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飛脚

ジャパンナレッジで閲覧できる『飛脚』の国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
飛脚
ひきゃく
速く走る者、手紙を運ぶ者のことをいう。古代の駅制では飛駅使(ひやくし)がこれにあたる。飛脚の語は平安時代末期ごろ現われ、中世以降頻出する。

〔古代〕

律令国家は太政官と国司との連絡に駅馬(えきば)、国府と郡司の連絡に伝馬(てんま)を使用した。急を要する場合には飛駅使が派遣される。これは専使で途中交替せず、官位は問題外である。三駅ごとに給食などがあり、馬は駅ごとに交替する。日程は一日十駅以上である。通常の場合、駅使は交替し、行程は一日八駅である。伝馬の利用者についての規定はないが、乗用資格証明として駅鈴と伝符がある。どちらも受給者の身分により剋数が異なる。駅鈴の保管は中務省の大・少主鈴(しゅれい)各二名が行い、派遣の申請は公式(くしき)令の飛駅式による。中央から地方へは下式で、太政官から少納言に下される勅の形式である。飛駅函(ひやくばこ)に納め革袋に入れられる。通常の駅使伝使の場合には飛駅式による勅はないが、大略同様である。地方では駅鈴は国司が保管し、中央に対しては飛駅式の上式により解(げ)を持参する。駅使は下級官人のため駅鈴は二~三剋で、従者が駅馬を使用することが可能である。駅使が病気の際には従者が代理となる。従者のない時は駅長が文書を預かり、国司が代理使者をたてる。飛駅使は駅鈴剋数以外に駅子一人が給せられ、これを駄と称する。関の通行には駅鈴・伝符が過所の代りになる。この飛駅使は駅制の衰退と運命をともにした。

〔鎌倉時代〕

文治元年(一一八五)、鎌倉幕府は駅路の法を定め、鎌倉から上洛の使者が伊豆・駿河以西、近江までの路次の荘園に馬糧食などを徴課することとした。実際は御家人の負担と考えられる。そして、建暦元年(一二一一)前後に至り駅制が完成したと推測される。飛脚と使者の大半は幕府と六波羅探題からであり、駅制の専掌機関はないと推測されるが、文永の役後は過書発給の専掌機関は存在し、建治三年(一二七七)の六波羅政務条々に宿次過書奉行がみられる。宿の人馬は、人は送夫・御物送夫、馬は早馬と称した。馬の課役の早打雑事・関東鎮西早打役は早馬役と同義語である。この時代の駅制の特色は御家人の片務負担であり、負担量は限られることになる。京都―鎌倉間の所要日数は三~数十日だが、五・六・七日が比較的多い。緊急事は三~四日である。飛脚は専使で馬は継替である。緊急事には夜間も疾走したはずである。京都―博多間は文永の役直後に逓送制度が創始されたが、宿駅は建設されなかったと推測される。所要日数は文永十一年(一二七四)に九・十一・十六日前後、弘安四年(一二八一)に六~七日である。

〔室町時代〕

室町幕府は道路・街道の支配掌握ができず、東海道・山陽道は守護領国制の進展でほとんど支配圏外のため、この時代の飛脚の姿は不明である。

〔戦国時代〕

戦国大名の領内では駅制が整備され、領国外派遣使節は御使者番衆・陣僧・商人が担当し、単なる通信の伝達としての飛脚は下級家臣・僧侶・民衆の夫役によった。領国外への書状、交渉の際、恩賞として土地関銭・役免除が与えられる場合があり、遅刻には知行没収・斬罪などが科される場合があった。戦国大名間で親善関係のある際は相互に伝馬を通過させた。この時代は史料的に東国が多いが、伝馬が駅制上のものか、単なる輸送馬か区別がつかないが、宿では伝馬従事者が専業化して、問屋が宿屋と伝馬業を営み、行政権を委ねられていた。伝馬の賃銀は公定され、一日の公用伝馬数は、北条氏が三疋(それ以上の使用には代償が必要)、武田氏が四疋(それ以上の使用は禁止)であった。戦時には、北条氏は十疋(それ以上の使用には報酬を出す)、武田氏は御下知によるとされた。この伝馬利用者の内に、使節の一種としての飛脚があった。

〔安土桃山時代〕

天正十八年(一五九〇)の小田原征伐で事実上の政治的統一ができ、豊臣秀吉の関係者は各分国通過が可能になった。文禄三年(一五九四)に京都―清須間に駅制が設けられ、各駅百~二百人、馬五十疋が置かれたが、利用者の内に飛脚がいたはずである。朝鮮の役では当初は沿線諸侯の領内を逓送したが、文禄元年に京・大坂―名護屋間の諸侯による継舟・継飛脚制の完成が推測され、同年には京都―名護屋間に、直接支配負担の航路・宿駅が設定され、飛脚継夫に一定の労賃が支払われている。利用者に飛脚が含まれている。

〔江戸時代〕

江戸を中心に五街道・脇街道が設定され宿駅制度が整備された。この制度のもと、継飛脚は幕府の各城代・遠国奉行との連絡にあたった。宿の問屋場で人夫が担当し、費用は宿への給米によった。江戸―大坂間の所要日数は四~五日である。三度飛脚は大坂・二条・駿府御番衆の連絡である。公事関係書類を各地に配達する飛脚もあった。大名飛脚は江戸の藩邸と、大坂の蔵屋敷、国元とを連絡する。尾州・紀州・雲州などの七里飛脚、加賀の三度飛脚などが有名である。尾州の場合、継所を設け中間が宰領として駐在し、参勤交代の事務も取り扱っている。領内は百姓夫役による運営である。継所を廃止して町飛脚に託した時期もある。一般の大名については不明だが、足軽が担当したのではあるまいか。このほかに藩の産物を運ぶ場合がある。また、各大名の領内では城下と主要地を定期的に連絡する飛脚が存在した。参勤交代に関連して通日雇があり、通人足として従事した。一般の書信を請負った時期がある。江戸・伏見・京都・大坂には仲間がある。各城下町の人夫頭も通日雇の役割を担当した可能性がある。江戸などの仲間は人夫頭の中心的存在であった可能性がある。江戸の仲間の一部は人宿の兼業である。町飛脚は江戸の定飛脚、京都の順番飛脚、大坂の三度飛脚が著名で、合仕として三者が営業している。名称はいずれも定期的の意味である。上方商人の江戸進出に伴い営業し、地域は各地に及ぶが、各街道・畿内各地・開港場などであり、東国では生糸生産地に支店がある。宰領が荷物の運搬にあたるが、宿の問屋場、人夫頭との具体的なことは不明である。江戸―京・大坂間の所要日数は四~十日で、各種の便がある。書状・荷物・金子・為替などを取り扱う。各藩などの飛脚業務を請負うことがある。また各地の火災などの情報を顧客に通知している。八幡飛脚は近江商人が近江八幡と東国との連絡に使用した。三都とその周辺部とを連絡する飛脚もあるが、江戸周辺部は北関東が生糸生産地であることや、衛星都市が未発達のため京坂周辺ほど多くない。江戸市中に「チリンチリンの飛脚」があり、地域別値段による営業で幕末に急増したが、明治時代には急減した。これは遊廓の文使などと類似した面があり、江戸以外にも存在したと推測される。明治時代になり、郵便制度の成立により飛脚は業務の一部がなくなったが、業者は内国通運会社を組織して営業を続けた。
→駅制(えきせい),→金飛脚(かねひきゃく),→七里飛脚(しちりひきゃく),→大名飛脚(だいみょうひきゃく),→継飛脚(つぎひきゃく),→伝馬(てんま),→内国通運会社(ないこくつううんがいしゃ),→飛駅(ひやく),→町飛脚(まちひきゃく)
[参考文献]
児玉幸多校訂『飛脚関係史料』(『近世交通史料集』七)、坂本太郎『上代駅制の研究』(『坂本太郎著作集』)、田名網宏『古代の交通』(吉川弘文館『日本歴史叢書』二四)、新城常三『鎌倉時代の交通』(同一八)、同『戦国時代の交通』、児玉幸多『宿駅』(『日本歴史新書』)、樋畑雪湖『江戸時代の交通文化』、日本通運株式会社編『社史』、中野金次郎編『国際通運株式会社史』、豊田武・児玉幸多編『交通史』(『体系日本史叢書』二四)、坂本太郎「飛駅より飛脚へ」(『日本古代史の基礎的研究』下所収)、藤村潤一郎「飛脚問屋について」(『日本歴史』二三八)、同「東海道尾州七里飛脚について」(同四七五)
(藤村 潤一郎)


日本国語大辞典
ひ‐きゃく 【飛脚

解説・用例

〔名〕

(1)鎌倉時代から江戸時代まで、文書・金銭・小貨物などを送達する使いや人夫をいう。その源流は古代の駅馬に発し、鎌倉時代には京・鎌倉間に早馬を用い、七日間で通信の速達にあたり、鎌倉飛脚・六波羅飛脚・関東飛脚といった。その後、駅伝の法が衰退したが、戦国末期に復活、江戸幕府が通信機関として採用し、その整備に努めた。幕府公用のための継飛脚、諸大名が前者にならって設けた大名飛脚、民間の営業にかかる町飛脚の三つに大別される。なかでも町飛脚は、のちには公用通信の一部も託され、もっとも大きな役割を果たした。明治四年(一八七一)、欧米式の郵便制度の採用によってすべて廃止された。

*吾妻鏡‐治承四年〔1180〕九月七日「遣〓飛脚於木曾之陣〓、告〓事由〓

*太平記〔14C後〕七・千劔破城軍事「同三月四日関東より飛脚(ヒキャク)到来して」

*新撰類聚往来〔1492~1521頃〕中「自〓京都〓〓飛脚〓〓申下〓候」

*談義本・根無草〔1763~69〕後・二「潜(ひそか)に迎をよこす様にと、地獄へ飛脚(ヒキャク)がやり度が」

*西洋事情〔1866~70〕〈福沢諭吉〉初・一「西洋諸国にて飛脚の権は全く政府に属し商人に飛脚屋なるものなし」

(2)他人の急用の使いをする者。

*浮世草子・新御伽婢子〔1683〕二・女生首「其比此僧の母煩(わづらふ)事ありとて飛脚下りければ僧取不〓敢登りぬ」

*浪花聞書〔1819頃〕「飛脚 町小使などをも都(すべ)て飛脚と唱ふ」

(3)「ひきゃくぶね(飛脚船)」の略。

(4)隣の監房の囚人と秘密に通話することをいう、囚人仲間の隠語。〔隠語輯覧{1915}〕

方言

(1)二人一組で行く死亡通知の使者。ひきゃく東京都旧市域309八王子311神奈川県津久井郡316山梨県長野県下伊那郡492静岡県磐田郡546愛知県東加茂郡565三重県北牟婁郡054京都府竹野郡622和歌山県日高郡054徳島県三好郡814香川県仲多度郡059長崎県対馬054

(2)電報を運ぶ人。ひきゃく富山県東礪波郡402

(3)便利屋。ひきゃく奈良県南大和683

発音

〓シチャク〔NHK(山形)〕

〓[0]〓(0)

辞書

下学・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海

正式名称と詳細

表記

飛脚下学伊京明応饅頭黒本易林ヘボン言海

〓天正書言

図版

飛脚(1)〈広益国産考〉



日本大百科全書(ニッポニカ)
飛脚
ひきゃく

信書・文書などの送達にあたった者。語源は早く走る者、文使 (ふみづかい)という意味である。通信手段は、権力と物資輸送の行われる所では不可欠であるから、いずれの時代にもあったはずである。

[藤村潤一郎]

古代・中世

古代には駅馬を利用した飛駅使 (ひやくし)、駅使があり、公用の文書の輸送を行った。1日の行程は前者が160キロメートル以上、後者が128キロメートルである。平安時代には駅制が崩壊したので事情は明らかでない。鎌倉時代には鎌倉を中心に京都、九州などの間に伝馬による飛脚があった。京―鎌倉間の平均行程は、初め14~15日であったが、駅制の整備により3~4日に短縮された。また九州博多 (はかた)から鎌倉への急便も弘安 (こうあん)の役(1281)のおりには約12日で到達するようになった。室町幕府は積極的な駅制の整備を行わなかったので明らかでない。戦国大名は軍事上の目的から駅制を重視し、飛脚には城下町かその付近に住む手工業者が用いられ、伝馬継立 (つぎたて)の印判手形がなくても通行した。

[藤村潤一郎]

近世

近世には五街道、東廻 (ひがしまわり)、西廻海運が整備され、各種の飛脚が存在した。しかしまだ不明の点が多い。

[藤村潤一郎]

飛脚と大名飛脚

まず幕府、大名の飛脚については、江戸が政治上の中心地であり、京、大坂、長崎、甲府、駿府 (すんぷ)など主要都市との連絡のため、幕府の継 (つぎ)飛脚が各宿に準備されていた。継飛脚は川留 (かわどめ)に際しては最初に渡河し、江戸―大坂間では4~5日で通行している。

 大名は国元と江戸屋敷、大坂蔵 (くら)屋敷とを連絡するため飛脚が必要で、尾張 (おわり)、紀州藩などの七里飛脚(七里ごとに小屋を置く)、加賀藩前田氏の江戸三度(月に三便)などが有名で、街道に独自の飛脚小屋を設けた場合もあるが、時期によっては町飛脚に請け負わせたこともある。脚夫は一般には足軽 (あしがる)によるか、町飛脚によっている。藩領内では城下町と主要な地点を結ぶ定期的な飛脚があった。このほかに大名の参勤交代に関係して通日雇 (とおしひやとい)がある。上下 (じょうげ)とも称する。江戸、京都、伏見 (ふしみ)、大坂のそれが有名で、江戸では六組 (むくみ)飛脚とも称している。これらは通信にも従事しているが人宿 (ひとやど)的性格が強く、人足は雲助に近い者もいたと考えられる。街道沿いの城下町には日雇頭があり、彼らも通日雇に従事していたようである。

[藤村潤一郎]

飛脚

飛脚については三都間のものが有名である。江戸の相仕 (あいし)(取引相手の問屋)として京、大坂があり、三都の問屋が互いに連絡をとって営業を行った。これらはともに定期的な飛脚を意味する語を問屋名とし、江戸は定 (じょう)飛脚、京は順番飛脚、大坂は三度飛脚と称した。また京飛脚など地名を冠した飛脚は、その地名地宛 (あ)ての飛脚であることを意味している。なお三度飛脚とは、もともと幕府の京、大坂、駿府御番衆宛ての公用の飛脚(月三往復)だが、転じて定期的な町飛脚を意味することばにもなった。おそらく町飛脚が前者の仕事を請け負ったことなどから転化したのではあるまいか。

 町飛脚の道中での運行を指示するのは宰領 (さいりょう)(才領)である。彼らはおそらく都市の細民層に属し、道中での人足や馬持を採用したり、なだめすかしたりして仕事をし、街道筋では顔を知られた存在であった。人足と馬持は街道付近の農民の副業として行われ、一部には雲助もいたはずである。途中の飛脚宿は脇本陣 (わきほんじん)や宿屋が兼ねている。人足はかならずしも宿継 (しゅくつぎ)ではなく、とくに早飛脚の場合には、道中で遅れて請負刻限が迫ると、早駕籠 (かご)を使用する例もある。瀬戸内海では陸路でなく早船を利用する場合があった。絹、生糸などの荷物は、宰領が率いて数頭の馬持が一種のキャラバンを組織している。

 三都の飛脚問屋が全国を完全に連絡しているのではない。各都市中心に個別地との飛脚がある。これと都市の宿屋との関係は明らかでない。また農村と都市の連絡には定飛脚もあるが、特定の物資を運ぶ者が書状を請け負う可能性があり、書状を運ぶ者が買い物を頼まれる場合もある。都市内では町飛脚はチリンチリンの飛脚などと称せられ、鈴をつけている場合がある。彼らは長屋の住人であり、主要な顧客の一つに遊廓 (ゆうかく)がある。駕籠 (かご)かきなども書状を請け負っている。

 明治期になり郵便が成立して書状は飛脚から離れたが、一部では荷物の運搬は飛脚によって行われた。

[藤村潤一郎]



継飛脚[百科マルチメディア]
継飛脚[百科マルチメディア]

幕府公用の飛脚で、江戸を中心に主要都市間に公用文書を送達した。宿継(しゅくつぎ)のリレー方式で、2人1組となり、昼間は1人が肩代わりとして、夜間は1人が提灯(ちょうちん)を持って走った。葛飾北斎(かつしかほくさい)画『富嶽百景(ふがくひゃっけい)』 「暁の不二(ふじ)」(部分)国立国会図書館所蔵


町飛脚[百科マルチメディア]
町飛脚[百科マルチメディア]

定飛脚(じょうびきゃく)を指揮・監督する宰領を描く。三度笠に半纏(はんてん)・胸当てを着け、明け荷に「定飛脚」の絵符がさしてある。『東海道名所図会』 巻4(部分)国立国会図書館所蔵
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検索ヒット数 2532
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検索コンテンツ
1. 飛脚画像
日本大百科全書
問屋名とし、江戸は定じょう飛脚、京は順番飛脚、大坂は三度飛脚と称した。また京飛脚など地名を冠した飛脚は、その地名地宛あての飛脚であることを意味している。なお三度
2. 飛脚
世界大百科事典
seurといわれた。→駅伝制松原 秀一 上下(飛脚) 脚力 飛駅 継飛脚 七里飛脚 定(じよう)飛脚 順番飛脚 三度飛脚 十七屋 長崎飛脚 町飛脚 ウェレダリイ
3. ひ‐きゃく【飛脚】画像
日本国語大辞典
七日間で通信の速達にあたり、鎌倉飛脚・六波羅飛脚・関東飛脚といった。その後、駅伝の法が衰退したが、戦国末期に復活、江戸幕府が通信機関として採用し、その整備に努め
4. ひきゃく【飛脚】[頭見出し]
故事俗信ことわざ大辞典
飛脚(ひきゃく)に三里(さんり)の灸(きゅう)・飛脚(ひきゃく)は定番(じょうばん)の者(もの)を羨(うらや)む
5. ひ-きゃく【飛脚】
全文全訳古語辞典
中世には、京と鎌倉の間を早馬で七日間で連絡した。近世には、幕府公用のための「継ぎ飛脚」、大名が設けた「大名飛脚」、民間の「町飛脚」がある。
6. 飛脚[図版]画像
国史大辞典
人倫訓蒙図彙 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
7. ひきゃく【飛脚】画像
国史大辞典
ある。三度飛脚は大坂・二条・駿府御番衆の連絡である。公事関係書類を各地に配達する飛脚もあった。大名飛脚は江戸の藩邸と、大坂の蔵屋敷、国元とを連絡する。尾州・紀州
8. 飛脚(ひきゃく)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1327ページ
9. 【飛脚】ひきゃく
新選漢和辞典Web版
《国》 ①急用を遠くへ知らせる使い。 ②江戸時代に、手紙や品物を送り届ける人。
10. ひきゃく【飛脚】[方言]
日本方言大辞典
(1)二人一組で行く死亡通知の使者。 東京都旧市域309東京方言集・旧市域の訛語(斎藤秀一)1935 八王子311八王子の方言(塩田真八)1965 神奈川県津久
11. ひきゃく【飛脚】[標準語索引]
日本方言大辞典
とーかい / はしり / はしりつかい / はやみち最終便のひきゃく:飛脚おとびきゃくひきゃく:飛脚屋なかずかい
12. ひきゃく【飛脚】[標準語索引]
日本方言大辞典
とーかい / はしり / はしりつかい / はやみち最終便のひきゃく:飛脚おとびきゃくひきゃく:飛脚屋なかずかい
13. ひきゃく‐こばや【飛脚小早】
日本国語大辞典
〔名〕「ひきゃくぶね(飛脚船)」に同じ。〔和漢船用集{1766}四・海舶之部〕
14. ひきゃく‐せん【飛脚船】
日本国語大辞典
〔名〕(1)「ひきゃくぶね(飛脚船)」に同じ。(2)郵便物・貨物・旅客を積載して、定期航海する船。郵便船。郵船。*海外新聞‐一号・元治二年〔1865〕三月一三日
15. ひきゃくせん【飛脚船】
国史大辞典
船賃銀二百四十匁、ほかに飯代銭百文ずつで、昼夜兼行に近い航海をして予定どおり大坂に到着している。 (二) 蒸気飛脚船。慶応三年(一八六七)九月、江戸幕府が廻船御
16. ひきゃく‐だより【飛脚便】
日本国語大辞典
〔名〕飛脚によってもたらされる手紙。*いさなとり〔1891〕〈幸田露伴〉二六「此間惣十郎から飛脚音信(ヒキャクダヨリ)のあったを何事かと驚いて見たれば」
17. ひきゃく‐ちん【飛脚賃】
日本国語大辞典
〔名〕飛脚に、信書・金銭・小貨物などの送達の手間賃として支払う賃金。*随筆・耳〓〔1784~1814〕六・鍛冶屋清八が事「飛脚賃として五両渡しける
18. ひきゃく‐ぢょうちん[‥ヂャウチン]【飛脚提灯】
日本国語大辞典
〔名〕飛脚の携帯した弓張提灯。*万金産業袋〔1732〕一「箱てうちん〈略〉三番。九寸五分 八寸飛脚てうちん 小てうちん七寸」*歌舞伎・霊験曾我籬〔1809〕二幕
19. ひきゃく‐どいや[‥どひや]【飛脚問屋】
日本国語大辞典
〔名〕飛脚を仕立てることを業とする問屋。飛脚屋。*浄瑠璃・冥途の飛脚〔1711頃〕下「十七軒の飛脚どい屋」
20. ひきゃくどんやあと【飛脚問屋跡】愛知県:名古屋市/中区/伝馬町
日本歴史地名大系
衆御触留)。江戸在勤の諸士に広く利用されたらしい。享保八年(一七二三)五月、藩士の私用に備え定飛脚を置き、毎月五日、一〇日、一六日、二〇日、二六日に発送した(御
21. 飛脚(ひきゃく)に三里(さんり)の灸(きゅう)
故事俗信ことわざ大辞典
健脚の飛脚が三里に灸をすえる。ますます勢いを加える、ますます速いことのたとえ。「三里」は、ひざがしらの下、外側の少しくぼんだところの灸点で、ここに灸をすえると足
22. 飛脚(ひきゃく)は定番(じょうばん)の者(もの)を羨(うらや)む
故事俗信ことわざ大辞典
仕事でとび歩く飛脚が、動かないで城を守る定番の者をうらやむ。他人のことはなんでもよく見えるというたとえ。〔譬喩尽(1786)八〕
23. ひきゃく‐ばた【飛脚旗】
日本国語大辞典
で用いたという。*春日山日記〔18C初か〕二〇「飛脚旗の事。是は其所に次々旗を立て、或は二里・三里、或は五里・十里へも刹那に其事を通するを飛脚とも或は脚力旗とも
24. ひきゃく‐びん【飛脚便】
日本国語大辞典
二四日「飛脚便を可成丈簡便自在に致し候儀」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第一部・下・八・五「聞書その他の飛脚便によっても御承知のことと思ふ」
25. ひきゃく‐ぶね【飛脚船】
日本国語大辞典
日切(ひぎり)といった。飛脚飛脚小早。ひきゃくせん。*俳諧・猿蓑〔1691〕三「初潮や鳴門の浪の飛脚舟〈凡兆〉」*浮世草子・西鶴織留〔1694〕一・一「伏見よ
26. 飛脚船(ひきゃくぶね)
古事類苑
器用部 洋巻 第2巻 674ページ
27. ひきゃく‐まけ【飛脚負】
日本国語大辞典
〔名〕飛脚のための賃銀が高くつくため、商品を送っても利益にならないこと。〓[0]
28. ひきゃく‐みち【飛脚道】
日本国語大辞典
〔名〕飛脚の歩み得る道のり。*甲陽軍鑑〔17C初〕品三七「飛脚(ヒキャク)みち三日路」〓[ク]
29. ひきゃく‐や【飛脚屋】
日本国語大辞典
〔名〕(1)飛脚を仕立てることを業とする家。飛脚問屋。また、飛脚を業とする人。*浄瑠璃・心中重井筒〔1707〕中「火廻半へひきゃく屋が何も御用はござりませぬか」
30. 飛脚屋(ひきゃくや)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1333ページ
31. ひきゃく‐やど【飛脚宿】
日本国語大辞典
「三嶋新町ぬまづ屋九良兵衛と申飛脚宿」*雑俳・もみぢ笠〔1702〕「ならべたり・同じ枕に飛脚宿」*浄瑠璃・冥途の飛脚〔1711頃〕上「暮れるを待たずとぶ足の、飛
32. 飛脚帳(著作ID:324243)
新日本古典籍データベース
ひきゃくちょう 通信 
33. 飛脚天狗金持自慢(著作ID:4129695)
新日本古典籍データベース
ひきゃくてんぐかねもちじまん 笠亭仙果一世(りゅうていせんか1せい) 作 森川高国(もりかわたかくに) 画 合巻 
34. ひきゃくどり【飛脚鳥】[方言]
日本方言大辞典
鳥つつどり(筒鳥)。 滋賀県007鳥類ノ方言(農林省農務局)1925
35. 飛脚請負人 (見出し語:請負人)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1329ページ
36. 飛脚宰領 (見出し語:宰領)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1335ページ
37. 飛脚賃錢 (見出し語:賃錢)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1352ページ
38. 飛脚問屋組合 (見出し語:問屋)
古事類苑
政治部 洋巻 第4巻 1338ページ
39. 蒸氣飛脚船 (見出し語:飛脚船)
古事類苑
器用部 洋巻 第2巻 638ページ
40. 薩摩(さつま)飛脚(びきゃく)
故事俗信ことわざ大辞典
薩摩へ行く隠密。行ったままで再び帰らない人。薩摩藩が国の秘密を守るために他国からの隠密を生きて帰さなかったところからいう。〔諺語大辞典(1910)〕
41. 地獄(じごく)から飛脚(ひきゃく)に来(き)たよう
故事俗信ことわざ大辞典
やせ衰えて疲れ果てたさま。地獄から火を取りに来たよう。 俚言集覧(1818頃)「地獄から飛脚に来たやう」〔日本俚諺大全(1906~08)〕
42. 冥土(めいど)の飛脚(ひきゃく)
故事俗信ことわざ大辞典
「冥土の旅」に同じ。〔諺語大辞典(1910)〕
43. 幽霊(ゆうれい)の飛脚(ひきゃく)に来(き)たよう
故事俗信ことわざ大辞典
顔色が青ざめて、すっかり疲れきっているさまのたとえ。 俚言集覧(1818頃)「幽霊の飛脚に来たやう」〔諺語大辞典(1910)〕
44. あいひきゃく【間飛脚】
国史大辞典
大坂在番関係の飛脚である三度飛脚を請け負った延享二年(一七四五)の江戸・大坂両飛脚問屋の証文によると、三度飛脚は道中八日・九日限で、これが定飛脚と考えられるが、
45. あい‐びきゃく[あひ‥]【間飛脚】
日本国語大辞典
延享二年(一七四五)江戸、大坂の飛脚仲間が協定して設けた早飛脚。五日限、六日限、七日限の三種がある。差込幸便。*駅逓志稿考証〔1881〕九〇二「十月江戸、大坂、
46. うおに‐びきゃく[うをに‥]【魚荷飛脚】
日本国語大辞典
〔名〕江戸時代、大坂、堺と京都の間を往復した飛脚。魚荷を運搬するかたわら飛脚も兼ねたところからいう。うおに。
47. うま‐はやびきゃく【馬早飛脚】
日本国語大辞典
〔名〕江戸時代、馬を用いて行なった飛脚。宝永の初めごろ、江戸の若狭屋忠右衛門らが考案し、江戸大坂間に一七か所の継立所(つぎたてしょ)を設け、三日半で到達した。の
48. 江戸の定飛脚問屋[図版]画像
国史大辞典
梅川忠兵衛 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
49. えど‐びきゃく【江戸飛脚】
日本国語大辞典
往復した町飛脚。月に三度、大坂を出発するところから、三度飛脚、三度屋、また、往来に各六日を要したので定六ともいった。*俳諧・渡奉公〔1676〕下・夏「けふかけて
50. えどびきゃく【江戸飛脚】[頭見出し]
故事俗信ことわざ大辞典
江戸飛脚(えどびきゃく)と赤子(あかご)の名(な)とは六日目(むいかめ)に着(つ)き付(つ)く
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沙汰(日本国語大辞典・全文全訳古語辞典・国史大辞典)
焼いた薩摩芋。《季・冬》*評判記・秘伝書〔1655頃〕下ほんの事「やきぐり、やきいもは、いきくさくなる也」*俳諧・骨書〔1787〕上「朝の月狩の竹鑓手束弓〈青蘿〉 来かかるものが焼芋を喰ふ〈樗良〉」
ちゃく‐なん【嫡男】(日本国語大辞典)
正妻の生んだ最初の男子。嫡出の長男。嫡子。*今昔物語集〔1120頃か〕二〇・三三「此の一の衣をば我が嫡男也汝に与ふ」*吾妻鏡‐治承四年〔1180〕八月一〇日「秀義以〓嫡男佐々木太郎定綱〓〈略〉申〓送武衛〓」
湯屋(日本大百科全書(ニッポニカ))
もと寺院には浴堂というものがあり、そのほかに大衆用の潔斎浴場として別に設けた建物があって、これを大湯屋と称した。沐浴には、湯気で身体を蒸す蒸し風呂形式と、温湯に身体を浸す行水形式があった。寺院では僧尼の潔斎のため、釜湯を別の湯槽に入れて行水することも早くから行われたが
長屋(日本大百科全書(ニッポニカ))
一棟の建物を数戸の家にくぎった形式で、長家とも書く。中世の町家に多くみられるが、規格化されたのは戦国時代、山城の麓に建てられた根小屋に始まる。雑兵の休泊所で、一単位の間口九尺(約2.7メートル)、奥行二間(約3.6メートル)という最小の居住空間の連続である。
江戸っ子(改訂新版・世界大百科事典)
都市江戸で生まれ育った,きっすいの江戸の人の意。根生いの江戸住民であることを自負・強調する際に多く用いられた。それも武士ではなく,おもに町人の場合である。江戸っ子は,物事にこだわらず金ばなれがよく,意地と張りを本領とし正義感が強かったが,反面,けんかっ早くて軽率だといわれた。
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天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
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河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
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