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  11. 長篠の戦

長篠の戦

ジャパンナレッジで閲覧できる『長篠の戦』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

長篠の戦
ながしののたたかい
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城(城主菅沼正貞)を攻めた。八月中旬、武田方であった作手城二ノ丸の奥平貞能・信昌父子が家康の誘いに応じて家康に走り、ついに九月八日には長篠城も開城した。天正二年に入ると、武田氏の家督を継いだ勝頼がみずからの地位を安定させ、しきりに活動を始めた。二月美濃に侵入して明智城を落とし、三月には三河国足助(あすけ)口に侵入、五月十二日からは徳川方の遠江における前線基地高天神城(城主小笠原長忠)を攻め、約一ヵ月の攻防の末落とした。翌天正三年二月二十八日家康は武田氏の攻撃に備え奥平信昌を長篠城主にし、城の規模を大幅に拡張させた。四月勝頼は大兵を率いて信濃から三河に出、二十一日長篠城を囲み、五月六日二連木・牛久保を侵し吉田城を攻めたが小戦闘を行なっただけで引き返し、十一日主力をもって再び長篠城を囲み、以後瓢丸、三ノ丸、弾正曲輪を占領した。家康は単独では武田氏と戦闘する実力がなく、信長に援軍を乞い、五月十三日信長は岐阜を発し、十四日岡崎に入り、十七日野田に着陣した。これより先、長篠城から援軍の派遣を要請するため遣わされた鳥居強右衛門(すねえもん)は、十五日岡崎に至り援軍の来ることを知りすぐ引き返したが長篠城付近で武田軍に捕えられ、磔になった。しかし、死ぬ間際、援軍が来ることを城内に伝えたので城兵の士気は鼓舞された。十八日信長は設楽郷の極楽寺山に陣を構えた。武田軍の得意とするのは騎馬戦法であったので、信長は連子川の西方に馬を塞ぐ柵を構え、その後ろに諸部隊を布陣させた。二十日信長は味方の損害を少なくしようと考え、家康の老臣酒井忠次を大将とする二千ばかりの兵に信長の鉄砲隊五百と金森長近らの目付を添え、南の深山を迂回して鳶ノ巣山の武田軍を攻撃させ、翌日勝利を得た。一方、勝頼は十九日から二十日にかけて寒狭川を越え、才ノ神の丘陵に本陣を移し、二十一日午前六時ころ信長・家康の陣を攻撃した。この日の連合軍の配備は、右翼に徳川軍、中央は信長の部将滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、左翼に信長の部将佐久間信盛、水野信元、信長は中央後方の弾正山北部に陣を移しており、後方の御堂山には予備隊の織田信忠がいた。『信長公記』によれば、総勢三万、対する武田軍は一万五千という。武田軍の先鋒は山県昌景で、家康軍に対して攻撃を開始したが家康軍は鉄砲をもって防戦し、それを退けた。ついで、武田軍の二番武田信廉、三番小幡一党、四番武田信豊、というようにつぎつぎに武田軍が連合軍に騎馬で攻めかかっていったが、柵の中から攻撃する鉄砲に悉く防がれ、山県昌景・内藤昌豊・土屋昌次らの部将を含めた大損害を受け退いた。勝頼は、戦況の悪化を見て一度は決死の攻撃を懸けようともしたが、周囲に留められ近習数騎とともに信濃をさして敗走、信長はそれを見るや味方の進撃を指令し、武田軍の名のある侍を多数討ち取り大勝利となった。『信長公記』によると武田軍の損害は雑兵をあわせて一万余としている。これほどではないにしても壊滅的打撃を蒙ったことがわかる。この合戦の意義は、織田・徳川・武田三氏の勢力関係がまったく一変したことにある。すなわち、元亀三年(一五七二)三方原の戦に敗北した家康は武田氏の強勢の前に著しい苦況に陥っていたが、この戦を契機に勢力を回復し、関東方面へ計略の手を伸ばすことが可能になり、信長も背後に憂いなく畿内、北陸、中国などに勢力を伸ばすことが可能になった。一方、勝頼はこのあと十一月美濃の岩村城を、十二月遠江の二俣城を取られるなど敗北を重ね、以後衰勢を盛り返すことはできず、天正十年三月、信長によって滅ぼされることになる。また、鉄砲の組織的活用の画期がこの戦いであった。信長は鉄砲隊を三段に重ねて、第一列の兵は射撃のあと後ろにさがり、第二列、第三列が撃つ間に弾を込めるというように、連続的に火縄銃を使用する戦法をあみだした。この戦法の大成功により、武田氏に代表される騎馬中心の戦法から鉄砲主体の戦法へと戦の主流が移った。信長は武田軍と戦うため岐阜を出る時からこの戦法を考えており、上方付近に残して来た部隊および細川藤孝や筒井氏らから鉄砲隊を集め、さらに柵の木一本、縄一把を各人に持参させている。
 史料は、何点か残っている当時の書状のほか、合戦の一般的経過を見るには太田牛一の『信長公記』が最も信頼できる記事を持ち、『当代記』も重要である。家康家臣による記録として、『家忠日記増補』『三河物語』『大須賀記』『松平記』『創業記考異』があり、戦闘の重要な側面についての記事がある。公家の記録では、『兼見卿記』『多聞院日記』に伝聞ながら貴重な記事がある。武田方の記述は『甲陽軍鑑』が最も詳しくかつほかにほとんど存在しないのであるが、内容は問題点が多い。後世の編纂物では、『総見記』『三河記』『武徳編年集成』『浜松御在城記』などが参考になり、『治世元記』『大三川志』などの史料的価値はそれらより落ちる。『三州長篠戦記』は、記事は詳細であるが、成立年代が遅く信頼できない。『本多家武功聞書』『奥平美作守書上』などの聞書や先祖の武功の書上などは多数の人物のものがあるので比較すればかなり合戦の実態に迫れるといってよい。これらは江戸幕府の手によって『寛永諸家系図伝』『譜牒余録』『寛政重修諸家譜』などの形に網羅的に編纂されている。『朝野旧聞〓(ほうこう)』も史料が多数収録されていて貴重である。『長篠合戦図屏風』は『甫庵信長記』『甲陽軍鑑』などをもとに後世描かれたものである。
[参考文献]
参謀本部編『長篠役』(『日本戦史』)、高柳光寿『長篠の戦』(『新書戦国戦記』六)、渡辺世祐「鉄砲利用の新戦術と長篠戦争」(『国史論叢』所収)
(山本 博文)


日本大百科全書(ニッポニカ)

長篠の戦い
ながしののたたかい

1575年(天正3)三河国長篠(愛知県新城 (しんしろ)市)において行われた、武田勝頼 (たけだかつより)と徳川家康・織田信長連合軍との合戦。長篠は信濃 (しなの)(長野県)飯田 (いいだ)から伊那 (いな)の山間部を縫って三河吉田(豊橋 (とよはし)市)に通じる要路上に位置し、城は豊川 (とよがわ)上流の三輪川 (みわがわ)・寒狭川 (かんさがわ)合流点の段丘上に築かれていた。そのため甲斐 (かい)(山梨県)から西上の機をうかがう武田氏と、三河の徳川氏との争奪が繰り広げられ、1573年(天正1)武田信玄 (しんげん)が没すると徳川家康は長篠城を奪還、奥平信昌 (おくだいらのぶまさ)を城将とした。

 父信玄の遺志を継いだ武田勝頼は、足利義昭 (あしかがよしあき)の招致を受けて西上の志をたて、1574年6月徳川方の遠江 (とおとうみ)高天神城 (たかてんじんじょう)(静岡県掛川 (かけがわ)市)を陥れ、ついで1575年4月長篠城を包囲した。急報を受けた家康はただちに盟友織田信長の援軍を請い、信長は5月14日岐阜から岡崎に着陣、家康とともに長篠城救援に向かった。このとき長篠城から岡崎へ使者にたった鳥居強右衛門 (とりいすねえもん)が、帰路武田方に捕らえられ、城内へ援軍の到来を叫び報じて磔 (はりつけ)に処せられた話は有名。信長は岐阜出発の時点からこの合戦において鉄炮 (てっぽう)を主戦力として用いることを計画し、3000挺 (ちょう)の鉄炮を準備、長篠城の西方設楽原 (したらがはら)に馬防柵 (ばぼうさく)を築いて陣を敷いた。勝頼も兵を設楽原へ移し、徳川・織田連合軍と対峙 (たいじ)した。5月21日徳川の将酒井忠次 (さかいただつぐ)らは武田方の鳶ヶ巣山砦 (とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。後方を攪乱 (かくらん)された武田軍は設楽原決戦を挑み、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に妨げられ、信長の側近部将が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びて多数の将士を失った。

 一般に、この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとったと伝えられている。これに対して、実技上の見地からこの戦法が可能であったかどうか疑問とする説もある。戦いは午前8時ごろから午後2時ごろに及び、無勢となった武田軍は敗走、勝頼も身一つで信濃へ逃れた。武田方の戦死者は山県昌景 (やまがたまさかげ)、土屋昌次 (つちやまさつぐ)、馬場信房 (ばばのぶふさ)などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10)滅亡を招いた。

 この戦いにおいて、徳川・織田連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。

[渡辺江美子]



世界大百科事典

長篠の戦
ながしののたたかい

1575年(天正3)5月21日に織田信長,徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を三河の設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で破った合戦。武田信玄の没後,家康が長篠城を取り返したので,勝頼は前年に遠江高天神(たかてんじん)城を陥れた勢いに乗り,75年4月21日約1万(兵員数には諸説がある)の軍勢で長篠城を囲んだ。5月15日鳥居強右衛門(すねえもん)を使者にしての城主奥平信昌の請いにより,勝頼軍の約3倍の兵員で家康,信長の連合軍が救援におもむき,長篠城の西約2kmの設楽原で連吾川を前にして三重の馬防柵を築き,3000挺の鉄砲を配備して武田勢を待った。これに対し武田勢は午前6時ごろより午後2時ごろまで騎馬隊による突撃を繰り返したが,柵にはばまれて敵陣に入ることができず,しかも鉄砲の一斉射撃を浴びて壊滅的な打撃をうけた。連合軍のとった戦術は,大きな合戦での鉄砲使用ということで画期的なものであり,以後の戦争に大きな影響を与えた。武田氏はこの敗戦で衰退に向かった。
[笹本 正治]

[索引語]
織田信長 徳川家康 武田勝頼 設楽原 長篠城 鉄砲(武器)
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1. 長篠の戦
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1575年(天正3)5月21日に織田信長,徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を三河の設楽原(したらがはら)(現,愛知県新城市)で破った合戦。武田信玄の没後,家康が長
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3. 長篠の戦
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4. ながしの の 戦(たたか)い
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1575年(天正3)三河国長篠(愛知県新城(しんしろ)市)において行われた、武田勝頼(たけだかつより)と徳川家康・織田信長連合軍との合戦。長篠は信濃(しなの)(
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本州、太平洋岸のほぼ中央に位置する県。県庁所在地の名古屋市は別に「中京」ともよばれている。 大化前代には尾張(おわり)、三河、穂(ほ)の3国に分かれていたが、大
8. あかぞなえ【赤備】
国史大辞典
赤ごしらえとして、隊士全員に及んだのであり、武田配下の甲州武士の所用が著名である。初見は『総見記』には、長篠の戦に山県昌景の隊を赤旗赤備としているが、『信長公記
9. あつみ-かつよし【渥美勝吉】
日本人名大辞典
織豊時代の武士。弘治(こうじ)3年生まれ。徳川家康につかえ,天正(てんしょう)3年(1575)の長篠の戦いなどでおおくの功をたて,敵の首をとること無数,頸取(く
10. 安土桃山時代
日本大百科全書
時代区分 織田信長(おだのぶなが)と豊臣秀吉(とよとみひでよし)とがそれぞれ政権を掌握した時代の名称。織豊(しょくほう)時代(織田豊臣時代)ともよばれる。安土時
11. あまのし【天野氏】
国史大辞典
天野氏は北方の武田氏、南方の徳川氏の二大勢力にはさまれたが、結局武田氏に属した。天正三年(一五七五)三河長篠の戦によって武田氏が打撃を受けると、天野氏は徳川氏に
12. あめやまむら【雨山村】愛知県:額田郡/額田町
日本歴史地名大系
天正元年(一五七三)奥平貞能・信昌父子宛に家康の本領安堵・新領給恩起請文(徳川家康文書の研究)が長篠の戦前に出されているから、同一八年吉田(現豊橋市)城主池田輝
13. あんなかし【安中市】群馬県
日本歴史地名大系
安中氏と結んだ長野氏の箕輪城(現群馬郡箕郷町)も同九年落城、長野氏一族は自刃し、安中氏一族も長篠の戦で全滅した。〔近世〕天正一八年(一五九〇)徳川家康の関東入国
14. あんなかじょうあと【安中城跡】群馬県:安中市/安中城下
日本歴史地名大系
ともども起請文を提出して武田方への臣従を誓ったが(生島足島神社文書)、天正三年(一五七五)の長篠の戦で討死して城は廃絶、「農民の畑」(安中志)になったという。「
15. いおうじ【医王寺】愛知県:南設楽郡/鳳来町/長篠村
日本歴史地名大系
を寄進、慶長八年(一六〇三)四一石余の朱印地を付せられている。裏山を医王寺山といい、天正三年長篠の戦で、武田勝頼はこの山を本陣として、長篠城を包囲攻撃した。同年
16. いこまちかまさ【生駒親正】画像
国史大辞典
母は曾根氏。永禄九年(一五六六)織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に従って身を起し、天正三年(一五七五)の長篠の戦、四年の本願寺征伐、五年の紀州雑賀一揆討伐、六年の美
17. いっきこうぞうのかいたいとてんかびと【一揆構造の解体と天下人】 : 織豊政権
国史大辞典
の統治に乗りだした。同年越前の朝倉義景、近江の浅井長政を滅ぼし、天正三年には徳川家康と結んで長篠の戦に武田勝頼を破り、その後も石山本願寺と一向一揆や荒木村重の叛
18. いぬいじょう【犬居城】
国史大辞典
天野は武田の陣営に走ったので、長篠の戦の前後二度にわたり徳川家康の攻撃をうけていた。天正二年(一五七四)の犬居攻撃は長篠の戦の前哨戦として、この城の難攻不落ぶり
19. いわくらじんじゃ【石座神社】愛知県:新城市/大宮村
日本歴史地名大系
)八月、和志津村田地五町八反を牧野右馬丞より寄付の文書ありと伝えている。織田信長・徳川家康が長篠の戦に戦勝祈願を行ったといい、新城藩主菅沼氏の崇敬もあつかった。
20. えなぐん【恵那郡】岐阜県
日本歴史地名大系
御坊丸は人質として甲府に送られた。天正元年(一五七三)武田信玄が病没し、同三年織田・徳川連合軍は長篠の戦で武田勝頼を破り、余勢をかって岩村城を攻撃、岩村城・明知
21. 大久保忠世
世界大百科事典
,織田氏との合戦に功があった。永禄末年,一手役(ひとてやく)(一軍団を預かる部将)となった。長篠の戦など武田氏との合戦にも戦功多く,遠州二俣城を与えられた。関東
22. おおわむら【大輪村】愛知県:南設楽郡/鳳来町
日本歴史地名大系
寒狭川と当貝津川との合流点の南にある。寒狭川河岸の岩上に祀られる弁財天は、長篠城主奥平貞昌が、長篠の戦で救援の使者を勤めた鳥居強右衛門の任務に対して御礼として建
23. 奥平氏
世界大百科事典
昌は今川氏,4代貞勝,5代貞能は松平氏(一時は武田氏)に属す。6代信昌は1575年(天正3)長篠の戦に大功を立て徳川家康の娘亀姫をめとり,1601年(慶長6)美
24. 奥平信昌
日本大百科全書
一時武田家に味方したが、まもなく帰参して三河の長篠(ながしの)城を預かる。75年(天正3)の長篠の戦いでは、武田勝頼(かつより)の大軍の包囲に堪えて城を固守し、
25. 奥平信昌
世界大百科事典
一時は武田信玄に属したが信玄没後再び家康に帰順。75年(天正3)武田勝頼の攻囲にたえて長篠城に籠城し,長篠の戦勝利への道を開いた。翌年三河の新城に城を築き,家康
26. おくだいらのぶまさ【奥平信昌】
国史大辞典
任えた。元亀元年(一五七〇)の近江姉川の戦には父とともに出陣している。天正三年(一五七五)の長篠の戦では、武田勝頼の大軍に包囲された三河の長篠城を固守して、織田
27. 織田信忠
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。信長の嫡子。幼名奇妙(きみょう)、菅九郎(かんくろう)を名のる。1572年(元亀3)北近江(おうみ)に初陣して浅井長政(ながまさ)
28. おだのぶただ【織田信忠】画像
国史大辞典
功を立てた。天正二年(一五七四)伊勢長島の一向一揆の討伐には東の市江口の大将を勤め、翌年には長篠の戦に参加して勝利を収め、その余勢をかって武田氏の属城である美濃
29. 織田信長
世界大百科事典
)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の
30. おだ-のぶなが【織田信長】
日本人名大辞典
浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利し,伊勢(いせ)長島の一向一揆(いっき)を鎮圧,武田軍との長篠の戦いにも勝利。4年近江(おうみ)に安土城をきずく。天下統一を
31. おだのぶなが【織田信長】
日本架空伝承人名事典
七三年(天正一)ついに幕府を倒し、宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし、翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧、七五年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し、ま
32. おばたはん【小幡藩】
国史大辞典
奥平氏は甘楽郡奥平郷の出身と伝え、戦国時代末、徳川家康に属して信昌の時三河国長篠城を預かり、長篠の戦に功をあげた。信昌は家康の女(加納殿)を室とし、次男家治、四
33. おばた-まさもり【小幡昌盛】
日本人名大辞典
小幡景憲(かげのり)の父。武田信玄・勝頼2代につかえ,旗本足軽大将衆となる。川中島,三方原,長篠の戦いなどに出陣。武田氏滅亡5日前の天正(てんしょう)10年3月
34. かいのくに【甲斐国】画像
国史大辞典
信玄堤は今も有名である。勝頼は父のあとをつぎ、織田・徳川両氏に対抗したが、天正三年(一五七五)長篠の戦に大敗して勢威を失墜、同十年三月天目山下に悲劇的滅亡を遂げ
35. かきひらむら【柿平村】愛知県:額田郡/額田町
日本歴史地名大系
村域内には片寄天恩寺末の華蔵院・無着庵・隣松庵・遊仙寺の四ヵ寺がある。ことに遊仙寺は甲斐国武田氏方の人質で長篠の戦の際に天正元年に鳳来寺で処刑された奥平仙千代の
36. かじまのしょう・かじま【加島庄・加島】静岡県:富士市
日本歴史地名大系
五貫文は彦大夫分)ほかを与えている。当地は天正二年までは武田氏の直接支配であったが、同三年の長篠の戦での敗戦以降、朝比奈信置に支配を任せていたようである。同九年
37. かたのはらし【形原氏】画像
国史大辞典
家広の代より徳川家康に従い、その子家忠は永禄七年(一五六四)小原資良を攻め、天正三年(一五七五)長篠の戦に功をあげ、子家信は同十二年小牧・長久手の戦に従軍し、同
38. 合戦
世界大百科事典
済戦にまで及ぶ近代的様相をおびるに至った。関 幸彦 近世 戦国末から近世初頭に起きた合戦も,長篠の戦が長篠城の攻防に始まり,大坂夏の陣で城側が城外で合戦を挑んだ
39. かっせんえ【合戦絵】
国史大辞典
』『平家物語』『太平記』『曾我物語』などに取材したものが多く、記録的なものでは、川中島の戦、長篠の戦、賤ヶ岳の戦、小牧・長久手の戦、関ヶ原の戦、大坂の陣、島原の
40. 甲子夜話三篇 5 54ページ
東洋文庫
されども信玄の代より天下に名を知られたる勇将剛士あまたありて、隣国より狸に手を出さざりし。天正三年長篠の戦には、織田殿三千人の銃手を立られ、東照神君には三百人の
41. 金森長近
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。通称五郎八、兵部大輔(ひょうぶたいふ)。土岐(とき)氏の支族大畑定近の子に生まれ、のち近江(おうみ)国(滋賀県)金森村に移り、氏を
42. かのうはん【加納藩】
国史大辞典
安藤信友・信尹・信成、永井直陳・尚備・直旧・尚佐・尚典・尚服。初代奥平信昌は天正三年(一五七五)長篠の戦に勇名をはせ、徳川家康の娘亀姫を妻に迎え、関ヶ原の戦のの
43. かみいしもりむら【上石森村】山梨県:山梨市
日本歴史地名大系
社)の神職をいうが、天正五年(一五七七)閏七月一八日に牛奥与三左衛門尉(昌茂)が与えられた、長篠の戦で戦死した兄兵部左衛門尉の本領石森内六〇貫文は(「武田家印判
44. かみひらいむら【上平井村】愛知県:新城市
日本歴史地名大系
村域の東北に極楽寺山があり、布目瓦が出土し古寺跡であることが知られ、かつ天正三年(一五七五)の長篠の戦で織田信長はここに本陣を置いた。東部のタイカに平井神社があ
45. かわかみひさくにざつわ【川上久国雑話】
国史大辞典
整理筆録して一巻となした。内容は多方面にわたるが、慶長の役関係・関ヶ原の戦前後のことを主とし、長篠の戦にもふれており、三分の一ほどは島津氏関係以外の記事を収録し
46. かんばやし-まさしげ【上林政重】
日本人名大辞典
1550−1600 織豊時代の武将,茶師。天文(てんぶん)19年生まれ。徳川家康につかえ,長篠の戦いで功をたてる。のち山城(京都府)宇治で兄久茂(ひさもち)とと
47. かんぼうざん【雁峯山】愛知県:新城市
日本歴史地名大系
東南の新城市側は急斜面をなし、作手村側は緩斜面で比高は少ない。新城市側からは屏風をめぐらしたように屹立し、長篠の戦で鳥居強右衛門勝商が長篠城を脱出して成功の合図
48. がもううじさと【蒲生氏郷】画像
国史大辞典
以後、天正元年(一五七三)近江鯰江合戦、越前朝倉攻め、近江小谷城攻め、同二年長島の合戦、同三年長篠の戦、同六年摂津伊丹城攻め、同九年伊賀国攻略、同十年信州攻略な
49. きだじょうあと【木田城跡】愛知県:東海市/木田村
日本歴史地名大系
立て、その子小太郎美作守善久は三方ヶ原の戦で討死した。小太郎の弟小作遠江守(「雑志」では外戚)は長篠の戦に一八歳で出陣。荒尾氏は信長滅亡後、池田勝入・輝政父子に
50. きんせい【近世】画像
国史大辞典
られる中世荘園支配体制の解消、安土城とその城下町の建設、堺・大津・草津など経済的要地の直轄、長篠の戦で威力をみせた足軽鉄砲隊の編成など、近世的政治権力の前駆とい
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1669年(寛文9)、東蝦夷地(ひがしえぞち)シブチャリ(北海道新ひだか町)に拠点をもつアイヌの首長シャクシャインが起こした蜂起(ほうき)。この蜂起は東西蝦夷地の各地に波及し、鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つ
禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を
天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
生田万の乱(国史大辞典・日本大百科全書)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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