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  11. 姉川の戦

姉川の戦

ジャパンナレッジで閲覧できる『姉川の戦』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

姉川の戦
あねがわのたたかい
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという諸説があり一定しない)近江の北半を支配する小谷城主浅井長政と同盟し、永禄十年(あるいは十一年)ごろ、妹お市を娶せ盟約を固めた。そして足利義昭を擁して上洛すると越前一乗谷の朝倉義景の攻撃に着手し、元亀元年四月二十日約三万の兵を率いて若狭・越前に遠征した。このころすでに信長と不和になっていた将軍義昭はひそかに朝倉氏に期待するところがあったが、信長は二十五日越前手筒山・金ヶ崎両城を陥し、一乗谷に迫ろうとした。しかるにこの時浅井久政・長政父子が突然挙兵して信長の退路を遮断、逃亡中の六角(佐々木)承禎も近江に進出蜂起した。そこで信長は朽木越えの難路を経て京都に帰ったが、「彼等(久政・長政)儀近年別而令〓家来〓之条深重無〓隔心〓候き、不慮之趣無〓是非〓題目候事」(『毛利家文書』)というほど不測の事態であった。もともと浅井氏は近江半国の守護京極氏の被官でありながら主家の内訌に乗じて勢威を張り、朝倉氏と同盟して六角氏と対抗、戦国大名に成り上がった氏族であり、織田氏と結ぶにあたっても朝倉との修交を条件に入れたというほどであったから、信長の越前侵攻をみてその謀略に不安を感じ、朝倉氏との旧誼を重んじて信長に離反したものといわれる。そして朝倉氏の救援を乞い、長競(たけくらべ)・刈安(かりやす)に城塞を構えて織田氏の攻撃に備えた。これに対して信長は美濃・尾張の兵に徳川家康の三河・遠江の兵を合わせて近江に侵入、六月十九日前線を陥し、二十一日小谷城を囲み、虎御前山(虎姫山)に陣し、付近に放火、翌日撤収の際追撃する浅井軍と激戦を交え、二十四日から横山城の攻撃にかかり北麓の竜ヶ鼻に本陣を据え、徳川家康もここに着陣した。横山城は姉川をはさんで小谷の東南方に位置する臥竜山の山頂に築かれた浅井氏の枝城で野村・三田村氏らが守備していたが、ここが陥落すると浅井氏は佐和山その他南方諸城との連絡を断たれるので、長政は救援を決意、約八千の兵を指揮して城を出、朝倉景健の兵約一万、あるいは一万五千と合流して小谷と横山の中間大寄山に布陣した。そして朝倉氏本軍の後援を待とうとしたが、横山城の危急を知り、六月二十七日夜半から行動を開始、山麓を流れる草野川を越えて姉川の北岸に進出し、浅井軍は野村、朝倉軍は三田村に布陣して黎明を待った。一方戦機を察した信長は軍を二隊に分かち一隊は徳川家康・柴田勝家・明智光秀・稲葉一鉄、他の一隊は坂井政尚・池田恒興・旗本の順に、丹羽長秀を横山城の押えに置き、十二段の編成で二十八日早朝行動を開始した。姉川は伊吹山の山麓を西南に流れ琵琶湖にそそぐ川であって野村・三田付近は比較的川幅が広い。川を渡渉して進出してきた浅井・朝倉軍は二十八日午前六時ごろこの河原において織田・徳川軍と激突、午前十時ごろ勝敗が決した。両軍の兵数は史料によって相異し一定しないが、織田約二万三千、徳川約六千、浅井約八千、朝倉約一万(あるいは一万五千)といわれ(桑田忠親編『日本の合戦』五)、織田には浅井、徳川には朝倉の軍があたった。そして緒戦は浅井・朝倉軍が優勢であったがやがて逆転して敗走、真柄直隆・前波新八・同新太郎・弓削六郎左衛門・遠藤喜右衛門ら良将が戦死し、その損害は九千六百人、織田側の戦死者六千人と噂された。誇張であろうが激戦の模様が察せられる。戦後信長は降伏した横山城に木下秀吉を置き、佐和山の磯野員昌を攻めて丹羽長秀を百々屋敷に置き、さらに市橋長利・水野信元・河尻秀隆を要所に配置して城を包囲させ、七月四日上洛、同八日岐阜に凱旋、徳川家康に前将軍足利義輝の佩刀を贈って戦功を賞した。この戦争は浅井・朝倉両氏と信長とがはじめて戦火を交えたものであったが、当時は三好三人衆がなお京都回復の機会を窺い、将軍義昭もやがて諸大名と連絡して信長の包囲を策し、本願寺顕如もこの年九月決戦に踏み切るという状況であったから、信長にとっては腹背に敵を受ける最も困難な時代の開幕期だったわけであり、姉川の大勝は浅井・朝倉両氏の戦闘力に少なからぬ打撃を与えたことにおいて有利な条件を獲得するものであった。この戦争に関する史料はほとんど織田・徳川関係史料であり、しかも徳川側の文献は後世成立の家伝類であって徳川氏の功績記述に偏し批判を必要とする。一方浅井・朝倉側の実情は一、二の古文書のほか良質の軍記を欠き詳細を知ることができない。全体の史料として『原本信長記』(『信長公記』)、『姉川合戦記』(『南部文書』所収)、『当代記』『年代記抄節』『毛利家文書』(七月十日付信長朱印状写)、『益田家什書』(七月十六日付朝山日乗書状写)、『言継卿記』『三河記』『松平記』『服部半三武功記』を挙げるべきであろう。なお姉川合戦以前における朝倉氏の状況は『朝倉記』『朝倉家記』、姉川合戦の概況は小瀬甫庵の『信長記』によるのが便利である。
[参考文献]
『大日本史料』一〇ノ四、参謀本部編『日本戦史』姉川役、高柳光寿編『大日本戦史』二
(岩沢 愿彦)


日本大百科全書(ニッポニカ)

姉川の戦い
あねがわのたたかい

1570年(元亀1)6月28日、近江 (おうみ)(滋賀県)の姉川畔で繰り広げられた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦い。戦いのあった場所の地名をとって、野村合戦とも三田村合戦ともよばれる。戦いの発端となったのは同年4月、信長が越前 (えちぜん)(福井県)の朝倉義景 (よしかげ)を攻めたとき、朝倉氏との旧誼 (きゅうぎ)によって浅井長政がそれまで同盟を結んでいた信長に反旗を翻したことにある。信長は妹婿 (いもうとむこ)である長政の謀反を怒り、6月19日岐阜を出陣した。援軍である徳川家康の軍勢とあわせ、その数3万4000といわれている。それに対する長政も義景の援軍を求め、その数2万1000と数えられている。戦いは6月28日早朝から姉川を挟んだ形で繰り広げられ、初め浅井・朝倉軍が優勢であったが、家康軍の善戦により織田・徳川連合軍の大勝利に終わった。義景の援軍は越前に敗走し、長政の軍勢も小谷城 (おだにじょう)に逃げ込み、浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となった。

[小和田哲男]



世界大百科事典

姉川の戦
あねがわのたたかい

1570年(元亀1)6月28日,近江国野村・三田村(現滋賀県長浜市,旧浅井町)付近の姉川河原で織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の属将)連合軍を撃破した戦い。同年4月信長は越前の朝倉氏を攻撃したが,近江小谷(おだに)城の妹婿浅井長政が突然に信長にそむいて挙兵し退路を遮断した。信長は1567年(永禄10)ころ妹お市(小谷方)を嫁がせて浅井氏と盟約を固め,浅井氏は朝倉氏との修交を条件に入れていたが,信長の越前侵攻でその謀略に不安を感じ,朝倉氏との旧交を重んじて離反したものといわれる。信長は朽木越えの難路を経て京都に帰り家康に援助を求め,6月24日から約2万9000の兵で小谷城の支城横山城を攻撃した。長政はここが陥落すれば江南の諸城との連絡を断たれるために救援を決意し,朝倉との連合軍約1万8000で出兵した。28日午前6時ごろ姉川河原で激突,午前10時ごろ勝敗が決した。姉川の大打撃が小谷城陥落の要因となった。
[小島 広次]

[索引語]
浅井長政
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検索コンテンツ
1. 姉川の戦
世界大百科事典
1570年(元亀1)6月28日,近江国野村・三田村(現滋賀県長浜市,旧浅井町)付近の姉川河原で織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の属将)連合
2. あねがわ‐の‐たたかい[あねがはのたたかひ]【姉川の戦】
日本国語大辞典
元亀元年(一五七〇)織田信長、徳川家康の連合軍が、浅井長政、朝倉義景の連合軍と近江の姉川の川原で戦い、大勝した。浅井、朝倉両氏の滅亡の端緒となった戦い。姉川の合
3. あねがわのたたかい【姉川の戦】
国史大辞典
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合
4. 姉川の戦
日本史年表
1570年〈元亀元(4・23) 庚午〉 6・28 信長・家康,近江姉川に浅井長政・朝倉義景を破る( 姉川の戦 )(津田文書)。
5. 姉川の戦い画像
日本大百科全書
1570年(元亀1)6月28日、近江(おうみ)(滋賀県)の姉川畔で繰り広げられた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍の戦い。戦いのあった場所の地名をとって、野村合
6. 姉川の戦いの両軍布陣図[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
7. あおきかずしげ【青木一重】
国史大辞典
安土桃山・江戸時代前期の武将。忠助、所右衛門、また重通ともいう。青木重直の長男。徳川家康の家人のとき姉川の戦に参陣、勇名をはせたが、元亀三年(一五七二)丹羽長秀
8. 浅井氏画像
日本大百科全書
ところが1570年(元亀1)越前(えちぜん)(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と結んで信長に背き、姉川の戦いに敗れてからは居城小谷(おだに)城にこもり、つ
9. 浅井氏
世界大百科事典
しての地位を確立し,さらに織田信長と結んで最盛期を迎えた。しかし70年(元亀1)信長と絶ち,姉川の戦で朝倉氏とともに大敗し,ついに73年(天正1)8月,久政・長
10. 浅井長政
世界大百科事典
と,長らく同盟関係にあった朝倉氏と協調し,信長に離反し抗争するに至ったが,浅井・朝倉連合軍は姉川の戦に大敗した。以後,本願寺,武田信玄,比叡山などと結び挽回を図
11. あさいながまさ【浅井長政】画像
国史大辞典
法号は養源院天英宗清のほかに仁如集堯による文英一雄がある。→朝倉義景(あさくらよしかげ),→姉川の戦(あねがわのたたかい),→小谷の方(おたにのかた) [参考文
12. 朝倉氏画像
日本大百科全書
越後上杉氏の背後を安からしめた。織田信長の台頭を迎え、敦賀(つるが)天筒山(てづつやま)の戦い、姉川の戦いと何度も信長と干戈(かんか)を交えたが、1573年(天
13. 朝倉氏
世界大百科事典
後,織田信長の台頭を迎えると一転して,本願寺,浅井,武田と提携し,信長包囲網を形成。1570年(元亀1)姉川の戦に敗れ,73年(天正1)刀禰坂の合戦に惨敗し,滅
14. 朝倉義景画像
日本大百科全書
武田信玄(しんげん)、本願寺などと同盟を結び、1570年(元亀1)から1573年(天正1)までの4年間、姉川の戦いをはじめ、よく信長と戦うが、天正(てんしょう)
15. 朝倉義景
世界大百科事典
る。本願寺教如に娘を嫁してこれと結び,浅井長政,武田信玄らと反信長勢力を形成。天筒山の合戦,姉川の戦など再三信長と矛を交えたが,73年8月,刀禰坂の合戦に敗れ,
16. あさくら‐よしかげ【朝倉義景】
日本国語大辞典
朝倉孝景〔一〕の子。越前一乗谷城主。法名松雲院大球宗光。浅井長政と結んで織田信長に対抗したが、姉川の戦いで大敗。のち、信長に一乗谷を攻め落とされ、自刃した。永祿
17. あさくらよしかげ【朝倉義景】画像
国史大辞典
れて、検地によって村落農民を直接掌握するには至らなかった。→足利義昭(あしかがよしあき),→姉川の戦(あねがわのたたかい),→石山本願寺合戦(いしやまほんがんじ
18. あさくら-よしかげ【朝倉義景】
日本人名大辞典
子。越前(えちぜん)(福井県)守護。本願寺と和解し,浅井長政とむすんで織田信長に対抗したが,姉川の戦いに敗れ,天正(てんしょう)元年8月20日自害し,朝倉氏はほ
19. あざいちょう【浅井町】滋賀県:東浅井郡
日本歴史地名大系
本願寺と浅井氏の仲介を勤め、石山合戦に際しては浅井氏と連合して織田信長と対立した。町域南端は姉川の戦の戦場となったが、浅井氏が滅亡した後、町域は羽柴秀吉の支配下
20. あつみ-ともよし【渥美友吉】
日本人名大辞典
−? 戦国-織豊時代の武士。徳川家康の家臣。豪勇をうたわれ,元亀(げんき)元年(1570)の姉川の戦いで,槍がおれてもなお素手でたたかい,数人の敵をたおしたとい
21. 姉川
日本大百科全書
姉川扇状地には4条の旧河道と思われる河川もみられる。上流部は深雪地で林業地帯、中流域の長浜市野村は姉川の戦いの地。河口の南浜は近世に水運で栄えた。2002年(平
22. あね‐がわ[‥がは]【姉川】
日本国語大辞典
滋賀県琵琶湖東岸に注ぐ川。伊吹山地を源とし、高時川を合わせて養蚕地帯の三角州をつくる。元亀元年(一五七〇)姉川の戦いの古戦場。[発音]アネ〓
23. あんどうし【安藤氏】画像
国史大辞典
彼は三河に住んで松平広忠に仕え、嫡子基能は徳川家康に属して三方原で戦死した。その子直次が田辺藩祖である。彼は姉川の戦以来の功によって幕府連署の重職に就き、やがて
24. いかぐん【伊香郡】滋賀県
日本歴史地名大系
田・井口・阿閉・雨森・磯野などの諸氏を被官に組織する領国体制を形成した。元亀元年(一五七〇)姉川の戦で織田信長に敗れ衰退する。しかし越前朝倉氏、明楽寺(現木之本
25. いけの-なみのすけ【池野浪之助】
日本人名大辞典
前にした尾張(おわり)(愛知県)丸根城攻めや,6年の三河一向一揆(いっき)の鎮圧にくわわる。のち姉川の戦い,三方原の戦いでも功をたてた。
26. いその-かずまさ【磯野員昌】
日本人名大辞典
の国人。浅井長政に属し,永禄(えいろく)4年(1561)佐和山城主となる。元亀(げんき)元年姉川の戦いに敗れ,佐和山に籠城(ろうじょう)したが,翌年織田信長軍に
27. いとう-やそう【伊藤弥惣】
日本人名大辞典
さかきばら-やすまさ)につかえた。12年の遠江(とおとうみ)(静岡県)掛川城の攻略をはじめ,姉川の戦い,三方原(みかたがはら)の戦い,長篠(ながしの)の戦い,小
28. 稲葉一鉄
日本大百科全書
戦国・安土(あづち)桃山時代の武将。美濃(みの)三人衆の一人。幼名彦六。名を通以(みちもち)、通朝(みちとも)、貞通(さだみち)、長通(ながみち)、良通(よしみ
29. いなばいってつ【稲葉一鉄】画像
国史大辞典
氏家・安藤と謀ってこれに内通し、稲葉山城落城の足がかりをつくった。以後信長に仕え、美濃曾根城を居城とし、姉川の戦をはじめとする浅井・朝倉氏との合戦に功をたて、の
30. いなばし【稲葉氏】画像
国史大辞典
第六子良通(一鉄)が還俗して家を嗣ぐ。土岐氏没落の後は斎藤氏に、斎藤氏没落の後は織田信長に仕え、各地に転戦、姉川の戦・長島一揆などで軍功をあげ、氏家直元(卜全)
31. いぶきでら【伊吹寺】
国史大辞典
以後佐々木氏歴代の崇敬をうけた。貞和三年(一三四七)山麓の現寺地に移る。元亀元年(一五七〇)姉川の戦で焼失。もと観音・弥高・太平・長尾の四護国寺があったが、今は
32. えんりゃくじのやきうち【延暦寺の焼打】
国史大辞典
信長は永禄十一年(一五六八)九月、足利義昭を奉じて入京以来、伊勢・近江・畿内の一部をほぼ平定し、元亀元年六月、姉川の戦で浅井・朝倉両氏を破り、七月、岐阜に帰った
33. 延暦寺焼打
日本大百科全書
1571年(元亀2)9月、織田信長が比叡山(ひえいざん)の延暦寺を焼き払った事件。1570年4月、浅井長政(あさいながまさ)は信長に反旗を翻して朝倉義景(あさく
34. おうみのくに【近江国】滋賀県
日本歴史地名大系
久間信盛、長光寺(現近江八幡市)に柴田勝家、安土に中川重政を配して鎮圧に当たった。同年六月の姉川の戦に大勝すると、横山(現長浜市)に木下秀吉(のち羽柴、豊臣)を
35. おおくぼ-ただなお【大久保忠直】
日本人名大辞典
織豊-江戸時代前期の武士。天文(てんぶん)20年生まれ。大久保忠俊の6男。徳川家康につかえ,姉川の戦いで戦功をたて,荒之助の名をあたえられた。小牧・長久手(なが
36. おおくぼ-やすただ【大久保康忠】
日本人名大辞典
大久保忠勝の長男。徳川家康につかえ,永禄(えいろく)6年家康より1字をもらい康忠を名のった。姉川の戦い,小牧・長久手(ながくて)の戦いで戦功をたてた。元和(げん
37. おおた-よしかつ【太田吉勝】
日本人名大辞典
三河(愛知県)の人。徳川家康につかえ,永禄(えいろく)11年(1568)の掛川城攻め,元亀(げんき)元年の姉川の戦いで戦功をたてる。のち長篠(ながしの)の戦いな
38. おがさわら-ながただ【小笠原長忠】
日本人名大辞典
。今川氏に属していたが,父氏興の時から徳川家康にしたがう。永禄(えいろく)12年家督をつぎ,姉川の戦いに参加。天正(てんしょう)2年城を武田勝頼軍に包囲され降伏
39. 奥平信昌
日本大百科全書
江戸初期の大名。美濃(みの)国(岐阜県)加納(かのう)城主。通称九八郎。初名は定昌。父貞能(さだよし)とともに徳川家康に仕え、初陣は1570年(元亀1)の姉川(
40. 奥平信昌
世界大百科事典
奥平美作守貞能の嫡男。初名定昌,九八郎。幼時より父貞能とともに徳川家康に仕え,1570年(元亀1)姉川の戦に初陣。一時は武田信玄に属したが信玄没後再び家康に帰順
41. おくだいらのぶまさ【奥平信昌】
国史大辞典
。弘治元年(一五五五)三河に生まれた。父の代から徳川家康に任えた。元亀元年(一五七〇)の近江姉川の戦には父とともに出陣している。天正三年(一五七五)の長篠の戦で
42. おくやま-きゅうがさい【奥山休賀斎】
日本人名大辞典
奥山流(奥山新影流)の祖。新陰流の祖上泉(こういずみ)伊勢守秀綱にまなぶ。奥平貞能(さだよし)につかえ,姉川の戦いに織田・徳川連合軍にくわわる。天正(てんしょう
43. おぐり-またいち【小栗又一】
日本人名大辞典
?−1616 織豊-江戸時代前期の武将。徳川家康につかえ,姉川の戦いで功をたてる。のち使番,大番頭(おおばんがしら),軍奉行をつとめる。つねに一番槍の功をたて,
44. おしかもじょうあと【鴛鴨城跡】愛知県:豊田市/上郷・高岡地区/鴛鴨村
日本歴史地名大系
親久は一向一揆から鴛鴨城を守り、永禄八年(一五六五)に没している。また忠久は、元亀元年(一五七〇)姉川の戦に参加している。小畔屋敷の焔王山遍照寺は、鴛鴨城主松平
45. 小谷城
世界大百科事典
れたものらしい。城下の清水谷,須賀谷には,重臣団の屋敷,当主の居館があった。70年(元亀1)姉川の戦で敗れ,小谷城へ敗走した長政は,ここで織田軍と対峙したが,つ
46. 織田信長
世界大百科事典
造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して
47. 織田信長
日本史年表
1570年〈元亀元(4・23) 庚午〉 6・28 信長・家康,近江 姉川 に浅井長政・朝倉義景を破る(姉川の戦)(津田文書)。 1570年〈元亀元(4・23) 
48. おだ-のぶなが【織田信長】
日本人名大辞典
擁立して京都にはいるが,のち対立。天正(てんしょう)元年義昭を追放し,室町幕府をほろぼす。浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し,伊勢(いせ)長島の一向一揆(い
49. おだのぶなが【織田信長】
日本架空伝承人名事典
造営する一方、殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し、七〇年(元亀一)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り、ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して
50. おとわむら【音羽村】滋賀県:高島郡/高島町
日本歴史地名大系
書)。当村などの大工は横江組に属し、組頭は当村の村谷家であった。村谷家は元亀元年(一五七〇)姉川の戦に参加して敗れ、音羽庄に身を隠し、のち大工を稼業とする。織田
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姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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