日本が満州事変によってつくりあげた傀儡 (かいらい)国家。1932年(昭和7)から1945年まで、中国東北地方と内モンゴルをおもな領域として存立した。
前史
満州とは現在の中国東北3省(遼寧 (りょうねい)、吉林 (きつりん)、黒竜江 (こくりゅうこう))で、1929年までは遼寧省は奉天 (ほうてん)省といわれていた。「満州国」成立後は、熱河 (ねっか)省も版図にし、1940年の行政区画では18省に分かれていた。同年10月の「満州国」臨時国勢調査によれば、面積約130万平方キロメートル、人口約4300万人、うち在満日本人は約82万人であった。近代における日本と満州の関係は古く、日本は日清 (にっしん)戦争の勝利で遼東 (りょうとう)半島を割譲させたが、ロシアなどの三国干渉で中国に返還。20世紀初頭、帝国主義の時代に入り、朝鮮・満州の支配をめぐり日露戦争が戦われ、日本は、関東州租借地と長春 (ちょうしゅん)(寛城子)―旅順 (りょじゅん)間(約735キロメートル)などの鉄道およびその付属の利権を獲得した。これが満州に対する日本の具体的利権の最初であり、その後の満州侵略の基礎となった。1906年(明治39)に設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)は、鉄道や撫順 (ぶじゅん)・煙台 (えんだい)などの炭坑の経営とともに、鉄道付属地の一般行政権を付与され、また鉄道10キロメートルにつき15名の駐兵権を得て、あたかも満州の中の独立国の観を呈していた。その後、第一次世界大戦時の対華二十一か条要求、1928年(昭和3)、田中義一 (ぎいち)内閣時の関東軍による張作霖 (ちょうさくりん)爆殺事件など、日本の「生命線満蒙 (まんもう)」への要求はますます強まっていった。
満州国の成立
1931年9月18日、日本軍部中央と関東軍は、柳条湖 (りゅうじょうこ)において満鉄線路爆破事件を起こし、これを口実にして張学良 (ちょうがくりょう)の宿営北大営 (ほくだいえい)と奉天城を攻撃、翌日中には満鉄沿線主要都市を占領する軍事行動を開始した。さらに関東軍の吉林攻撃を口実に、手薄となった奉天方面に林銑十郎 (せんじゅうろう)朝鮮軍司令官は朝鮮軍を独断越境させた。さらに関東軍は南満州占領後、北満のチチハル、ハルビンを攻撃し、満州軍閥馬占山 (ばせんざん)の抵抗などに直面したが、1932年初頭までには北満の主要都市を占領し、満州全体を支配下に置いた。一方、事件の中心人物、板垣征四郎 (いたがきせいしろう)、石原莞爾 (かんじ)、片倉衷 (ただし)ら関東軍将校は、柳条湖事件直後から、当初の満州の軍事占領という構想を変更し、傀儡国家建設に着手し始めていた。彼らは国民革命に否定的な満州軍閥の煕洽 (きこう)、張景恵 (ちょうけいけい)、臧式毅 (ぞうしきき)、張海鵬 (ちょうかいほう)、干芷山 (かんしざん)、馬占山らに強要して、各省を独立させ、さらに3月1日には、彼らの組織する東北行政委員会による「建国宣言」を発表させた。中国人自身による独立という形を整えたのである。この間、旧清朝最後の皇帝溥儀 (ふぎ)擁立の動きも進行していた。溥儀は天津 (テンシン)に亡命生活を送っていたが、奉天の日本軍特務機関長土肥原賢二 (どいはらけんじ)大佐によって秘密のうちに満州に連れ出された。3月9日溥儀の執政就任式が行われ、「満州国」の形は整った。国名「満州国」(1934年帝政実施後は「満州帝国」、括弧 (かっこ)内以下同じ)、政体「民主共和制」(「君主制」)、元首「執政」(「皇帝」)、年号「大同」(「康徳」)、国旗「新五色旗」、首都「新京」(旧長春、3月14日改称)とされた。
国家組織
「満州国」の主権は執政にあり、憲法はなく政府組織法(6章39条)がこれにかわった。政府の構成は、立法、行政、司法、監察の四権分立の四院制であり、参議府は執政の諮詢 (しじゅん)機関であった。政府組織法によると、行政権が強く、行政の中心は国務院で、首班は国務総理であった。執政に対する輔弼 (ほひつ)の責任は国務総理1人だけが負い、国務院の下の各部の総長はその下位に位置し、所管事務についての行政長官であった。したがって国務総理の権限は大きくなるが、この国務総理の幕僚的地位にあるのが総務庁で、総務長官が国務総理の直掌する人事、主計、需用などを処理した。そのため総務長官に真の実権があり、これを総務庁中心主義とよんだ。総務長官にはかならず日本人が任命され、庁内の各処長や各部の次長以下の日本人官吏を事実上監督した。この日本人官吏は関東軍司令官によって任免、指揮された(これを「内面指導」という)。こうして「満州国」政府は関東軍の意のままに動くことになったのである。発足時の主要人事は、国務総理鄭孝胥 (ていこうしょ)、民政部総長臧式毅、外交部総長謝介石 (しゃかいせき)、軍政部総長馬占山、財政部総長煕洽、参議府議長張景恵などであり、総務長官には関東軍特務部長の駒井 (こまい)徳三が就任した。そのほか日本人官吏には満鉄や日本の官庁から移った者が多い。また、関東軍は、4000万以上の異民族を支配するためのイデオロギーとして「民族協和」を採用し、それを「五族協和」による「王道楽土」の建設として高唱し、さらに満州国協和会という官制組織を1932年7月に発足させ、民衆支配の担い手とした。
初期の経済
幣制統一は初期の重要事業であった。満州では省ごとに官立銀行と多くの金融機関がそれぞれ銀行券を発行していた。そのため日本軍は官立銀行などを接収し、1932年7月に、銀為替 (かわせ)本位制・不換中央銀行券による満州中央銀行を設立した。次に目ざされたのが、満州における軍需産業の育成であった。1933年3月には「満州国経済建設綱要」を定め、鉄、石炭、油母頁岩 (ゆぼけつがん)、マグネサイトなどの開発を、強度の国家統制と「財閥入るべからず」のスローガンの下に、一業一社主義による特殊会社(特別法によって設立され、政府の監督を受ける反面、独占的特権をもつ会社。特別法のないものを準特殊会社という)によって実施した。満州中央銀行、満州航空、満州電電、満州石油、満州炭鉱、満州採金などである。このなかで1932年秋ごろから、満鉄から鉄道・港湾・炭鉱以外の事業を分離独立させ、軍の統制下に置こうとする動きがおこった(満鉄改組問題)。満鉄社員会などの強力な反対で、このときは中止となるが、1934年12月に対満機構の統一が行われ、関東軍司令官兼務の満州国全権大使が満鉄の業務を監督し、陸相が総裁を兼任する対満事務局が内閣に設置されたため、全権大使を通して軍部に監督権が握られることとなった。
満州産業開発五か年計画
1941年をめどに「満州国」に対ソ戦準備の経済的基礎をつくる目的で、鉱工・農畜産・交通通信・移民の4部門での生産力拡充を目ざす五か年計画が、1937年4月から実施された。鉱工業では、鉄、液体燃料、石炭、電力などの基幹産業の確立を中心に広範囲の「産業開発」が目ざされた。計画実施直後、日中戦争が開始され、計画は鉱工業を中心として、資金面でみても25億7800万円から49億8900万円に拡大された。この修正計画の中心的使命を担ったのが鮎川義介 (あいかわよしすけ)の新興財閥日本産業株式会社(日産コンツェルン)であり、これは同年12月に満州重工業開発会社(満業)として移駐改組された。資本金4億5000万円は日産と「満州国」が折半出資し、従来、満鉄に属した昭和製鋼所、同和自動車、満州炭鉱、満州軽金属などが傘下に入り、満州飛行機製造、東辺道開発などが新たに設立された。満業設立は満鉄改組問題の帰結でもあった。
満州農業移民
農業移民は関東軍が指導して、国内における農業恐慌対策と満州における国防・治安対策の目的で1932年から実施された。1936年までは試験移民として在郷軍人を中心に武装移民が送出された。1936年広田弘毅 (こうき)内閣時に20か年100万戸移民計画が立案され、その第一期五か年計画の第1年目が1937年から実施された。長野県大日向 (おおひなた)村に代表される分村移民や、山形県庄内 (しょうない)地方に代表される分郷移民が、経済更生運動と連動して送出され、さらに1937年からは満蒙開拓青少年義勇軍として10代の青少年が送出された。1941年までを本格的移民期という。1939年末に「満州開拓政策基本要綱」が決定されたが、太平洋戦争開戦によって移民にも食糧生産などが課せられ、また1943年ごろからは労働力不足と船舶不足などで送出困難となった。移民の入植地は多くがソ満国境に近い北満の国防第一線地帯や治安不良の地域であり、また中国人農民の既耕地である場合もあった。移民数は約32万で、計画にははるかに及ばなかった。
太平洋戦争と満州国
第二次満州産業開発五か年計画は1942年から実施される予定であったが、太平洋戦争開戦によって、立案されただけで決定されず、実施されなかった。「満州国」は食糧と鉱工業原料の生産拡大を迫られたために統制が強化され、収奪的要素がますます増大した。協和会はこの中心的役割を担った。一方、関東軍は1943年春以降、兵力を南方地域や本土作戦に転用され弱体化していた。1945年8月のソ連参戦により「満州国」は崩壊、日本の無条件降伏後の8月17日に「解体」が宣言された。