江戸幕府将軍家の姓。三河国 (みかわのくに)(愛知県東部)の戦国大名であった松平家康 (まつだいらいえやす)は、1566年(永禄9)暮れに松平姓を徳川と改姓した。このころ家康は三河一国をほぼ手中に収めており、この地盤を固め、家臣団の統制をしていくうえで自己の権威づけも必要であった。そこで朝廷に改姓の勅許を得、さらに従五位下 (じゅごいげ)三河守 (みかわのかみ)の叙任を受けて権威づけを行った。勅許を得て家康個人が徳川を称したため、しばらくのあいだ徳川を名のるのは家康1人であった点において、一族、家臣団統制にも有効であった。
改姓の根拠
家康の先祖は伝承によると親氏 (ちかうじ)という人物であった。親氏の先祖は新田義重 (にったよししげ)の末子義季 (よしすえ)で、義季は上野国 (こうずけのくに)新田 (にった)郡世良田荘 (せらたのしょう)徳川郷(群馬県太田市尾島町 (おじまちょう))に住んで徳川(または得川)を称したという。子孫の親氏は父有親 (ありちか)とともに諸国を流浪し、のち三河松平郷(愛知県豊田 (とよた)市)に住んで松平を称したといわれるので、松平氏初代の先祖の苗字 (みょうじ)を採用したことになるが、松平氏の祖先が新田氏であるか否かは明確でない。ともかく名族新田氏の分流、すなわち源氏であることを宣言したことによって、いっそうの権威づけがなされたとみられる。
徳川氏
江戸幕府の開府と家康は、豊臣秀吉 (とよとみひでよし)の死後、諸大名の対立を原因にして起こった1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに勝利を収め、天下統一者となる。ついで1603年将軍宣下を受けて幕府を開き、さらに1605年には子の秀忠 (ひでただ)に将軍職を譲って、将軍職を徳川氏が世襲する体制を固めた。その当時、徳川氏を称する者は家康と秀忠、それに家康の末の男子3人に限られ、他の親族は松平氏を称していたし、また武士は徳川氏を名のることは遠慮し、農民・町人は原則として苗字を使用できなかったため、徳川の苗字は絶対的権威をもつことになった。
御三家の成立
徳川将軍家に跡継ぎを欠く状態になった場合、相続争いが生ずる可能性もあるところから、あらかじめ将軍家一族のうちで将軍の後継者となれる家柄を決めておくのが安全であった。その家は徳川姓を名のらせ、他の大名とは違って将軍家との血縁関係を明確にしておく必要があった。そこで成立したのが御三家 (ごさんけ)である。その祖はいずれも家康の子で、1600年から1603年に生まれた義直 (よしなお)、頼宣 (よりのぶ)、頼房 (よりふさ)である。義直は1607年に尾張国 (おわりのくに)(愛知県西部)を与えられ、のち名古屋城に住して61万9500石を領し、東海道を抑える雄藩となり、尾張家とよばれる。頼宣は1609年駿河 (するが)・遠江国 (とおとうみのくに)(静岡県)で50万石を領するに至り、1619年(元和5)紀伊和歌山55万5000石に移され、幕府の西日本における一大拠点たる大坂を援護する位置にあった。一般に紀州家とよばれる。そして頼房は1609年常陸 (ひたち)(茨城県)水戸 (みと)25万石に封ぜられて江戸北方の備えとなり、水戸家とよばれる。頼房はのち28万石に加増されるが、35万石になるのは3代目綱条 (つなえだ)の1701年(元禄14)である。この御三家は官位も将軍家に次いで高く、尾張・紀州家が従二位権大納言 (ごんだいなごん)、水戸家が従三位権中納言を極位極官とした。のち御三家より将軍となったのは8代吉宗 (よしむね)と14代家茂 (いえもち)(ともに紀州家)である。
将軍家光子弟の徳川姓大名
家康の子3人が徳川姓を称したのに続いて、2代将軍秀忠、3代将軍家光 (いえみつ)の子も嫡子以外は分家して徳川姓の大名となった。秀忠三男忠長 (ただなが)は1624年(寛永1)駿河、遠江、甲斐国 (かいのくに)(山梨県)で50万石を与えられ、駿河家とよばれるようになった。しかし、暴政を理由に1632年所領を没収され、翌年切腹し断絶した。家光の子綱重 (つなしげ)と綱吉 (つなよし)は、1651年(慶安4)それぞれ甲府、館林 (たてばやし)(群馬県)で15万石ずつ与えられ、甲府家、館林家とよばれ、さらに1661年(寛文1)10万石ずつ加増された。綱吉は1680年(延宝8)4代将軍の兄家綱 (いえつな)の後継者となったので館林家は消滅し、一方甲府家も、綱重の子綱豊 (つなとよ)(のち6代将軍家宣 (いえのぶ)となる)が1704年(宝永1)綱吉の養子となって消滅した。
御三卿の成立
8代将軍吉宗の子宗武 (むねたけ)、宗尹 (むねただ)は江戸城内に邸宅を与えられ、それぞれ田安 (たやす)家、一橋 (ひとつばし)家とよばれ、徳川を姓とし、1746年(延享3)10万石ずつ所領を与えられた。9代将軍家重 (いえしげ)の子重好 (しげよし)ものち同様の待遇を受けて清水 (しみず)家とよばれた。これを御三卿 (ごさんきょう)というが、江戸時代中期ともなると将軍家と御三家の血が遠くなるので、より近親の家をつくっておく必要があった。御三卿からのち将軍になったのは11代家斉 (いえなり)と15代慶喜 (よしのぶ)(ともに一橋家)である。既述の徳川姓の家でも、嫡子以外はすべて、松平姓を名のらせ御家門 (ごかもん)(御三家の分家をとくに御連枝 (ごれんし)という)に列せしめたり、他家の養子にした。