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遣唐使

ジャパンナレッジで閲覧できる『遣唐使』の日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
遣唐使
けんとうし

7世紀から9世紀にかけて日本から唐(618~907)に派遣された公式の使節。630年(舒明天皇2)8月に犬上御田鍬(耜)(いぬがみのみたすき)を派遣したのを最初とし、894年(寛平6)に菅原道真(すがわらのみちざね)の建議によって停止されるまで、約20回の任命があり、うち16回は実際に渡海している。
[鈴木靖民]

組織

遣唐使の組織は、時期によって規模・内容を異にするが、『延喜式(えんぎしき)』によると、大使(たいし)、副使(ふくし)、判官(はんがん)、録事(ろくじ)、知乗船事(ちじょうせんじ)、訳語(おさ)、請益生(しょうやくしょう)、主神(しゅじん)、医師(いし)、陰陽師(おんみょうじ)、画師(えし)、史生(ししょう)、射手(しゃしゅ)、船師(ふなし)、音声長(おんじょうちょう)、新羅(しらぎ)・奄美訳語(あまみのおさ)、卜部(うらべ)、留学生(りゅうがくしょう)、学問僧(がくもんそう)、〓従(けんじゅう)、雑使(ぞうし)、音声生(おんじょうしょう)、玉生(ぎょくしょう)、鍛生(たんしょう)、鋳生(ちゅうしょう)、細工生(さいくしょう)、船匠(ふなしょう)、〓師(かじし)、〓人(けんじん)、〓杪(かじとり)、水手長(かこちょう)、水手(かこ)という構成であり、ときには大使の上に執節使(しっせつし)、押使(おうし)が置かれたこともあった。使節が渡航に用いる船数は、当初は2隻、のち奈良時代になると4隻編成が基本となる。船数の増加に伴って員数も240~250人から500人以上になり、838年(承和5)の遣使では651人という多人数になっている。使の随員には、官人のほか技術者などがいるが、大多数は公民から徴発された〓師、〓杪、水手などの乗組員である。船の大きさは不明であるが、船数と使節団の総数から試算すると、1隻につき120人から160人程度乗り込める規模であったようである。
[鈴木靖民]

航路

使船の航路は、難波(なにわ)(大阪湾)から瀬戸内海を西下し、筑紫大津浦(つくしのおおつのうら)(博多(はかた)湾)に入り、ここから出航した。初期は壱岐(いき)・対馬(つしま)を経て朝鮮の西沿岸を北上し、渤海(ぼっかい)湾口から山東半島に至る北路(新羅(しらぎ)道)がとられた。ところが、白村江(はくそんこう)の戦い(663)ののち、新羅との国交がとだえると、九州南端から多〓(たね)(種子島(たねがしま))、夜久(やく)(屋久島)、吐火羅(とから)(宝島(たからじま)あるいは吐〓喇列島(とかられっとう))、奄美(あまみ)(奄美大島)、度感(とこ)(徳之島)、阿児奈波(あこなわ)(沖縄島)、球美(くみ)(久米島(くめじま))、信覚(しがき)(石垣島)などを経由して、東シナ海を横断して揚子江(ようすこう)口を目ざす南島路がおもにとられるようになった。『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』に記される鑑真(がんじん)の来日航路がこれにあたる。さらに奈良時代後半以降になると、大津浦をたち、肥前値嘉島(ちかのしま)(五島列島)付近から順風を利用して一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう南路(大洋路)がとられるようになった。
遣唐使船の航海にはさまざまな困難が付きまとい、船酔いもさることながら、円仁(えんにん)の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)』によると、糒(ほしいい)(蒸米(むしごめ)を乾かした携帯・保存食)と生水のみで飢えをしのぎながら風雨、高浪を乗り越えなければならず、航行中重病になればひとり異国に置き去りにされることもあった。また造船技術、航海術が未熟なため、難破漂流することも珍しくなかった。たとえば753年(天平勝宝5)11月、藤原清河(ふじわらのきよかわ)、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)らを乗せ、蘇州(そしゅう)から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船が暴風にあい、南方へ流され安南(あんなん)(ベトナム)に漂着した。結局、2人は辛苦のすえ帰唐し、望郷の念を抱きつつも生涯唐朝に仕えたのは有名である。
[鈴木靖民]

目的

このように使節はつねに死の危険と直面しながら渡唐したわけであるが、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった。これは、日本の古代国家を形成するうえで唐帝国の国制を模倣しようとしたためにほかならない。とくに文化面でも、同行した留学生、学問僧らによる先進文化の習得、書籍その他の文化的所産の将来に多大な成果をあげた。
奈良時代に入ると、おもに政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった。とくに当時の日本の外交は、新羅との頻繁な交渉とともに、東アジアの国際社会で日本の地位を確保することが要請されており、新羅の「朝貢」を媒体とする宗属関係を唐に承認させる必要があった。このことは『続日本紀(しょくにほんぎ)』天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年(754)条に記されている753年(唐の天宝12)正月、唐の朝賀の場における新羅との席次争いの一件に現れている。当日、諸蕃(しょばん)の席次で日本を西畔第二吐蕃(とばん)(チベット)の下に置き、新羅を東畔第一大食(たいしょく)国(サラセン)の上に置いたので、副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)が抗議をし、双方の順位を入れ替えさせたのである。
さらに奈良時代末以降になり、政治外交上の使命が薄れてくると、僧侶(そうりょ)の留学および貿易的利益を目的として派遣されるようになっていった。
平安時代には804年(延暦23)と838年(承和5)の2回にわたって遣使されているが、それ以降はまったく中断した。これは、使の目的の実効性の喪失、政府の財政難などがあげられるが、新羅との公的交渉が779年(宝亀10)に終わり、唐も安史の乱(755~763)後しだいに衰運に向かいつつあったので、遣使の外交政策上の意義もなくなってきたのである。また9世紀以降活発になった唐人・新羅人商人との私貿易により経済上の欲求も満たされるようになった。
かくして、894年(寛平6)大使に任命された菅原道真が唐の擾乱(じょうらん)、航海の困難などを理由に停止を要請し、それが承認されると遣唐使の制も廃絶されることになった。
[鈴木靖民]


遣唐使の推定経路[百科マルチメディア]
遣唐使の推定経路[百科マルチメディア]
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国史大辞典
遣唐使
けんとうし
七世紀前半から九世紀にかけて、日本から唐に派遣された公式の使節。舒明天皇二年(六三〇)八月に犬上御田鍬らを派遣したのを最初とし、寛平六年(八九四)に菅原道真の建議によって停止されるまで、およそ二十回の任命があり、うち十六回が実際に渡海している。遣唐使の組織は時期によって規模・内容を異にするが、『延喜式』大蔵省によると、大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・請益生・主神・医師・陰陽師・画師・史生・射手・船師・音声長・新羅奄美訳語・卜部・留学生・学問僧・〓従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・〓師・〓人・挾杪・水手長・水手という構成であり、時には大使の上に執節使・押使が置かれたこともあった。使節が渡航に用いる船数は、当初は二隻、のち奈良時代になると四隻編成が基本となる。船数の増加にともない員数も二百四、五十人から五百人以上になり、最後の遣使となった承和元年(八三四)任命の使では六百五十一人という多人数になっている。使の随員は官人のほか船の航海に要する専業者などがいるが、大多数は公民から徴発された〓師・挾杪・水手などの乗組員である。船の大きさは不明であるが、船数と使節団の総数から推算すると、一隻につき百二十人から百六十人程度乗り込める規模の構造船であったようである。使船の航路は難波津(大阪湾)から瀬戸内海を西下し、筑紫の大津浦(博多湾)に入り、ここから出航した。初期は壱岐・対馬を経て朝鮮半島の西沿岸を北上し、渤海湾口から山東半島に至る北路(新羅道)がとられた。ところが白村江の戦(天智天皇二年(六六三年))ののち、新羅との国交が途絶えると、九州南端から多〓(種子島)・夜久(屋久島)・吐火羅(宝諸島)・菴美(奄美大島)・度感(徳之島)・阿児奈波(沖縄島)・球美(久米島)・信覚(石垣島)などを経由して、東シナ海を横断して揚子江口を目ざす南島路が主にとられるようになった。『唐大和上東征伝』に記される鑑真の来日航路がこれにあたる。さらに奈良時代後半以降になると、大津浦をたち、肥前値嘉島(五島列島)付近から順風を利用して一気に東シナ海を横断して揚子江岸に向かう南路(大洋路)がとられるようになった。遣唐使船の航海にはさまざまな困難がつきまとい、船酔いはさることながら、円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、糒(米をむして乾かした携帯・保存用の食糧)と生水のみで飢えをしのぎながら風雨・高浪を乗り越えなければならず、航行中重病にかかれば独り異国に置き去りにされることもあった。また造船技術・航海術が未熟なため、難破・漂流することも珍しくなかった。たとえば天平勝宝五年(七五三)十一月、藤原清河・阿倍仲麻呂らを乗せて蘇州から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船が暴風に遭い、南方へ流されて安南に漂着した。結局、二人は辛苦のすえ唐にもどり、望郷の念を抱きつつも生涯唐朝に仕えたのは有名である。このように使節はつねに死の危険と直面しながら渡唐を続けたのであるが、当初の遣唐使の主目的は、唐の制度・文物を導入することにあった。これは日本の古代国家を形成するうえで、中国王朝の国制を模倣しようとしたためにほかならない。特に文化面でも同行した留学生・学問僧などによる仏教を始めとする先進文化の習得、書籍その他の文化的所産の将来に多大な成果をあげた。奈良時代に入ると、主に政治外交上の使命を帯びて派遣されることが多くなった。特に当時の日本の外交は新羅との頻繁な交渉とともに、唐との交渉を通して、東アジアの国際社会での日本および天皇の地位を確保することが要請されており、新羅の「朝貢」を媒体とする宗主・属国関係を唐に認定される必要があった。このことは『続日本紀』天平勝宝六年条に記される唐天宝十二載(七五三)正月、唐の朝賀の場における新羅との席次争いの事件にあらわれている。当日、「諸蕃」の席次で日本を西畔第二吐蕃(チベット)の下に置き、新羅を東畔第一大食国(サラセン)の上に置いたので、副使大伴古麻呂が抗議して、双方の順位を入れ替えさせたというものである。さらに奈良時代末以降になり、政治外交上の使命が薄れてくると、僧侶の求法のほか、実質的な貿易の利益を目的として派遣されるようになっていった。平安時代にも延暦二十三年(八〇四)と承和五年の二回にわたって遣使されたが、それ以降はまったく中断した。これは使の目的の実効性の喪失、政府の財政難などによるが、新羅との公的外交が宝亀十年(七七九)に終り、唐も安史の乱(七五五―六三年)後、次第に衰運に向かいつつあったので、遣使の外交政策上の意義もなくなってきたためである。また平安時代前期以降活発になった唐人・新羅人商人との私貿易により経済上の欲求も満たされるようになった。こうして寛平六年大使に任命された菅原道真が、唐の擾乱や新羅海賊による航海の困難などを理由に停止を要請し、それが承認されると、遣唐使の制は行われないまま廃絶した。→遣隋使(けんずいし)
[参考文献]
木宮泰彦『日華文化交流史』、森克己『遣唐使』(『日本歴史新書』)、佐伯有清『最後の遣唐使』(『講談社現代新書』五二〇)、山尾幸久「遣唐使」(『(東アジア世界における)日本古代史講座』六所収)、増村宏「遣唐使停廃の諸説」(『鹿児島経大地域研究』六ノ一)、鈴木靖民「日羅関係と遣唐使」(『朝鮮史研究会論文集』七)、同「寛平の遣唐使をめぐる基礎的考察」(『国学院大学紀要』一三)
(鈴木 靖民)


世界大百科事典
遣唐使
けんとうし

奈良・平安時代に日本から唐につかわされた使。618年隋が滅んで唐が国を建てた。聖徳太子が摂政のころ,数次にわたって隋に使者がつかわされ,遣隋使による文化の摂取が行われはじめたのであるが,新興の唐帝国の国力はいよいよ盛んで,法式制度は整い,文化は空前の繁栄を呈した。日本ではひきつづき唐へ使者をつかわした。これを遣唐使という。630年(舒明2)犬上御田鍬(いぬがみのみたすき),薬師恵日らをつかわしたのを第1回とし9世紀の中ごろに及ぶまで,前後十数回にわたって継続的にその派遣がつづけられた。遣唐使は政府から任命された使者が政府の費用で船をつくり,旅装をととのえて唐の王室につかわされる公式の使節である。その主たる目的は,日本の側からいえば文化の摂取であり,交易の利を求めることであったが,中国の側からいえばあくまで朝貢にほかならなかった。当時中国と交渉をもった四隣の国々は,朝貢によることなしに,中国と外交関係を結ぶことはできなかった。日本の遣唐使は国書を携行しなかった。朝貢関係をはっきり文書にあらわすのを好まなかったからである。唐の朝廷における国際的地位を高めることは,日本の遣唐使の常に心がけたことであった。藤原清河らが入唐のさい,新羅の使節と唐の宮廷内における席次を争ったことなどはその努力のあらわれである。このような努力にもかかわらず,唐と日本との関係が朝貢関係を基本とするものであったことに変りはない。

遣唐使の長官は大使である。その上に執節使や押使の置かれた場合もある。大使の下に副使。大使・副使は通常1名。その下に判官・録事若干名ずつ。このほかに知乗船事・造舶都匠・訳語(おさ)・医師・陰陽師・画師・史生・射手・船師・新羅訳語・奄美(あまみ)訳語・卜部(うらべ)・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・〓師(かじとり)・傔人(けんじん)・挟抄・水手らがあり,これに留学生・留学僧らが加わった。一行は240~250人から500人以上に及んだ。一行はふつう4隻の船に乗りこんだ。船の構造は帆船で櫓(ろ)が備えられていたことは確実である。後の例から推測すると平底で波切りがわるく,風のないときや逆風のときは帆をおろして櫓でこがなくてはならなかった。一行のうちに水手が多かったのはこのためである。まだ季節風の知識も知られていなかったので,逆風の季節と知らずに出帆し難船した場合も少なくなかった。

航路はいくつかの航路があり,北路は難波-筑紫-壱岐-対馬-朝鮮半島西岸北上-渤海湾横断-山東半島上陸の経路である。南路は難波-筑紫-値嘉島(平戸・五島列島)-庇良(平戸)島-宇久島-遠値賀(小値賀)島-合蚕田(あいこのた)浦-福江島-東シナ海横断-揚子江口上陸の経路である。海道舡路は筑前-朝鮮半島西岸北上-渤海湾横断-山東半島南岸西行-華北・華中沿岸南下-揚州上陸の経路である。難波-筑紫-多褹(種子)-夜久(屋久)-吐火羅(宝)-奄美-度感(徳之)-阿児奈波(沖縄)-球美(久米)-信覚(石垣)-東シナ海横断-揚子江口上陸の南島路は漂流による経路であろう。遣隋使および初期の遣唐使の往復はおおむね北路によったが,白村江の戦で日本と敵対関係にあった新羅が半島を統一して以来,日本との関係が緊張したので,中期以降の遣唐使は南路または南島路によった。海道舡路はだいたい北路と一致するが,これは古くから新羅の商人によって利用された航路であって第17回遣唐使の帰路は新羅船をやとってこの航路で帰国した。南路・南島路はいうまでもなく危険率が大きかった。中途で沈没したり,漂流の末現地人に略奪されたり殺されたりした場合も少なくない。

使節には容止儀礼ある貴族の子弟が選ばれ,留学生・留学僧には当時の傑出した人材が選ばれた。彼地において容止を賞せられた粟田真人(まひと)・藤原清河らのような者もある。道慈・玄昉(げんぼう)・最澄・空海・円仁らのように仏教史上大きな足跡を残した傑僧,伊吉博徳(いきのはかとこ)・山上憶良・吉備真備・大和長岡・橘逸勢(たちばなのはやなり)・藤原貞敏のごとき日本文化・政治史上忘れることのできない人物はいずれも遣唐使としてまたは留学生・留学僧などとして入唐した人々である。なかには阿倍仲麻呂のごとく唐朝に重く用いられついに彼地に没した者もある。遣唐使は帰朝のさい帰化人を伴ってくることが少なくなかった。その中には,鑑真(がんじん)のごとく仏教史上に重要な人物もあったし,帰化した工人らが日本の工芸技術に貢献したところも少なくない。

894年(寛平6)菅原道真は上表して唐国が衰微していることおよび途中の危険なことを理由として遣唐使をやめるよう請うて許され,その後再び遣唐使が任命されることはなかった。入唐した最後の遣唐使は834年(承和1)の藤原常嗣らである。平安時代に入ってから新羅の商人の日本に来航するものがあらわれ始め,ついで唐の商人も来航するようになった。巨大な国家資本を投じて遣唐使を派遣しなくても,中国大陸との文化的接触を保つことができるようになったのである。日本にあっても遣隋使以来,奈良・平安時代を経過するうち,大陸文化を摂取・消化できるようになり,独自の文化を生み出そうとする機運が熟してきた。大化以来,中国を範としてきた律令制度もしだいに形だけのものとなってきた。中国にあっても唐末の内乱があいついでその国威は昔日のようではなくなった。遣唐使の廃止はこのような情勢下に実現したのである。あたかもこのころを期として日本には急速に国風文化が発展するが,それは,けっして唐との文化的接触が断絶した結果ではないのである。
→唐
[弥永 貞三]

[索引語]
遣唐大使 遣唐副使 海道舡路 藤原常嗣
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御使仰を蒙りけるとて、かしこさもいはで、いかにせ んくと家の女子等は打しほれたるさまなり。昔遣唐使といへどわづか海路を隔たる隣国なり。 米利堅は皇国と昼夜反対に ...
36. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 117ページ
東洋文庫
余等二人また人を介として下野守に謁し平生の望を悪へ、余は承美私言といふ一篇の文を作り、いにしへ遣唐使の事ありし時、兼ねて留学生をも置かれし例など引き、彼国に往き ...
37. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 237ページ
東洋文庫
破って海外に渡ったということを、我々は今日の感覚だけで評価することは出来ない。尤もかつて一千年以上も前に日本は遣唐使、あるいは遣隋使と共に何百人という非常に貴重 ...
38. あきぐん【安芸郡】
国史大辞典
のちの荘園としての安摩荘が広島湾岸と江田島・倉橋島にわたる広大なもので、漁業をもって特色づけられ、また遣隋使・遣唐使が派遣されるつど、その船が安芸国で造られたが ...
39. あきぐん【安芸郡】 : 安芸郡/(一)
国史大辞典
のちの荘園としての安摩荘が広島湾岸と江田島・倉橋島にわたる広大なもので、漁業をもって特色づけられ、また遣隋使・遣唐使が派遣されるつど、その船が安芸国で造られたが ...
40. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
に遣わされて船を造った話があるのをはじめとして、正史に安芸国で船を造らせた記事が数多くみえ、遣唐使船も造られた。大型船舶の建造で安芸国が知られたのは、海民の造船 ...
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42. アサガオ
世界大百科事典
をつけ,花色は濃青,紫,淡青,紅などである。 日本での歴史 日本のアサガオは,奈良朝の末期に遣唐使の一行によって中国から渡来したとか,朝鮮の百済(くだら)から持 ...
43. 朝顔 【12か月のきまりごと歳時記】
生活便利帳
ヒルガオ科のつる性の一年草で、真夏に花を咲かせる。遣唐使が種を薬として持ち帰ったことで日本に伝わった。種は漢名で「牽牛子(けんごし)」と呼ばれ、奈良・平安時代に ...
44. 飛鳥時代
日本大百科全書
中心に東アジアの外交関係が安定してくると、ふたたび630年(舒明天皇2)から大陸との直接外交(遣唐使の派遣)へと方針を切り換えている事実からも裏づけられる。 た ...
45. 飛鳥時代
世界大百科事典
。隋に代わった唐に対しても,飛鳥時代全期を通じて前後7回の遣唐使が派遣され,とくに孝徳~天智朝が頻繁であった。またこれら遣隋使・遣唐使に従って多くの留学生・留学 ...
46. あすかじだい【飛鳥時代】
国史大辞典
固有または海外渡来の各種の思想・宗教・文化が混在している。朝廷も大陸の文化の吸収に熱意をもち、たびたび遣隋使・遣唐使を派遣したが、この時代の文化には、朝鮮・中国 ...
47. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
大臣蘇我馬子没す。蝦夷、大臣となる628(推古36)推古天皇没す630(舒明2)犬上御田鍬、遣唐使となる631(舒明3)百済、王子である豊璋を人質として日本に送 ...
48. あぜち【按察使】
国史大辞典
。この制度は、唐睿宗、景雲二年(和銅四、七一一)創設の唐の十道按察使制が、養老二年十月帰朝の遣唐使節団により将来されたものと解されている。当時の遣唐押使多治比県 ...
49. あそじんじゃ【阿蘇神社】熊本県:阿蘇郡/一の宮町/宮地村
日本歴史地名大系
弘仁一四年(八二三)健磐龍神に神階・封戸(日本紀略)、天長二年(八二五)神霊池涸渇(同書)、承和五年(八三八)遣唐使安全祈祷僧配分(続日本後紀)、同七年神階従四 ...
50. あたぐん【阿多郡】鹿児島県:薩摩国
日本歴史地名大系
同一人物と考えられる(「続日本紀」同年正月二日条)。「唐大和上東征伝」は鑑真の乗った第一〇次遣唐使第二船の到着地である秋妻屋浦(現坊津町に比定)を薩摩国阿多郡と ...
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奈良時代(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良(奈良市)に都のあった710年(和銅3)から784年(延暦3)までの74年間をいう。天皇を中心とする政府がここにあったので、地名をとって時代の名称とした。奈良の都の公式の名称は平城京であるが、奈良(那羅、奈羅、乃楽、寧楽、楢などとも書く)とよばれる地にあったので
養老律令(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
律令国家を規制した基本法典。律十巻・令十巻から成る。奈良時代の初め、政界の実力者になった右大臣藤原不比等は、さきにみずから実質上の編纂主任をつとめた『大宝律令』が、用字その他の点で若干の不備があることを考慮し、おそらく孫の首皇子(のちの聖武天皇、母は不比等の女宮子娘)
遣唐使(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
7世紀から9世紀にかけて日本から唐(618~907)に派遣された公式の使節。630年(舒明天皇2)8月に犬上御田鍬(耜)を派遣したのを最初とし、894年(寛平6)に菅原道真の建議によって停止されるまで、約20回の任命があり、うち16回は実際に渡海している。
大宝律令(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
律令時代盛期の基本法典。刑部親王らの撰。律六巻・令十一巻。施行期間は、令が大宝元年(七〇一)から、律が翌二年から、いずれも『養老律令』に代わった天平宝字元年(七五七)まで。『養老律令』に対して古律・古令という。かねてから夫の天武天皇とともに律令制定を命じていた
平城京(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
8世紀、約70年間にわたって奈良に営まれた都城。710年(和銅3)に藤原京から遷都してきて以来784年(延暦3)長岡京に遷るまでの間であるが、藤原広嗣の乱(740)後の5年間ほどは難波を都としたため空白期間がある。奈良盆地の北端に位置しており、山背国(京都府)へ抜けると木津・淀川
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満州国(日本大百科全書・世界大百科事典)
日本が満州事変によってつくりあげた傀儡(かいらい)国家。1932年(昭和7)から1945年まで、中国東北地方と内モンゴルをおもな領域として存立した。[君島和彦]▲前史満州とは現在の中国東北3省(遼寧(りょうねい)、吉林(きつりん)、黒竜江
モンゴル帝国史(東洋文庫)
東洋文庫110 ドーソン 佐口透訳注 "全ユーラシア大陸を馬蹄の響きととも席巻した空前絶後の大帝国の征服の記録。かつて『蒙古史』の名で読書人を魅了した名著が,詳細な訳注を付した初の口語全訳として再登場。各巻に解説, 文献案内, 年表, 索引を付す
青銅器(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
前三千年紀に西アジアで人類が発明した銅と錫の合金製の文明の利器。利器・武器から儀器・宝器・美術工芸品など時代の移り変りとともに広く多用され現在に至る。中国では前千六百年紀の夏時代にさかのぼり、殷・周・漢の三代に著しく発達
大津事件(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治二十四年(一八九一)滋賀県大津で護衛巡査が来日中のロシア皇太子を負傷させた事件。湖南事件ともいう。シベリア鉄道起工式に参列する途中来日したロシア皇太子ニコラス=アレクサンドロビッチ(のちの皇帝ニコライ二世)は長崎・鹿児島を経て五月九日京都に入った
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カタルーニャの歴史と文化 文庫クセジュ896 M・ジンマーマン著/M=C・ジンマーマン著/田澤耕訳 歴史・地理・民族(俗)学 まえがき 千年の歴史 「カタルーニャは千年以上の歴史を有する国である」 ―― これは自治政府大統領ジョルディ・プジョル〔現在は、元大統領〕が好んで
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