青銅でつくられた利器,容器,道具。青銅器時代はもとより,鉄器時代以降も用いられている。ここでは,人類史上特にその著しい発達が見られた,ヨーロッパ,オリエント地域の青銅器時代から鉄器時代のもの,および中国殷・周時代のものを中心に述べる。
東アジアの青銅器が祭祀具として発達したのにひきかえ,ヨーロッパや西アジアの青銅器は実用品が多い。銅や青銅などの初期の金属は,石にかわって斧,手斧(ちような),剣,短刀などの利器の素材として利用されたところから,銅器時代や青銅器時代を設定する根拠となった。青銅器時代の開始を,一般には前3000年前後に設定しているが,厳密にはこの年代の青銅器は知られていない。銅とスズの合金である青銅が,意図的に鋳造された事実が実証できるのは,今のところ前2000年をさかのぼらない。また青銅による各種の器物が最も活発に生産されるのは,青銅器時代ではなく,初期鉄器時代である。とくに後期青銅器時代に発明された蠟型による鋳造法と,青銅の薄板を加工する技術は,初期鉄器時代にいたって一般化し,利器以外にも特徴的な青銅の容器,装身具,留針などの発達をもたらした。
最も多く出土する青銅器は,木の柄をつけて斧や手斧として使ったセルトceltと呼ぶ斧頭である。最古のセルトは,1枚の開放鋳型によって鋳造された扁平斧である。扁平斧は石斧とよく似た短冊形をしており,柄穴はなく,刃先が短い。台形斧は扁平斧が発達してできたもので,刃先が扇形に広がったものをいう。扇形の刃先は,鋳放しの扁平斧の刃を敲打(こうだ)して整形すれば,金属の伸展性で必然的に生じたものとみられる。青銅セルトは,着柄にあたって3種の改良が加えられる。一つは,刃先に直交する隆起を,斧頭上下の両側面にそって造り出す方式で,有縁斧と呼ばれ,斧頭の断面はH字状をなす(〈考古学〉の項の図参照)。有縁斧の起源は,扁平斧や台形斧の側面を敲打して面取りするとき,不必要な張出し部が生ずることにある。縁の張出しの高さが1~2mmのものを低縁斧,3~10mm程度のものを高縁斧と呼ぶが,さらに刃先の形状によって細かく分かれる。低縁斧のうち,刃先の短いものをザレツSalez型,長いものをノイルツNeyruz型と呼び,厚い刃のものをアルモリックArmorique型と呼ぶ。いずれも前期青銅器時代の末以降に,イタリア北部,スイス,オーストリア,ドイツ南部,チェコスロバキア,スペインにかけて分布する。少し遅れた中期青銅器時代には大西洋沿岸の地域と北ヨーロッパにも有縁斧が伝播し頻用される。ブルターニュやノルマンディー地方に分布する有縁斧を大西洋型と呼び,内陸部の有縁斧と区別する。その特徴は,刃先が厚く,頭身の長いことにある。北ヨーロッパの有縁斧は,大西洋型がさらに発達したもので,頭身は長大である。刃先の特殊な有縁斧を,東方型と呼んで,一般的な斧から区別する。東方型というのは,古代エジプトの青銅の錐(きり)や鑿(のみ)に側縁の張り出した同工品があるところから名付けられたのであろう。篦(へら)のような刃先をもつ篦斧形,錐のような狭い刃先の錐斧形,鑿の刃先をもつ鑿斧形などの型式があるほか,スイスに分布するメーリンMöhlin型がある。メーリン型はエジプトに同工品がなく,ラケットのような丸い刃縁をもつことが特徴である。ドイツ南部で,中期青銅器時代に高縁斧から有翼斧ができあがり,その後ドイツ南西部,イタリア北部を中心として,その周辺に分布するようになる。有翼斧は,有縁斧の側縁にみられた張出し部を敲打して,柄に巻き着けたものである。柄が腐食した出土品では,斧頭の側面から翼が生えたようにみえる。古い有翼斧は,短翼斧と呼ばれ,側縁の中央から延びる舌状の翼が短い。翼が長く,柄の全周を完全に取り巻いて環状となったのは,鉄器時代の長翼斧である。また翼部と刃先部を上下2段につくり分ける有翼斧が後期青銅器時代のイタリアに出現し,初期鉄器時代にも引き続いて用いられた。そのうちハルシュタットHalstatt型有翼斧は,刃先部に肩がつくり出されたもので,イタリアのみならず中部ヨーロッパにも多く分布する。
いま一つ別の着柄法は,東アジアの有段石斧と同工の手法で,斧頭の中央に段をつくり出し,使用時の衝撃をおさえ,柄との密接な結縛に供するものである。この種のくふうをもつ青銅斧を英語圏ではポールステーブpalstaveと一語で呼ぶが,ドイツ語・フランス語圏では〈かかと付の斧〉と形容している。かかととは,段の刳(く)り込みのことで,ここに柄の下端が当てられるのである。最古のポールステーブは,有縁斧を軽量化するために,刃先から上半分をえぐって表裏に段を付けたものである。この形は,東ヨーロッパには分布しておらず,フランス,イギリス,北海沿岸の低縁斧の分布と一致し,ポールステーブの発達の中心地が西ヨーロッパであったことは誤りない。とくにフランスでは,側縁を有翼斧のように折り曲げたトレブールTréboul型が生み出され,初期鉄器時代のイベリア半島では側面に耳環を付けた細身のイベリア型ポールステーブが考案され,多用される。ポールステーブの段は,中部ヨーロッパでは浅い刳り込みに変化し,この種の型をハゲナウHaguenau型青銅斧と呼んでいる。また東ヨーロッパにはボヘミア型と称するV字形の刳り込みをもつポールステーブがある。
第3のくふうは,刃先の上に袋穂をつくり出し,この中に柄の末端を挿し込むものである。東アジアの有(ゆうきよう)斧(着柄のための穴をもつ斧)とまったく同じものであり,ヨーロッパでは後期青銅器時代になって一般的となる。青銅器研究の大家であったG.O.A.モンテリウスやO.ソフュス・ミュラーは,有斧は中部ヨーロッパの有翼斧から発達したものだと考えた。つまり,翼部を敲打して成形する段階から,鋳造による成形への変化と考えたのである。しかし有斧が圧倒的に多く分布するのは,アジアに連なる東ヨーロッパ方面であって,中部ヨーロッパ以西では有斧は各種の斧のなかの一類にすぎない。V.G.チャイルドは,後述の西アジアの柄穴斧から有斧が発生したと考えている。アジアの有斧と同様にヨーロッパでも,耳環をつくり出すもの,装飾の線文を鋳出すものなど各種のものがあるが,袋の横断面が西ヨーロッパでは矩形,東ヨーロッパでは長円形となるのが通則である。
以上のほかに,やや地域性のうかがえる青銅斧に次のようなものがある。エジプトの青銅斧の主流は,T字形斧と呼ばれる。刃縁が半円形を呈し,基部が左右に張り出す。張出し部の突起に,柄を結んでまさかりのようにして使う。T字形斧の身に,双孔をもつものは有窓斧と呼ばれる。レバノン,イラク,イランに分布している。小アジアに特徴的な青銅斧は有柄斧と呼ばれるもので,鉄製品が初期鉄器時代のヨーロッパで生産される。斧頭の側面に鍔(つば)状の小突起がつくり出され,柄と呼ばれる部分を,木製の柄本体に埋め込んで使う。注目すべき斧に,柄を通す環を刃先と同鋳する例があり,柄穴斧と呼ばれる。シュメールのウルの王墓から多数発見された。カフカスのコバン文化の墓地でも柄穴斧が検出され,斧のみならず手斧にも柄穴がつくり出されているのは,ウルと同様であった。柄穴斧はハンガリーにも分布しているが,アジアの例とは柄穴の位置が違う。ハンガリーの柄穴は斧頭の中央にあり,アジアのように基部に柄穴のあるものを,ヨーロッパではとくにシシリー型と呼ぶことがある。その他,双頭斧(ラブリス)と呼ばれる特殊な斧がある。台形斧を左右1対とし,中央に柄を通したもので,前期ミノス文化に出現する。双頭斧の盛期は,前1600~前1400年ころの中期ミノス文明で,神聖な器物として礼拝された。ミノス文化周辺の地中海一帯でも散発的に検出されるが,内陸部にはほとんどない。
→斧
ヨーロッパの青銅剣は,青銅の剣身を木や骨角製の柄に鋲(びよう)で留めて固定するものである。西アジアもほぼ同工であるが,剣身には背骨のような脊(せき)と呼ばれるものをつくり出した例が多い。ミノス文明の剣も,最初は扁平な短剣であるが,後にはアジア風の脊をもつ剣が出現する。キプロスの青銅短剣は,細長い茎(なかご)がつくり出され,その末端が折り曲げられる特徴のあるもので,一説には槍としての用途も考えられている。ペパンビユPépinville型と呼ばれる短剣も,キプロスの短剣と似ているが,基部の折曲げはない。フランス,イタリアに分布する。鋲留め短剣の刃部の基部の形態は,ヨーロッパの南半と北半とで基本的な違いがある。イタリア北部,オーストリア,ドイツ南部と黒海にかけての方面は,基部が半円形で,鋲数が2~6個と変化に富む。一方,ハンガリーからアイルランドにかけての北半では,台形の基部に2鋲で柄を固定する方式が通則である。長剣が成立するのはエーゲ地域である。クレタ島のマリアから出土した剣身90cmを測るものが,最古の例である。この資料は中期ミノス文明第Ⅰ期(前1950ころ)のものであるが,長剣が一般的になるのは後期青銅器時代においてである。長剣は,剣身の形態変化からレーピアrapierと呼ばれる細長いもの,脊のついたもの,〈鯉の舌〉と呼ばれる鋭い切先をもつものなど数種に分類されるが,ヨーロッパでは剣身基部を基準とした分類が最も細別に適している。それは,柄の部分が青銅器時代の末から初期鉄器時代にかけて最も変化するからである。長剣も短剣同様,身と柄とを鋲留めするが,身の基部の形状から扁平基部,短舌基部,長舌基部の3種に分けることができる。扁平基部は,剣身に舌状の茎をつくり出さないもので,小型の基部と剣身から扇状に張り出す大型の基部との2種類がある。扁平小型基部の長剣は,ハゲナウ,ロスノエンRosnoën,リックスハイムRixheimの3型式に細分されている。ハゲナウ型長剣は,丸い基部に2鋲が付くもので,ドイツに分布する。ロスノエン型長剣は,台形基部に4鋲が付き,剣身は鎬(しのぎ)をもつ。ブルターニュを中心として大西洋沿岸に分布する。リックスハイム型長剣は,基部に2鋲を付け,剣身に脊が通るものである。フランス,ドイツ,スイスに分布している。短舌長剣とは,柄長の半分ほどの長さの茎を,剣身に同鋳したものである。有機質の柄の上に,円柱状や八角柱状の青銅薄板で外装するものが通例である。長舌長剣とは,柄と同じ長さの茎を剣身に同鋳するものである。舌の上下両面に板をかぶせて鋲留めし,柄の握りとする。長舌長剣の鋲は,舌に1~3個と基部の斜縁に沿って1~2個を左右のそれぞれに打つ。ミュケナイ型は,長舌長剣の好例であるが,基部の斜縁形によって,大変細かい分類が実施できる。とくに注目すべきものとして,のちに鍔としての役目をもつ突起を基部につくり出したものがある。
そのほかに,利器として短刀,庖丁(ほうちよう),戈(か)などがある。短刀は大西洋沿岸の地方には少なく,フランス中央部やスイス,ドイツ南部に多い。後期青銅器時代の初めに,身と柄を別造りし,鋲で留める方式のものが出現するが,数は多くない。青銅器時代の終末に出現する身と柄を同鋳する方式のものが,ヨーロッパでは一般的な短刀の型であり,分布も広い。この種の短刀はたいへん特徴的なもので,湾曲した刃先と2段で構成された柄からなっている。短刀が片刃であるのに対し,ヨーロッパで初期鉄器時代に盛行する青銅の庖丁は両刃である。刃縁が弧状をなし,あたかも日本のうちわのような形の青銅品である。中央に刳り込みを入れた蹄鉄形のものが,とくに中部ヨーロッパを中心としてみられる。片刃の庖丁は,ヨーロッパの中心部には分布せず,エジプト,ミュケナイ,それと北ヨーロッパにみられる。この点ヨーロッパの庖丁はたいへん顕著な地域性を示すといえる。青銅戈の発見例は,大西洋沿岸の地方に片寄っており,しかも事例が少ない。短剣の刃先が戈として使用されたという考えも提出されている。
利器以外の重要な青銅器として,留針(ブローチ)がある。留針は先史・原史時代のヨーロッパでは,着衣にあたっての必需品で,出土量も多い。ローマ時代にフィブラfibulaと呼ばれる安全ピン方式の留針が,後期青銅器時代に定着し始め,鉄器時代には全盛となる。鉄器時代の青銅フィブラは,最も形態変化に豊んだ遺物で,考古学研究には欠かせない遺物となっている。
中国で現在,青銅製の道具や容器の鋳造が確実に知られているのは河南省堰師(えんし)の二里頭文化(前1900~前1500ころ)の後半期からである(二里頭遺跡)。これより時代のさかのぼる竜山文化(前3千年紀後期から前2千年紀初め)ないしそれと並行する文化のいくつかの遺跡から出土した,合金にしない銅の製品が以前より若干知られていた。竜山文化に並行する甘粛省の斉家文化遺跡(斉家坪遺跡)から銅製の道具,装飾品などが発見されるのは顕著な例である。この類の遺物の実年代ないしそれの帰属する地層について論議があったが,河南省臨汝の煤山遺跡の竜山文化遺跡から銅を溶解した坩堝(るつぼ)が発見された報告が1982年に発表されたことにより,竜山文化に銅の使用が始まっていたことは確実となった。この年代は西アジアと比べてずいぶん遅いものであるが,中国の金属利用が起源的に西方文明と関係をもったか否かについての問題は,現在のところ資料の不足によって見きわめがつけがたい。
中国の青銅器時代,すなわち青銅が武器や道具を作る主要な材料であった時代は前3,前2世紀までである。前1千年紀中ごろより鉄が農工具用の金属として青銅と交替するが,その後も青銅は容器類や装飾を作る材料として永く使われつづける。中国の青銅器時代の青銅器としては武器や祭祀饗宴用の容器や楽器ばかりがおびただしく,日用の刃物や農具はまれにしか知られない。この現象について,貴重な青銅は貴族用の品物を作るために独占され,貧しい農民にまでは出回らなかったのだという説が根強くあり,またそれに反対する説が出されていた。河南省鄭州の青銅器使用の早い時期の鋳造工房の鋳型くずを調べた結果,農工具用のものが過半数を占めることが知られ,前説は否定されるにいたった。現在残る中国の青銅器のほとんどすべては死者とともに墓に副葬されたものであり,限られた階層の人々の持物で,それもまた埋葬の習俗によって限定された範囲の品物であることを忘れてはならない。
青銅器使用の早い時期,前2千年紀中期から,日用の道具として斧,手斧や,ナイフ,くわ,すき等が作られ始める。農村では,石製・骨製の農具や刃物が併用され,時代とともに青銅器の比率は大となるが,石・骨製の農工具は前1千年紀の中ごろまで残る。一方,同じ刃物でも武器の方は青銅器製作が始まるとともにすべて青銅製に変わる。早くには鏃(やじり),戈(か)があり,前2千年紀後期,殷の晩い時期には矛(ほこ)(ぼう),短刀,長い刀,戦闘用の斧もそれに加わる。前2千年紀末,周時代に入ると短剣が現れ,前1千年紀中ごろには戈の柄の先に矛をつけた形の戟(げき)や長い銅剣が盛んに使われるようになる。この時期から鉄の農工具が使われ始めるが,鉄器の加工技術が未熟であったため,前2世紀ころまで武器には青銅が重用された。前3世紀末の秦始皇帝の墓に陪葬された等身大の人形の近衛連隊の武器はすべて青銅製品であった。
黄河流域で早くに発達した青銅器文化は,周辺地域に伝わり,前1千年紀にその地方の住民の間で独自の発展を遂げ,またその地の文化と混じり合って特徴的な青銅器を作り出した。動物モティーフに特色のあるオルドス青銅器,遼寧式銅剣に代表される中国東北地域の青銅器文化,殷・西周文化の面影を残した四川省の巴蜀文化,石寨山古墓に代表される多彩な造形美を誇る雲南省青銅器などがそれである。これらについてはそれぞれの項目に譲り,ここには詳論しない。
中国の青銅器の中で最も入念に作られ,芸術的にも価値の高いものの多いのは,祭祀饗宴用の飲食用の器や楽器(彝器(いき)と総称される)であった。それらは土地とそれを耕作する農民を支配する共同体(族)の長が,祭祀(父祖の霊を招待してそれに饗応し,穀物の稔り,子孫の繁昌,長寿などを約束させる行事)に使用する道具であり,また一族と饗宴を行って共同体の結束を固める行事にも使用するたいせつな品物であった。それらが多く残っているのは,当時生前に使用した器物を死者とともに墓に入れてやる風習があり,死後の世界においても死者が生前と同様に祭祀饗宴が行えるようにとの趣旨で,それらが墓中に副葬されたからである。もっとも十中八九は墓泥棒に荒されてしまっている。
殷周時代に知られる祭祀饗宴の行事が青銅器時代より古くに根ざすことは,酒つぼ,酒の燗をして注ぐための容器,装飾的な食器などの伝統がさらに古い時期までさかのぼることによって知られる。青銅の使用が盛んになるに従ってその類の器は青銅製に変わってゆく。前2千年紀の中ごろ,青銅の使用が始まると同時に青銅製のものが多数作られ始めるのは大型の酒つぼ(有肩尊(ゆうけんそん)),酒を温めて注ぐための注ぎ口と三足をもった容器(爵(しやく)),酒の燗をするためのものと思われる大型の三足器(斝(か)),肉を煮るための三足のなべ(鼎(てい))である。
この時期の青銅容器は薄手に作られ,文様は凸線ないし版木のように上面の平らな幅広い帯で表され,抽象的な表現の目鼻をもった神像(饕餮(とうてつ)文)を主にし,種類の変化はあまり多くなく,簡素な感じのものである。この時期の早い段階から中国の青銅器鋳造技術を特徴づける,模型,鋳型ともに粘土を使用する技法が始まっている。その技法は次のごとくである。初めに粘土を使って作ろうと思う容器の中実の実大模型を作る。文様が要るときはこの模型に彫る。これを素焼きし,その外に軟らかい粘土を押しつけ,三つないし四つに分割して型をとり,これを乾かして素焼きし,これを鋳造するときの外型に使う。最初の実大模型を鋳造しようと思う器の厚味分だけ一皮けずり,これを内型にする。これら内型と外型を結合し,両者の隙間に溶かした青銅を流し込む,という原則である。丈の高い器であれば外型はさらに上下何段かに分けて型をとり,下に3本の足がつく場合はその部分だけ別の分割法で外型をとるなど,実際はなかなか複雑である。また大型の鼎では足だけあらかじめ別に鋳造しておいて容器部の外型に埋め込んでおくとか,器から高く突出した装飾は容器ができ上がってから,必要な場所に後からその部分だけの鋳型を作りつけて鋳足す,などの方法がとられた。溶接の技術がまだなかったからである。鋳上がった後,型の合せ目にできた突出はけずり取り,全体を砺石(れいせき)で磨いて仕上げがなされた。
前1300年ころ,殷王朝が河南省北部の安陽に都を移してまもなく,青銅器製作は急速に盛んとなり,前11世紀,殷の滅亡までの期間,作られる器の種類も増え,装飾技法も発達する。これが殷後期で,中国青銅器製作の最初の頂点である。器の種類として,祭祀に使う最も貴重な酒とされた黒キビの酒(秬鬯(きよちよう))を入れる有肩尊,それに香りをつける香草(鬱(うつ))の煮汁を入れておく中型のつぼ(壺(こ)),つる付きの小ぶりのつぼ(卣(ゆう)),両者を混ぜて注ぐための水さし形の容器(匜(い),盉(か)),その香りつきの酒(鬱鬯(うつちよう))を入れておく蓋付きの箱形容器(方彝(ほうい)),その酒用かと思われる蓋付きの杯(觶(し)),その酒を汲むためのひしゃく(枓(と))などがある。この香草の香りのついた酒は祖先の霊にささげ,また高貴な賓客に供するもので,霊力にあふれた貴重な酒であった。この酒はまた身体の清めにも使われ,手にかけるときには下で受ける平たい容器(盤(ばん))が使われた。祭祀饗宴の際に参加者たちが飲む普通の穀物の醸造酒を入れておく容器としては,口のすぼんだ大型のつぼ(罍(らい)),中型のつぼ(壺(こ))がある。この期にほとんど限られる,腹がふくれた丈の低いかめ(瓿(ほう))も酒類の容器と思われるが証拠がない。酒の燗をするための器と推測される爵,斝は前の期から引き続き盛んに作られている。また觚(こ)も多い。口の開きが極端となり朝顔の花のような形になる。こうなるとこれに口をつけて物を飲むにはまったく不向きである。どろっとした甘酒を盛り,へら((し))ですくって口に入れたものと考えられる。觚の胴を太くし,一回り大型にした器(觚形尊)がこの時期の中ごろから作られ出すが,これも同様な用途のものと推測される。甘酒を入れておく容器としては壺(こ)が知られる。青銅器時代の終りころには甘酒は冠婚葬祭に広く用いられている。食物用の器としては三足の円い鼎が多い。方形四足の鼎にはときに特別大型のものがある。鼎に似るが3本の足が太く中空になったなべ(鬲(れき))はこの時期には土器のものが主流で,青銅製のものはほとんど作られない。鬲の上にこしきを作りつけた形の蒸し器(甗(げん))がこの時期の後半に作られ出す。飯類を入れる,口の少しすぼまったはち(簋(き)),同様な用途の深い鉢形の容器(盂(う))も多くはないが青銅製のものが作られ出す。楽器としては槌でたたく柄付きの小さなかね(鉦(しよう))がある。3~5個がセットになり,簡単な音階をなす。
この時期の青銅器は各種の神像や象徴的な図形によって飾られ,その表現はデモーニッシュな迫力にあふれている。これらの神像は前の時期と比べて飛躍的に種類が増すが,それらは各種の野生動物から採用された身体部分(牡羊,水牛,野牛等々の角,ミミズクの毛角,虎の耳,象の鼻,毒蛇の頭,猫科の動物の足先,鳥の羽根,嘴等々)のいくつかをもって合成されたもので,後世,竜とか鳳凰とか呼ばれることになる類である。それらのうち青銅器の上で目だつ部分に大きく扱われる饕餮文は,支配者の族の遠い先祖と信ぜられた天神であり,小さく扱われるのは彼らに臣従する族の祖先神,その支配する土地の自然神の類と考えられる。この時期には図像の表現形式も多様化し,手のかかったものとなる。鳥の羽根を原形とした文様要素(笹の葉を縦に二つ割りにして葉柄に鉤(かぎ)形の枝を加えた形)のバリエーションを身体部分の上に描き加え,文様の地文に細かい線刻で並列させることが始まる。次いでこの要素の基部の鉤形ばかりが渦文の形で目だつように変わってゆく。この地文からそれと同平面に表された図像が浮き立つもの,また図像の部分が地から一段高くなるもの,高くなった図像の身体部分をまた細かい渦文で埋めつくすものが現れる。細かい線の渦文は,外型をとってから後,それに直接彫り込まれたものであるが,たいへんな手間と熟練を要したと考えられる。この時期の終りのころには,青銅器の鋳型の合せ目に当たる部分に,魚の鰭(ひれ)のような具合に,厚手の板状の突出物が加えられるものがあった。その青銅器の格の高さを表示するものである。前の時期にはきわめてまれであったが,この時期になると青銅器に記号や文字を鋳込んだ例が増えてゆく。族の紋章,その器で祭祀すべき父祖の名を入れたものが多く,まれに誰それから子安貝(当時の貨幣)を頂戴したので誰々を祀る器を作った,といった簡単な文章のものもある。
前11世紀,王朝が殷から周に変わる。それから前771年までが西周時代であるが,青銅器の時期区分では前,中,後3期に分けられる。周は陝西省西部に興った地方的な後進国であったから,青銅器製作についても殷の伝統を受け継いだと見える。とはいえ,西周前期には青銅器の形態,文様も殷後期のものをまるごと受け継いではいない。殷後期には觚と爵は墓の副葬品としておきまりの組合せであったが,觚の方は西周に入ると急にまれとなり,爵も数が減る。斝とか瓿はほとんどなくなり,有肩尊も地方に残るだけとなる。一方,殷ではほとんど作られなかった青銅製の鬲が出現し,また殷に少なかった簋が大量に作られるようになる。祭祀饗宴の習慣の主流に変化の起こったことは確かである。酒類のうち甘酒用の觚形尊,鬱鬯用の方彝,卣,盉,匜は相変わらず盛んに作られているのに対し,燗をした酒の使用が廃れてきたことが斝,爵の状況から察せられ,また簋が多くなるところから,飯を食べることに行事の重点が置かれだしたことがうかがわれる。器の造形の方にも変化が認められる。殷時代に張りとリズム感をもっていた容器の形態は硬直化,様式化したものに変わってゆき,また殷後期に使われた器側の鰭状突起がむやみに大げさなつくりに変わり,器そのものも大ぶりに作るなど,成金趣味的なものが一部で作られる。器の目だつ部分に饕餮文を大きくつける風は殷と変りないが,小物の神像の種類は限定されたものになり,よく使われるものの種類にも変化がみられる。この時期には殷後期と同様,族の紋章や祭祀すべき父祖の名を鋳込む風が続く。また征戦その他の歴史事件を記し,それに際して褒美をもらったので青銅器を作ったというものも現れる。歴史記録のろくに残らないこの時代の研究に貴重な史料を提供する。
→金文
西周中期は,前期がいわば殷のエピゴーネンであったのに対し,周様式ができあがった時期ということができる。器の種類としては,甘酒用の器として觚形尊が前の時期から残るが,それと並んで,口縁から腹の間に節のない觶形尊(しけいそん)が多く作られるようになる。また壺(こ)に以前に見なかった大型のものが現れる。どの種の器も,重心の下がった安定のよい形に作られ,卣,觶形尊,鼎の容器部などにはまた,丈が低いなりに丸みのある器形が出現する。殷時代の鉦は長江(揚子江)中流域に伝わり,そこで発達して大型化する。鉦は口を上に向け,柄を下にして使用されたと考えられているが,この大型化したものは口を下にしてつるすように変わり,この型が西周中期に北方の西周の地にもたらされる。大小何個かで簡単な音階をなすように作られた。鐘(しよう)と呼ばれ,祭祀の際に打ち鳴らして祖先の霊を呼び出すのに使われた。この時期,伝統的な饕餮文は觚形尊に残るが,器の目だった所に大きく扱われるものとして鳳凰の類がクローズ・アップされる。小さく扱われるものの中で多いのはやはり鳳凰の類,それと頭を後に振り向けた竜の類で前期から続く種類は少数となる。文様の表現は穏健,物によっては華麗であり,安定した貴族社会の雰囲気を感じさせる。銘文の形式でこの時期に定式ができ上がり,次の時期に引き継がれてゆくものがある。代替りなどの機会に王から父祖以来の職務内容を安堵され,また新たな職掌を付加された際の命令書を,式の次第,参列者の名などとともに記したものである。その際,当人がその采地で祭祀に使うときの酒である秬鬯から祭服,馬車ないしその部品などを下賜されたことも記録されている。青銅器がこの時代,王の臣下に対する地位,職掌認可の印として機能していたことを示すものである。
西周後期になると前代まで作られた器で,まったく,ないしほとんど作られなくなってしまうものが多くなる。爵,觶,觚形尊,觶形尊,卣,方彝,方鼎がそれである。酒関係の器が多い。しかし罍とか大型化した壺(こ)があるところから,酒を使う行事が廃れたわけではなく,青銅器で使られるものが少なくなったというべきである。一方,飯を盛るはちの類で,簋を隅丸長方形にした形の盨(しゆ),低い方錐形の器に同形の蓋をかぶせた形の簠(ほ)が現れ,鬲の比率が増し,つまみ類を盛る高杯(たかつき)(豆(とう))も青銅製のものが多く作られるようになる。食物関係の青銅器が充実してきたといえよう。また鼎,簋などを何個かを1セットにして作る風が興る。使用する器の数によって貴族の階級の差異を示した時代があった,という前1千年紀末の儒家の一派の学説によってこれを解釈する考えがある。この時期の青銅器の形はがっちりとした構成をもち,堂々としてはいるが,官僚的というか,美しいとはいえない。複数の器種を通じて大きく扱われる神像というものはなくなる。屈曲した形の羽根の並列,鱗文,凸字形を上向・逆向交互につなげた文様など,機械的に繰り返される文様が帯文の中に多く使われ,伝統的な竜とか鳳の数は多くない。殷後期に最も入念に作られた文様の地の渦文は,西周に入るとしだいに彫りの浅いものに変わってゆくが,西周後期にはほとんど消滅する。西周の後期には周辺の民族の侵入に悩まされ,前771年,周王は陝西省から河南省の洛陽付近に逃げ出す。西周の貴族が地中の穴蔵に埋めて逃げたまま,掘り出す機会のなかった青銅器の山がときどき発見され,貴重な研究資料となっている。
周は洛陽付近に都を移してから後,王としての力を失い,銘文に記されるごとく諸侯は勝手に自分たちの青銅器を作るようになる。しかし河南省北西部,湖北省北東部,山東省南西部などのゆいしょある国々で作られた青銅器は,西周後期の様式を受け継いだ伝統的なものであり,器の種類や文様についても同様なことが認められる。とはいえ春秋時代の前期から中期にかかる前7世紀は,青銅器製作の沈滞期であった。新たな変化が起こるのは春秋時代も中期の後半,前6世紀に入ってからである。西周後期の壺(こ)は大きいといっても高さ数十cmであったが,この時期になると高さ1m以上のものが現れ,鼎にしても高さ数十cmのものが何個もまとめて作られるなど,分量的に大型化する。壺(こ),鼎,簋,簠など器の種類,形式,それに文様まで西周後期のものを意識的にまねているものが現れる。西周後期までさかのぼる周の伝統的な国家制度や社会慣行(〈礼〉と呼ばれる)を保存しようという一部の趨勢を反映するもので,これは後に学派の形をとるのであるが(儒家),前3世紀ころまでこの形式の復古的な器物も存続することになる。一方この時期にはまた蓋付きの深い鼎,足のない簋,大型のたらい(鑑(かん))など新しい形式の器も多数作られる。本格的な音階楽器として多数の鐘がセットで作られだすのもこの時代からである(編鐘)。文様には子細に見ないと構成がわからないような,細い竜や蛇の類を複雑にからみ合わせた細かい地文風のものが創り出された。この式の文様を鋳出すのには,別に準備した文様の小単位のポジティブの原型に粘土を押しつけて型をとり,それを外型の中に並べて埋めこむ方法が発明されている。多数のセットをなす大型の器に細かな文様をいちいち手彫していては間尺に合わないからである。壺(こ)の蓋の上に飾られる花びら形の飾りとか,把手に用いられる動物の身体等々にも同様な細かい文様が加えられるなど,青銅器の製作は再びすこぶる入念なものになってゆく。もっとも,この時期の青銅器は全体にいささか粗放な印象を与えることは否めない。
前6世紀末から前5世紀中期には,中国の青銅器製作は第2の頂点に達してゆく。蓋と身がほぼ同形で,合わせると球に近い形になる飯入れ(敦(たい)),上から見た形が楕円形をなすスープ用のはち((けい)),蓋付きの高杯(豆(とう))などが,環状の把手を付けたモダンなデザインで作られて流行し,壺に電球形の器に足を付けた形の中型のものが多く作られ,手洗いの水を入れる丈の低いかめ(盥缶(かんふ)),土瓶に足を付けたような形の香草の煮汁用の容器((しよう))が現れるなど,新しい器形が少なくない。文様としては前の時期に始まった地文をさらに細密にしたものがあり,また身体部分に細かい渦文を描き入れた竜の類をからみ合わせた文様が華北で流行する。華中ではこれも竜のからんだ文様から変化したものであるが,細かい線を用いて渦文や平行線で中を埋めつくした,一種の羽状の単位の集合としか見えない,繁褥(はんじよく)な文様が好まれた。これらの細密な文様も,前の時期に発明された,単位文様を原型から移す方法で製作されている。この時期には簡単な金銀の象嵌も始まる。また青銅器の表面に動物形の神像,戦争,狩猟,饗宴の光景を影絵風に銅で象嵌する技法も生まれた。この時期の青銅器はよく実った果実のような張りのある形に造形されているが,これらの多彩な文様と相まってすこぶる豪華な印象を与える。なおこの時期に軟らかい銅製の器にたがねで蹴彫(けりぼり)して文様を刻む技法も行われだすが,たがね彫の文様が一部の青銅器に本格的に使用されるようになるのは,前1世紀ころからである。
前5世紀後期から1世紀半ほどの間が青銅器製作の最後の華やかな時期であった。前の時期に発達した繁褥な文様技法は極端に技巧的になる。細密な文様の中に鋳出された渦文には毛髪のように細い線が使われるにいたる。また竜などの立体的な彫像を作るのに,部分部分を別に鋳造しておき,それを後で溶接して組み上げる方法が使われるようになった,また力のかからない所にははんだ付けも使われている。細かい立体的な透し彫には蠟型法も使われるようになる。蠟型法とは蜜蠟と松やにの混合物を使って作るべき品物の形を作り,それを粘土で塗りこめ,乾いたら熱を加えて蠟を流し去り,その空間に溶けた金属を流し込む方法である。青銅器の表面を羽文から変化した複雑な幾何学的な文様の金銀象嵌で飾ることが流行し,ときにはこれにトルコ石やクジャク石も併用された。象嵌に当たっては当然たがねで金属に溝を彫ることが先行するわけであるが,この時期から銘文もたがねで彫ることが普通になる。功績をたたえるような内容の長文のものもあるが,大部分は作った責任者の名,目方,容量,使用場所といった,缶詰の底のレッテルのような性質のものである。青銅器に金や銀のメッキをすることも盛んになる。金や銀と水銀のアマルガムを作って塗りつけ,熱を加えて銀を蒸発させる方法によるものである。これだけ多様な技法を熟達した技術で駆使し,芸術的にも優れた青銅器が多数作られた時代は,この期をおいてほかにない。
前3世紀後半から2世紀間,戦国時代の終りから秦,前漢にかけての時代も,同様な技法で優れた青銅器が作られるが,盛りは過ぎたという感じである。最上等品の座は青銅器から漆器に移り,青銅器は簡素な実用品が主となってゆく。
朝鮮半島では無文土器時代から青銅の武器,装身具類が現れる。その起源は中国東北部に求められるが,銅剣,小銅鐸,多鈕細文鏡など独自の発展をしたものがあり,日本との関連を示すものが少なくない。
日本では弥生文化以降に金属器が普及するが,青銅器は銅剣,銅矛,銅戈,銅鐸に見られるように,儀器・宝器として発達した。鉄器が早くから知られていたために,利器は石器から青銅器を経ずに鉄器へ転換していった。日本独特の青銅器としては巴形(ともえがた)銅器がある。また特に古墳時代以降,国産の鏡(仿製鏡)が発達した。
→弥生文化
東南アジアの青銅器については,年代,内容とも未解明の点が多い。かつてはドンソン文化と総称される青銅器文化が,北部インドシナを中心に存在したと考えられていたが,時代的,地域的に細分の必要があることが明らかになっている。特徴的な青銅器に銅鼓があり,剣,鏃,矛などの武器のほか,斧,鈴,各種容器が知られる。
内陸部については,〈オルドス青銅器〉〈ルリスタン青銅器〉の項目を参照されたい。
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