】茨城県:鹿島郡/旭村
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悉差障、難渋至極仕候間、何卒是迄上納地辻之内御引承被成下、田半掛相願候処」とある。幕末には天狗党の乱の敗残兵が村内に流入し、幕府はその掃討に松川藩を充てている( ...
15. かめだ-とくさぶろう【亀田徳三郎】
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16. きたばたけはるふさ【北畠治房】
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17. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 60ページ
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あるいは外国貿易に関係したという理由で、商人を威嚇、殺傷し、その勢は常野総の一円に及んだ。世に天狗党の乱とい50 この争乱は、五月になると、水戸藩内の党争と結び ...
18. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 5ページ
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国司信濃とともに自刃させられた。 藤田小四郎 1842-65志士。水戸藩の儒学者。元治元年天狗党の乱をおこし,率兵西上したが,越前で捕えられ,刑死した。 古高俊 ...
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20. くろさわかくすけ【黒沢覚介】
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21. けいいかんあと【稽医館跡】茨城県:東茨城郡/小川町/小川村
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小川郷校と改称された。水戸藩最古の郷校で、小川文武館とも称されて学問・武道の修練所となり、天狗党の乱の拠点、尊攘運動の温床的役割をも果した。小川郷校は焼失したが ...
22. げっそうじ【月崇寺】茨城県:笠間市/笠間城下/大町
日本歴史地名大系
寺名は康重の諡号にちなむ。のち藩主井上氏の菩提所となり、江戸時代の朱印地は二〇石。幕末の水戸天狗党の乱の時には、幕府軍が当寺に本陣を置いた。 ...
23. 上野国
世界大百科事典
をかかえ,しかも幕府の危機に譜代藩としての去就に苦悩した。そのなかで1864年(元治1)の天狗党の乱での水戸天狗党の上州通過の阻止(下仁田戦争)や,慶応の世直し ...
24. こうやむら【荒野村】茨城県:鹿島郡/大野村
日本歴史地名大系
夏海(現東茨城郡大洗町)以南の警備に当たり、現在も陣屋堀の名が残る。元治元年(一八六四)九月には水戸天狗党の乱を鎮圧するため棚倉藩兵が当村に着陣している(大野村 ...
25. こぼとけ・こまぎのせきしよあと【小仏・駒木野関所跡】東京都:八王子市/上長房村地図
日本歴史地名大系
携えた公用の往来が多い。幕末期には関所の役割は大きく、とくに元治元年(一八六四)三月に起きた水戸天狗党の乱では小仏関所をも巻込んだ大がかりな警備態勢が敷かれた。 ...
26. こんぽんじ【根本寺】
国史大辞典
近世の朱印地百石。寺領について鹿島神宮としばしば争う。三十六世の住持仏頂は芭蕉と交あり。幕末に至り水戸天狗党の乱に堂塔のほとんどを焼失した。 [参考文献]『根本 ...
27. こんぽんじ【根本寺】 : 根本寺/(一)
国史大辞典
近世の朱印地百石。寺領について鹿島神宮としばしば争う。三十六世の住持仏頂は芭蕉と交あり。幕末に至り水戸天狗党の乱に堂塔のほとんどを焼失した。  ...
28. ごうこう【郷校】 : 水戸藩
国史大辞典
つけて呼ぶようになった。元治元年(一八六四)の天狗党挙兵前後に尊攘派の拠点となったところが多く、天狗党の乱鎮定後の慶応元年(一八六五)正月には反天狗派である門閥 ...
29. さわらまち【佐原町】千葉県:佐原市地図
日本歴史地名大系
領となったが、安永六年(一七七七)旗本津田領となる。元治元年(一八六四)常陸水戸藩で起きた天狗党の乱の鎮圧、および治安維持のため佐倉藩領となり幕末を迎えた(以上 ...
30. ししどはん【宍戸藩】
国史大辞典
・頼位・頼徳と伝えた。元治元年(一八六四)天狗党の乱が水戸藩内の争乱にとどまらなくなったため宍戸藩主頼徳が水戸藩主の代理として下ったが、両派の争 ...
31. しもつけのくにうつのみやはんしゅ【下野国宇都宮藩主】 : 戸田氏/(2)
国史大辞典
中となるなど、日光をひかえた宇都宮の城主戸田氏は、代々、幕府の要職をも占めた。忠恕は、水戸天狗党の乱の波及に対する処置の責を問われ、慶応元年(一八六五)致仕し、 ...
32. しもつまし【下妻市】茨城県
日本歴史地名大系
この再興には砂沼が用水の中継貯水池として再利用されたのが大きな特色である(下妻市史)。幕末の水戸天狗党の乱では、筑波山に集結した天狗党が下妻に置かれた幕府軍本営 ...
33. しょうこうじ【照光寺】茨城県:石岡市/平村
日本歴史地名大系
なるが、安永二年(一七七三)再度焼失し、藩の米倉を仮本堂とした。幕末近くに現本堂が完成し、天狗党の乱では、田丸稲之衛門一派の陣営となった。現在も鴨居・柱に刀傷が ...
34. すぎのやむら【菅谷村】茨城県:結城郡/八千代町
日本歴史地名大系
幕末の壬生藩領の名主大久保七郎左衛門は色川三中に師事、国学者としての名も知られ、元治元年(一八六四)三月、天狗党の乱に参加、九月八日矢野下村(現西茨城郡友部町) ...
35. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 353ページ
東洋文庫
参予会議解体す。・三月二二日、仏公使ロッシュ着任。・三月二七日、水戸藩士武田耕雲斎ら、筑波 山に挙兵(天狗党の乱)。・五月二〇日、将軍家茂、江戸に帰る。・六月一 ...
36. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 13ページ
東洋文庫
?一1869遠江相良藩主。1840(天保11)年襲封。玄蕃頭。田沼意次の孫。若年寄に任じ,天狗党の乱鎮圧の幕軍総督となる。68(明治元)年上総小久保へ転封された ...
37. せどいむら【瀬戸井村】茨城県:結城郡/八千代町
日本歴史地名大系
引右出入相済」み、証文を百姓孫兵衛が預かることになった。なお元治元年(一八六四)九月二日、天狗党の乱に参加した菅谷村の大久保七郎左衛門の妻子は当村につながれた( ...
38. そんのうじょういうんどう【尊王攘夷運動】
国史大辞典
されている、といってよい。こうした尊攘運動の矛盾や限界は、元治元年(一八六四)三月の水戸の天狗党の乱にもみられるし、何よりも攘夷が現実的に不可能なことは、文久二 ...
39. 武田耕雲斎
世界大百科事典
政となる。64年(元治1)藤田小四郎らが筑波山に挙兵するや,筑波勢を助けてその首領となる(天狗党の乱)。戦略は功を奏せず,同志を率いて上京の途次,加賀藩に降伏, ...
40. たけだこううんさい【武田耕雲斎】
国史大辞典
元治元年(一八六四)正月、伊賀守に任じ、従五位下に叙せられた。同年三月、藤田小四郎らによる筑波山挙兵(天狗党の乱)が行われると、五月領内取締り不行届の故をもって ...
41. たまるいなのえもん【田丸稲之衛門】
国史大辞典
同年十二月二十日加賀藩に降伏。慶応元年(一八六五)二月四日越前国敦賀で斬罪に処せられた。六十一歳。→天狗党の乱(てんぐとうのらん) [参考文献]『水府系纂』三三 ...
42. だいとくむら【大徳村】茨城県:龍ケ崎市
日本歴史地名大系
合議定書(吉浜家文書)には上佐沼村とあり、独立村といえるほどに成長している。また幕末の水戸天狗党の乱には当村の名主武田氏が参加している。字宮前に旧村社鹿島神社、 ...
43. つくばさん‐じけん【筑波山事件】
デジタル大辞泉
上洛の途中諸藩の討伐軍に敗れ、越前で加賀藩に降伏。幹部の武田耕雲斎・藤田小四郎らは敦賀で処刑された。天狗党の乱。→天狗党  ...
44. つくばさん‐じけん【筑波山事件】
日本国語大辞典
一橋慶喜に訴えるため大挙上洛の途中、越前国で降伏し、武田、藤田ら三百数十名が敦賀で斬罪に処せられた。天狗党の乱。 ...
45. つくばさんのきょへい【筑波山の挙兵】
国史大辞典
天狗党の乱(てんぐとうのらん)  ...
46. つねいずみむら【常泉村】埼玉県:加須市地図
日本歴史地名大系
常陸水戸藩の藤田小四郎・田丸稲之右衛門らとともに、元治元年(一八六四)筑波山の攘夷討幕の挙兵(天狗党の乱)に参加、各地を転戦後に同年一〇月水戸郊外で斬首された。 ...
47. 敦賀[市]
世界大百科事典
はばまれ,降伏し,全員が処刑された(天狗党の乱)。藤井 譲治 気比の松原 敦賀発電所 角鹿 都怒我阿羅斯等 敦賀津 松原客館 道川(どうのかわ)氏 小宮山氏 天 ...
48. とうがさきむら【塔ヶ崎村】茨城県:鹿島郡/鉾田町
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代官が河岸出役として塔ヶ崎河岸まで出向き、先々川筋の村々へ輸送の保護を依頼するのが慣例であった。幕末の水戸天狗党の乱では幕府軍の補給基地とされ、当地より追討軍が ...
49. とくがわし【徳川氏】
国史大辞典
た。斉昭の長男慶篤は第十代藩主として、幕末期、将軍継嗣問題や日米修好通商条約調印問題、また天狗党の乱などで、最も困難な時期に遭遇した。水戸家は、三代綱条と四代宗 ...
50. とくがわなりあき【徳川斉昭】
国史大辞典
深める結果となり、その死後も斉昭を神格化するかつての擁立派の系統とその対立派との藩内抗争は、天狗党の乱から明治初年に至る大きな亀裂を生んだ。訓戒的な国政論『明訓 ...
「天狗党の乱」の情報だけではなく、「天狗党の乱」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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シャクシャインの戦い(世界大百科事典)
1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方
禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を
天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
生田万の乱(国史大辞典)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
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1940年(昭和15)9月27日、ベルリンで調印された日本、ドイツ、イタリアの間の軍事同盟。三国同盟締結交渉は、最初、1937年に結ばれた日独伊三国防共協定を強化しようという目的で、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の末期に始まったが、1939年
満州事変(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争。[君島和彦]▲前史満州、とくに南満州は、日本が日露戦争後に長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間の鉄道およびその付属の利権を獲得
乃木希典(日本大百科全書・世界大百科事典)
陸軍大将。嘉永(かえい)2年11月11日、長州藩士族乃木希次(まれつぐ)の三男として江戸藩邸に生まれる。萩(はぎ)(山口県萩市)の明倫館(めいりんかん)に学び、報国隊に属し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北を転戦。維新後、フランス式軍事教育を受け
サンフランシスコ講和条約(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
太平洋戦争開始以来の戦争状態を終結させるために、日本政府が英米をはじめとする四十八ヵ国と締結した講和条約。公式名は「日本国との平和条約」。「対日平和条約」とも呼ばれている。締結の相手国は、アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・ボリビア・ブラジル
盧溝橋事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)
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