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国史大辞典
生田万の乱
いくたよろずのらん
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。陣屋では毎年十一月二十二日・二十四日・二十六日の三夜、船問屋を集めて大入札を行い、この三札平均を向う一年間の蔵米放出値とした。したがって、毎月一日の小入札、御用商人の調達金に対する代米や市中の小売米価も蔵米値に左右されていた。また百姓の年貢米は定免法であったため、凶作時の「不足分」はこの蔵米値にもとづき「拝借金」という名目で元利ともに計算されるため、百姓も米の高騰に苦しむという矛盾をはらんでいた。飢饉が天保四年から七年に及ぶと蔵米入札は次第に騰貴し、十両につき、天保三年の三十四俵九分九厘から同四年十五俵六分、さらに七年には十二俵一分九厘と二倍以上に高騰した。その結果、凶作に見舞われた農民は多額の借金を負うことになり、入札制度に怨嗟の目を向け愁訴する動きが生じていた。生田万が柏崎に桜園塾を開いたのは、同七年九月で、このような天保の飢饉の最中であった。彼は翌八年四月の書簡に、「此節は四斗四升入にて一両二朱に御座候、五六里はなれし山方にては葛之根などを喰ひ、小児をば川へ流し申候、(中略)扨大塩平八郎の事御写し被

下辱、当方にても諸所の届書並大塩の四ヶ国への捨文等、逐一に写し御座候(下略)」と記しているように大塩平八郎の義挙に強く影響を受けていた。しかし、生田を柏崎に招いた関係者は、陣屋と密接な町役人や船問屋などの上流の子弟であり、また滞留八ヵ月の短期間のため中流以下の領民をも糾合できなかった。四月から五月にかけて町中に投げられた捨文は乱後「生田の落し文」と称されたが、領内においてこのような形でしか訴えられなかったところにこの乱の限界がある。生田(館林浪人)と結びついたのは、同遇の尾張浪人鷲尾甚助(加茂住)、水戸浪人鈴木城之助(三条住)と、村役人層である出雲崎代官所源八新田の山岸嘉藤、新発田藩蒲原郡荻島村名主小沢佐右衛門、同大島村名主次男古田亀一郎らである。彼らは、五月晦日九ッごろ、柏崎から二里ばかり離れた与板藩荒浜村庄屋新兵衛、組頭庄三郎を襲って金品を強奪し、これを村民に分かち、柏崎に至らばさらに金品を与えると煽動し、「奉天命誅国賊」「集忠臣征暴虐」の二旗を掲げ、金兵衛・彦三郎ら八人の村民と船頭一名を促して柏崎に至った。折から陣屋は類焼後の修築のため外泊者が多く、一時は大混乱に陥り、死者三人、負傷七人を出し、長岡藩に救援を求めるなどの失態を演じた。乱側は鈴木が斬死、生田・山岸は自刃、古田・小沢は鉄砲に討たれ、旗持彦三郎は賊徒と誤られ斬り殺されたが、鷲尾甚助はたくみに遁走し、江戸寺社奉行に自首した。このように乱そのものは大したものではなかったが、一時的にせよ米商が小売米を値下げし、陣屋が飢人扶持米を放出した点に警世の意義を認めることができる。生田の妻鎬
(こう)は、乱後縛についていたが、二日夜、二児を絞殺して自害した。「烈女不更二夫」の歌は名高い。この乱について、「越後柏崎で国学者生田万が門弟、村役人を率い陣屋を襲撃する」と記したり、「白河藩、大塩の乱の影響、八〇〇人、打こわし」と誤記する書があるが、(一)柏崎陣屋領支配の村役人層は柏崎陣屋の側に立ち、一人の乱関係者もいない。(二)生田万の同志はわずか六人である。(三)神道無念流の達人鷲尾甚助を中心とする人的構成が生田万の思想に共鳴したものである。(四)桑名藩時代の事件である。(五)大塩の影響を受けた浪人の義挙であって、厳密には百姓一揆や打ちこわしといえない限界があった。なお乱側六名のうち生田万・鷲尾甚助のほかは、史料によってたとえば小沢佐右衛門が、小野沢佐右衛門・小沢佐五衛門というように若干の異同があるが、ここでは一応藩記録によっておく。
[参考文献]
富士田成城『柏崎騒動一件』(『桑名藩記録』)、山田八十八郎編『刈羽郡旧蹟志』上、『柏崎騒動聞書』(『柏崎史料叢書』一〇)、『天保八年八月樋口出羽御用留』(同二四)、関甲子次郎「生田の旗風」(相馬御風編『義人生田万の生涯と詩歌』所収)、寺島錬二・福田啓作編『生田万・荒井静野』(『館林郷土叢書』二)、伊東多三郎『国学者の道』、新沢佳大『柏崎編年史』上、同「近世支領統治の一考察―生田万の乱の社会的構造―」(豊田武教授還暦記念会編『日本近世史の地方的展開』所収)
(新沢 佳大)
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日本大百科全書
生田万の乱
いくたよろずのらん
1837年(天保8)6月1日の明け方、平田篤胤(ひらたあつたね)の元塾頭生田万らが桑名(くわな)藩領柏崎(かしわざき)陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。万が柏崎に桜園塾を開いたのは、1836年9月で、天保(てんぽう)の飢饉(ききん)の最中であった。彼は1837年4月の書簡に「此節(このせつ)は四斗四升入にて一両二朱に御座候、五十六里はなれし山方(やまがた)にては葛(くず)之根などを喰(く)ひ、小児をば川へ流し申候、(中略)扨(さて)大塩平八郎の事御写し被下辱(くだされかたじけなく)、当方にても諸所の届書並(ならびに)大塩の四ヶ国への捨文等、逐一に写し御座候(下略)」と記しているように、飢饉の惨状を直視し、大塩の義挙に強く影響を受けていた。万と結び付いたのは、尾張(おわり)浪人鷲尾甚助(わしおじんすけ)、水戸(みと)浪人鈴木城之助と、村役人層の出雲崎(いずもざき)代官所支配の源八新田村山岸嘉藤(かとう)、新発田(しばた)藩蒲原(かんばら)郡荻島(おぎしま)村名主小沢佐右衛門、同大島村名主次男古田亀一郎らである。「奉天命誅国賊」「集忠臣征暴虚(墟)」の2旗を掲げ、与板(よいた)藩荒浜村の金兵衛、彦三郎ら8人の村民と船頭を促して柏崎に至った。おりから陣屋は類焼後の再建のため外泊者が多く、一時は大混乱に陥り、長岡藩に救援を求めるなどの失態を演じた。乱側は、鈴木が斬死(ざんし)、生田・山岸は自刃、古田・小沢は鉄砲に撃たれ、旗持ち彦三郎は賊徒と誤られ斬(き)り殺されたが、鷲尾甚助は江戸寺社奉行(ぶぎょう)に自首した。生田の妻鎬(こう)は、乱後縛についていたが、2日夜2児を絞殺して自害した。「烈女不更(まみえず)二夫」の歌がある。
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