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明智光秀

ジャパンナレッジで閲覧できる『明智光秀』の国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
明智光秀
あけちみつひで
- 一五八二
安土桃山時代の武将。明智氏は美濃の名門土岐氏の庶流とされているが、光秀の出自や素性は詳らかでない。通称十兵衛。越前で朝倉義景に仕えたらしいが、永禄十一年(一五六八)七月足利義昭が朝倉氏のもとから織田信長を頼って美濃に赴いたとき、光秀は細川藤孝とその工作をしたらしく、以来光秀は義昭の家臣であるとともに信長にも仕えたとみられる。同年九月信長の初上洛に従い将軍義昭や公家側との交渉にあたり、翌十二年木下秀吉・丹羽長秀らと軍政に携わった。信長に政治的才幹を認められ、天正三年(一五七五)ごろまで京都の公家・寺社の所領の仕置や庶政にあたった。この間軍事面にも奔走し、元亀元年(一五七〇)信長の若狭・越前二国の討伐、近江の堅田攻撃、摂津の三好三人衆への攻撃などに従軍し、翌二年近江滋賀郡を与えられて同国坂本に築城を始めた。同三年近江滋賀郡の木戸・田中両城を攻め、河内の畠山氏の交野城を攻め、同年七月には浅井長政の籠る小谷城包囲に加わった。天正元年木戸・田中両城を与えられ、九月信長が朝倉氏を滅ぼして越前を併せると、滝川一益とともに越前の庶政に携わった。同二年大和の多聞山城を守り、東美濃に侵入した武田勝頼に備えて美濃に出陣し、転じて河内の三好氏および一向一揆と戦って高屋城を囲んだ。翌三年七月九州の旧族惟任(これとう)氏の名字を与えられ、日向守に任ぜられた。同八月信長の越前出陣に従って一向一揆と戦った。光秀の軍事面の活動は畿内から若越を主としたが、この年から信長が丹波の攻略に着手すると、光秀はその先鋒となり、十一月多紀郡八上城の波多野秀治とともに氷上郡黒井城の赤井忠家を攻めた。翌四年秀治が離反したため敗れていったん坂本に戻り、ついで信長の石山本願寺攻撃が開始されると、荒木村重・細川藤孝らとそれに従軍した。同五年、信長の紀州征伐に従って雑賀の一向一揆と対陣、ついで信長に叛いた松永久秀の信貴山城を攻めて久秀を滅ぼし、再び丹波に向かって内藤氏の亀山城を陥した。同六年三月八上城を囲み、ついで摂津に転戦し、毛利氏と戦うために播磨に出陣した羽柴秀吉を救援し、織田信忠に従って播磨神吉城を陥した。十一月、信長に叛いた荒木村重を摂津有岡城に攻めた。同七年二月丹波に出陣し、五月氷上城を攻め、六月八上城の波多野秀治を降して秀治を安土に送り、七月宇津城を陥し、波多野氏の党の丹後峯山城を陥し、一色義有を丹後弓木城に攻めてこれを降し、黒井城の赤井氏を降し、丹波攻略をほとんど完了し、その功によって丹波一国の支配を認められた。同八年四月備中の羽柴秀吉を援け、九月奈良に赴き滝川一益と大和国中の寺社・本所以下の領地指出を命じた。同九年八月、因幡鳥取城を攻めていた秀吉を救援し、細川藤孝とともに丹後の検地を行い、丹後でも所領を増した。同十年信長が武田勝頼を攻めるために三月安土城を出陣するとそれに従った。甲州攻撃から帰陣した光秀は、五月十四日、安土を訪れた徳川家康の接待役を信長から命じられた。ところが十七日に備中高松城を包囲していた秀吉から、毛利輝元の大軍が来攻したために救援を求めるの急報が安土に到着したため、信長はみずから中国に出馬することを決意し、光秀に急遽出陣を命じた。光秀は二十六日に本拠の坂本城を発して居城の丹波亀山城に入り、二十七日愛宕山に参詣し、二十八日同所西ノ坊で連歌師里村紹巴らと百韻を興行して亀山に帰った。「時は今あめが下しる五月哉」はこの百韻の発句で、光秀の謀叛の意図はこのときに決したとされている。六月一日の夜亥の刻、備中出陣を全軍に布告し、一万三千の兵を率いて亀山を発した光秀は、老ノ坂を越えると、急遽馬首を東に向けて桂川を渡り、二日未明洛中に入り、信長の宿所本能寺を急襲して信長を倒し、ついで二条御所に信忠を攻めて自刃せしめた。いわゆる本能寺の変である。同日午後ただちに坂本城に入り、五日安土城を接収し、秀吉の本拠長浜城を占領し、佐和山城を収めて近江・美濃二国をその支配下に置いた。八日坂本に帰り、九日に京に入り、禁中や寺社に金銀を献上し、京町民に地子を免除するなど人心の収攬に努めた。ついで秀吉が東上するとの報を得て鳥羽に出陣し、諸将の来属を誘ったが、親しい関係の細川藤孝・忠興父子や筒井順慶をはじめ組下の中川清秀・高山右近らの協力を得ることができず、秀吉に対しはるか劣勢の兵力で対することになった。十二日中川清秀に山崎の天王山を占拠され、十三日午後の戦闘で敗北し勝竜寺城に逃れ、再挙を図るべく同夜坂本へ戻る途中、小栗栖で土民に襲撃されて深傷を負い家老溝尾庄兵衛尉の介錯で自刃した。法名を秀岳宗光という。光秀が信長に叛いた理由として、八上城の波多野攻撃の際の処置の拙さを信長に咎められたこと、四国征伐の功を織田信孝や丹羽長秀に奪われたことなどで、信長に恨みを抱いていたところ、安土での徳川家康饗応の役をにわかに罷めさせられたため、その怒りが爆発したという怨恨説が古くから唱えられてきた。また秀吉と対立していたことや、かねてから天下を取る望みをもってその機会を狙っていたという説など、いろいろ臆測されているが、いずれもその確証がなく、光秀の叛逆の真意は今のところ不詳というほかない。光秀は教養もあり和歌・連歌を好み茶湯を嗜んだ。妻は妻木勘解由左衛門範煕の女といわれ、子女には明智秀満の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻となった三人の娘のほか、男子二、三人がいるが詳らかでない。→本能寺の変(ほんのうじのへん)
[参考文献]
『大日本史料』一一ノ一 天正十年六月十三日条、高柳光寿『明智光秀』(『人物叢書』一)、同『本能寺の変山崎の戦』
(原田 伴彦)


世界大百科事典
明智光秀
あけちみつひで
1528?-82(享禄1?-天正10)

安土桃山時代の武将。明智氏は美濃土岐の一族だが,光秀は初め越前の朝倉義景に仕え,そして足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し,ついで織田信長の家臣となり義昭の上洛に尽力,義昭と信長に両属して申次(もうしつぎ)を務め,京都の施政にも関与した。室町幕府滅亡後は信長に登用され征服戦に参加,1571年(元亀2)近江坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)日向守と称し,丹波の攻略に着手,79年八上城の波多野秀治らを下して平定し,80年亀山城主となり,ついで細川藤孝,筒井順慶,中川・高山諸氏を与力として付属され,京都の東西の要衝を掌握,美濃・近江・丹波の諸侍や幕府旧臣を中核とする家臣団を形成した。彼は故実・典礼に通じ,民政にすぐれ,茶湯・連歌を好む理性的で教養豊かな武将だったところに特色があり,1579年誠仁(さねひと)親王の二条御所移徙(いし),81年京都馬揃の奉行を務め,また1573年越前の支配を行い,80年大和の寺社本所領指出(さしだし)を,81年丹後の検地を実施する一方,精緻(せいち)な軍法を制定した。そして82年春甲州征伐に従軍,5月徳川家康・穴山梅雪の接待を命ぜられ,つづいて中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので亀山において軍容を整え,6月1日夜出発したが,翌2日黎明信長を京都本能寺に襲い,織田信忠を二条城に囲んで敗死させた(本能寺の変)。この行動は信長の虚を突いた絶妙の作戦であったが,予想外に早く反撃してきた羽柴(豊臣)秀吉に山城山崎の戦で敗れ,逃走の途中小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。彼が信長を弑逆(しいぎやく)した原因には,怨恨,前途に対する不安,政権欲,武士の面目維持などの諸点が指摘されているが,長い間機会をうかがったうえで決行したわけではなかった。法名は明窓玄智。妻は妻木範凞(のりひろ)の女。系図類では数子を数えるが,確認されるのは2男3女である。イエズス会士の記録によれば長子はヨーロッパの王侯に比するほど優美な貴公子だったという。女子では細川忠興(ただおき)の妻となったキリシタン女性ガラシャ(実名玉)が有名である。
[岩沢 愿彦]

伝承と作品化

光秀のイメージは,江戸時代の文学や芸能における一連の〈太閤記物〉を通じて形成される。その場合,実名を使用するのをはばかって,光秀は武智光秀の名で登場する。ちなみに織田信長を尾田春永,羽柴秀吉は真柴久吉といいかえられるのが約束であった。それら〈太閤記物〉のなかで光秀像を決定づけたのは,1799年(寛政11)初演の浄瑠璃《絵本太功記》であろう。この作品は歌舞伎では翌1800年に上演されている。ここでは,光秀の春永への諫言,それに対する報復として森蘭丸に鉄扇で光秀の額を傷つけさせる場面,光秀の四天王が謀反を勧めるくだり,光秀親子の別れなど,光秀を悲劇性の濃い主人公とする挿話がふんだんにもりこまれていた。春永を悪役とし,さらにそれに謀反を企てるもう一人の悪役を配することで,光秀のイメージは複雑な陰影を帯びることになった。このような光秀像は,のちの鶴屋南北の歌舞伎台本《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》(1808初演)において,いっそう鮮明になる。
[守屋 毅]

[索引語]
明智惟任(これとう)日向守 本能寺の変 細川ガラシャ 武智光秀 絵本太功記


新版 日本架空伝承人名事典

明智光秀
あけちみつひで
1528?‐82(享禄1?‐天正10)
 安土桃山時代の武将。明智氏は美濃土岐の一族だが、光秀は初め越前の朝倉義景に仕え、そして足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し、ついで織田信長の家臣となり義昭の上洛に尽力、義昭と信長に両属して申次もうしつぎを務め、京都の施政にも関与した。室町幕府滅亡後は信長に登用され征服戦に参加、一五七一年(元亀二)近江坂本城主となり、七五年(天正三)惟任これとう日向守と称し、丹波の攻略に着手、七九年八上城の波多野秀治らを下して平定し、八〇年亀山城主となり、ついで細川藤孝、筒井順慶、中川・高山諸氏を与力として付属され、京都の東西の要衝を掌握、美濃・近江・丹波の諸侍や幕府旧臣を中核とする家臣団を形成した。彼は故実・典礼に通じ、民政にすぐれ、茶湯・連歌を好む理性的で教養豊かな武将だったところに特色があり、一五七九年誠仁親王の二条御所移徙いし、八一年京都馬揃の奉行を務め、また一五七三年越前の支配を行い、八〇年大和の寺社本所領指出さしだしを、八一年丹後の検地を実施する一方、精緻せいちな軍法を制定した。そして八二年春甲州征討に従軍、五月徳川家康・穴山梅雪の接待を命ぜられ、つづいて中国征討を支援するため出陣を命ぜられたので亀山において軍容を整え、六月一日夜出発したが、翌二日黎明信長を京都本能寺に襲い、織田信忠を二条城に囲んで敗死させた(本能寺の変)。この行動は信長の虚を突いた絶妙の作戦であったが、予想外に早く反撃してきた羽柴(豊臣)秀吉に山城山崎の戦で敗れ、逃走の途中小栗栖おぐるすで土民に殺された。彼が信長を弑逆しいぎゃくした原因には、怨恨、前途に対する不安、政権欲、武士の面目維持などの諸点が指摘されているが、長い間機会をうかがったうえで決行したわけではなかった。法名は明窓玄智。妻は妻木〓のりひろの女。系図類では数子を数えるが、確認されるのは二男三女である。イエズス会士の記録によれば長子はヨーロッパの王侯に比するほど優美な貴公子だったという。女子では細川忠興の妻となったキリシタン女性ガラシャ(実名玉)が有名である。
[岩沢 愿彦]
伝承と作品化
 光秀のイメージは、江戸時代の文学や芸能における一連の「太閤記物」を通じて形成される。その場合、実名を使用するのをはばかって、光秀は武智光秀の名で登場する。ちなみに織田信長を尾田春永、羽柴秀吉は真柴久吉といいかえられるのが約束であった。それら「太閤記物」のなかで光秀像を決定づけたのは、一七九九年(寛政一一)初演の浄瑠璃『絵本太功記』であろう。この作品は歌舞伎では翌一八〇〇年に上演されている。ここでは、光秀の春永への諫言、それに対する報復として森蘭丸に鉄扇で光秀の額を傷つけさせる場面、四王天但馬守が謀反を勧めるくだり、光秀親子の別れなど、光秀を悲劇性の濃い主人公とする挿話がふんだんにもりこまれていた。春永を悪役とし、さらにそれに謀反を企てるもう一人の悪役を配することで、光秀のイメージは複雑な陰影を帯びることになった。このような光秀像は、のちの鶴屋南北の歌舞伎台本『時桔梗出世請状ときもききょうしゅっせのうけじょう』(一八〇八初演)において、いっそう鮮明になる。
[守屋 毅]
光秀天正七年六月修験者を遣して、丹波の守護波多野右衛門大夫秀治が許に、光秀が母を質に出し謀りければ、秀治其弟遠江守秀尚共に本目の城に来りけるを、酒宴してもてなし、兵を伏せ置て兄弟を始従者十一人を生虜安土に遣しけり。秀治は伏兵と散々に戦ひし時、傷をかうぶり途中にて死す。信長秀尚以下を安土にてはりつけにせられたり。丹波に残り居たる者共明智が母を磔にしたり。明智遂に赤井等を攻め従へ、丹波を信長より賜はりけり。又信長或時酒宴して、七盃入りの盃をもて光秀に強ひらるゝ。光秀思ひも寄らずと辞し申せば、信長脇指を抽き、此白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか、と怒られしかば、酒飲みてけり。其後稲葉伊予守家人を明智多くの禄を与へ呼び出せしを、稲葉求むれ共戻さず。信長戻せと下知せられしをも肯はず。信長怒つて明智が髪をつかみ引き伏せて責めらるゝ。光秀、国を賜り候へ共、身の為に致す事無く、士を養ふを第一とする由答へければ、信長怒り乍らて止みけり。東照宮御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜらる。種々饗礼の設しけるに、信長鷹野の時立寄り見て、肉の臭かりけるを、草鞋わらづにて踏み散らされけり。光秀又新に用意しける処に、備中へ出陣せよ、と下知せられしかば、光秀忍び兼ねてそむきしと言へり。然れば信長の暴なる固より論を待たず。光秀土地を略せん為に老母を質にして殺しぬる不孝を信長の賞せられたる。君臣共に悪逆の相合へる、終を令せざること理なり。
常山紀談巻之五「光秀反状の事」
天正十年五月二十八日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。
ときは今あめが下しる五月かな 光秀
水上まさる庭のなつ山     西坊
花おつる流れの末をせきとめて 紹巴

明智本姓土岐氏なれば、時と土岐と韻を通はして、天下を取るの意を含めり。秀吉既に光秀を討ちて後、連歌を聞き大に怒りて紹巴を呼び、天が下知るといふ時は天下を奪ふの心現はれたり。汝知らざるや、と責めらるゝ。紹巴、其発句は天が下なるにて候、と申す。然らば懐紙を見せよ、とて、愛宕山より取り来て見るに、天が下しると出たり。紹巴涙を流して、是を見給へ。懐紙を削りて天が下しると書換へたる迹分明なり、と申す。殊勝にも書き換ぬ、とて秀吉罪を許されけり。江村鶴松筆把りにて天が下しると書きたれども、光秀討たれて後紹巴密に西坊に心を合せ、削りて又始の如く天が下しると書きたりけり。
常山紀談巻之六「光秀愛宕山にて連歌の事」

春永 いかにも盃くれふ。その方へくれる盃は、アヽ何をがな○。
ヲヽ幸ひ〓〓、蘭丸、あれなる馬盥ばだらひ花活はないけ、これへ。
蘭丸 ハツ。
ト合方かわつて蘭丸、馬だらひに錦木の活たるを春永の前へ持行。春永、錦木をぬき捨、
春永 蘭丸、このうつわを光秀へ。
蘭丸 ハツ。
ト合点のゆかぬおも入れにて、光秀が前へ持行、直す。
春永 イザ光秀、盃くれるぞ。
ト光秀、思入有つて、
光秀 アノ、このうつわを拙者めへ、お盃とな。
トあつらへの合方。
春永 いかにも、その方にくれるには、相応のその馬だらひ。イザ、つげ。
光秀 ヤ。
春永 その方がのぞみの通り、馬にあたへる
その盃、鼻づらさし込舌打して、その盃をづつとほせ。
ト光秀、無念のおも入。
時桔梗出世請状三幕目「本能寺の場」
酒買た尻に賢女は髪を切
出典:『差柳狂句合小集』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):19
刊行/開き:1850年(嘉永3)(成立)
光秀が越前に浪居していたとき、来客があったが貧乏のためもてなすことができず、光秀の妻が髪を切ってこれを売り酒肴を調えたという俗説による句。「尻」は後始末の意。
光秀は不断うぬみろよ〓〓
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):礼‐3
刊行/開き:1765年(明和2)(開き)
光秀は扇子のりに箔を付
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):松‐1
刊行/開き:1764年(明和1)(開き)
第一句、「うぬ」はおのれの意で、主君信長をさす。信長は安土城で家康を饗応したおり、光秀を饗応司に任じたが、そのやりかたが華美に過ぎたとして光秀をしかり、小姓森蘭丸に命じて鉄扇で光秀を打擲させた。次句「扇子の形り」の眉間の傷に「箔」をつけたのは金箔が切傷に効能ありとされたゆえの句構。
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本能寺(日本歴史地名大系)
[現]中京区下本能寺前町寺町通に西面して総門を開く。法華宗(本門流)の大本山。卯木山と号し、本尊十界大曼荼羅。〈京都・山城寺院神社大事典〉〔開創〕応永二二年(一四一五)日隆が油小路高辻と五条坊門の間(現京都市下京区)に建立、当初本応寺と号した。日隆は妙本寺(現妙顕寺)第四世日霽に師事したが
明智光秀(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
安土桃山時代の武将。明智氏は美濃の名門土岐氏の庶流とされているが、光秀の出自や素性は詳らかでない。通称十兵衛。越前で朝倉義景に仕えたらしいが、永禄十一年(一五六八)七月足利義昭が朝倉氏のもとから織田信長を頼って美濃に赴いたとき、光秀は細川藤孝とその工作をしたらしく


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