政権の所在地による日本史の時代区分法によって,710年(和銅3)に平城京へ遷都してから784年(延暦3)に長岡京に遷都するまで,元明,元正,聖武,孝謙,淳仁,称徳(孝謙重祚),光仁の7代の天皇の治世70余年間をいい,ほぼ8世紀の大半がこの時代に相当する。
時期区分
その間,聖武天皇は740年(天平12)恭仁(くに)京に遷都し5年後に再び平城京に還都するまで,さらに紫香楽(しがらき)宮,難波宮と転々と宮室を移すが,間もなく病気を理由に749年(天平勝宝1)孝謙天皇に譲位する。奈良時代を前後の2時期に分ける場合は,この聖武退位,孝謙即位の時点をもって前後に区分するのが適当であろう。
政治過程
藤原不比等はその娘宮子を文武天皇の夫人とし,また宮廷に隠然たる勢力をもっていた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)を妻に迎え,さらに大宝律令の撰定にも参加するなど,しだいに政界に地歩を固めてきたが,元明天皇の即位とともに右大臣に栄進し,三千代は橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を賜った。時に知太政官事(ちだいじようかんじ)に穂積親王,左大臣に石上麻呂,大納言に大伴安麻呂がおり,ともに議政官として国政を担当したが,この3人は間もなく相次いで死去した。しかし,その後任はいずれも任ぜられなかったため,717年(養老1)からは不比等の専権にゆだねられた。その間,首(おびと)皇子(母は藤原宮子)が14歳で立太子,また元正天皇(元明天皇の娘)が皇太子の成長を待つ間,しばらく女帝として即位したが,不比等は三千代との間に生まれた安宿(あすかべ)媛(光明子)を皇太子妃とし,さらにみずからが中心となって養老律令の撰定に着手した。
しかしその藤原不比等が720年に死去すると,直ちに《日本書紀》撰進の大任を果たしたばかりの舎人(とねり)親王が知太政官事に,新田部(にいたべ)親王が知五衛及授刀舎人事に就任,また翌年には長屋王(父は高市皇子)が右大臣に昇進して,天武系皇親が新政権の中核となり,政局は大きく転換した。時も時,元明太上天皇が病死,また多治比三宅麻呂と穂積老が謀反誣告と乗輿指斥の罪で配流される事件が起こって不穏な情勢となったが,間もなく724年(神亀1)には首皇子が聖武天皇として即位し,ついで安宿媛との間にはじめて皇子(基王とも伝える)が誕生,直ちに立太子された。ところがその皇太子は生後1年で夭死し,皮肉にも同じ年聖武天皇のもう一人の妃県犬養広刀自(ひろとじ)に安積(あさか)親王が生まれた。藤原氏一族はこの不測の事態に対処するため,推古以後,皇極(斉明),持統,元明(草壁親王妃)と先帝の皇后がその死後女帝として即位する慣例のあることに着目し,聖武死後のことを考えて安宿媛の立后を画策した。しかし皇后は律令の規定によって皇族出身に限られているため,皇親の立場から立后に強く反対することが予測される長屋王をまず排除する必要があると考え,無実の罪をきせて王とその妃吉備内親王らを自殺させた。729年の長屋王の変である。やがて事件が落着すると,瑞亀の献上によって天平と改元,ついで安宿媛は仁徳皇后磐姫の先例にならうという宣命とともに,臣籍ではあるが聖武天皇の皇后となった。世にいう光明皇后である。
かくて長屋王の変以後は,大納言から間もなく右大臣に進んだ藤原武智麻呂(南家)を中心に,参議に列した中務卿藤原房前(ふささき)(北家),式部卿藤原宇合(うまかい)(式家),兵部卿藤原麻呂(京家)ら不比等の子息四卿が政権を掌握した。その天平初年は〈咲く花の薫ふがごとし〉と歌われたのとは反対に,天候不順のための凶作・飢饉,また大地震が相次ぎ,加えて大宰府管内から流行しはじめた豌豆瘡(もがさ)(天然痘)は,737年になると平城京内に蔓延し,前代未聞といわれるほどの多数の死者が出たが,藤原氏の四卿もついにその犠牲となり,藤原氏は大きな打撃を受けた。
代わって樹立された新しい政権は知太政官事鈴鹿王(長屋王の弟),大納言橘諸兄(はじめ葛城王,母は橘三千代),中納言多治比広成らによって構成され,これに唐から帰国したばかりの玄昉(げんぼう)と下道真備(しもつみちのまきび)(のち吉備真備)が参画したが,その性格は反藤原氏的で,兵士・健児(こんでい)の停止,郡司の減員,国の併合などの行政整理を目的とするいくつかの新施策を実施した。これに対して,親族を讒乱したとして大宰少弐に左遷されていた藤原広嗣(ひろつぐ)(宇合の長子)が大宰府に拠って反乱を起こし,玄昉,真備の排除を要求した(藤原広嗣の乱)。反乱は大野東人を大将軍とする征討軍によってすぐ鎮圧されたが,乱の京内への波及を恐れた聖武天皇は,勃発とともに東国に退避し,鎮定後も平城宮に帰らず,諸兄と関係深い山背国相楽郡の恭仁京に遷都した。しかし恭仁宮に定着せず,その後5年間に近江国甲賀郡に造営した紫香楽宮や,陪都である難波宮などを転々としたのち,745年に再び平城京に還都した。その間に国分寺の建立や盧舎那大仏像の造顕が始められ,また墾田永年私財法発布のことなどがあったが,政界では武智麻呂の次男藤原仲麻呂が急速に台頭,また安積親王が怪死し,玄昉はやがて筑紫観世音寺に左遷された。
749年(天平勝宝1)陸奥国から黄金が献上され,難航していた東大寺大仏の完成が決定的となると,病弱の聖武天皇は娘の皇太子阿倍内親王に譲位した。孝謙天皇の出現であるが,同時に皇后宮職を拡大して紫微中台(しびちゆうだい)が設置され,大納言藤原仲麻呂がその長官紫微令を兼任した。紫微中台は皇太后となった光明子が娘の孝謙天皇を補佐して国政を執る令外官(りようげのかん)であり,仲麻呂はそれに拠って,太政官に属する左大臣諸兄や兄の右大臣豊成に対抗しようとした。かくて両派の対立はしだいに激化していったが,ことに諸兄の長子橘奈良麻呂は,事あるごとに大伴,佐伯,多治比などの諸氏を結集して,仲麻呂を排除する機会をうかがっていた。そのような情勢の中で諸兄は謀反の志があると密告する者があって辞職し,ついで聖武太上天皇も死去した。遺詔によって道祖(ふなど)王が皇太子となったが,仲麻呂はこれを廃し,亡男真従(まより)の妻粟田諸姉(あわたのもろあね)をめあわせていた大炊王(舎人親王の子)を立太子させ,天皇家とミウチ的な関係を結んだ。かくしてその権勢はいっそう強化され,以後唐を模倣した独自の専制的な施策をつぎつぎと実行していった。
仲麻呂はいっぽう橘奈良麻呂ら反仲麻呂派の動静にも警戒を怠らず,みずから紫微内相に任じて軍事権をも掌握したが,ついに757年(天平宝字1)に至るや,多くの密告情報をもとに機先を制して奈良麻呂ら反対派の一党を捕らえ,断罪して反乱を未然に鎮圧した。この橘奈良麻呂の変ののち大炊王は淳仁天皇として即位,仲麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)と称するとともに,やがて正一位大師(太政大臣)の極位極官に昇り,その専権が確立した。
しかしこの仲麻呂の権勢も光明皇太后の死を一つの契機として急速に下降しはじめ,内道場禅師として台頭してきた道鏡を寵愛する孝謙上皇と,これを批判する淳仁天皇が近江保良宮滞在中に不和となり,孝謙,道鏡や大伴,佐伯ら反仲麻呂派と,淳仁,仲麻呂派の対立は決定的となった。しかも形勢はしだいに仲麻呂派に不利となり,加えて凶作・災害が相つぎ,また開基勝宝などの銭貨改鋳はインフレを招き,社会不安が著しくなった。仲麻呂は退勢を一挙に挽回しようと,ひそかに謀反を計画するが,孝謙上皇側はこれを察知し,淳仁天皇のもとにあった鈴印を奪回しようとして戦端が開かれた。緒戦に敗れた仲麻呂は藤原氏の領国化していた近江国の国府に退いて態勢を建て直そうと図るが先手をとられて果たさず,やむなく子息辛加知を国守として配する越前国に逃入しようとする。しかしこれにも失敗し,結局追討軍のため湖西の三尾埼付近で挟撃され,妻子・従党とともに捕らえられて湖岸で斬首された。時に764年,これを恵美押勝の乱という。
乱後は道鏡が大臣禅師に任じられて政権を掌握し,淳仁天皇は廃位ののち淡路に配流され,孝謙上皇(称徳天皇)が重祚した。道鏡は称徳女帝の信任のもと,太政大臣禅師から法王に進み,天皇に準ずる待遇を受けたが,その施策には西大寺建立,由義宮造営,銭貨改鋳など政敵仲麻呂との対抗意識から出たものが多い。宇佐八幡の神託を利用して皇位を窺窬(きゆ)し,和気清麻呂にその野望を絶たれたという宇佐八幡宮神託事件も,つまるところ仲麻呂の対皇室観に対抗して,その意識を一歩進めたものであった。しかし,770年(宝亀1)に称徳女帝が病死すると,独身であったために,ここで永らく続いた天武系の皇統が絶え,代わって藤原百川(ももかわ)らに擁立されて天智天皇の孫白壁王が皇太子となり,道鏡は下野薬師寺別当として追放され,彼地に没した。白壁王はやがて光仁天皇として即位し,百川らは政治の刷新を図った。はじめ皇后に聖武天皇の皇女井上(いがみ)内親王(母は県犬養広刀自),皇太子にその子他戸(おさべ)親王が立てられたが,間もなく廃され,代わって百済系出身の夫人高野新笠(たかののにいがさ)の生んだ山部親王が立太子した。間もなく即位して桓武天皇というが,直ちに行政改革を断行し,その一つとして784年(延暦3)山背国乙訓郡に長岡京を造営して平城京から遷都するとともに,難波宮をも移して複都制を廃止した。
時代概観
この時代,唐では,4字年号など日本でも模倣された則天武后の治世のあとをうけて,玄宗の盛唐の華やかな〈開元の治〉が実現した。しかし8世紀半ばになると安禄山,史思明の反乱が起こり,政治は乱れた。この間,日本からの遣唐使の派遣は7回に及び,留学生,留学僧は進んだ中国の文物,制度を積極的に移入した。朝鮮では676年に統一を達成した新羅との間に遣新羅使,新羅使が頻繁に往復したが,対等を主張する新羅と,依然としてそれを認めようとしない日本との間に,緊張した関係が持続した。しかし,新羅も8世紀後半になると国内が乱れ,やがて新羅からの遣使は途絶した。いっぽう698年に中国東北部に建国した渤海は,唐・新羅に対抗する必要からしばしば使者を日本に送って国交を求めてきた。これに対して日本も遣渤海使を派遣し,また遣唐使など中国との交流の中継地としても利用したが,渤海の場合も8世紀後半には貿易が中心となった。
大局的にみれば,国内政治の展開は,天武天皇の皇子たちと橘,多治比ら旧王族,および大伴,佐伯,紀らの旧氏族を結集した勢力と,これに対する藤原氏一族との間における政権争奪に,皇位継承問題が微妙にからまった闘争の繰返しであったといえよう。またこの時代はさきに制定,施行された大宝律令の修正・整備の時期であった。中央政府の支配領域は拡大し,蝦夷征討が進んで712年(和銅5)には日本海側に出羽国が置かれ,太平洋側の陸奥国には多賀城が築かれた。さらに隼人の居住する九州南部にも薩摩国,ついで大隅国が置かれ,種子島,屋久島,奄美大島なども支配下に入った。しかし律令制はもともと社会・文化の発展段階の異なる中国のそれを,性急に日本に受容・適合させようとしたものであるため,やがてその矛盾が各方面に現れ,政府はその対応に苦慮することになった。たとえば最初の銭貨として鋳造された和同開珎が,蓄銭叙位令などで流通を奨励されたにもかかわらず,貨幣経済の基盤が未成熟であったため,その利用範囲が畿内をあまり出なかったという事実や,班田収授法の基礎として公地公民を標榜しながら,人口増加に伴う田地不足を解消するため開墾を奨励した三世一身法(723)や墾田永年私財法(743)が,やがて大寺院や貴族・豪族の大土地私有を誘発して荘園を成立させ,土地制度の根底をゆるがすようになった事実などは,その一例である。
文化
奈良時代の文化はその頂点をなす聖武朝の年号によって〈天平文化〉ともよばれる。その特色は,まず平城京で華やかな生活を送る大宮人中心の貴族的文化であること,つぎに遣唐使らによって将来された盛唐文化の影響を強く受け,国際性豊かな文化であること,そして鎮護国家の教法として国家の保護を受け,国分寺,東大寺などを建立した仏教中心の文化であることであろう。
またそのころにおける漢字・漢文の高度な普及は文化の発展を示す指標でもあるが,712年に太安麻呂(おおのやすまろ)が撰進した《古事記》は,稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習した〈帝紀〉〈旧辞〉を漢字の音訓を用い,苦心して筆録したものであり,《万葉集》は日本古来の歌謡約4500首をやはり漢字の音訓を組み合わせたいわゆる万葉仮名で表記したものである。これに対して,720年に舎人親王らによって編纂された《日本書紀》は,中国史書の体裁にならい,純粋の漢文で記された日本の最初の正史であり,また現存最古の漢詩集としての《懐風藻(かいふうそう)》も著名である。
天平美術の精粋は,光明皇太后によって東大寺に献納された聖武天皇遺愛の品々を中心とする正倉院の宝物に代表されるが,そのほか寺院建築として東大寺法華堂,転害門,唐招提寺金堂,講堂,法隆寺伝法堂,栄山寺八角堂などがある。仏像彫刻としては,新しい技法としての乾漆像に興福寺十大弟子・八部衆像,東大寺法華堂不空羂索観音像,唐招提寺鑑真像などがあり,同じく塑像では東大寺法華堂日光・月光菩薩像,同戒壇院四天王像などが著名である。さらに仏画としては薬師寺吉祥天像のほか,もと東大寺法華堂安置と伝えるボストン美術館蔵の霊山浄土変相図などが知られている。
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