従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・
師・
人・挾杪・水手長・水手という構成であり、時には大使の上に執節使・押使が置かれたこともあった。使節が渡航に用いる船数は、当初は二隻、のち奈良時代になると四隻編成が基本となる。船数の増加にともない員数も二百四、五十人から五百人以上になり、最後の遣使となった承和元年(八三四)任命の使では六百五十一人という多人数になっている。使の随員は官人のほか船の航海に要する専業者などがいるが、大多数は公民から徴発された
師・挾杪・水手などの乗組員である。船の大きさは不明であるが、船数と使節団の総数から推算すると、一隻につき百二十人から百六十人程度乗り込める規模の構造船であったようである。使船の航路は難波津(大阪湾)から瀬戸内海を西下し、筑紫の大津浦(博多湾)に入り、ここから出航した。初期は壱岐・対馬を経て朝鮮半島の西沿岸を北上し、渤海湾口から山東半島に至る北路(新羅道)がとられた。ところが白村江の戦(天智天皇二年(六六三年))ののち、新羅との国交が途絶えると、九州南端から多
(種子島)・夜久(屋久島)・吐火羅(宝諸島)・菴美(奄美大島)・度感(徳之島)・阿児奈波(沖縄島)・球美(久米島)・信覚(石垣島)などを経由して、東シナ海を横断して揚子江口を目ざす南島路が主にとられるようになった。『唐大和上東征伝』に記される鑑真の来日航路がこれにあたる。さらに奈良時代後半以降になると、大津浦をたち、肥前値嘉島(五島列島)付近から順風を利用して一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう南路(大洋路)がとられるようになった。遣唐使船の航海にはさまざまな困難がつきまとい、船酔いはさることながら、円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、糒(米をむして乾かした携帯・保存用の食糧)と生水のみで飢えをしのぎながら風雨・高浪を乗り越えなければならず、航行中重病にかかれば独り異国に置き去りにされることもあった。また造船技術・航海術が未熟なため、難破・漂流することも珍しくなかった。たとえば天平勝宝五年(七五三)十一月、藤原清河・阿倍仲麻呂らを乗せて蘇州から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船が暴風に遭い、南方へ流されて安南に漂着した。結局、二人は辛苦のすえ唐にもどり、望郷の念を抱きつつも生涯唐朝に仕えたのは有名である。このように使節はつねに死の危険と直面しながら渡唐を続けたのであるが、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった。これは日本の古代国家を形成するうえで、中国王朝の国制を模倣しようとしたためにほかならない。特に文化面でも同行した留学生・学問僧などによる仏教を始めとする先進文化の習得、書籍その他の文化的所産の将来に多大な成果をあげた。奈良時代に入ると、主に政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった。特に当時の日本の外交は新羅との頻繁な交渉とともに、唐との交渉を通して、東アジアの国際社会での日本および天皇の地位を確保することが要請されており、新羅の「朝貢」を媒体とする宗主・属国関係を唐に認定される必要があった。このことは『続日本紀』天平勝宝六年条に記される唐天宝十二載(七五三)正月、唐の朝賀の場における新羅との席次争いの事件にあらわれている。当日、「諸蕃」の席次で日本を西畔第二吐蕃(チベット)の下に置き、新羅を東畔第一大食国(サラセン)の上に置いたので、副使大伴古麻呂が抗議して、双方の順位を入れ替えさせたというものである。さらに奈良時代末以降になり、政治外交上の使命が薄れてくると、僧侶の求法のほか、実質的な貿易の利益を目的として派遣されるようになっていった。平安時代にも延暦二十三年(八〇四)と承和五年の二回にわたって遣使されたが、それ以降はまったく中断した。これは使の目的の実効性の喪失、政府の財政難などによるが、新羅との公的外交が宝亀十年(七七九)に終り、唐も安史の乱(七五五―六三年)後、次第に衰運に向かいつつあったので、遣使の外交政策上の意義もなくなってきたためである。また平安時代前期以降活発になった唐人・新羅人商人との私貿易により経済上の欲求も満たされるようになった。こうして寛平六年大使に任命された菅原道真が、唐の擾乱や新羅海賊による航海の困難などを理由に停止を要請し、それが承認されると、遣唐使の制は行われないまま廃絶した。→遣隋使(けんずいし)奈良・平安時代に日本から唐につかわされた使。618年隋が滅んで唐が国を建てた。聖徳太子が摂政のころ,数次にわたって隋に使者がつかわされ,遣隋使による文化の摂取が行われはじめたのであるが,新興の唐帝国の国力はいよいよ盛んで,法式制度は整い,文化は空前の繁栄を呈した。日本ではひきつづき唐へ使者をつかわした。これを遣唐使という。630年(舒明2)犬上御田鍬(いぬがみのみたすき),薬師恵日らをつかわしたのを第1回とし9世紀の中ごろに及ぶまで,前後十数回にわたって継続的にその派遣がつづけられた。遣唐使は政府から任命された使者が政府の費用で船をつくり,旅装をととのえて唐の王室につかわされる公式の使節である。その主たる目的は,日本の側からいえば文化の摂取であり,交易の利を求めることであったが,中国の側からいえばあくまで朝貢にほかならなかった。当時中国と交渉をもった四隣の国々は,朝貢によることなしに,中国と外交関係を結ぶことはできなかった。日本の遣唐使は国書を携行しなかった。朝貢関係をはっきり文書にあらわすのを好まなかったからである。唐の朝廷における国際的地位を高めることは,日本の遣唐使の常に心がけたことであった。藤原清河らが入唐のさい,新羅の使節と唐の宮廷内における席次を争ったことなどはその努力のあらわれである。このような努力にもかかわらず,唐と日本との関係が朝貢関係を基本とするものであったことに変りはない。
遣唐使の長官は大使である。その上に執節使や押使の置かれた場合もある。大使の下に副使。大使・副使は通常1名。その下に判官・録事若干名ずつ。このほかに知乗船事・造舶都匠・訳語(おさ)・医師・陰陽師・画師・史生・射手・船師・新羅訳語・奄美(あまみ)訳語・卜部(うらべ)・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・
師(かじとり)・傔人(けんじん)・挟抄・水手らがあり,これに留学生・留学僧らが加わった。一行は240~250人から500人以上に及んだ。一行はふつう4隻の船に乗りこんだ。船の構造は帆船で櫓(ろ)が備えられていたことは確実である。後の例から推測すると平底で波切りがわるく,風のないときや逆風のときは帆をおろして櫓でこがなくてはならなかった。一行のうちに水手が多かったのはこのためである。まだ季節風の知識も知られていなかったので,逆風の季節と知らずに出帆し難船した場合も少なくなかった。
航路はいくつかの航路があり,北路は難波-筑紫-壱岐-対馬-朝鮮半島西岸北上-渤海湾横断-山東半島上陸の経路である。南路は難波-筑紫-値嘉島(平戸・五島列島)-庇良(平戸)島-宇久島-遠値賀(小値賀)島-合蚕田(あいこのた)浦-福江島-東シナ海横断-揚子江口上陸の経路である。海道舡路は筑前-朝鮮半島西岸北上-渤海湾横断-山東半島南岸西行-華北・華中沿岸南下-揚州上陸の経路である。難波-筑紫-多褹(種子)-夜久(屋久)-吐火羅(宝)-奄美-度感(徳之)-阿児奈波(沖縄)-球美(久米)-信覚(石垣)-東シナ海横断-揚子江口上陸の南島路は漂流による経路であろう。遣隋使および初期の遣唐使の往復はおおむね北路によったが,白村江の戦で日本と敵対関係にあった新羅が半島を統一して以来,日本との関係が緊張したので,中期以降の遣唐使は南路または南島路によった。海道舡路はだいたい北路と一致するが,これは古くから新羅の商人によって利用された航路であって第17回遣唐使の帰路は新羅船をやとってこの航路で帰国した。南路・南島路はいうまでもなく危険率が大きかった。中途で沈没したり,漂流の末現地人に略奪されたり殺されたりした場合も少なくない。
使節には容止儀礼ある貴族の子弟が選ばれ,留学生・留学僧には当時の傑出した人材が選ばれた。彼地において容止を賞せられた粟田真人(まひと)・藤原清河らのような者もある。道慈・玄昉(げんぼう)・最澄・空海・円仁らのように仏教史上大きな足跡を残した傑僧,伊吉博徳(いきのはかとこ)・山上憶良・吉備真備・大和長岡・橘逸勢(たちばなのはやなり)・藤原貞敏のごとき日本文化・政治史上忘れることのできない人物はいずれも遣唐使としてまたは留学生・留学僧などとして入唐した人々である。なかには阿倍仲麻呂のごとく唐朝に重く用いられついに彼地に没した者もある。遣唐使は帰朝のさい帰化人を伴ってくることが少なくなかった。その中には,鑑真(がんじん)のごとく仏教史上に重要な人物もあったし,帰化した工人らが日本の工芸技術に貢献したところも少なくない。
894年(寛平6)菅原道真は上表して唐国が衰微していることおよび途中の危険なことを理由として遣唐使をやめるよう請うて許され,その後再び遣唐使が任命されることはなかった。入唐した最後の遣唐使は834年(承和1)の藤原常嗣らである。平安時代に入ってから新羅の商人の日本に来航するものがあらわれ始め,ついで唐の商人も来航するようになった。巨大な国家資本を投じて遣唐使を派遣しなくても,中国大陸との文化的接触を保つことができるようになったのである。日本にあっても遣隋使以来,奈良・平安時代を経過するうち,大陸文化を摂取・消化できるようになり,独自の文化を生み出そうとする機運が熟してきた。大化以来,中国を範としてきた律令制度もしだいに形だけのものとなってきた。中国にあっても唐末の内乱があいついでその国威は昔日のようではなくなった。遣唐使の廃止はこのような情勢下に実現したのである。あたかもこのころを期として日本には急速に国風文化が発展するが,それは,けっして唐との文化的接触が断絶した結果ではないのである。
→唐
拝朝」*万葉集〔8C後〕九・一七九〇・題詞「天平五年癸酉、遣唐使舶発 ...
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