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  11. 河原者

河原者

ジャパンナレッジで閲覧できる『河原者』の新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典のサンプルページ

新版 歌舞伎事典

河原者
かわらもの
 江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を追われたり離れたりした流亡民たちがここに定住し、零細な農耕を営む一方、貴族・寺社の社会から賤業と見なされた雑業に従って生活していた。彼らが従事した業は、皮革生産・鳥獣屠殺・死体埋葬・清掃・細工・染色など、実にさまざまの種類にわたっていたが、室町時代末期には作庭にすぐれた才能をもつ河原者が輩出したことが知られている。著名な京都龍安寺の石庭も、河原者の創造であったとされる。近世に入ってのち、彼らの生業の多くは独立の職業となって確立し、中世的な差別から脱却したと思われるが、一部は厳格な近世的身分階級制のもとで、四民の下に位置づけられて、制外者にんがいもの扱いで不当な差別を受けつづけた。雑芸人や歌舞伎役者の場合はそれで、初期にはたとえば京都の四条河原などの河原に小屋掛けして興行を行ったため、劇場が河原を離れたのちも差別語として用いられていた。近代の名優の一人、七世市川中車が歌舞伎役者を志望したとき、父親がこの用語を使って許さなかったとのちに語っている(《中車芸話》)のをみると、幕末に至るも差別から脱却したとは言い難かったことがわかる。明治以後、新政府の方針によって、役者は俳優と呼び換えられ、歌舞伎役者の社会的地位は向上した。明治二〇(1887)年の天覧歌舞伎はその象徴的出来事であった。
勝扇子かちおうぎ
[服部 幸雄]


国史大辞典

河原者
かわらもの
荘園体制下で、少なくとも十一世紀初頭ごろから現われて、中世後期に激増した隷属民の一類型であって、史料上、河原人・川原者・河原者、さらには河原物・川原物、ごくまれには瓦物などと表記されることがある。ふつうこれを標記のごとく「かわらもの」と読みならわしてきているが、慶長八年(一六〇三)の『日葡辞書』では「カワラノモノ」で掲出・解説しているのは、他の少なからぬ所出例(河原之物など)とあわせて、じゅうぶんに参考とすべきであろう。いずれにもせよ、その呼称は、居住地が劣悪な立地条件の一たる河川沿岸地帯であったことに起因するものと考えてよい。初見史料は、『左経記』長和五年(一〇一六)正月二日条で、斃牛の皮革を「河原人等」が剥ぎ取った際、その腹中より牛黄(ごおう、一種の結石で古来薬用として珍重されたもの)が出現したことをものがたる記事である。「河原人等」という表現は、集団の存在を暗示し、腹中より牛黄をみいだしたというのは、彼らの作業が皮剥ぎにとどまらず、斃牛の解体・処理にまで及んでいたことを推察させる。中世をつうじて、天災・飢饉・戦乱・苛斂誅求・共同体規律の強化などが原因となって数多くの流亡民が常時生みだされ、それが河原者の大きい母体となっていた。河原の地は原則として非課税地であって、そこに定住した彼らは零細な河原田畠の耕営に努める一方、貴族・社寺世界から賤業とみなされていたさまざまな雑業によって生き、蔑視をこうむっていた。その一例をあげると、『建内記』正長元年(一四二八)六月十日条に、「穢多」のことだとされる「川原者」が禁裏御所の庭園作業に従事したことにつき、「不浄之者」ゆえにこれが排され、かわって散所の声聞師(しょうもじ)がその仕事にあてられたと記されているのは、河原者の社会的処遇の苛酷さを端的にものがたるものである。彼らが別に「えた」の名でも呼ばれたことは、律令官制における「えとり(餌取)」との関係、さらには近世幕藩体制下での統一的な「穢多」身分の創出と維持との関係から、かねて重視されている。生業の内容は、鳥獣屠殺・皮革生産・弓絃矢羽の製作・清掃・死屍の埋葬や荼毘・馬の刺〓・細工・染色(紺掻)・運輸・伝令・密偵・犯罪者処刑・井戸の修理・井戸掘り・壁塗り・池浚え・作庭(植樹配石)等々、多岐にわたっていたが、特に室町時代から安土桃山時代にかけては作庭に長じた山水(せんずい)河原者が輩出し、すぐれた才能を発揮した。足利義政の愛顧をうけた善阿弥はその代表格である。なお、中世においては、律令法における賤民、近世幕藩法における「穢多・非人」のごとき法制上の身分的差別は明瞭でなかった。これに関連して注目される一例は、『蜷川文書』一四集所収の永正十五年(一五一八)五月二十日付「意見状案」の内容である。それによると、一般の町人とみえる絹屋を殴打したとの理由で幕府へ訴えられた「河原者小五郎子」について、特に河原者だからということで法的に過当なあつかいをうけた気配はない。近世に入ると河原者の生業はそれぞれ個別の職業に分散確立し、河原者たちの少なからぬ部分は中世的な差別のしくみから脱却したものと推定されるが、一部分は「穢多・非人」として苛酷な統制下に固定されたとみてよい。以後、河原者の呼称は、河原乞食などという蔑称と相まって、浮浪の民衆や雑芸人・歌舞伎役者に対する差別的用語として生きつづけ、近代に及んだ。
[参考文献]
部落問題研究所編『部落史に関する綜合的研究』史料三・四、原田伴彦『日本封建都市研究』、横井清『中世民衆の生活文化』、黒田俊雄「中世の身分制と卑賤観念」(『部落問題研究』三三)
(横井 清)


日本国語大辞典

かわら‐もの[かはら‥] 【河原者

解説・用例

〔名〕

(1)中世賤民の一つで、平安期以後、河原に住むことを強制された人々。肉体労働や染色、皮なめし、雑芸能などを業とした。室町時代には、隷属関係をもつ寺社の権力を背景に、さまざまの特権を獲得したものもあった。特殊技能者の集団として多様な活動をしたが、中世では一般に蔑称として用いられた。河原の者。河原。

*建内記‐正長元年〔1428〕六月一〇日「禁中川原者、穢多事也、参入、於〓石木事〓〓召仕〓之、為〓不浄之者〓〓〓然之処」

*大乗院寺社雑事記‐長祿二年〔1458〕正月二日「公方様御庭〓樹木事、為〓検知〓〓〓河原者〓了」

*親元日記‐寛正六年〔1465〕一二月二日「典薬頭御胞衣を蔵申候、土を懸そめて、河原者うつみ終て上に松をうへる」

(2)歌舞伎役者などをいやしんで呼んだ語。河原乞食。河原役者。河原歌舞伎子。河原の者。

*狂歌・古今夷曲集〔1666〕九「よせ太皷日はてれつくと打いづる波の音まで河原もの哉」

*浮世草子・好色一代女〔1686〕六・四「四条の川原もの、さる芸子(げいこ)あがりの人なりしが」

*政談〔1727頃〕一「遊女・河原者の類を賤しき者とすることは、和漢・古今ともに同断也」

*随筆・守貞漫稿〔1837~53〕三一「初加茂河原に行ふ故に彼徒を河原者と云のみ。乞丐の類と思ふは非なり」

語源説

(1)((1)について)(イ)河原に住む者の意からか〔風俗辞典=森本義彰他〕。(ロ)カハはきたないものをさす語、ラは子等、妹等などの等。「河原者」は仮字〔勇魚鳥〕。(ハ)安倍晴明が河原に捨てた木偶を先祖とするという伝説からか〔志不可起〕。(ニ)カハハギラモノ(皮剥等者)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(2)((2)について)はじめ、京都の四条河原で興行したのでいう〔嬉遊笑覧〕。

発音

〓[0]〓[0]

辞書

ヘボン・言海

正式名称と詳細

表記

河原者言海


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検索コンテンツ
1. 河原者
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3. かわら‐もの[かはら‥]【河原者】
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河原者〓了」*親元日記‐寛正六年〔1465〕一二月二日「典薬頭御胞衣を蔵申候、土を懸そめて、河原者うつみ終て上に松
4. かわらもの【河原者】
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7. よしまさとかわらもの【義政と河原者】 : 東山文化
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8. 河原者
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10. 河原者
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国史大辞典
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13. 足利義政[文献目録]
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日本国語大辞典
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17. えた
国史大辞典
のちには河原の住民を意味する「河原者」と同意義になっていったことがわかる。それ以前の十三、四世紀には『天狗草紙』『師守記』などに「穢多」の文字がみえるにすぎない
18. えた[ゑた]【穢多】
日本国語大辞典
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19. えった[ゑった]【穢多】
日本国語大辞典
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20. 演劇
日本大百科全書
プラトンの憂いにも一理あるわけで、歌舞伎が徳川幕府に遊廓ゆうかくと並ぶ悪所として取り締まられ、役者や作者は河原者として低い地位に置かれたこと、また大正から昭和前
21. 甲子夜話 1 12ページ
東洋文庫
あらはせしと云〕。小なる別荘を本庄の地に補理して住り。御放鷹杯此辺に御成あるときは、人に言て日、河原者の身として、御通路の傍に居ること畏憚るべきこと也連、その日
22. 甲子夜話 1 104ページ
東洋文庫
れば、幼時のことゆゑ恐ろしくなりて住居に立還り、後は不レ知。〔量〕 享保中、御医師望月三英、河原者の市川団十郎が重病を治療し、効験ありしとて人々沙汰せしを、橘収
23. 甲子夜話 1 142ページ
東洋文庫
し所なり。時に傍に勝与八郎居て云。平家をかたるも、能役者には検校等伝へずと。是も始て聞たり。河原者を賎しめる古風の遺なり。〔…〕 予が竪士に越前生れのものあり。
24. 甲子夜話 4 38ページ
東洋文庫
或人のもとに出入大工の歎息して話せしと聞く。吉原町焼後の造作、都下のよろしき大工ども争て銘々作事す。昔は河原者の住る賎き生業の家作はすまじきこととて、相応に富る
25. 甲子夜話 6 169ページ
東洋文庫
俳諧、碁、将棊等の遊びの業有レ之、今にては御籏本に似合ざる、専ら三味線をひき浄瑠理をかたり、又は河原者の真似をいたす族も間々有レ之由、是皆本妻といふものなく召仕
26. 甲子夜話三篇 1 14ページ
東洋文庫
折節御役者どもも来りて、酒席へ出て取持せしが、或坐の大夫を本庄頻に罵りて、汝等はこの席へ出る者に非ず。河原者なれば我が中間よりも遥に下りたる輩なり◎我が中間と云
27. 甲子夜話三篇 3 282ページ
東洋文庫
或は揚屋、茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様に致し、此難渋の時節絹服をまとひ、河原者、妓女共を迎へ、平常同様之遊楽に耽り候は何等の事に侯哉。紺
28. 甲子夜話続篇 2 227ページ
東洋文庫
同姓なればとて、此川勝家の女を、不可院と号せし左近、迎へて妻とせしと、今の左衛門語れり。能役者は河原者ゆゑ、他と縁辺することならず。然るときは同姓のゆゑを以てな
29. 甲子夜話続篇 4 37ページ
東洋文庫
或は連歌、俳諧、碁将棋等の遊びわざ有レ之候処、御籏本に似合ざる三絃を弾き、浄瑠璃をかたり、かうじては河原者の真似をいたす族も間々有レ之候由。是皆本妻といふ者なく
30. 歌舞伎画像
世界大百科事典
った。したがって,俳優が歌舞伎の構造の上に占める位置はきわめて大きかった。しかし,社会的には河原者,河原乞食などと呼ばれ,士農工商の四民以下に属させられていた。
31. 歌舞伎(演劇)画像
日本大百科全書
うかがえる。河竹登志夫俳優とくに歌舞伎では、役者すなわち俳優の比重が非常に大きい。社会的には河原者かわらもの、河原乞食こじきとよばれ、士農工商の下に甘んじたが、
32. 皮/革画像
世界大百科事典
来の官営工房から流出した技術者たちがその技能をもって荘園領主に抱えられたり,技能を受けついだ河原者たちが斃牛馬(たおれぎゆうば)の解体処理を生業の一環としたりし
33. 皮多
日本大百科全書
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34. 河原
世界大百科事典
もって知られる集団が現れ,禁裏河原者,公方御庭者などとして,給恩の土地を保証されて百姓から白砂・夫役を弁済させるような特権を持つ人もあった。善阿弥もその一人であ
35. かわら[かはら]【河原・川原】
日本国語大辞典
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36. かわら‐かぶきこ[かはら‥]【河原歌舞伎子】
日本国語大辞典
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37. かわら‐こじき[かはら‥]【河原乞食・川原乞食】
日本国語大辞典
〔名〕(初め京都の四条河原で興行したところから)歌舞伎役者を卑しめていった語。河原者。*雑俳・西国船〔1702〕「ふしぎやな・川原乞食にあたる風」*譬喩尽〔17
38. かわら の 者(もの)
日本国語大辞典
「かわらもの(河原者)(2)」に同じ。*わらんべ草〔1660〕三「かはらの者とはかくべつたるべし、しからば能もかはらものに成べし」[辞書]下学・文明・黒本・日葡
39. かわら の 役者(やくしゃ)
日本国語大辞典
(江戸時代、京都賀茂川の四条河原に芝居小屋があったところから)京都の歌舞伎役者。河原者。*浮世草子・俗つれづれ〔1695〕三・二「おのおの河原(かハラ)の役者ま
40. かわら‐ぶし[かはら‥]【河原節】
日本国語大辞典
〔名〕(河原者がうたった歌の意)江戸時代、京都賀茂川の河原にいた人々の間からおこった歌謡を軽蔑(けいべつ)の意で名づけたもの。*増補江戸咄〔1694〕六・一「四
41. かわら‐やくしゃ[かはら‥]【河原役者】
日本国語大辞典
〔名〕「かわらもの(河原者)(2)」に同じ。*浮世草子・嵐無常物語〔1688〕上・一「嵐三右衛門は古今かはら役者(ヤクシャ)のまれもの」[発音]
42. かんべのしょう・かんべごう【神戸庄・神戸郷】兵庫県:宍粟郡/一宮町
日本歴史地名大系
有している。「蔭涼軒日録」明応二年(一四九三)五月二三日条には「中村・皆木・大河原者兄弟三人之流也、皆木者号中村、大河原者不号中村」とあり、中村二家と大河原家の
43. きたやまぶんか【北山文化】
国史大辞典
然観や世界観を表わしたものとして枯山水の庭園がつくられ、夢窓疎石のような石立僧やすぐれた山水河原者が現われた。唐物唐絵に対する関心は将軍家の場合、能阿弥・芸阿弥
44. 近世説美少年録 165ページ
日本古典文学全集
、「私は数年来、陶瀬十郎に恨みがあります。まず、その理由を申し上げましょう。末松木偶介という河原者は、笠屋夏の夫で、私の親の亀六の借家におります。ところが、御家
45. 小法師
日本大百科全書
禁裏きんり御所の庭園の清掃、植樹、庭木の手入れなどに使役された賤民をいう。中世末には御庭者おにわもの、河原者と表記された例があり、荼毘だびのことにもかかわってい
46. こぼうし【小法師】
国史大辞典
記録には、河原者と肩書きされて二名の小法師が現われている(『言継卿記』)。かれこれ考えあわせてみると、賤民としての小法師の主たる部分は禁裏御所の庭のことに従事し
47. ごけんちゃや【五軒茶屋】宮城県:仙台市/仙台城下/河原町
日本歴史地名大系
、対橋楼・観水楼の名は四代綱村が与えたものと伝える。当地西方の新河原町裏通りの広瀬川沿いには河原者が住し、芝居・軽業・手品などの芸を荒町以南に限って行い、その北
48. 細工
世界大百科事典
課役として負う〈細工座〉があり,板金剛座とも〈両座ノエムタ〉とも呼ばれ,〈上利は河原者の沙汰〉といわれている点から,この細工が河原者に重なることはまちがいない(
49. さむらいどころ【侍所】画像
国史大辞典
その末端構成員の多くは、解体した旧検非違使庁の下部の系譜をひく者や侍所の支配下にあった雑色四座、および散所・河原者などとのつながりが考えられる。中期における室町
50. さるひきちょう【猿牽丁】宮城県:仙台市/仙台城下
日本歴史地名大系
と記す。「仙台鹿の子」に猿引小路とあり、町名は猿引が住したことに由来するという。毎年一月には河原者らの田植踊・大黒舞などが練り歩くが、当町の猿引も加わった。なお
「河原者」の情報だけではなく、「河原者」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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