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  11. 真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

ジャパンナレッジで閲覧できる『真田幸村(真田信繁)』の国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
真田幸村
さなだゆきむら
一五六七 - 一六一五
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男として生まれる。母は菊亭(今出川)晴季の娘。兄は信之。天正十三年(一五八五)上田城が徳川家康の軍に攻撃されたとき、父や兄とともにこれを迎撃して敗退させた。その後、父昌幸が上杉氏と結んだため一時景勝のもとに預けられたが、同十五年昌幸が豊臣秀吉へ帰属するに及び秀吉の近侍となり、大谷吉継の娘を妻とした。十八年の小田原征伐では父や兄とともに出陣、中山道の先鋒として功をあげ、文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵時には名護屋まで出陣した。同三年に従五位下左衛門佐に叙任。慶長五年(一六〇〇)六月、徳川家康が上洛催促に応じない上杉景勝を討伐するため会津へ兵を動かした時、幸村は父や兄とともに従軍、七月二十七日下野国犬伏まで来たところ、上方で石田三成が兵をあげたとの情報を得た。兄の信之は、その妻が本多忠勝の娘である関係もあって徳川方に属したが、幸村は豊臣氏の旧恩に報じるため父昌幸とともに西軍に与して居城の上田城に拠り、中山道から西上する家康の子秀忠の率いる大軍を遮り、大いに戦功をあげた。このため秀忠は、九月八日にようやく木曾路を西上したが、関ヶ原の戦には参陣できなかった。結局、西軍が大敗したため、家康によって所領は没収され、昌幸・幸村とも生命が危うくなったが、東軍に属した信之の嘆願によって死を免れ、紀伊国高野山の麓九度山に蟄居することになった。同十九年大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて、幸村は十月九日手勢を率いて九度山を発ち大坂入城、同年の冬の陣では大坂城南天王寺口外堀の外に城塁を築き(世にこれを真田丸と称する)、これに拠って徳川方の軍を大いに悩ませた。翌元和元年(一六一五)夏の陣がおこると、幸村は大坂方の中心人物の一人として活躍したが、先に冬の陣の講和に際して総構を破壊され、三ノ丸まで埋められたことから、籠城は不可能だとして、城外に徳川軍を迎撃することにした。そして五月六日、後藤基次・薄田兼相らとともに大和口を防ごうとして、河内国片山道明寺へ赴いたが、基次らが敗死したので、手兵三百を率いて殿軍をつとめ、伊達政宗の大軍と戦い、これを破った。翌七日、幸村は長宗我部盛親とともに茶臼山に向かい、天王寺付近で松平忠直の軍と戦い、一時は徳川方の本陣に迫って家康を危機に陥れたが、衆寡敵せず、ついに忠直の家臣西尾仁左衛門の手にかかって戦死した。時に四十九歳。追号は大光院殿月山伝心大居士。葬地は不明。なお、世に幸村は生きのびて秀頼を奉じ、薩摩に遁れて島津氏を頼ったとの説もあるが、信じることはできない。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ一九 元和元年五月七日条、『左衛門佐君伝記稿』(『(新編)信濃史料叢書』一八)、藤沢直枝『真田幸村』(『信濃郷土叢書』五)、藤直幹・原田伴彦編『(歴史家のみた)講談の主人公』(『三一新書』八〇)、達子勝蔵『真田幸村と一心院』、小林計一郎『真田幸村』、山本強哉「大坂陣と真田幸村」(史学地理学同攷会『歴史と地理』四ノ二・三)
(笹本 正治)


真田幸村花押
サナダユキムラカオウ
真田幸村花押

 ©Yoshikawa kobunkan Inc.


日本大百科全書(ニッポニカ)
真田幸村
さなだゆきむら
[1567―1615]

安土(あづち)桃山時代の武将。本名信繁(のぶしげ)。昌幸(まさゆき)の次男。1586年(天正14)豊臣(とよとみ)秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従(じゅ)五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任した。妻は秀吉の奉行(ぶぎょう)大谷吉継(おおたによしつぐ)の女(むすめ)。のち父昌幸、兄信之(のぶゆき)とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには父とともに西軍に属して信濃(しなの)(長野県)上田城を死守、戦後高野山(こうやさん)に流された。34歳から48歳までの14年間配所で浪人生活を送った。その間昌幸は病死したが、幸村は1614年(慶長19)豊臣秀頼(ひでより)に招かれて大坂に入城した。同年の大坂冬の陣には、城の南東の隅に真田丸という出丸を設けてここを守り、東軍を悩ました。徳川家康から招降されたが応ぜず、12月20日和議が成立。和睦期間中に国元(くにもと)へ送った手紙には、決死の覚悟が淡々と述べられている。翌年の夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いに退却の殿(しんがり)を務め、翌7日の決戦には茶臼山(ちゃうすやま)に陣し、家康の本陣へ突撃して家康を危機に陥れ、ついに戦死したが、その奮戦ぶりは東軍からも「真田日本一の兵」と称賛された。口数の少ない温和な小男であったが、戦闘指揮官としての能力は卓越していた。死後その名声はますます上がり、江戸中期にできた『真田三代記』では大坂城の大軍師ともてはやされ、大正初年には「立川文庫」による真田十勇士の活躍でいっそう有名になった。もちろん史実からは遠い。なお「幸村」の名も確実な史料にはない。
[小林計一郎]

©Shogakukan Inc.


新版 日本架空伝承人名事典
真田幸村
さなだゆきむら
1567‐1615(永禄10‐元和1)
 江戸初期の武将。死後に名声が高まった人物である。真田昌幸の次男で、名は信繁。信頼のおける史料では、幸村と称していない。兄は智将として知られた信之。一五八五年(天正一三)父の策で上杉景勝の人質となり、のち豊臣秀吉の幕下に加わり、その仲介で大谷吉継の娘を妻とした。一六〇〇年(慶長五)の関ヶ原の戦では父とともに西軍に加わり、中山道を西上する徳川秀忠を信濃上田城で阻止した。関ヶ原の戦後、東軍に属した兄信之の助命で、父とともに高野山麓の九度山に追放された。一一年に昌幸が九度山の真田屋敷で死去し、多くの家来も国元の信州上田に引き揚げ、幸村のもとには高梨内記・青柳清庵ら少数の家来のみが残ったという。その暮らしは国元の兄信之や一族縁者からの仕送りに支えられており、厳しいものであったと想像される。一四年の大坂冬の陣では豊臣秀頼に与力して大坂城に入った。長曾我部元親・毛利勝永とともに三人衆と呼ばれたが、発言権は弱かったという。籠城戦の冬の陣では、大坂城外堀の天王寺口に出城の「真田丸」を築き、寄せ手の徳川軍を悩ませたが、一五年に徳川家康の策により堀を埋められ、この年の夏の陣では二度までも家康の本陣に迫りながら、華々しい戦死を遂げている。なお、「真田十勇士」の物語は、「立川文庫」による創作である。
 大坂の陣で戦死したはずの幸村が生きているという生存説は、早くからあった。戦死したのは幸村の影武者の穴山小助で、幸村は実際は生きているとか、大坂落城の際に密かに抜け出した秀頼に従って薩摩(鹿児島県)へ落ち延びたとかいうものである。「花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて のきものいたり鹿児島へ」。これは、大坂落城直後に関西ではやったわらべ唄だが、民衆の夢、判官びいきの表れであったといえよう。
真田十勇士
[田辺 貞夫]
幸村ハ生る気でない紋どころ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):9‐21
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
影武者を銭の数程出して見せ
編者/評者:柳水(編)
出典:『やない筥』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):4‐9
刊行/開き:1783~86年(天明3~6)(刊)
六文は敵六もんは御味方
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):35‐5
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
半分ハのこす智略の十二文
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):45‐33
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
かうやから六道せんをとりよせる
編者/評者:初世川柳(評)
出典:『川柳評万句合勝句刷』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):信‐5
刊行/開き:1778(安永7年)(開き)
九十ぬけても馬鹿でなひ軍師也
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):52‐20
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一句、真田氏の紋所、六連銭に棺に入れる六道銭(六文)を通わせ、死闘の武将をたたえる。第二句、幸村の旗本、三浦新兵衛・林源治郎・山田舎人・木村助五郎・伊藤団右衛門・いかるが幸右衛門の六人が、六連銭の旗差物を掲げ、影武者となって戦ったという伝説。第三・四句、真田信之・幸村兄弟は、徳川家康の東軍と石田三成の西軍に別れて戦った。「御味方」の「御」は幕政下ゆえ、建前上東軍を尊重。第五句、関ヶ原の戦で西軍敗北後、幸村は高野山麓の九度山にひそんだが、冬の陣で大坂入城、「取り寄せる」は招聘をいう。第六句、九六銭くろくぜに、すなわち九六文をさしに通し一〇〇文として通用させる商習慣で、江戸期には広く行われた(省百せいひゃく)とも。九〇文抜けば六文(真田紋)残る。「馬鹿」というのも銭を量る金属製の道具で、一〇〇文ちょうどが一度に勘定できるための名称。目串めぐしともいう。「馬鹿」では一〇〇文になってしまう。
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1. 真田幸村
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。本名信繁(のぶしげ)。昌幸(まさゆき)の次男。1586年(天正14)豊臣(とよとみ)秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で ...
2. 真田幸村
世界大百科事典
1567-1615(永禄10-元和1) 安土桃山時代の武将。名は信繁。信頼のおける史料では幸村と称していない。昌幸の次男。一時上杉景勝に属したが,まもなく豊臣秀 ...
3. さなだ‐ゆきむら【真田幸村】
デジタル大辞泉
[1567〜1615]安土桃山時代の武将。信濃の人。昌幸の次男。本名は信繁。関ヶ原の戦いで西軍に属し、父とともに徳川秀忠の西上を阻止。西軍敗北後、東軍に与した兄 ...
4. さなだ‐ゆきむら【真田幸村】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。信濃国上田城主真田昌幸(まさゆき)の二男。左衛門佐信繁と称した。幸村と称した良質の史料はない。関ケ原の戦いでは西軍に属し、父とともに徳川秀忠 ...
5. さなだゆきむら【真田幸村】
国史大辞典
一八)、藤沢直枝『真田幸村』(『信濃郷土叢書』五)、藤直幹・原田伴彦編『(歴史家のみた)講談の主人公』(『三一新書』八〇)、達子勝蔵『真田幸村と一心院』、小林計 ...
6. さなだ-ゆきむら【真田幸村】
日本人名大辞典
1567−1615 織豊-江戸時代前期の武将。永禄(えいろく)10年生まれ。真田昌幸(まさゆき)の次男。関ケ原の戦いに際しては西軍に属し,父とともに居城の信濃( ...
7. 真田幸村
デジタル大辞泉プラス
海音寺潮五郎の長編歴史小説。1983年刊行。 2013年05月 ...
8. さなだゆきむら【真田幸村】
日本架空伝承人名事典
江戸初期の武将。死後に名声が高まった人物である。真田昌幸の次男で、名は信繁。信頼のおける史料では、幸村と称していない。兄は智将として知られた信之。一五八五年(天 ...
9. 真田幸村[文献目録]
日本人物文献目録
【図書】:8件 【逐次刊行物】:4件 『真田幸村』竹香生『大阪城の七将星』福本日南『真田幸村』藤沢直枝『名将真田幸村』小林鶯里『歴史家のみた講談の主人公』岡本良 ...
10. Sanada Yukimura 【真田幸村】
Encyclopedia of Japan
1567−1615 More properly Sanada Nobushige. Warrior of the Azuchi-Momoyama (1568−1 ...
11. 真田幸村花押[図版]
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
12. さなだ-ゆきむらの-つま【真田幸村妻】
日本人名大辞典
⇒真田安岐(さなだ-あぎ) ...
13. あか‐くらげ【赤水母】
日本国語大辞典
かさの縁には四〇〜五六本の長い糸状の触手がある。触手には劇毒をもった刺細胞があり、これで獲物を麻痺させる。昔、真田幸村が、この刺毒を用いて徳川勢を悩ませたという ...
14. あかし-かもん【明石掃部】
日本人名大辞典
関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(ちくぜん)(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村(さなだ-ゆきむら)らと活躍したが,慶長20年( ...
15. あなっ‐ぱいり[:ぱひり]【穴這入】
日本国語大辞典
ん何処へ穴(アナ)っぺいりをしておいでだえ、もしちょっとお寄りナ」*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕序幕「大方今頃はどこぞへ立寄り、穴(アナ)っ這 ...
16. あなやま-こすけ【穴山小助】
日本人名大辞典
立川文庫「真田幸村」の登場人物。真田十勇士のひとり。父はもと武田家の家臣。真田幸村につかえ,幸村の影武者として活躍。大坂夏の陣で幸村の身代わりとして徳川家康の本 ...
17. あべの【阿倍野】
国史大辞典
顕家戦没地は和泉石津(堺市)である。大坂冬の陣に徳川家康は安倍野に本営を置いて大坂城を攻めたが、真田幸村がこれを防ぎ、家康を悩ました。阿倍野地域は明治十二年大阪 ...
18. いとぐん【伊都郡】
国史大辞典
中世には荘園領主として、また近世には二万一千石の寺領の支配者として大きな存在であった。山麓の九度山は真田幸村の幽居の地であり、また隅田荘は中世武士団として活躍し ...
19. 浮世物語(仮名草子集) 188ページ
日本古典文学全集
ないか」と聞いたので、売主は答えて、「もちろん力も強く、しかも丈夫な牛です。大坂の役でいえば真田幸村のようなものだと思ってください」と言った。「それなら」と言っ ...
20. 浮世物語(仮名草子集) 189ページ
日本古典文学全集
買主は、「何の役にも立たない牛だ。さてさて憎いでたらめを言って人に買わせたものだ。大坂の役では真田幸村だと言ったから、さぞかし強い牛だろうと思っていたのに、犂は ...
21. うわぶむら【上穂村】長野県:駒ヶ根市
日本歴史地名大系
またその末は不詳であるが、中世末にはこの地の地侍は結集して上穂衆と称した。大坂夏の陣(一六一五)に主将真田幸村とともに戦死した上穂十一騎の墓が村の西の光前寺境内 ...
22. うんの-ろくろう【海野六郎】
日本人名大辞典
立川文庫「真田幸村」の登場人物。真田十勇士のひとり。真田幸村につかえ,上田籠城戦や大坂の陣で活躍。「真田三代記」の海野六郎兵衛がモデルとされる。 ...
23. 大坂軍記物
世界大百科事典
材を得た作品群。ただし江戸期にはそれを直接劇化することは許されていなかったので,その多くは,真田幸村,木村重成,後藤又兵衛らの活躍を,鎌倉時代の義経奥州落ちや近 ...
24. 大坂の陣
日本大百科全書
求めたが、大名たちは徳川氏の勢威を恐れ、ただの1人もこれに応ずる者はいなかった。大坂方が頼むのは真田幸村(さなだゆきむら)、長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか) ...
25. 大坂RONIN 5(ローニンファイブ)
デジタル大辞泉プラス
中心に活動するローカルヒーロー。2014年登場。大坂冬の陣(1614年)、大坂夏の陣(1615年)で活躍した真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、後藤又兵衛、明石掃 ...
26. おがさわらひでまさ【小笠原秀政】
国史大辞典
元和元年(一六一五)大坂夏の陣には、子の忠脩(ただなか)・忠真とともに出陣し、五月七日天王寺口安倍野で真田幸村らの軍と激闘し、敵の首級四十七をあげたが、忠脩は戦 ...
27. おとこ の 子(こ)は=父(ちち)[=男(おとこ)]に付(つ)く
日本国語大辞典
につくるは鎌倉の時奴婢所主の男女をしか定められしよりの事なるべし」*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕三幕「さあ御離縁になる上からは、譬にもいふ男( ...
28. かい‐ぼり【掻掘】
日本国語大辞典
・上「モウ水際へ近づいたから、そろそろかいぼりのはじまりはじまり」*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕序幕「所の者は途方に暮れて、羽根をもがれた山鳩 ...
29. かけい-じゅうぞう【筧十蔵】
日本人名大辞典
立川文庫「真田幸村」の登場人物。真田十勇士のひとりで,鉄砲の名手。もと筒井順慶の臣筧孫兵衛の子ともいわれる。真田幸村の影武者をつとめる。上田城籠城戦で活躍,大坂 ...
30. 影武者
日本大百科全書
実は信玄の弟逍遙軒信廉(しょうようけんのぶかど)であったといわれる。また、大坂夏の陣で、豊臣(とよとみ)方の真田幸村(さなだゆきむら)は、穴山小助、根津甚八(じ ...
31. かぜ‐なみ【風並】
日本国語大辞典
〔名〕「かざなみ(風並)」に同じ。*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕三幕「此土肥の彌五郎などは風竝(カゼナミ)のよい鎌倉へ疾(とう)より随身なした ...
32. 甲冑婚[新語流行語]
イミダス 2016
(かっちゅう)姿を披露する結婚式のこと。NHK大河ドラマ「天地人」で取り上げられた直江兼続や真田幸村、上杉謙信などをモチーフにしたモデルの甲冑が特に人気が高い。 ...
33. 甲子夜話三篇 1 189ページ
東洋文庫
義経が首は、酒に漬して遠境おくりたるゆゑ、面相違ふぺけれど、明智は目前のこと也。されども諸書明白なる真田幸村も、実は討死はせず存在せしこと、既に其実事を云如くな ...
34. 甲子夜話三篇 6 177ページ
東洋文庫
連も勝利あるべき事にあらねば、諌止めんには我一命をおしむに似たれば、黙して従ふべしと申せし。又、神祖より真田幸村を御招ありし時、此度大坂の企千に一つも勝利あるべ ...
35. 活歴
日本大百科全書
2世守田勘弥(かんや)らの支持を受け、学者たちも同調して脚本や風俗の考証を分担、黙阿弥作の『真田幸村(さなだゆきむら)』『酒井の太鼓』『児島高徳(こじまたかのり ...
36. かつれきもの【活歴物】
国史大辞典
ある。そのはじめは明治二年(一八六九)八月の河竹黙阿弥作『地震加藤(桃山譚)』で、同四年の『真田幸村(出来龝月花雪聚)』、同七年の『楠正成(新舞台巌楠)』あたり ...
37. 鎌倉三代記
日本大百科全書
)、北条時政(ときまさ)が徳川家康、時姫が千姫、三浦之助が木村重成(しげなり)、佐々木高綱が真田幸村(さなだゆきむら)を暗示する。半二作『近江源氏先陣館(おうみ ...
38. かみがた‐にわか[:にはか]【上方俄】
日本国語大辞典
し、諸地方へ流布した即興的な喜劇のこと。大阪俄(おおさかにわか)。*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕三幕「『人に骨を折らして置いて、斧只取らう(斧 ...
39. かわちのくに【河内国】大阪府地図
日本歴史地名大系
)で、後藤基次は道明寺付近で戦死し、翌日、大坂城をめざして押寄せた関東の大軍と決戦が行われ、真田幸村らが天王寺口で戦死し、大坂城が落城した。この野戦で河内の農村 ...
40. きっ‐そう[:サウ]【吃相・血相】
日本国語大辞典
四幕「コレ、血相して駈け出すのは、あの与三郎が跡を慕って行くのか」*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕序幕「こりゃ小藤次、きっさうして何れへ参る」( ...
41. 霧隠才蔵
日本大百科全書
は、伊賀流忍術の百地三太夫(ももちさんだゆう)に忍術を学び、その極意を受けた忍術名人となる。真田幸村(ゆきむら)の家来となってからは、甲賀流忍術使いの猿飛佐助( ...
42. きりがくれ-さいぞう【霧隠才蔵】
日本人名大辞典
り。浅井長政の家臣霧隠弾正左衛門の遺児。百地(ももち)三太夫から伊賀流忍術の極意をさずかり,真田幸村(ゆきむら)につかえ,兄弟分の猿飛佐助と大坂の陣で活躍した。 ...
43. きり‐やぶり【切破】
日本国語大辞典
、一面に棕櫚(しゅろ)伏せの土手、上の方切破(キリヤブ)りの藪畳」*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕四幕大詰「下の方誂へ下げて銀張り清水の流れゐる ...
44. くだどんむら【管鈍村】鹿児島県:大島郡/瀬戸内町
日本歴史地名大系
うち享保内検後の開地は一石余。「大島与人役順続記」には九番組として喜美演・喜百桃らがみえる。地内に真田幸村の子の大助の子孫の墓と伝えるブトン墓がある。 ...
45. 九度山(町)
日本大百科全書
木材集散地で、ミカン栽培のほか富有(ふゆう)ガキを特産する。高野山町石道玉川峡県立自然公園や真田幸村(さなだゆきむら)隠棲(いんせい)の地真田庵(あん)が知られ ...
46. くど‐やま【九度山】
日本国語大辞典
和歌山県北東部、紀ノ川中流域の地名。江戸時代は高野山寺領の商業中心地で、紀ノ川舟運を通じての高野山の外港。真田幸村が隠棲した真田庵がある。カキ、ミカンの産地。 ...
47. くりやま‐おけ[:をけ]【栗山桶】
日本国語大辞典
つり下げて手水(ちょうず)鉢として、また、湯桶として使う。栃木県日光の名物。*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕大詰「栗山桶(クリヤマヲケ)の水を柄 ...
48. けんしょういん【顕性院】
日本人名大辞典
?−1635 江戸時代前期,岩城宣隆(いわき-のぶたか)の正室。真田幸村の娘といわれる。大坂城落城のとき捕らわれ,3年間江戸城大奥につかえる。京都二条城の奥女中 ...
49. 凍り豆腐
日本大百科全書
が創始したといわれ、これが高野豆腐の名の由来となっている。また、武田信玄(しんげん)あるいは真田幸村(さなだゆきむら)が兵の携行食糧として考案したとの説、幸村が ...
50. こし‐だめ【腰撓】
日本国語大辞典
〔名〕(1)鉄砲を腰にあてがった状態。また、その姿勢から大体の見当で撃つこと。*歌舞伎・出来龝月花雪聚(真田幸村)〔1871〕三幕「火縄の付きし鉄砲を持ち出で、 ...
「真田幸村(真田信繁)」の情報だけではなく、「真田幸村(真田信繁)」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。
長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。
毛利勝永(日本人名大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。毛利勝信の子。関ケ原の戦いで西軍に属し,敗れて父とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられる。慶長19年子の勝家と脱走して大坂城にはいり
後藤基次(後藤又兵衛)(改訂新版・世界大百科事典)
織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。
豊臣秀頼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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