下辱、当方にても諸所の届書並大塩の四ヶ国への捨文等、逐一に写し御座候(下略)」と記しているように大塩平八郎の義挙に強く影響を受けていた。しかし、生田を柏崎に招いた関係者は、陣屋と密接な町役人や船問屋などの上流の子弟であり、また滞留八ヵ月の短期間のため中流以下の領民をも糾合できなかった。四月から五月にかけて町中に投げられた捨文は乱後「生田の落し文」と称されたが、領内においてこのような形でしか訴えられなかったところにこの乱の限界がある。生田(館林浪人)と結びついたのは、同遇の尾張浪人鷲尾甚助(加茂住)、水戸浪人鈴木城之助(三条住)と、村役人層である出雲崎代官所源八新田の山岸嘉藤、新発田藩蒲原郡荻島村名主小沢佐右衛門、同大島村名主次男古田亀一郎らである。彼らは、五月晦日九ッごろ、柏崎から二里ばかり離れた与板藩荒浜村庄屋新兵衛、組頭庄三郎を襲って金品を強奪し、これを村民に分かち、柏崎に至らばさらに金品を与えると煽動し、「奉天命誅国賊」「集忠臣征暴虐」の二旗を掲げ、金兵衛・彦三郎ら八人の村民と船頭一名を促して柏崎に至った。折から陣屋は類焼後の修築のため外泊者が多く、一時は大混乱に陥り、死者三人、負傷七人を出し、長岡藩に救援を求めるなどの失態を演じた。乱側は鈴木が斬死、生田・山岸は自刃、古田・小沢は鉄砲に討たれ、旗持彦三郎は賊徒と誤られ斬り殺されたが、鷲尾甚助はたくみに遁走し、江戸寺社奉行に自首した。このように乱そのものは大したものではなかったが、一時的にせよ米商が小売米を値下げし、陣屋が飢人扶持米を放出した点に警世の意義を認めることができる。生田の妻鎬(こう)は、乱後縛についていたが、二日夜、二児を絞殺して自害した。「烈女不更二夫」の歌は名高い。この乱について、「越後柏崎で国学者生田万が門弟、村役人を率い陣屋を襲撃する」と記したり、「白河藩、大塩の乱の影響、八〇〇人、打こわし」と誤記する書があるが、(一)柏崎陣屋領支配の村役人層は柏崎陣屋の側に立ち、一人の乱関係者もいない。(二)生田万の同志はわずか六人である。(三)神道無念流の達人鷲尾甚助を中心とする人的構成が生田万の思想に共鳴したものである。(四)桑名藩時代の事件である。(五)大塩の影響を受けた浪人の義挙であって、厳密には百姓一揆や打ちこわしといえない限界があった。なお乱側六名のうち生田万・鷲尾甚助のほかは、史料によってたとえば小沢佐右衛門が、小野沢佐右衛門・小沢佐五衛門というように若干の異同があるが、ここでは一応藩記録によっておく。
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