政権の所在地による日本史の時代区分法によって,推古天皇が豊浦宮で即位した592年から,710年(和銅3)の平城京遷都までの100余年間をいう。この間,孝徳朝に難波宮,天智朝に近江大津宮へ短期間都が移った以外,推古朝の豊浦宮・小墾田宮(おはりだのみや),舒明朝の飛鳥岡本宮・田中宮,皇極朝の飛鳥板蓋(いたぶき)宮,斉明朝の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮,天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮と宮室は集中的に飛鳥の地に営まれ,つぎの持統・文武朝の藤原京も新益京(しんやくのみやこ)と呼ばれるように,飛鳥中心の倭京(わきよう)を拡張したものであった。
時期区分
645年(大化1)の蘇我氏滅亡,大化改新までを前期,以後を後期とする。ただし後期を壬申の乱以前と,天武朝以後にさらに区分し,またもし前期に6世紀中ごろの宣化・欽明朝までを含めるならば,やはり前期も推古朝以前と以後に区分するのが適当であろう。なお後期の天武・持統朝を中心とする時期を白鳳時代といい,前期の狭義の飛鳥時代と,次の天平時代に対応させる区分法が美術史などの分野で行われている。
政治過程
欽明朝に任那(みまな)が滅亡し,大伴金村が失脚して,伴造(とものみやつこ)の雄族大伴氏が没落し,やはり伴造系豪族である物部氏の大連(おおむらじ)物部尾輿と,在地系豪族蘇我氏の大臣(おおおみ)蘇我稲目が相並んで政治を主導する。しかし仏教崇拝などをめぐって両者は対立し,用明天皇が没すると,物部守屋は穴穂部皇子,蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立しようとして争い,ついに馬子は守屋を攻め滅ぼして政権を掌握するが,やがて擁立した崇峻天皇をも東漢駒(やまとのあやのこま)に暗殺させる。こうした情勢に対応して敏達皇后で母が蘇我氏出身の豊御食炊屋姫(とよみけかしぎやひめ)が女帝(推古天皇)として即位し,厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子・摂政となって,大臣馬子とともに蘇我氏との妥協を図りつつ国政を執る。馬子についで蝦夷(えみし),さらに入鹿が大臣となるが,入鹿は有力な皇位継承候補の山背大兄王(聖徳太子の子)を襲って自殺させ,権力の独占を企てる。こうした蘇我氏独裁の危機が強まるなかで,唐に留学した人たちが帰国して東アジアの新しい動向が伝えられると,豪族の世襲職制と私地私民制を廃し,天皇を中心とした中国の唐のような官僚制的中央集権国家を形成しようとする動きが政界の一部に強まり,その中核となったのが中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)であった。2人は綿密に計画を練り,蘇我石川麻呂らを引き入れて,645年,飛鳥板蓋宮で入鹿を斬殺し,蝦夷も自邸に放火して自殺し,蘇我氏は滅んだ(乙巳の変(いつしのへん))。かくて皇極天皇に代わって弟の孝徳天皇が即位し,中大兄皇子が皇太子,阿倍内麻呂(倉梯麻呂)が左大臣,蘇我石川麻呂が右大臣,中臣鎌足が内臣,また僧旻(みん)(新漢人旻)と高向玄理(たかむくのくろまろ)が国博士となって,旧豪族の合議制による新しい政治体制が樹立され,都も難波に移された。いわゆる大化改新である。しかし,中大兄皇子はほどなく孝徳天皇と対立し,母の皇極上皇らを伴って飛鳥に帰り,孝徳死後は重祚した斉明天皇のもとで,引きつづき皇太子のまま国政を執った。そのころ東アジアの情勢は緊迫し,新羅は唐と連合して百済を攻め滅ぼしたが,百済はなお抵抗して日本に援助を求めた。斉明天皇はこれに応ずるため兵を率いて筑紫に西下したが病死し,また救援軍は663年(天智2)の白村江(はくそんこう)の戦に敗れたため,日本は朝鮮半島から完全に撤退することとなった。中大兄皇子は対馬・壱岐・筑紫に烽(とぶひ)や防人(さきもり)を置き,水城や大野城・基肄(きい)城を築いて大宰府の防備を固めるとともに,瀬戸内海の要衝にも城を築いて唐・新羅の来攻に備えたが,また都を大和から近江大津宮に移して天智天皇として正式に即位し,近江令の制定や庚午年籍(こうごねんじやく)の作成など内政の推進にも意をそそいだ。このように大化改新以後長い間政局を主導してきた天智天皇が没すると,翌672年には近江朝廷に拠るその子大友皇子と,吉野に隠退したその弟大海人皇子らの両派の間で,皇位継承をめぐる大規模な内乱が勃発した。壬申の乱である。結果は近江朝廷方が敗れて,大友皇子は自殺し,大海人皇子は大和に帰って飛鳥浄御原宮を造営し,天武天皇として即位する。天武天皇は旧豪族を抑え,皇親を重用して天皇中心の皇親政治を行い,八色の姓(やくさのかばね)の制定や飛鳥浄御原令の編纂など律令制国家の建設に努めた。その天武の死後には,大津皇子の謀反や皇太子草壁皇子の急死があったが,結局,皇后鸕野(うの)皇女が女帝(持統天皇)として即位し,飛鳥浄御原令の施行,藤原京への遷都など夫帝の遺業の成就に励み,かくして律令制古代国家はつぎの文武朝における大宝律令の制定によって確立された。
時代概観
581年中国において隋による統一国家が実現し,東アジアの情勢が変化したのを契機に,日本の対外政策は転換し,倭の五王以来約1世紀の間中絶していた中国との国交が再開された。そして600年(推古8)を最初として小野妹子ら数次の遣隋使が派遣されるが,これは従来と異なり中国と対等の立場に立ってのものであった。隋に代わった唐に対しても,飛鳥時代全期を通じて前後7回の遣唐使が派遣され,とくに孝徳~天智朝が頻繁であった。またこれら遣隋使・遣唐使に従って多くの留学生・留学僧が派遣されたが,彼らが中国滞在中にえた新しい知識や,帰国に際して将来した文物は,日本の国政の改革,文化の発展に大きく貢献した。なかでも大化改新を導いた僧旻・高向玄理・南淵請安らは著名であり,さらに永徽令など唐の律令の受容も日本における律令制国家の建設を可能ならしめたものであった。
つぎに国内体制の整備について概観すれば,大和朝廷の政治機構は大臣・大連と,その下に有力な中央豪族出身の大夫(まえつぎみ)がいて,合議制によって政治が運用され,朝廷の職務は品部(しなべ)を率いる伴造によって世襲的に分掌されていた。推古朝に入ると,そうした氏姓(しせい)制度に基づく世襲職制の弊害を打破し,個人の能力によって昇進が可能な官僚組織を形成しようとする動きが現れる。冠位十二階と十七条憲法の制定がそれである。前者は冠位制をへて律令体制の基幹となる位階制につながるものであり,後者は官僚としての服務規律を説いたものである。また地方支配については,国造制が発展し,国造に任ぜられた地方豪族は領域内の名代(なしろ)や屯倉(みやけ)を管理し,朝廷に生産物を貢納したが,住民を戸に編成して賦役を課する組織も現れはじめ,《隋書》倭国伝は,そのころ倭国では,80戸ごとに里長にあたる伊尼冀(稲置)(いなぎ)が置かれ,さらに10の伊尼冀が一つの軍尼(国造)に属し,そうした軍尼が120人も存したと伝えている。このように推古朝以後,しだいに官僚組織が整いつつあったが,なお世襲的な氏姓制度の枠を完全に破るものでなかった。
そこで大化改新はそれらを改革し,公地公民の原則の上に立つ中央集権国家を確立しようとするものであった。《日本書紀》が646年1月に発布されたと伝える改新の詔は,のちの令によって修飾されている部分があるが,(1)皇族・豪族による土地・人民の私有を廃して公地公民とし,代りに食封(じきふ)などを給する。(2)京師・畿内国司(または畿内・国司)・郡司などの中央集権的地方統治組織と,駅馬・伝馬・関塞・防人など交通・軍事の制度を整える。(3)戸籍・計帳と班田収授の法をつくる。(4)古い賦役の制を改め,田の調,戸別の調など新しい税制を施行する,というもので,改革の要綱を示すものとみてよい。こうした改新詔の要綱が具体的にどのような過程をへて実施されていったかは,史料が乏しいためなお十分に明らかではないが,最近は木簡の出土によってある程度推測が可能となり,地方統治組織としての評-里制や50戸1里制も改新後かなり早い時期から成立していたらしいと考えられるようになった。しかし天智朝には冠位二十六階の制定,民部(かきべ)・家部(やかべ)の設置,庚午年籍の作成,太政大臣・左右大臣・御史大夫の任命が文献史料にみえ,また近江令も編纂されたと伝えられている。ついで壬申の乱後の天武・持統朝には飛鳥浄御原令の編纂・施行に伴って律令体制の形成がいっそう進み,国-評-里制の整備,戸籍6年1造と班田収授の施行などによって律令政府の基礎も確立し,つづく大宝律令の制定・施行はまさに律令制中央集権国家の完成を示すことになるが,そうした発展を象徴するのは,飛鳥中心の倭京から藤原京,そして平城京へと展開する都城の急速な拡大である。
文化
文化については,まず前期の推古朝を中心とする文化は飛鳥文化と呼ぶ。飛鳥文化は仏教文化であるとともに,中国南北朝の文化が朝鮮三国を経由して伝えられたものであった。仏教は6世紀に伝来した当初は反対者も多かったが,受容に積極的であった蘇我氏が朝廷で実権を握ると,その信仰は急速に普及し,蘇我氏の飛鳥寺(法興寺)や,聖徳太子の斑鳩寺(法隆寺)をはじめ多くの寺院が建立され,それに伴い建築・彫刻・絵画・工芸にすぐれた仏教美術の作品が現れた。なかでも法隆寺金堂釈迦三尊像や広隆寺半跏思惟像,法隆寺玉虫厨子や中宮寺《天寿国繡帳》などが著名で,皇極朝ごろに建立されたとみられる山田寺の回廊も出土している。また仏教だけでなく,儒教・道教の思想や,天文・暦法,あるいは讖緯(しんい)説なども盛行した。この飛鳥文化に対して,後期の天武・持統朝を中心とする文化を白鳳文化と呼ぶ。やはり仏教文化が中心であるが,遣隋使・遣唐使の派遣によって直接中国文化を摂取する道が開かれ,初唐文化の影響が全般に強く認められる。代表的作品としては薬師寺東塔,興福寺仏頭・薬師寺金堂薬師三尊像・同東院堂聖観音像,法隆寺金堂壁画・高松塚古墳壁画などがあげられる。いっぽう大津皇子の漢詩文,柿本人麻呂・額田王らの和歌など文学の発達も看過できない。総じて飛鳥時代は,政治的・社会的には世襲的氏姓制から律令的官僚制への過渡期であり,文化的には隋・唐文化直接摂取の時代であった。
→飛鳥美術 →古代社会 →律令制