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本能寺の変

ジャパンナレッジで閲覧できる『本能寺の変』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
本能寺の変
ほんのうじのへん
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利両軍の全面的対決を決意した信長は五月十七日、徳川家康の供応にあたっていた光秀にも出陣を命じた。すぐに光秀は本拠近江坂本城に帰り二十六日坂本を発して居城丹波亀山に入り、二十七日愛宕山に参籠して二度、三度まで神籤(みくじ)をとり、翌日連歌師里村紹巴らと連歌を興行したという。同日亀山に帰城。信長は二十九日安土をたって上洛、本能寺に宿した。六月一日夜十時ごろ光秀は一万三千の軍を率いて出陣、信頼する老臣に本意を告げ老ノ坂を下って桂川を渡り、二日明け方に本能寺を囲んだ。信長は一日夜を茶会や囲碁ですごし深夜就寝したが、騒がしい物音で目覚め当初は下々の者の喧嘩と思っていたところ鉄砲の音ではじめて光秀の襲撃を知り、信長みずから弓をとり槍をもち森蘭丸ら近臣と防戦のすえ火中で自刃した。五月二十一日に上洛していた信長の長子信忠も一日深夜に本能寺から室町薬師寺町の妙覚寺の宿所に帰り、二日朝京都所司代村井貞勝の通報で襲撃を知り本能寺に入ろうとしたができず、勘解由小路室町にある皇太子誠仁親王の二条御所にこもり、親王父子を禁裏へ移し防戦のすえ自殺した。光秀は京都にいた信長の残党を捜索し、毛利・上杉氏など敵方に信長の死を通報して信長の部将を牽制させ、同時に信長の部将に誘降をすすめた。午後二時ごろに京都をたって近江に向かったが、瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼いたのでいったん坂本に行き、五日安土を占領、八日再び坂本に帰城。九日公家衆の出迎えをうけて京都に入り禁中・公家・五山・京都町衆らの人心掌握につとめた。しかし細川藤孝父子・筒井順慶・摂津の諸部将らは予期に反して呼応せず、しかも秀吉が毛利氏と講和して迅速に兵をかえし織田信孝・丹羽長秀と提携したので光秀の計画はまったく齟齬(そご)し十三日山崎の戦で敗走、土民に殺された。光秀謀反の原因には怨恨説・陰謀露顕説・保身説・政権奪取説・武士の面目説などあるが、いずれも唯一の原因とみなすべき論拠はなく、逆にこれらをすべて否定し去る確証もない。ただ確実なのは信長の主要部将のすべてが四周に出て敵軍と対しており、信長父子だけがほとんど無防備な状態で京都におり、光秀の軍勢だけが京都周辺にいたという絶好の機会に決行されたことである。正確で基本的な史料として日記・記録類に『言経卿記』『兼見卿記』『多聞院日記』『天王寺屋会記』『家忠日記』があるが、あまり詳しい記事はない。ほぼ同時記録である『蓮成院記録』はいくぶん詳しい。『多聞院日記』には英俊の感慨も記され当時の人心の動きが察せられる。『兼見卿記』の天正十年分は正月から六月十二日で終っているものと十二月まで完備しているものと二冊あるが、後者は書き直したものと思われる。事件の性格上、正確な臨場的な詳細な記録は無理であり、いくぶん正確さを欠くにしても戦記類その他によらざるをえない。太田牛一の池田家本『信長公記』には信長の自殺時までそばにいて様子を見て退去した女どもが物語ったとしている。二条御所については根拠をあげていない。信忠を介錯した鎌田新介(五左衛門)は逃亡しているので詳細を知りえたのであろうか。ルイス=フロイスの『イエズス会日本年報追加』も詳細であるが、信長の死後二条御所で戦った黒人奴隷は殺されず解放されているので、それによったのであろうか。討死衆も『金森家過去帳』、『洛陽阿弥陀寺過去帳』、清洲町後藤銑一蔵『過去帳』によって知られるが、人数・氏名に差異がある。場所も確定し難かったらしく『信長公記』の同じ自筆本でも建勲神社本(重要文化財)と池田家本(同)では違いがみられる。本来、機微に属してわかるはずのないことは風聞によったらしい。光秀に叛意を告げられた老臣名や数も建勲神社本では四名、池田家本では五名、『イエズス会日本年報追加』は四名、『当代記』は五名とし、老ノ坂から京都へ向かうとき、兵士に西国へ出陣の軍勢を信長の御覧に入れるためとの揚言は『蓮成院記録』『イエズス会日本年報追加』『当代記』などがとっている。愛宕山での連歌の光秀発句も建勲神社本では「ときは今あめが下知る五月哉」とし、池田家本は「下なる」として後の秀吉の糾明と紹巴の弁解話の存在をうかがわせている。『信長記』は謀反の原因を記していないが、『総見記』、『豊鑑』、『秀吉事記』、フロイス『日本史』などになると原因をとりあげ、末書の『武功夜話』『甲陽軍鑑』『細川家記』『老人雑話』『林鐘談』『明智軍記』『柏崎物語』『筒井家記』『続武者物語』『義残後覚』『落穂雑談一言集』など俗書になるほど推測たくましくとりあげている。『細川文書』の光秀自筆「覚」をはじめ文書には六月二日以後の光秀や織田諸将の動きを伝えるものはかなりある。→明智光秀(あけちみつひで),→山崎の戦(やまざきのたたかい)
[参考文献]
高柳光寿『本能寺の変・山崎の戦』、同『明智光秀』(『人物叢書』一)、桑田忠親『明智光秀』、岩沢愿彦「本能寺の変拾遺―『日々記』所収天正十年夏記について―」(『歴史地理』九一ノ四)、桑原三郎「本能寺の変の一起因―信長と光秀の勢力軋轢について―」(同七三ノ三)、小酒井儀三「本能寺の変に就いて」(『歴史と地理』五ノ五・六ノ一)
(小島 広次)


日本大百科全書
本能寺の変
ほんのうじのへん

1582年(天正10)6月2日、明智光秀(あけちみつひで)が京都本能寺に主君織田信長を襲って自殺させた事件。この年3月、甲斐(かい)(山梨県)の武田氏を滅ぼした信長は、帰国後、安土(あづち)など本拠地の経営を固めたり、徳川家康を招いたりした。そのあと、備中(びっちゅう)(岡山県)で毛利(もうり)氏と対陣している羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉を応援するため、6月1日、京都四条の本能寺に入った。このとき中国出陣を命ぜられた明智光秀は家臣と謀り、丹波(たんば)(京都府)亀山城を出ると兵を京都に向け、本能寺を囲んで信長を自殺させた。ついで光秀の兵は二条御所の織田信忠(のぶただ)を襲い、信忠も自殺した。このころ、信長の勧めにより堺(さかい)を見物していた徳川家康は本能寺の変を知るや、ただちに伊賀越(いがごえ)の間道をとって伊勢(いせ)路に抜け、三河(みかわ)(愛知県)へ逃げ帰った。しかし光秀も、中国陣より兵を返した秀吉と山崎(京都府大山崎町)に戦って敗走、小栗栖(おぐるす)で農民に刺殺された。
本能寺の変の原因については諸説あるが、さだかではない。その主要なものは光秀の遺恨説である。その一つは、稲葉一鉄(いってつ)の家人斎藤利三(としみつ)がゆえあって光秀に召し抱えられることとなり、のち一鉄が光秀に利三を戻してほしいと争論となり、それにつき光秀が信長から折檻(せっかん)を受けたこと。また、武田氏攻略の際、信州(長野県)上諏訪(かみすわ)で信長から折檻を受けたこと。さらに、安土城における家康饗応(きょうおう)の際、腐敗した魚を用いたとして信長から譴責(けんせき)を受けたなど、枚挙にいとまない。しかし、根本的な原因は、信長の部将掌握が不徹底であったという限界にあろう。宣教師ルイス・フロイスは、信長について、その富、権力、身分の強大さにより、大いなる慢心と狂気の沙汰(さた)に陥ったといい、本能寺の変について、瞬時にして信長は地獄に落とされ、悪魔に対する奉仕の報いを受けるに至ったと述べている。
[北島万次]



改訂新版・世界大百科事典
本能寺の変
ほんのうじのへん

1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は,とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ,みずから近臣を伴って5月29日上洛した。このとき将軍か太政大臣に任じようとする朝廷の意向に回答する予定であった。出陣を命ぜられた光秀は5月26日近江坂本城をたって丹波亀山に帰り,愛宕山に参籠して籤(くじ)を取り〈時は今あめが下しる五月哉〉という発句で連歌を興行したという。そして6月1日夜10時ごろ1万3000の軍を率いて出陣,信頼する老臣に本意を告げ,老ノ坂を下って桂川を渡り,2日黎明本能寺を囲んだ。信長は1日夜を茶会,囲碁で過ごし深夜就寝したが,鉄砲の音ではじめて光秀の襲撃を知り,森乱法師(蘭丸)等近臣と防戦のすえ火中で自殺した。父より早く上洛していた織田信忠も1日深夜本能寺から妙覚寺に帰り,2日朝村井貞勝等の通報で襲撃を知り,本能寺に入ろうとしたが及ばず,誠仁親王の二条御所にこもって防戦のすえ自殺した。光秀はその日午後京都をたって近江に向かったが,山岡景隆が瀬田橋を焼いたのでいったん坂本に行き,5日安土を占領,8日再び坂本城に帰った。しかし細川藤孝(幽斎)・忠興父子,筒井順慶,摂津の諸将等は予期に反して呼応せず,羽柴秀吉が毛利氏と講和して迅速に兵をかえし,織田信孝,丹羽長秀と提携したので光秀の計画はまったく齟齬(そご)した。

光秀謀反の原因には怨恨説,陰謀露顕説,保身説,政権奪取説,武士の面目説などが主張されている。しかしいずれも唯一の原因とみなすべき論拠を欠き,またこれらをすべて否定し去る確証もない。ただ確実なことは,信長の主たる部将はすべて四周に出て敵軍と対峙し,信長・信忠父子だけがほとんど無防備の状態で京都にあり,そして光秀の軍団だけが京都の周辺にあるという,信長打倒のための絶好の機会において決行されたことである。
[岩沢 愿彦]

[索引語]
明智光秀 織田信長 織田信忠
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