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藤原京

ジャパンナレッジで閲覧できる『藤原京』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

藤原宮
ふじわらのみや
古代宮都の一つ。持統天皇八年(六九四)から和銅三年(七一〇)まで、十六年間にわたり営まれた持統・文武・元明三代の宮都。遺跡は奈良県橿原市(高殿町ほか)にある。それまでの宮室が、天皇一代限りのものであったのに対し、藤原宮に至り、計画的で整然たる都市を伴う、恒常的な施設となった。いうまでもなくそれは、長安や洛陽などの漢魏以来続いている中国古代都城を模倣して建設されたものである。『日本書紀』には、持統天皇四年以来藤原宮の造営を示す記事がしばしばみえる。天皇は公卿・百寮を従えて宮地や「新益京」を訪れており、新京の地鎮を行い、諸王・諸臣に宅地を班給し、完成が近づくと、伊勢以下の大神に新宮のことを奉告し、新京造成の過程で掘り出した屍を収容させるなどの処置がとられている。ここにみえる「新益京」が藤原京を指すことは明らかであるが、『日本書紀』以下の文献に「藤原京」ではなく「新益京」と表現されていることは注意すべきことである。新益京とは「新たに益された京」の意であるから、既設の京を想定した用語と思われ、その京とは飛鳥の宮室に付属したものかと推定されるが(『日本書紀』に難波京に対して倭京と表現されるものがそれに相当しよう)、その実態は現在なお明らかでない。これらの記事を通して、新京に対する当時の為政者の意欲と期待を読みとることができるのであるが、持統天皇三年には古代法令として最初の体系的な法典といわれる『飛鳥浄御原律令』が編纂・施行されており、藤原京の造営がそれをうけて開始されていることは、新京の造営が律令国家の建設と軌を一にしていることを示していよう。

〔研究史〕

藤原京域は、平城京遷都とともに荒地となり間もなく大部分が田畠と化したと考えられるが、以来長い歳月を経て、宮跡の位置すらわからなくなってしまった。江戸時代の中ごろには、藤原宮の故地は、藤原鎌足の生地と伝えられる飛鳥南東の丘陵地大原の里とする説が流布していたほどである。さすがにこの説に対しては、賀茂真淵やその弟子本居宣長は現地の踏査をふまえて、『万葉集』一の「藤原宮御井の歌」から推して、成立し難い妄説であると批難した(『万葉考』『古事記伝』)。歌意からして、宮地は大和三山の真中になければならず、現地には「大宮殿」という松の立つ壇が残っている場所があり、それがふさわしいと、正しい指摘をしているのである。このいわば伝統的な仮説に対して、大正年間(一九一二―二六)に至り、歴史学者喜田貞吉は異説を唱え、『扶桑略記』や『釈日本紀』に引く「氏族略記」には藤原宮は高市郡鷺栖坂地の北にありとしているから、鷺栖坂は橿原市四分町の鷺栖神社の場所であり、その北方の醍醐町長谷田土壇が宮の中心施設の跡にちがいないとした。喜田説は藤原京の京域を横大路・下ツ道・中ツ道という古道に囲まれた中に求めるという斬新な発想の上に立つものであり、この点は現在に引き継がれる大事な視点である。

〔発掘調査〕

大宮土壇か長谷田土壇かをめぐる論争に結着をつけるべく行われたのが、昭和九年(一九三四)から同十八年まで十年の歳月を費やした日本古文化研究所(所長黒板勝美)による大宮土壇付近の発掘調査であった。発掘の陣頭指揮をとったのは建築史学者足立康であったが、発掘の途中で足立も喜田も病没している。発掘調査の結果、大宮土壇が藤原宮大極殿であることが明らかになったばかりでなく、大極殿の南で十二堂を配する壮大な規模の朝堂院を検出することに成功した。日本の古代都城研究史上、宮域の中の主要施設を発掘調査という方法で明らかにした最初のものである。この成果をもとに藤原宮跡の主要部は昭和二十一年国史跡に指定された。発掘調査は昭和四十一年に至り、内裏推定地を横断する国道のバイパス建設が計画されたことが契機になり再開することになる。調査を担当した奈良県教育委員会は内裏を囲む回廊や、宮の大垣とその外濠を北・東・西で検出し、宮域がほぼ一キロの規模をもつものであることが確認された。またこの調査で排水溝から土器・瓦などの遺物に混じって木簡が出土したことの意義は大きい。年紀をもつ木簡により、藤原宮の時代の遺跡であることが確認され、その多様な記事内容により藤原宮の時代像が具体的に浮かび上がることになった。宮の規模が判明し、その中軸線がおさえられたことにより、京域の復原が可能となり、古道による復原という喜田説に拠りながら、古道の位置を詳細地形図で確かめ、より蓋然性の高い藤原京復原が提示され、今日それが有力な学説になっている。この調査成果をうけて、国道バイパスの建設計画が変更されたことはいうまでもない。

〔宮跡〕

昭和四十四年からの発掘調査は奈良国立文化財研究所の手に引き継がれることになり、以後、継続して現在まで計画的な調査が進行している。二十年ほどを経過して発掘調査を終了したところは宮跡全体に対して一割に満たない状況であるが、以下その成果の概略を記しておこう。

〔外周〕

藤原宮の四周は瓦葺の大垣(掘立柱塀)で囲まれ、その規模は東西が九二五メートル、南北が九〇七メートルである。大垣各辺には三門ずつの宮城門が開く。南・北・西の各面の中門と東面北門は発掘ずみで、いずれも正面五間(二五メートル)、奥行二間(一〇メートル)の規模をもつ礎石建ちの建物である。木簡により、北面中門・東門が猪使門・蝮王門(多治比門)、東面北門・中門・南門が山部門・建部門・少子部門と称されていたことがわかる。大垣の外側約二〇メートルの位置には、幅五~六メートル、深さ一・二メートルの素掘りの外濠がめぐる。流路の下手にあたる西外濠は幅一〇メートルと広くつくっている。この濠は、宮域防衛施設・物資運搬用運河としても機能したであろうが、宮域が飛鳥川沿いの低湿な土地であることを考えると、より重視すべきは排水機能であろう。外濠の外側の街路との間には約三〇メートルの空閑地が帯状にめぐる。ここにどのような施設が配されたのかなどはまだよくわかっていない。

〔中心施設〕

宮の中心施設は内裏・大極殿・朝堂院である。内裏は東西約三〇〇メートル、南北約三八〇メートルの一郭のなかに、天皇の居住空間や日常的な儀礼空間のほか内廷官司が配置されていたと考えられるが、調査はほとんど行われていない。一郭の囲いの施設は北が単廊、東・西が塀(いずれも掘立柱)で、『日本書紀』や『続日本紀』に西高殿・西閣などとみえる建物がこの一郭にあったのであろう。大極殿・朝堂院は日本古文化研究所の発掘調査でその規模が確かめられた。大極殿は天皇出御の殿舎であり、正面九間(四五メートル)、側面四間(二〇メートル)の四面廂付重層の礎石建物で、基壇を含め二五メートルを超える高さの宮内最大の建物であったと推定されている。大極殿を回る回廊は東西一一五メートル、南北一五五メートルの、南北に長い区画であり、南正面には朝堂院に開く南門がある。この南門位置が、藤原宮の中心点にあたることは、藤原宮の設計上重視されたことで、この設計は前期難波宮や平城宮にも共通するものである。朝堂院は回廊に囲まれた東西二三〇メートル、南北三一八メートルの郭内に十二の殿堂(礎石建物)が東西対称に配置され、中央が広い庭につくられ、政治・儀式のいっさいがここで行われた。平城宮と比べ、宮内における朝堂院の占める割合が大きいのは、朝堂院の機能がより重要であった時期の構造を示すものであろう。

〔官衙〕

宮の中央を占める内裏・大極殿・朝堂院の東西には、官僚機構の官衙が配置されていた。官衙の規模・構造・官衙の特定などいずれも将来に残された課題であるが、東と西の官衙地区で比較的広く発掘したところがあり、その所見によると、官衙の主要な建物はいずれも、梁間二間(九尺~十尺)、桁行十四間~二十間の長大な掘立柱建物で床張りのものが多く、これらがコの字形に配置されている。平城宮の官衙建物に比べ、桁行の長い建物であること、官衙の建物構成が単純であることなどの特徴を指摘することができる。

〔出土遺物〕

出土遺物は、土器・瓦・木製品などの一般的なもののほか、木簡・陶硯などの特殊なものが含まれる。木簡は現在までに藤原宮跡から約七千点が出土しており、これは遺構の性格や年代を決定する重要な手掛りを与えてくれると同時に、『大宝律令』施行以前と以後のものが含まれるから、従来の文献ではほとんど知られることのなかった『大宝令』前の官司名や文書形式、さらには租税制度や行政機構の実態が判明する重要な資料となる。木簡の中で一群をなす貢進物付札の記載内容により、さまざまのことがわかるが、その一つとして、『大宝令』の施行を境に「評」から「郡」への用字の変化が認められることは、従来の「評」と「郡」をめぐる学界の論争に結着をつけた大きな成果であった。

〔藤原京〕

藤原京については、古道(下ツ道・中ツ道・横大路・山田道)による京域復原を、昭和四十年代の発掘調査の成果をもとに発表した岸俊男の説が現在有力視されているが、それによれば、京域は東西六千大尺(尺は『大宝令』大尺、以下同じ、二・一キロ、千歩)、南北九千尺(三・二キロ、千五百歩)の規模をもつ。平城京の外京を除く京域の三分の一の大きさである。京域が左右に分かれたのは『大宝令』以後のことであるらしい。左右京ともに十二条四坊に区画される。一坊の大きさは七百五十尺(約二六五メートル)である。坊名は平城京のように数詞で呼ばれることはなく、「林坊」「小治町」のように固有地名の呼称であった。各坊道路のうち最大幅員のものは中央の南北道である朱雀大路の五十尺(一七・七メートル)であり、東西両側に二十尺(七・一メートル)の大側溝をもつ。宮の東辺南辺に接して通る南北道の東二坊大路、東西道の六条大路も同じ幅員であるが、側溝が朱雀大路より小さく、十尺(三・五メートル)、五尺(一・八メートル)である。その他四十尺・二十尺・十五尺の道路が確かめられている。京内で班給される官人の宅地の広さは、持統天皇五年十二月の詔にその基準が示されていて、右大臣四町(一坊)、直広弐(『大宝令』の従四位下相当)以下二町、大参(正五位上)以下一町、勤(六位)以下無位に至るまで戸口数により一町・半町・四分の一町というものであった。発掘調査で確かめられているものとしては右京七条一坊西南坪の一町規模の宅地の例があるが、調査はまだほとんど進んでいない。京内寺院の調査は一般宅地よりは比較的進んでいる。左京四坊の九条・十条に所在する大官大寺は、十年に及ぶ発掘調査により、壮大な伽藍の様子が明らかにされ、中心伽藍が完成しないままに焼失したことも判明している。左京八条二坊の紀寺も伽藍全体が調査されており、天武天皇九年(六八〇)に造営が始められたという薬師寺(本薬師寺)も南辺の調査により、条坊に合致した伽藍であることが確かめられている。このことは藤原京の設定時期に係る問題を提起するものであるが、藤原京の造営開始が天武朝にさかのぼるか否かはなお今後に究明されるべき課題である。
(狩野 久)


日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原京
ふじわらきょう

694年(持統天皇8)12月から文武 (もんむ)天皇を経て、元明 (げんめい)天皇の710年(和銅3)3月の平城京遷都まで3代15年間の都城。その宮城である藤原宮が、畝火 (うねび)・耳成 (みみなし)・香具 (かぐ)の大和 (やまと)三山に囲まれた地にあったことは、『万葉集』巻1の「藤原宮の御井 (みい)の歌」によって知られる。1934年(昭和9)から10年間にわたる日本古文化研究所による発掘調査の結果、旧鴨公 (かもぎみ)村高殿 (たかどの)(奈良県橿原 (かしはら)市高殿町)のいわゆる大宮土壇が、藤原宮の大極殿 (だいごくでん)跡であり、その前方に12堂と朝集殿を配する朝堂院が存することが明らかにされた。1966年(昭和41)には、内裏 (だいり)推定地を通過する国道165号橿原バイパス建設計画に伴って奈良県教育委員会による緊急調査が行われた結果、「評」名を記した木簡が多数出土して、「郡」・「評」の用字の交替期が大宝令 (たいほうりょう)施行(702)に伴うものであることが確認された。また藤原宮の範囲が確定したことによって周辺古道との密接な関係が明らかになり、藤原京の範囲や条坊制地割が推定できるようになった。すなわち、藤原京は中ツ道を東京極 (ひがしきょうごく)、下ツ道を西京極、山田道を南京極、横大路を北京極とする東西約2.1キロメートル、南北約3.1キロメートルの範囲を、朱雀 (すざく)大路を中心に東・西各4坊、南北12条に区画されている。1坊は900尺(約265メートル)で、小路によって4坪に分けられている。坊を区画する道路幅は、側溝心心距離で朱雀大路が約25メートル、宮に面する六条大路が21メートル、二・四・八条大路が16メートル、三条大路が9メートルで、小路は7メートルとなっている。京内は、中央北寄りに16坊の地を占める藤原宮のほか、貴族の邸宅、庶民の家屋、大官大寺、本薬師寺、紀寺 (きでら)などの諸寺院や東・西市が設けられ、京職 (きょうしき)が京全体を管理していた。

 藤原京の造営は、『日本書紀』持統 (じとう)天皇5年(691)10月条の「使者を遣 (つかわ)して新益京 (しんやくのみやこ)を鎮め祭らしむ」とある記事によってそのころと考えられてきたが、近年、684年(天武天皇13)に造営が開始されたとする考えが有力となっている。前年に複都制の詔 (みことのり)が出されて難波 (なにわ)に都が置かれていることや、発掘で明らかにされた前期難波宮と藤原宮の構造の類似からみると、藤原京が前期難波京と密接な関係のもとに造営されたことが考えられる。藤原宮・京の中心部は国の史跡に指定されており、奈良文化財研究所(旧、奈良国立文化財研究所)によって発掘調査が継続され多くの成果をあげている。

[中尾芳治]



藤原宮跡[百科マルチメディア]
藤原宮跡[百科マルチメディア]

大極殿(だいごくでん)跡。国指定特別史跡 奈良県橿原(かしはら)市©橿原市


世界大百科事典

藤原京
ふじわらきょう

694年(持統8)から710年(和銅3)までおかれた,日本古代で中国的な条坊制を採用したことの明らかな最初の本格的な都城。藤原京は《日本書紀》では〈新益京(しんやくのみやこ)〉の名で呼ばれている。これは従来の飛鳥の都がその西北に拡張した意と解せられる。京域は現在の奈良県橿原市と明日香村に位置し,大和の古道のうち,下ッ道を西京極,中ッ道を東京極,横大路を北京極,山田道を南京極とする南北約3.1km,東西約2.1kmの範囲で,そこに南北12条,左右京おのおの4坊の条坊制がしかれたとするのが通説である。京の東西間は当時の尺度で,1000歩=高麗尺6000尺=4里,南北は同じく6里であり,条,坊の大路によって区画された〈坊〉の大きさは,750尺(約265m)四方となる。坊の中間には小路が通る。宮は京の中央北寄りの16坊分を占め,宮の北方は,出土木簡や小字名から苑池などの宮の付属施設にあてられていたと考えられる。平城京は朱雀大路を下ッ道にとり,中ッ道を東京極路にあてており,坊の一辺長は藤原京のちょうど2倍となる。この藤原京の復元案によると,藤原京と平城京とは密接な関連をもつことになる。

 条坊の大路,小路は両側に素掘りの側溝を設ける。道路幅は朱雀大路では側溝中心間で24mと最も広く,宮南面の六条大路は21m,一般の大路は15m,小路は6mなど6段階に等級づけられる。京の規模は平城京域の3分の1であり,朱雀大路をはじめ各道路の幅員も平城京にくらべかなり狭い。坊内はその中央を十字に通る小路によって,約133m四方の四つの町(坪)に分割される。条坊区画は平城京のように数字によって呼ぶのとは異なって,〈林坊(はやしまち)〉〈小治町(おはりまち)〉のごとく固有の名で呼ばれた。条坊道路の総延長は100km余りとなり,道路工事だけでも,都城の造営工事が過酷な難事業であったことがうかがわれる。街区は寺院,貴族の邸宅や民衆の居住区に割り当てられた。左京四坊の九条南半と十条には国家創建の大寺である大官大寺,右京八条三坊には同じく薬師寺(本(もと)薬師寺)が相対峙して造営された。その位置は平城遷都後の薬師寺,大安寺の関係に似ている。薬師寺の西南隅の発掘では寺の造営(680年(天武9)発願)が,京の条坊に先行することが明らかにされている。紀寺は左京八条二坊の地を占めるが,和田廃寺,田中廃寺,醍醐廃寺などに関しては条坊との関係は不明である。宅地は《日本書紀》の持統5年(691)の記事によると,右大臣の一坊(4町)を最高に,官位,戸口数に応じて面積に差をつけて給された。右京の七条一坊三坪では,掘立柱塀で囲まれた宅地内に,坪の中軸線を基準に掘立柱建物群が整然と配置されていた状況がうかがわれる。また,《続日本紀》の記事から,京内に市の存在したことが知られる。宮の北面中門付近から出土した木簡の中に北面中門を通って市に行く旨の内容を記したものがあり,市は宮の北方にあった可能性がつよい。

 藤原京のモデルに関しては,縦長で,宮の北方に苑池を配する京の構造が,隋・唐以前の中国都城,たとえば,北魏洛陽城などと類似することが指摘されている。藤原京は律令国家確立期の都城として中央集権的国家統治の中心であるとともに,唐を中心とする東アジアの国際的な都城としての性格をになったのである。なお近年,推定京域外の耳成山北方や下ッ道以西でも,藤原京条坊地割の延長上で道路遺構が検出されており,京域は従来の推定より広大であったとする説が出されている。いっぽう,推定京域の南部ではまだ条坊道路遺構は確認されておらず,藤原京の復元に関しては,なお多くの問題が指摘されている。
→都城 →藤原宮
[木下 正史]

[索引語]
新益京


図1~図2
藤原京 図1~図2

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1. 藤原京画像
日本大百科全書
また藤原宮の範囲が確定したことによって周辺古道との密接な関係が明らかになり、藤原京の範囲や条坊制地割が推定できるようになった。すなわち、藤原京は中ツ道を東京極ひ
2. 藤原京画像
世界大百科事典
平城京は朱雀大路を下ッ道にとり,中ッ道を東京極路にあてており,坊の一辺長は藤原京のちょうど2倍となる。この藤原京の復元案によると,藤原京と平城京とは密接な関連を
3. ふじわら‐きょう[ふぢはらキャウ]【藤原京】
日本国語大辞典
持統天皇の持統八年(六九四)から文武天皇を経て、元明天皇が平城京に遷都する和銅三年(七一〇)までの三代一六年間の都。大和三山に囲まれ、現在の奈良県橿原市高殿町を
4. ふじわらきょう【藤原京】 : 藤原宮
国史大辞典
藤原京藤原京については、古道(下ツ道・中ツ道・横大路・山田道)による京域復原を、昭和四十年代の発掘調査の成果をもとに発表した岸俊男の説が現在有力視されて
5. ふじわらきょう【藤原京】
国史大辞典
⇒藤原宮(ふじわらのみや)
6. ふじわらきょうあと【藤原京跡】奈良県:橿原市
日本歴史地名大系
かもしれない。また藤原京は「日本書紀」では新益京とよばれており、それ以前の飛鳥京との関連が問題となるが、この点については、なお今後の検討課題である。以上の諸点か
7. ふじわらきょうけ【藤原京家】
国史大辞典
藤原不比等の四男麻呂の別称。彼は左京大夫に任ぜられていたので京家と称し、彼の子孫の一流もそう呼ばれた。その子に『歌経標式』の著者浜成、尚侍百能などがあるが、他
8. あきごう【安吉郷】滋賀県:近江国/蒲生郡
日本歴史地名大系
とっており、また藤原京の「左京小治町」の名が木簡にみえるところから藤原京時代の表記であることは確実で、阿伎里(阿伎郷)と表記することもあったようである。この過書
9. 明日香(村)画像
日本大百科全書
ある。村の西部を近畿日本鉄道吉野線と国道169号が通じる。飛鳥時代から694年(持統天皇8)藤原京遷都まで幾度となく皇居が置かれた地で、村内至る所に古墳、史跡が
10. 飛鳥画像
世界大百科事典
冠する宮室がつぎつぎと営まれ,孝徳朝の難波遷都と天智朝の近江遷都の短期間を除き,694年(持統8)の藤原京遷都までここが日本の古代政治の中枢となり,律令制国家も
11. 飛鳥浄御原宮
世界大百科事典
称が生まれたとみてよい。この宮は,673年2月の天武天皇即位から,694年(持統8)12月の藤原京への遷都まで,機能した。この間にあって,《日本書紀》は,この宮
12. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
の浄御原宮きよみはらのみやなどはいずれも飛鳥の地にあり、天武のあとの持統、文武もんむ2天皇の藤原京も飛鳥の域内ないしその北方に隣接して存在し、この間、皇居が飛鳥
13. 飛鳥時代
世界大百科事典
宮,天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮と宮室は集中的に飛鳥の地に営まれ,つぎの持統・文武朝の藤原京も新益京(しんやくのみやこ)と呼ばれるように,飛鳥中心の倭京(
14. あすか‐じだい【飛鳥時代】
日本国語大辞典
推古天皇即位の年(五九二)から元明天皇の平城京遷都の和銅三年(七一〇)まで、あるいは持統天皇の藤原京遷都(六九四)までとする。特に美術史上では、仏教渡来の六世紀
15. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
元嘉暦・儀鳳暦を用いる690(持統4)皇后即位(持統天皇)。庚寅年籍をつくる694(持統8)藤原京遷都697(文武1)持統天皇、文武天皇に譲位698(文武2)渤
16. 飛鳥寺
世界大百科事典
台となった。662年(天智1)には唐より帰国した道昭が当寺の南東隅に禅院を建てて住んでいる。藤原京の時代は四大寺の一つに数えられているが,平城京遷都にともない,
17. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
文武朝に完成するが、大官大寺・法興寺・薬師寺・川原寺の四大寺は、最高の地位と格式を与えられ、藤原京の偉容を飾った。『大宝令』僧尼令は、大官大寺に参集した僧尼の前
18. あすかむら【明日香村】奈良県:高市郡
日本歴史地名大系
製作年代・使用目的不明の謎の石造物が点在する。なお近年の発掘により、嶋宮伝承地などの遺跡も確認されている。都が藤原京から平城京へ移るに伴い、飛鳥寺(元興寺)・大
19. あまぐん【海部郡】島根県:隠岐国
日本歴史地名大系
藤原宮跡出土木簡に前里、平城宮跡出土木簡に佐吉郷・「□宅郷」、平城京二条大路跡出土木簡に御宅郷などとあり、藤原京・平城京時代は三ヵ郷以上が存在したと推定される。
20. あままち【海士町】島根県:隠岐郡
日本歴史地名大系
遺跡は海士地区に銅剣が発見された竹田遺跡や、異形刀子を出土した新開古墳群がある。古代海部郡の名は藤原京跡出土木簡にすでにみえ、式内社とされる神社が北部に二社鎮座
21. あめのかぐやま【天香久山】奈良県:橿原市/大和三山
日本歴史地名大系
南に飛鳥、西に藤原京を控えるためことに尊崇厚かったと思われ、舒明天皇はここで国見をし、「大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 繁さび立てり」とうたわれ
22. 天香久山(あめのかぐやま)画像
日本大百科全書
畝傍うねび山、耳成みみなし山とともに大和三山やまとさんざんとよばれるが、この山だけが火山性ではない。藤原京の東方を鎮護する神山として古代人の崇敬を集めた。舒明じ
23. いしいごう【石井郷】兵庫県:摂津国/武庫郡
日本歴史地名大系
村すなわち伊孑志などを含む地域とみるのが妥当であろう。現宝塚市南部の武庫川西岸一帯にあたる。藤原京跡出土木簡に「石井前分贄阿治」とあるのを当郷に比定する考えもあ
24. いずみきづ【泉木津】京都府:相楽郡/木津町
日本歴史地名大系
また平城京とは奈良山越(山背道)で至近の距離にある。古代の史料では南都の寺院関係文書にその名が多くみえるが、藤原京(跡地は現奈良県橿原市)・平城京造営材の調達に
25. いずみさんみゃく【和泉山脈】大阪府:総論地図
日本歴史地名大系
郡粉河町)領「鎌垣東西村」の四至に「北限横峯」とみえる。この山脈が金剛山地から西へ続くのと、藤原京または平城京の時期において、巨勢路から真土山(現橋本市)と背山
26. 市画像
日本大百科全書
市令かんしりょうに基づいて平城京、平安京内にそれぞれ官営の東西市が設けられるようになったが、藤原京にも設けられたことが伝えられている。これらはおもに官衙かんが、
27. 市
世界大百科事典
らかでない。このような初期の市の中には,都宮との関係が深いものが存在し,都城の成立とともに,藤原京の〈市〉や平城京以後の〈東西市(東市・西市)〉,難波京の〈難波
28. いち【市】画像
国史大辞典
るいは地方豪族など支配階級の経済を補足し、過不足分を調整することを主要な役割として成立した。藤原京・平城京・平安京にはそれぞれ官営東西市が設置され、官衙・貴族・
29. いち【市】 : 市/(二)
国史大辞典
るいは地方豪族など支配階級の経済を補足し、過不足分を調整することを主要な役割として成立した。藤原京・平城京・平安京にはそれぞれ官営東西市が設置され、官衙・貴族・
30. いわれやまぐちじんじゃ【石寸山口神社】奈良県:桜井市/桜井地区/谷村
日本歴史地名大系
異説もある。石寸は「石村」「石根」とも書く(「延喜式」享保板本)。式内石寸山口神社は飛鳥京・藤原京の周りに鎮座する大和六所山口神の一で(「延喜式」祝詞)、天平二
31. うきょう【右京】
国史大辞典
してまで賀世山西道から東を左京、西を右京とした。左右京内では縦横の大路で土地を区画し、北から一条ないし十二条(藤原京の場合)または九条(平城京以後)とし、各条を
32. 宇治拾遺物語 149ページ
日本古典文学全集
南都七大寺の一つ。法相宗の大本山で、奈良市西ノ京町にある。天武天皇の発願により文武二年(六九八)藤原京に創建、平城遷都の後、聖武天皇が現在地に造営。別当である僧
33. 宇治拾遺物語 462ページ
日本古典文学全集
みな率て渡して住まん」といひて、 二 頼時が胡人を見た事  天武天皇の発願により、文武二年(六九八)、藤原京に完成。平城遷都にともない、養老二年(七一八)、西の
34. うじでら【氏寺】
国史大辞典
中央・地方の豪族は、それぞれの氏寺をもつようになるが、特に中央では都が飛鳥周辺に固定し、さらに藤原京や平城京が出現すると、官人貴族はその近辺に定住することとなり
35. うねびやま【畝傍山】
全文全訳古語辞典
小高い山。香具山・耳成山とともに大和三山と呼ばれる。上代より大和三山の争いの伝説があり、また藤原京を三方から囲む形になって人々から親しまれた。東麓に橿原神宮・神
36. 近江国
世界大百科事典
(綾の実物が正倉院古裂(こぎれ)中に現存),米,鉄をはじめとする各種の鉱産物,種々の薬草類,藤原京・平城京や石山寺その他の造営に用いられた材木,フナその他の水産
37. おうらぐん【邑楽郡】群馬県
日本歴史地名大系
繰返す大河の水との戦いが続いた。それは同時に氾濫原に取残された河川跡の湖水の悪水抜と新田開発の歴史でもあった。藤原京出土木簡に「大荒木評」と記され、これが邑楽郡
38. 隠岐国
世界大百科事典
ついで7世紀末には,島前に海評,島後に次(すき)評の評(こおり)の制度が施行されていたことが,藤原京跡出土の木簡で確認される。律令制下の隠岐国は,《続日本紀》の
39. おとくにぐん【乙訓郡】京都府
日本歴史地名大系
都」したと記すが、単なる伝承として片付けられないと思われる。「弟国」の郡名は藤原京時代まで用いられたことは、藤原京(跡地は現奈良県橿原市)出土の木簡や井ノ内(長
40. おはりだ【小墾田】奈良県:高市郡/明日香村/豊浦村
日本歴史地名大系
出土場所が平城宮造営以前の下ツ道側溝であるところから、この小治町は小治田のこととされている。豊浦付近は藤原京左京にあたる。小墾田の板田の橋の壊れなば桁より行かむ
41. おはりだのみや【小墾田宮】奈良県:高市郡/明日香村/豊浦村
日本歴史地名大系
したがって、七世紀末に藤原京の条坊が造営されて以後の建物は真北に近い方向を基準に建てられているようである。したがって七世紀代の建物を藤原京造営以前のもの、八世紀
42. かしはら【橿原】
日本国語大辞典
奈良県北西部の地名。飛鳥川が北流する。古代文化の発生地といわれ、橿原神宮、藤原京跡、橿原遺跡などがある。昭和三一年(一九五六)市制。*万葉集〔8C後〕一・二九「
43. かしはらし【橿原市】奈良県
日本歴史地名大系
、懿徳・孝元・応神・舒明・安閑の諸天皇の宮が市域に比定され、とくに持統天皇から元明天皇に至る藤原京は初めて都城制を布いた都である。陵墓も神武天皇の畝傍山東北陵を
44. かしわでむら【膳夫村】奈良県:橿原市/鴨公・香久山地区
日本歴史地名大系
[現]橿原市膳夫町 天香久山東北方、藤原京跡の東方に位置する。律令制で宮内省被官に大膳職・内膳司などがあり、饗饌を調進する下級官人を膳夫といった。膳夫氏の本拠地
45. かずさのくに【上総国】千葉県地図
日本歴史地名大系
編成替えした評が成立し、上総でもおそらく国造領域を割いて新たにのちの郡制の前身である評が編成されたと思われる。藤原京跡から「乙亥年上挟国阿波評松里」という文武天
46. かのう-ひさし【狩野久】
日本人名大辞典
者。昭和8年8月5日生まれ。昭和38年奈良国立文化財研究所にはいり,平城宮跡,飛鳥(あすか)藤原京跡の発掘調査部長をへて,61年文化庁主任文化財調査官となる。平
47. かみ‐つ‐みち【上道】
日本国語大辞典
〔一〕古代の官道の一つ。藤原京を出て奈良盆地を北上する上、中、下の三道のうち、東側の山沿いを通るもの。このさらに東側に山辺道(やまのべのみち)の古道があった。山
48. 上ッ道・中ッ道・下ッ道
世界大百科事典
確に等間隔で,4里(1里は531m,高麗尺6尺=1歩で1000歩)である。中ッ道と下ッ道は,藤原京の東・西京極大路に利用された。また,下ッ道はその路幅を拡張して
49. かもぎみ・かぐやまちく【鴨公・香久山地区】奈良県:橿原市
日本歴史地名大系
区域東北を米川がともに西北に流れ、中央部を中の川が北流、米川に入る。中央西寄りに藤原宮跡があり、藤原京跡は全域に及ぶ。古代、中ツ道が東部を南北に、横大路が北部を
50. 軽市
日本大百科全書
・中なか・下しもの3道のうち、上つ道の延長線である阿部あべ・山田やまだ道が大きく西へ曲がって藤原京の南京極みなみきょうごく通りとなり、これが下つ道の延長線と交差
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大和国家(日本大百科全書(ニッポニカ))
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