「日本史」カテゴリの記事一覧
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山崎の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
1582年(天正10)6月、本能寺の変のあと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)で明智光秀を討った戦い。本能寺の変の起こったとき秀吉は、毛利輝元の部将清水宗治の備中高松城を水攻めにしていた。信長の死を知った秀吉は、それを秘して毛利氏と講和を結び、2日後には姫路城に戻って軍備を整え

本能寺の変(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利両軍の全面的対決を決意した信長は五月十七日、徳川家康の供応にあたっていた光秀にも出陣を命じた。すぐに光秀は本拠近江坂本城に帰り

応仁の乱(日本大百科全書(ニッポニカ))
1467年(応仁1)~1477年(文明9)の11年間にわたり、細川勝元と山名持豊(山名宗全)とをそれぞれの大将として、諸国の大・小名が東西両軍に分属し、京都を主戦場として戦った大乱。応仁・文明の乱ともいう。乱の原因 室町幕府は基本的には、守護領国制を基盤とする有力守護大名の連合政権的性格

川中島の戦い(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国時代に甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎(後の上杉謙信)とが、信州川中島で北信濃の領有をめぐり数度対戦した合戦の総称。合戦は1553年(天文22)から1564年(永禄7)の長期にわたって行われ、おもな対戦だけでも1553年、1555年(弘治1)、1557年、1561年(永禄4)、1564年の5回

文禄・慶長の役(国史大辞典)
文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけ、豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」と呼び、明では日本が侵入した明の辺寨(朝鮮)をおさえるという意味で、「万暦朝鮮の役」と呼ぶ

桶狭間の戦(国史大辞典)
永禄三年(一五六〇)五月十九日、織田信長が今川義元を尾張田楽狭間に奇襲し、敗死させた戦い。駿河・遠江の守護大名今川氏は門地・実力および領国の地理的条件から、上洛して将軍を補佐し、実権を握る条件に恵まれていた。義元はまず三河を掌中に収め、ついで領国に分国法を定め、北条氏康と

徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を

遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する

奈良時代(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良(奈良市)に都のあった710年(和銅3)から784年(延暦3)までの74年間をいう。天皇を中心とする政府がここにあったので、地名をとって時代の名称とした。奈良の都の公式の名称は平城京であるが、奈良(那羅、奈羅、乃楽、寧楽、楢などとも書く)とよばれる地にあったので

飛鳥時代(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
「飛鳥時代」は元来、日本美術史上の時代区分であるが、これを政治史上の時代区分として用いることも多い。一般には推古朝(593~628)前後から大化改新(645)までとするのが普通であるが、これをさらに天智朝(662~671)ごろまで下げて考える説も美術史家の間には行われており

古墳時代(国史大辞典)
弥生時代につづいた一時代について、その文化の代表的徴証である古墳の名を冠した時代区分の名称。古墳は三世紀終末あるいは四世紀の初頭に発達し、飛鳥時代はもとより奈良時代あるいは平安時代の一部にも存続したが、一応飛鳥時代などすでに確立されている時代区分と区別し

弥生時代(国史大辞典)
弥生時代は、一般的には、狩猟採集社会である縄文時代に次ぐ時代、つまり水稲農耕が始まり、金属器をもつようになってから、古墳を標識とする古墳時代に入るまでの間とされている。弥生時代は、前期・中期・後期、または第I~V期に区分されている。かつてこの前期・中期・後期という区分に

縄文時代(国史大辞典)
弥生時代以前の日本列島で土器が出現し使用された時代全体を縄文時代とする広義の見解と、その編年区分のうち最古の細隆線文土器・爪形文土器などが作られ使用された草創期は縄文土器文化以前の土器文化と考え、これを晩期旧石器時代・更新世最終末とする見解とがある。

潜伏キリシタン(国史大辞典)
江戸幕府がキリスト教禁止令を出した慶長十八年(一六一三)から信仰を表明して復活した慶応元年(一八六五)までの約二百五十年間にわたり禁圧・迫害のため潜伏を余儀なくされたキリスト教信徒。宣教師の国外追放後も日本に残留潜伏した一部パードレ、イルマン

宗像神(日本大百科全書(ニッポニカ))
記紀神話で、天照大神と素戔嗚尊との誓約の条に出現した3女神。湍津姫は中津宮(福岡県宗像市神湊の沖約7キロメートルの大島)、市杵嶋姫(狭依姫)は辺津宮(宗像市田島)に、田心姫(多紀理毘売、奥津島姫)は沖津宮(大島の沖約48キロメートルの沖島)にそれぞれ鎮座する。

日本二十六聖人(日本大百科全書(ニッポニカ))
1597年2月5日(慶長元年12月19日)に長崎で豊臣秀吉の命令によって処刑されたカトリックの司祭、修道士、信徒。秀吉は1587年(天正15)に宣教師の国外追放を命じたが、イエズス会員は秀吉の感情を害さぬように慎重に行動したので、事態は穏便に経過していた。

シャビエル(フランシスコ・ザビエル)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五〇六-五二。スペイン人イエズス会士。キリスト教(ローマ=カトリック)を日本に最初に伝えた。古記録には「しびえる」(寛永ころの日繰、祝日表)、「ジャヒエル」(『契利斯督(キリスト)記』)、「サベイリウス」(『西洋紀聞』)と表記され

イエズス会(世界大百科事典・国史大辞典・日本大百科全書・集英社世界文学大事典)
カトリック教会内の司祭修道会の一つ。16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された。耶蘇会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ

バテレン 【伴天連・破天連・頗姪連】(日本国語大辞典)
キリスト教が日本に伝来した当時の宣教師・神父に対する呼称。パーテレ。日本に伝来したキリスト教の俗称。また、その宗徒。バテレン宗。*俳諧・信徳十百韻〔1675〕「百姓等国の悪党数千人 伴天連吟味ありぬへら也」*放浪記〔1928〜29〕

キリシタン(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
戦国時代の末期から江戸時代における日本人キリスト教(カトリック)信者。キリシタン信仰、またはキリシタン宗門は同じくポルトガル語からキリシタンダアデと称された。フランシスコ・ザビエル以後、初期のキリスト教の布教はポルトガル国王の保護権下に行われ、教会用語は

沖ノ原遺跡(日本歴史地名大系)
[現]津南町赤沢 沖ノ原 中津川が信濃川に合流する左岸付近、比高一六〇メートルの断崖絶壁をなす相吉段丘の北端部にある。遺跡は標高四四二―四四六メートルに分布する。東に代官清水の自然湧水を控えた縄文中期の径一二〇メートルに及ぶ環状大集落跡。

縄文海進(世界大百科事典・日本大百科全書・岩波 生物学辞典)
関東平野では縄文時代の貝塚が台地周縁ぞいに,かなり内陸まで分布していることが注目されていて,そのような古海岸線を残した海進は縄文海進とよばれるようになった。ヨーロッパでも〈新石器時代汀線Neolithic beach〉とよばれる同じような海進がみられる。

口酒井遺跡(日本歴史地名大系)
[現]伊丹市口酒井 穴森ほか猪名川東岸の標高六―七メートルの自然堤防上に立地する遺跡。一〇ヘクタール以上の広がりをもち、一部は尼崎市に及ぶ。縄文時代晩期後半以降の各時代の遺構が重複している。昭和五三年(一九七八)に発見されて以降同六〇年までに一六次の発掘調査が行われた。

菜畑遺跡(日本大百科全書(ニッポニカ))
佐賀県唐津市菜畑字松円寺の衣干山の東麓に派生する丘陵の先端部に営まれた縄文晩期の水田を伴う集落跡。1980年唐津市教育委員会が都市計画道路建設の事前の発掘調査を行った。住居跡、水田跡、貝塚を主体とする遺跡でなかでも縄文晩期後半の水田、炭化米、農工具の発見により

金石併用時代(日本大百科全書(ニッポニカ))
利器の材料に金属が用いられてはいても、石製の利器がまだ併用されている時代をいう。ヨーロッパの考古学者は19世紀の末に、こうした時代を表す語としてeneolithic(ラテン語の銅・青銅aeneus+ギリシア語の新石器neo-lithos)――つまり銅・新石器時代――の語を用いたが、

板付遺跡(改訂新版・世界大百科事典)
福岡市博多区板付にある弥生時代の集落,墓地,水田などの総合遺跡。遺跡は御笠川左岸に近接した低段丘とその周囲の沖積地にある。1916年に弥生時代中期初頭甕棺墓数基から,細形銅剣,銅矛各3本が出土して,初めてこの遺跡が紹介され,51年の試掘以後,日本考古学協会の4次にわたる

帰化人(改訂新版・世界大百科事典)
古代に海外から渡来して日本に住みついた人々,およびその子孫。平安時代以降もたえず少数の来住者があり,また近代には外国人が日本の国籍を取得することを法律上やはり帰化といっているが,来住者の数が多く,しかもそれが社会・文化の発展のうえでとくに大きな意味をもったのは

三角縁神獣鏡(改訂新版・世界大百科事典)
神像と獣形とを組み合わせて内区の図文を構成する神獣鏡のうちで,鏡縁を厚く作ったために,縁の断面が三角形になっている鏡。ほとんどは直径23cm前後の大型鏡であって,同笵鏡が多いことも他の神獣鏡とは異なる。ほとんどは直径23cm前後の大型鏡であって

仿製鏡(改訂新版・世界大百科事典)
語意では模倣製作した鏡のことであるが,普通は中国鏡をその周辺地域において模倣製作した鏡をさす。この種の仿製鏡とされるものは,中央アジアやインドシナ,さらに朝鮮半島にもあるが,日本列島における製品が質量ともに顕著で,早くから研究対象となり,仿製鏡の名も

古墳文化(世界大百科事典・国史大辞典)
古墳時代は弥生時代に継続する時代である。弥生時代に始まった農耕生活は,比較的はやく,日本の大部分の地域にひろがっていったが,さらに鍬,鎌などの農具に鉄の刃先を使用するようになるまでには,若干の年月が経過した。やがて鉄器の普及などによって耕地の拡張がさかんになり