1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方のアイヌ(シュムクル(西の人の意)の一部)との漁猟圏をめぐる争いが続いていたが,1668年4月,ついにシブチャリ・アイヌの首長シャクシャインがハエ・アイヌの首長オニビシを刺殺するという事件に発展した。そのためオニビシ方のアイヌは藩庁に武器援助を要請したが,藩側に拒否されたうえ,使者のウタフが帰途疱瘡にかかり急死した。このウタフ死亡の報は,アイヌの人たちに松前藩による毒殺として伝えられ,この誤報を契機に両集団間の紛争はまったく新たな方向に発展した。すなわち,シャクシャインが東西両蝦夷地のアイヌに檄をとばし,反和人・反松前の蜂起を呼びかけたため,69年6月,東は白糠(しらぬか),西は増毛(ましけ)(ただし石狩アイヌは不参加)に至る東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起,和人の商船や鷹待らを襲撃し,東蝦夷地153人,西蝦夷地120人の和人が殺害された。
このようにシャクシャインの蜂起は,系譜的にはアイヌ民族内部の争いを前提とし,ウタフ毒殺という誤報とシャクシャインの檄を大きな契機にして,民族内部の争いから松前藩に対する全民族的な蜂起へと一挙に質的に変化発展したところに大きな特徴がある。その原因について近世の記録では,和人鷹待や金掘人夫の策動とするものもあるが,事の本質は次の2点にあった。第1は,松前藩の成立と展開,とくに商場知行制と蝦夷地における砂金採取場や鷹場の設置によって,アイヌ民族の収奪や漁猟場の破壊が一段と進み,アイヌ民族はかつてない民族的危機に遭遇していたこと。第2は,アイヌ社会自体が収奪と抑圧の嵐にさらされつつも,和人との関係はいまだ交易を主体にしていただけに,アイヌ民族本来の共同体はまだ破壊されていず,条件さえ整えば共同体首長のもとに立ちあがれるだけの力を内包していたことである。それだけに,この蜂起は松前藩のみならず幕府にも大きな衝撃を与え,幕府は松前氏の一族松前八左衛門泰広(旗本)に出陣を命じ,津軽藩にも出兵を命じた。幕府がアイヌ民族の蜂起に直接的な指揮権を発動したのはこれが最初である。松前藩は急きょ軍隊を編成して鎮圧にのりだし,当初は苦戦したが,鉄砲と毒矢の差,アイヌ勢の分断策もあり,アイヌの勢力はしだいに弱まり,10月シャクシャインは松前軍の奸計でピポク(現新冠町)に誘殺された。その後アイヌの降伏が続出し,71年に最終的に鎮圧された。この過程で松前藩はアイヌに対し絶対服従を誓わせた7ヵ条の起請文を強要したが,これを契機に松前藩のアイヌ民族に対する政治経済的支配は一段と強化された。
©2024 NetAdvance Inc. All rights reserved.