カトリック教会内の司祭修道会の一つ。16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された。耶蘇(やそ)会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。
創立と精神
イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ,A.サルメロン,S.ロドリゲスとともに,1534年8月15日パリのモンマルトルにおいて〈貞潔・清貧・エルサレム巡礼〉の悲願をたてた。36年同日の誓願更新にあたって,さらに3人の友C.ル・ジェ,J.コデュール,P.ブロエが加わった。彼らは37年6月ころイグナティウスの著書《心霊修行(霊操)》の精神に従って自分たちを〈イエズスの友〉と呼ぶことにし,教皇に従うことを決めた。ベネチアからローマへの途上のこと,ローマ近郊のラ・ストラダ小聖堂でイグナティウスは,生涯で最も決定的な神的直観〈イエズスの小さいこの共同体がどこまでも十字架につけられたキリストの友となる〉という恵みを受けたといわれる。この神的直観はイエズス会の心の拠点となった。イグナティウスは38年,復活祭に同志一同をローマに招集し,修道会創立の計画について数週間討議した結果,教皇認可を願うことに決めた。39年9月3日彼らは《会掟草案》を教皇パウルス3世に提出し,口頭で創立の承認を受けたが,同教皇は40年9月27日,これを《イエズス会創立勅書》をもって正式に認可した。41年4月8日イグナティウスが初代総長に選ばれた。イエズス会は〈より大いなる神の栄光のために〉〈諸所をめぐり,神に対するすぐれた奉仕と人類救済のため,希望の存する世界のどこにも居住する〉ことを念願としている。これは〈人間は主なる神を賛美し,敬い,神に仕え,それによって自己の救霊を完成するために創造された〉とする精神に基づいている。
盛衰と現状
イエズス会は修道会史上新転換を画し,一定の修道服や歌唱祈禱などの古い生活形式を廃止して全世界にとび立っていった。創立者イグナティウスの没年(1556)には会士1000,管区12,中興の祖第5代総長アクアビバC.Aquaviva時代(1581-1615)には会士1万3112,管区32に達し,その使徒的活動,学校教育,学問研究は世界各国において進展した。しかし18世紀末の反教会的嵐の中でポルトガル(1759),フランス(1764),スペインやナポリ(1767),その他の国における同会の禁止と追放が断行された。このような政治的圧迫に直面して教皇クレメンス14世は1773年7月21日〈教会の平和のために親しいものさえ犠牲にしなければならない〉と書き,イエズス会解散を命じた。しかし同会はロシアのエカチェリナ2世の下に合法的に生命を保った。ナポレオンの失脚後,教皇ピウス7世はフランス幽閉からローマへ帰還してまもなく,1814年8月7日勅書《全教会の憂慮》をもってイエズス会再興を宣言した。20年ロシアは一転して全国土から会士を追放した。多くの盛衰の運命を体験したが,イエズス会は創立当初の生命力を保持し,教会奉仕に献身した。1983年現在同会は第29代総長コルベンバハP.H.Kolvenbachの指導の下に会士2万6622を有し,管区83に分かれている。日本では,教皇ピウス10世の命令によって,ザビエルの遺産を継ぐべく1908年10月18日再渡来し,上智大学(1911),六甲学院(1937),栄光学園(1947),エリザベト音楽大学(1948),広島学院(1956)の創立その他の使徒的事業に活動を続けている。日本管区は日本人会士と世界各国から集まった会士を合わせて337,国際的性格をもっている。
東アジア・インドにおける活動
ジェスイットと総称される教団会士は,軍隊制度に倣った厳しい規律と強固な結合を誇り,反宗教改革運動と東方伝道にとりくんだ。彼らの出身はポルトガル,スペインをはじめ,イタリア,フランス,オランダ,ベルギーなどであった。ポルトガルの進出に伴って,教団はゴアに本拠を置き,東南アジア,中国,日本を含む広大な〈インド管区〉を布教地域とした。
1549年(天文18),ゴアから東南アジアを経て鹿児島に上陸したザビエルによって日本での布教が始められた。その後,織田信長の保護もあり,フィゲレイドM.de Figuereido,フロイス,バリニャーノらは京都,長崎を中心に教化を進め,17世紀初めには,全国の信徒は約20万人にのぼった。その中から,大村純忠,大友宗麟,有馬晴信らのキリシタン大名もあらわれ,また天正遣欧使節も派遣された。しかし,87年(天正15),豊臣秀吉によるバテレン追放令,1612年(慶長17),徳川幕府によるキリシタン禁教令によって教団は厳しい弾圧を受けた。教団は実践的な布教対策をとるべく,日本の風俗,文化,気候などの理解に努め,その関心のあり方,内容はフロイスの《日本史》,バリニャーノの《日本巡察記》などに詳しくみられる。また《日葡辞書》の編纂や活版印刷術の導入のように,イエズス会がもたらした文化的功績は大きい。
→キリシタン
中国では,リッチが1583年に広東に布教活動の第一歩をしるした。教団は皇帝や中央,地方の士大夫など主として当時の指導層と接触し,彼らの改宗を心がけた。瞿太素,徐光啓,李之藻らの士大夫信徒は暦学・数学・地理学の科学知識を習得し,会士とともにその普及に力を尽くした。イエズス会は,中国の伝統的慣習を受容する布教方針をとり,それは他教団との意見対立をもたらした。やがて〈典礼問題〉を契機として,1706年(康熙45)以降,布教は禁止され,会士も追放された。その後,19世紀半ばまで禁圧された教団は,1842年(道光22)に再び活動を認められ,江蘇,河北,安徽を中心に拡大した。中国のイエズス会受容の要因には,西欧科学技術・知識の吸収があった。そのことは一面,弾圧下にあっても欽天監(国立天文台)の職員などに任じられた中国人信徒を通じて布教の維持を可能にしたが,他面では民衆の教化については弱く,清朝期には仇教運動(反キリスト教運動)の中で民衆の激しい排斥・批判の対象ともなった。
東南アジアでは,16世紀末にスペインの強い影響下にあったフィリピンで,イエズス会は諸教派とともにカトリック勢力の一派を形成した。タイでは,バルグアルネラT.Valguarnera神父を主とするフランス・イエズス会が要塞その他の建築の設計・技術を援助し,ナライ王の信を得た。そのため17世紀後半の20余年間に,バンコク,アユタヤ,ピサヌロークに教会,学校,病院を開設して,布教,医療活動に従事し,その他タイ文字のローマ字化を行った。
インドでは教団の本拠地であったゴア周辺で1560年ころから強力に布教が進められた。その結果,96年には13の会堂と3万余人の信者を得るに至った。もっとも,当時の布教活動は,日本,中国においてもみられたように,教団を派遣した国々の貿易上,軍事上,政治上の意図や利害を強く反映しており,ややもすると,現地の人々や伝統文化に対する無定見な批判や寺院の破壊・異端審問といった極端な形であらわれることもあった。また,信徒の資格については,ザビエルのように〈使徒信条〉を信ずる者ならば信者であるとする考えもあり,必ずしも厳格なものではなかった。1580年から95年の間,3度にわたって教団はムガル宮廷に使節を送り,アクアビバR.AquavivaやモンセラテA.Monserrateらがアクバルとその宮廷貴族の教化を図った。その後,ジャハーンギールの保護を受けてラホールに教会を建設するなど,インド人の間に布教を続けたが,やがてムガル帝国とポルトガルとの関係悪化によって,イエズス会は禁止されることになった。南インドではビジャヤナガル王国の支配者たちや地方領主にも働きかけたが,同時にマラバル地方のヒンドゥー教徒やコロマンデル沿岸南部の部族集団の改宗にも力を入れた。布教を通じ,デュボアJ.A.DuboisやベスチC.G.Beschiのような優れた会士によって,民衆の風俗・慣習・儀礼・伝承・カーストの記録や報告書,あるいはタミル語の辞典・文法書といった当時の南インド社会・文化に関する貴重な資料が残された。インドでは中国にみられたような典礼問題や激しい排教運動は生じなかったが,キリスト教徒もヒンドゥー社会秩序の中の一つのカーストとして位置づけられるという状況が形成された。
新大陸における活動
プロテスタンティズムへの対抗を標榜するイエズス会のもうひとつの目標は,大航海時代に入って一挙に拡大したインディアス(新世界)やアジアなど,非キリスト教地域への宣教だった。事実,たとえばヌエバ・エスパニャ(メキシコ)は早くから創立者イグナティウス・デ・ロヨラの強い関心をひき,彼は同僚の早期渡航を指示した。だが,イエズス会士が最初に到着したのはポルトガル領ブラジル(1549)で,これにフロリダ(1566),ペルー(1568),ヌエバ・エスパニャ(1572)が続いた。創立時から青少年教育を重視して,すでにヨーロッパ各地で相当数の学校を持っていたイエズス会は,新世界でもこの方針に沿って,原住民に限らず,それまであまり顧みられなかったヨーロッパ人入植者の子弟をも迎え入れた。その結果,ヌエバ・エスパニャを例に取ると,聖職者はもとより歴史にその名を残した学者・文人・政治家の多くは,イエズス会士の下で教育を受けた人々だった。
イエズス会士のもうひとつの活動は,僻地や辺境での宣教だった。とりわけパラグアイにおけるレドゥクシオンreducción(原住民教化集落)は特異な試みとして知られる。宣教の一策としての原住民の集落化は,1537年にグアテマラ司教マロキンが提唱,各地でさまざまな形で実践されたが,1609年イエズス会士トーレス・ボーリョ神父がパラグアイで始めたものがもっとも大規模な発展を見た。ヨーロッパ人入植者を排除し,イエズス会士と原住民によるキリスト教信仰の実践と原始共産生活の融合は,16世紀人文主義者のユートピア論を思わせる壮大な社会実験であった。しかし王権至上主義を掲げて教皇庁と対立するカルロス3世は,1767年スペインとその海外領土から全イエズス会士の追放を命じた。スペイン領インディアスからは2630名が追放された。教化集落や辺境での宣教は放置され,120にのぼる学校が教師を失って機能を停止した。イエズス会の追放が,後の社会発展にとって大きな損失だったと言われるゆえんである。