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  11. 遣隋使

遣隋使

ジャパンナレッジで閲覧できる『遣隋使』の世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典のサンプルページ

世界大百科事典

遣隋使
けんずいし

大和朝廷と中国の王朝との公式な交渉は〈倭の五王〉時代からあった明証が中国の史籍に見いだされる。このころの交渉には多かれ少なかれ,朝鮮半島における外交問題を伴っていたのであるが,562年任那(みまな)(加羅)が新羅のために滅ぼされ,日本は朝鮮半島における足がかりを失うこととなった。朝廷はこの回復につとめたが,国内事情も不安定で,目的を果たすことは容易ではなかった。一方,中国大陸においては,589年隋が南北朝を統一して強力な集権国家となり四隣にのぞむようになった。このような情勢のもとに推古天皇の摂政となった聖徳太子は,国内政治を改めるとともに,中国および半島に対する外交関係を一新した。遣隋使の派遣はその外交政策をよくあらわしている。数次にわたり派遣されたが《日本書紀》と《隋書》とで記録にくいちがいが多い。

 600年(推古8,開皇20)に使者をつかわしたことが《隋書》に見えるが,この遣使については日本側の史料がない。しかし前後の情勢を考えると,前々年に文帝の高句麗征討があり,この年には日本から新羅征討軍が派遣されているから,朝鮮問題を有利に導くための使節であったらしい。ただし新羅は日本より先にしばしば使者を送っており,外交的にはあまり効果をあげなかったらしいが,この後国内では冠位十二階・十七条憲法の制定など推古朝の主要な改革が行われた。607年(推古15,大業3),小野妹子(いもこ)・鞍作福利(くらつくりのふくり)らをつかわしたことが《日本書紀》にみえ,これと対応する有名な〈日出処の天子書を日没する処の天子に致す〉の国書をたずさえて行き煬帝の不興を買ったことが《隋書》に見える。妹子は翌年隋使裴世清(はいせいせい)らを伴って帰国したが,隋の国書を途中で紛失している。彼の国書の内容が,太子の期待した対等の外交関係とは遠いものであったからであろうといわれている。おそらく太子の遣使の目的の一つであった,日本の国際的地位の向上ということはあまり達成されなかったであろう。608年,裴世清らを送って,妹子らが再び派遣された。この時の国書には《日本書紀》によると〈東天皇敬白……〉とあったという。妹子は翌年帰国した。《隋書》帝紀の610年の遣使記事は日本側に史料がなく,608年の遣使を示すとする説が多い。614年,犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)・矢田部造らを派遣した。一行は翌年帰国した。

 遣隋使派遣の目的は主として中国文化の摂取にあり,これによって従来朝鮮半島を介して輸入されていた大陸文化が直接に流入することになった。この点,従来の対中国関係が朝鮮半島問題を有利に導こうとする外交的かけひきを主目的としたのに比して,607年の派遣以後の目的は大きな変化を見せた。遣隋使には留学生・留学僧が随行し,かの地にとどまって大陸文化の習得につとめた。彼らが帰国後大化改新を推進する知識層となり,改新事業の推進力となったことは,遣隋使の歴史的意義を評価するさいに忘れることができないことである。日本で最初の仏教文化が開花し,いわゆる飛鳥時代を現出したのも,かかる情勢下において可能であったのである。なお遣隋使の航路は《隋書》の記事によると,難波-瀬戸内海-筑紫-壱岐-対馬-朝鮮半島沿岸北上-渤海湾横断-山東半島という順を経たいわゆる北路であった。派遣された人々の出身は主として帰化人系である。
→遣唐使 →隋
[弥永 貞三]

[索引語]
小野妹子 鞍作福利 日出処の天子 裴世清


表-帰国がわかる遣隋留学生表
表-帰国がわかる遣隋留学生表



日本大百科全書(ニッポニカ)

遣隋使
けんずいし

7世紀初頭、聖徳太子 (しょうとくたいし)が摂政 (せっしょう)のとき、日本から隋(581~618)に派遣された公式の使節。600年に始まり614年まで前後6回に及ぶ。ただし、600年(推古天皇8、隋の開皇20)と610年(推古天皇18、隋の大業6)の2回の使節派遣などは『日本書紀』にその記載がなく、それぞれ『隋書 (ずいしょ)』東夷伝 (とういでん)・煬帝紀 (ようだいき)に記されており、遣使の史実性に疑義がもたれている例が多く、ほかに3回説、4回説、5回説がある。また、600年の遣使は「姓は阿毎 (あめ)、字 (あざな)は多利思比孤 (たりしひこ)」が使者を派遣したとあり、この人物をだれに比定するかについて従来より諸説がある。すなわち推古天皇 (すいこてんのう)と舒明天皇 (じょめいてんのう)(息長足日広額天皇 (おきながたらしひひろぬかのすめらみこと))とを混同したとする説、小野妹子 (おののいもこ)が孝昭天皇 (こうしょうてんのう)の皇子天帯彦国押人命 (あめのたらしひこくにおしひとのみこと)を出自とするということからそれと推古天皇との混同説、あるいは聖徳太子とする説などがある。しかし「タリシヒコ」は当時の天皇一般を表す語で、太子の事績などからやはり聖徳太子と解するのが妥当であろう。

 607年(推古天皇15、隋の大業3)の遣使には大礼 (だいらい)小野妹子らが派遣され、このときは仏法を習得することを目的として沙門 (しゃもん)数十人も同行したが、提出した天皇の国書に「日出ずる処 (ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙 (つつが)無きや云々」と、隋と対等の礼で書かれてあったために「蛮夷 (ばんい)の書、無礼なる者有り、復 (ま)たもって聞する勿 (なか)れ」と煬帝を怒らせたという。翌608年、妹子は隋使文林郎裴世清 (ぶんりんろうはいせいせい)とともに帰国、同年再度使節として渡隋。このとき、高向玄理 (たかむこのくろまろ)、僧旻 (そうみん)、南淵請安 (みなみぶちのしょうあん)らが留学生 (りゅうがくしょう)、学問僧として同行した。彼らは二十数年間にわたり隋唐の制度・文物についての新知識の習得に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革等に貢献した。

 遣隋使は614年の犬上御田鍬(耜) (いぬがみのみたすき)らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていくことになる。

[鈴木靖民]



遣隋使一覧[百科マルチメディア]
遣隋使一覧[百科マルチメディア]

©Shogakukan


国史大辞典

遣隋使
けんずいし
推古天皇八年(六〇〇)から同二十二年にかけて、前後六回にわたって日本から隋に派遣された公式の使節。使の派遣回数とその年次についてはほかに三回説・四回説・五回説があるが、『隋書』倭国伝・同煬帝紀と『日本書紀』推古紀の記述すべてを生かすと、(一)六〇〇年(推古天皇八)、(二)六〇七年(同十五)、(三)六〇八年(同十六)、(四)六〇八年、(五)六一〇年(同十八)、(六)六一四年(同二十二)の六回とみるのが妥当である。推古天皇八年(隋開皇二十)の使は聖徳太子の非公式な使とする説、西辺豪族派遣の私使とする見解などがあるが、百済の仲介で中国の礼制を摂取することを主な目的とした公式の使であり、推古天皇十一年の冠位十二階の制定はその成果であろう。同十五年の使には小野妹子らが派遣され、仏法の習得を目的として沙門数十人も同行したが、隋に提出した国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」(『隋書』、原漢文)と王(天皇)独自の権威を誇示したために「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復たもつて聞する勿れ」(同)と煬帝の不興をかったという。翌十六年、妹子は隋の答礼使裴世清とともに帰国、同年再度使節として渡隋。この時、高向玄理・僧旻(日文)・南淵請安らが、留学生・学問僧として同行した。かれらは長年滞在して隋唐の制度・文物についての新知識の導入に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革などに貢献した。遣隋使は推古天皇二十二年の犬上御田鍬らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていく。→遣唐使(けんとうし)
[参考文献]
坂元義種「遣隋使の基礎的考察」(井上薫教授退官記念会編『日本古代の国家と宗教』下所収)、同「推古朝の外交」(『歴史と人物』昭和五十四年十二月)、増村宏「隋書と書紀推古紀」(『鹿児島大学法文学部紀要』文学科論集四・五)
(鈴木 靖民)
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検索コンテンツ
1. 遣隋使画像
日本大百科全書
の制度・文物についての新知識の習得に努め、帰国後、日本の文化の発達や政治改革等に貢献した。 遣隋使は614年の犬上御田鍬(耜)いぬがみのみたすきらの派遣を最後と
2. 遣隋使画像
世界大百科事典
な変化を見せた。遣隋使には留学生・留学僧が随行し,かの地にとどまって大陸文化の習得につとめた。彼らが帰国後大化改新を推進する知識層となり,改新事業の推進力となっ
3. けんずい‐し【遣隋使】
日本国語大辞典
〔名〕推古天皇の時、中国文化を輸入するため、わが国から隋に派遣された使節。第一次は推古天皇一五年(六〇七)小野妹子(一六年四月帰朝)、第二次は一六年九月小野妹子
4. けんずいし【遣隋使】画像
国史大辞典
治改革などに貢献した。遣隋使は推古天皇二十二年の犬上御田鍬らの派遣を最後とするが、この事業は遣唐使に継承されていく。→遣唐使(けんとうし) [参考文献]坂元義種
5. 遣隋使
日本史年表
任那に遣わす.両国、朝貢する.将軍らが新羅より帰還後、新羅再び任那を攻撃(紀)。隋に使を遣わす(最初の 遣隋使 )(隋書倭国伝)。
6. 【遣隋使】けんずいし
新選漢和辞典Web版
《国》飛鳥(あすか)時代に隋(ずい)の朝廷へつかわされた使者。
7. 遣隋使一覧[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
8. 遣隋使一覧[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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9. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 237ページ
東洋文庫
我々は今日の感覚だけで評価することは出来ない。尤もかつて一千年以上も前に日本は遣唐使、あるいは遣隋使と共に何百人という非常に貴重な人材を彼地に送り、また彼地から
10. あきぐん【安芸郡】
国史大辞典
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11. あきぐん【安芸郡】 : 安芸郡/(一)
国史大辞典
のちの荘園としての安摩荘が広島湾岸と江田島・倉橋島にわたる広大なもので、漁業をもって特色づけられ、また遣隋使・遣唐使が派遣されるつど、その船が安芸国で造られたが
12. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
度にわたる小野妹子おののいもこの派遣、614年の犬上御田鍬いぬがみのみたすきの派遣、すなわち遣隋使の派遣には、前記のような東アジア外交の背景があった。新羅が隋と
13. 飛鳥時代
世界大百科事典
間中絶していた中国との国交が再開された。そして600年(推古8)を最初として小野妹子ら数次の遣隋使が派遣されるが,これは従来と異なり中国と対等の立場に立ってのも
14. あすかじだい【飛鳥時代】
国史大辞典
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15. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
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16. 飛鳥美術
世界大百科事典
は敗北した。600年新羅は任那に侵入し,日本も新羅に派兵するという緊迫した情勢の下に,日本は遣隋使を派遣する(《隋書》倭国伝)。翌601年聖徳太子は宮室を飛鳥か
17. あすかぶんか【飛鳥文化】
国史大辞典
述べたと記されており、当時の日本政府が隋の仏教文化を学びとる目的で遣隋使を派遣したことが知られる。『日本書紀』は、この年ならびにその翌年、小野妹子が遣隋使として
18. あすかぶんか【飛鳥文化】 : 飛鳥文化/〔東アジア史の中での飛鳥文化〕
国史大辞典
述べたと記されており、当時の日本政府が隋の仏教文化を学びとる目的で遣隋使を派遣したことが知られる。『日本書紀』は、この年ならびにその翌年、小野妹子が遣隋使として
19. あそじんじゃ【阿蘇神社】熊本県:阿蘇郡/一の宮町/宮地村
日本歴史地名大系
俗以為異、因行祷祭」とみえ、阿蘇山の噴火を異変として、山麓の住民が祭祀を行っていることを示し、遣隋使から伝聞したのであろう。次いで、「釈日本紀」引用の「筑紫風土
20. 阿倍鳥
世界大百科事典
蝦夷(えみし),坂本糠手とともに推古朝の大夫(まえつぎみ)の一人。608年(推古16)8月,遣隋使小野妹子を送り来朝した隋使裴世清入朝時その導者となり,610年
21. アーネスト・サトウ 神道論 160ページ
東洋文庫
素戔嗚尊は新羅人であることなどとする論は、国学者の到底放置できぬものであった。(45)推古朝による遣隋使のこと。小野妹子が派遣されたのは六〇七年である。これを記
22. いきのくに【壱岐国】長崎県
日本歴史地名大系
経てはるかに大海の中にあり、また東して「一支国」に至り、竹斯国(筑紫国)に着いたという。また遣隋使の派遣路も壱岐を経由しており、六三〇年から寛平六年(八九四)ま
23. 医者
世界大百科事典
仏教医学にとりこまれていく過程で,医を業とする者の身分も固定化された。608年(推古16)の遣隋使のなかには,恵日や福因のような医学生も混じっていた。彼らが帰国
24. 犬上
日本大百科全書
『和名抄わみょうしょう』では犬上と書く。『古事記』景行けいこう天皇の条には犬上君の名がみえるが、遣隋使けんずいし、遣唐使に任命された犬上御田鍬いぬがみのみたすき
25. いぬかみぐん【犬上郡】滋賀県
日本歴史地名大系
二年五月一日条)、対外関係に活躍している。とりわけ犬上御田鍬は著名で、推古天皇二二年六月には遣隋使、舒明天皇二年八月には遣唐使として二度も中国への公式使節に任命
26. いぬかみ‐の‐みたすき【犬上御田鍬・犬上三田耜】
日本国語大辞典
飛鳥時代の官人。推古天皇二二年(六一四)遣隋使として中国に渡り、翌年帰国。舒明天皇二年(六三〇)には遣唐使となり渡航、唐の使者高表仁、僧旻らとともに帰朝した。生
27. いぬかみのみたすき【犬上御田鍬】
国史大辞典
初代の遣唐使。『日本書紀』推古紀に御田鍬、舒明紀に三田耜とある。推古天皇二十二年(六一四)六月には、遣隋使として矢田部某(『旧事本紀』に名を御嬬とするが未詳)ら
28. 犬上御田鍬
日本史年表
隋に遣わす(紀)。 615年〈推古23 乙亥〉 9・‐ 犬上御田鍬 ら、隋より帰る.百済使、遣隋使に従い来朝(紀)。 632年〈舒明4 壬辰⑧〉 8・‐ 遣唐使
29. いぬかみの-みたすき【犬上御田鍬】
日本人名大辞典
?−? 飛鳥(あすか)時代の官吏。推古天皇22年(614)矢田部某とともに最後の遣隋使をつとめ,翌年百済(くだら)使をともなって帰国。舒明(じょめい)天皇2年薬
30. 犬上御田鍬
日本大百科全書
僚。冠位は大仁だいじん。三田耜とも記す。614年(推古天皇22)6月、矢田部某とともに第五次遣隋使けんずいしとなる。翌年百済くだら使を伴い帰国。630年(舒明天
31. 犬上御田鍬
世界大百科事典
三田耜とも記す。犬上氏は近江国犬上郡の豪族と推定される。614年に矢田部某とともに推古朝の最後の遣隋使となる。翌年百済使を伴い帰国する。630年薬師(くすし)恵
32. 宇治拾遺物語 388ページ
日本古典文学全集
かい屈まりてゐたるを太刀にて頭を打てば、鯉の頭を割るやうに割 二十 遣唐使の子が虎に食われる事  遣隋使に続いて、日本から中国の文化を学び、文物を導入するために
33. 海画像
日本大百科全書
帆走する爽快そうかい感、外洋での風や波との闘いなどはまったく現れない。7世紀の初めから9世紀の終わりまで、遣隋使けんずいし、遣唐使の時代の海は東シナ海や黄海だっ
34. えおん【恵隠】
国史大辞典
近江国滋賀郡の漢人であろうという。推古天皇十六年(六〇八)九月、僧旻・南淵請安らとともに学問僧として遣隋使小野妹子の第二回派遣に随行し、留学すること三十一年、舒
35. えおん【恵隠】
日本人名大辞典
?−? 飛鳥(あすか)時代の僧。推古天皇16年(608)遣隋使小野妹子(いもこ)にしたがって,南淵請安(みなぶちの-しょうあん),旻(みん)らとともに留学。舒明
36. おうみのくに【近江国】滋賀県
日本歴史地名大系
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37. おおつし【大津市】滋賀県
日本歴史地名大系
すると思われる。大友氏は天智天皇の皇子である大友皇子となんらかの関係があるだろうし、志賀氏は遣隋使の志賀漢人恵隠が著名だし、三津氏は津の管理などに関係しようし、
38. おおともごう【大友郷】滋賀県:近江国/滋賀郡
日本歴史地名大系
張っていた。ほか当郷にかかわる渡来系氏族に、坂田郡主帳の穴太村主や志賀穴太村主などの穴太氏、遣隋使小野妹子に随行した志賀漢人恵隠などの志賀氏、最澄を出した三津首
39. 訳語
日本大百科全書
また曰佐おさとも書き、その語源は百済など朝鮮諸国の氏姓に由来する古代朝鮮語と考えられる。当初は遣隋使小野妹子おののいもこの通事鞍作福利くらつくりのふくりのように
40. 訳語
世界大百科事典
ての日佐(おさ)を帯びた。しかし,時代の変化により,これらの氏と異なる訳語・通事が任命され,遣隋使小野妹子には通事鞍作福利(くらつくりのふくり)が随行し,701
41. おさ[をさ]【訳語・通事】
日本国語大辞典
ヲサ」のサに複点があるが、書陵部本には単点があり、観智院本の方は誤点ではないかと疑われる。(2)遣隋使、遣唐使派遣時代の通訳は「をさ」と呼んで、「訳語」「通事」
42. おさ【訳語】
国史大辞典
ね)の一種となった。しかし時代とともに言語は変わるので、世襲の通訳はやがて役に立たなくなり、遣隋使・遣唐使の時代になると、前回に学生などとして留学した経験者が副
43. おの【小野】滋賀県:滋賀郡/志賀町/小野村
日本歴史地名大系
内の地。和邇川下流右岸の琵琶湖岸に比定される。「新撰姓氏録」左京皇別下に小野朝臣の名がみえ、遣隋使小野妹子が「近江国滋賀郡小野村」に居住したため小野臣を称したと
44. 小野氏
世界大百科事典
平安初期には同族の粟田氏,大春日氏,布瑠(ふる)氏も氏神として崇拝していた。小野氏には最初の遣隋使として有名な妹子(いもこ)をはじめ,中納言まで昇った毛野(けぬ
45. おのうじ【小野氏】画像
国史大辞典
奈良朝にも神威を恐れられたが、平安時代初期には大春日・布瑠・粟田の三氏も氏神として崇拝した。小野氏には遣隋使妹子のほか、毛野・馬養・田守・石根・篁ら新羅・渤海・
46. 小野妹子
日本大百科全書
生没年不詳。飛鳥あすか時代の遣隋使けんずいし。隋では「小妹子」を字音でいいかえ蘇因高そいんこうとよんだ。607年(推古天皇15)聖徳太子が隋と国交するにあたり、
47. 小野妹子
世界大百科事典
和珥(わに)氏,春日氏の同族で臣姓。近江国滋賀郡小野村(滋賀県大津市)を本拠とする。607年(推古15),遣隋使として中国に渡る。冠位は大礼(十二階の第5階)。
48. おの‐の‐いもこ【小野妹子】
日本国語大辞典
最初の遣隋使。推古天皇一五年(六〇七)聖徳太子の命で「日出処天子、致書日没処天子、無恙哉」の国書を携えて隋に渡り、翌年隋使裴世清(はいせいせい)とともに帰国。同
49. おののいもこ【小野妹子】
国史大辞典
生没年不詳 推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古天皇十五年(六〇七)遣隋使として海を渡る。時に大礼冠(十二階冠位の第五階)。「日出づる処の天子(下略)」(原漢
50. おのの-いもこ【小野妹子】
日本人名大辞典
?−? 飛鳥(あすか)時代の遣隋使(けんずいし)。推古天皇15年(607)聖徳太子の命により「日出(い)ずる処の天子,書を日没する処の天子に致す」という国書をも
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